当記事は私のブルームバーグのコラムの話題であり、これはその記事の一部である。
ドローンと同様、自動運転車[1]は、特に強力な恐ろしいいくつかの特徴を持っている。それらは新しくて心躍る技術であり、そしてそれゆえにそれらについての話はよく検索されている。われわれは実際にはどの程度それらが安全なのかを知らないので、人々は、リスクの特定のレベルが何であれ、その不確実性によってそれ以上に怯えるのである。とりわけ、定義上、自動運転車は人間が直接的に制御していないように感じるものを含む。それは空を飛ぶことはふつう、車を運転することより安全であるにもかかわらず、多くの人々が車を運転するときに比べて空を飛ぶときにより重大な危険を感じるのに似ている。自動運転車は運転者の制御に関する多くの問題を提起している。その問題とはすなわち、後部座席で眠っていても構わないか、あるいは運転に常に注意しておかなくてはならないのかということである。そのことは、われわれの精神および感情を制御の問題により一層集中させる。
そして、
最近のFacebookやケンブリッジ・アナリティカをめぐる騒動は幾分似た問題を反映している(これやこれを参照せよ)。アメリカ人のほとんどであれば、この件に関して何が間違っていたのかを明確かつ正確に表現できるであろうか。おそらくそうではないだろう。しかし人々は、SNSや個人的なデータやアルゴリズムのこととなると、彼らは明らかに制御できていないと感じていることを確実に知っている。その出来事および法的責任の不明確さが実際のところ問題の一部となっているのだ。
情報技術の世界に関する新たな話や批判を目にするとき、私はもはやテック企業が人気があるかを問わない(彼らが行なっているので)。その代わりに私は投票者が、北朝鮮の核兵器や常軌を逸したアメリカの大統領やどこにでもあるアルゴリズムを伴った世界が制御されていると感じているかを疑問に思う。彼らはその投票を行なっていない。なぜ、完全雇用のときに、ロボットがわれわれをみな失業者にしてしまうという記事が非常に人気なのかと疑問に思ったことはないだろうか。
われわれはまさに私が”制御している感覚の再確立”とよぶところの、アメリカ社会のための新しいメタ・ナラティブに突入しようとしている。残念なことに、実際の制御よりむしろ制御しているという感覚を追求するとき、しばしば両方とも手に入っていないのだ。
全てお読みいただきたい。
[1] 原文では”driverless car”であり「無人運転車」とでも訳すべきなのだろうが、「自動運転車」という用語が最も定着していると思われる。本稿においてもこの訳語を用いることとした。
翻訳おつかれさまであります。
(1) 冒頭の一行が抜けているみたいです (“That is the topic of my new Bloomberg column, here is one bit“)。
(2) 引用箇所は原文と同じく blockquote にするとよいと思います。
細かいことですみません…
原文の “driverless cars possess some features of an especially potent scare story” というのは、「自動運転車には、とびきり人をこわがらせる記事を仕立てやすい特徴がある」くらいの意味だと思います。そういう記事をみんな好んでクリックして読んでるよね、と続けているわけです。
コメントありがとうございました。コメントを受けて記事のほう編集させていただきました。