変化率がマイナスの場合、線は右肩下がりとなる。グーグルで「線は下降する」を検索して最初にヒットしたのが上の図だ。
(私は『国際経済』誌の円卓会議コーナに時々寄稿している。今月のお題は、「金融危機後の2007~2009年の超低金利が格差と資産バブルの拡大に一因になったのか」という懸念についてだった。寄稿者は、2007年以降の金融政策をA~Fの5段階で評価するように求められた。)
〔訳注:アダム・ポーゼンのような有名なエコノミストから、各国中銀関係者、さらにメイソンのような非常に左派的な経済学者と様々な学識関係者が評価を行っている。ポーゼンはA評価。中銀関係者は概して低い評価を行っている。〕
私は総合的に、低金利政策という実験にBの評価を下した。低金利政策は、コストがあると騒がれすぎだ。一方で、メリットについても過大評価されている。低金利政策からの主な教訓があるとすれば、伝統的な金融政策は、極端なものであったとしても、不況下の経済に対しては驚くほど弱い影響しかないことであり、次回に景気刺激策が必要な際には、財政政策に大きなウエイトを置くべきであるということだ。
「格差を拡大させる」との理由で、低金利に反対するのも私見では根拠薄弱だ。確かに、低金利は資産価値を上昇させる傾向にあり、資産はほぼ富裕層によって所有されている。しかし、多くの人が犯している過ち――将来の所得フローについての現在価値の変化を、所得フローそのものの変化と混同――してしまってはいけない。例えば、低金利は、将来の株式配当支払いの現在価値を高め、株価を押し上げる。しかし、これは所得分配に何の影響も与えない。株式の所有者は金利低下前と同額の配当支払いを受け取っている。
超低金利には、もっと大きく批判されるべき余地がある。それは、良くも悪くもたいした影響がなかったという事実だ。日本では20年間も名目金利がゼロだったが、需要や成長を大きく押し上げただろうか? そうは見えない。
同時に、〔低金利政策による〕「歪み」といった、金利と投資に真の自然な水準があることを示唆するような言葉にも注意しなければならない。高かろうが、低かろうが、金利は常に政策によって設定される。そして、それは常に、競合する社会目的間でのトレードオフを伴う。
超低金利がバブルの原因になるかについても議論の余地がある。1920年代のアメリカから、1990年代のスウェーデンまで、世界史に残る巨大バブルは、高金利環境下で発生している。暗号通貨は社会的に役に立たないものであり、高金利だったらこんなものは普及しなかったとという話にあえて乗ってみよう。マイナス金利が悪かったのだろうか? それとも、金融システムに問題があったからなんだろうか? 金融業界に高学歴・高給取りの人が沢山いるのは、彼・彼女らが最高の融資機会を実施すべきだと期待されているからだ。〔低金利による〕安価な資金調達環境下で、金融業界人が少額でそこそこのリターンしかないプロジェクトですらない、〔暗号通貨のような〕価値が無く、世界を悪化させるプロジェクトに投資してしまっているのなら、〔低金利や暗号通貨のようなプロジェクトが悪いのではなく〕業界人が責任を果たしておらず、彼らに責任があるということだ。
ジェット燃料が無料だったら、誰もが飛行機に乗るだろう。そして飛行機の墜落が相次げば、非難されるべき航空会社であって、安い燃料ではない。
航空業界の話に戻すと、コロナ危機下では、打撃を受けた航空業界のような産業に補助金融資が行われたが、これを過剰だったと批判するのは誰にでもできる。しかし反事実的な状況は定かでない。公共支援がなければ、航空会社は破綻し、回復がはるかに遅れていた可能性がある。間違いないのは、当時には正しい判断が難しかったことだ。コロナ危機という異常事態下では、間違いのない政策などなく、リスク間でのバランスを取るしかなかったのだ。2021年から2022年にかけてのインフレは不幸中の幸いであり、長期不況のほうががはるかに悪かっただろう。おそらくまたあるであろう次回の危機――気候変動によって確実にある――の際には、もっと良いバランスを取れるだろう。しかし、個人的には、コロナ危機時の政策立案者らはかなりうまくやったように思える。
以上が、寄稿記事のために書いた内容だが、さらに何点か補足したい。
一つ目。これは新しい論題ではない。世界同時危機直後や、それ以前の2000年代半ばには――いわゆる「グローバル貯蓄過剰」論として同じような議論が行われていた。当時だと、アジアの貯蓄過剰を、アメリカ等の他国は生産的投資として吸収しきれず、〔グローバルな〕金利を押し下げ、特に住宅市場での投機的な投資過剰を招いている、といった論が論じられていた。
最近になって、低金利が続いているのを、空理空論な貯蓄過剰などではなく、中央銀行の政策のせいだとストレートに言われているのは進歩だと思う。(貯蓄過剰説の批判については、ヨルグ・ビボウの優れた研究にまさるものはない)。しかし、もっと根本的な問題は、「貯蓄過剰」や「金利が低すぎた/長すぎた」という話が、潤沢な資金調達は良いことだとする他の経済的な話と、いかにして両立可能なのか説明されていない点だ。私は十数年前に以下のように指摘した。
貯蓄過剰仮説は、核心的で相互関連した2つの疑問に答えることができていない。「なぜ資金調達可能なら生産的投資が不足したのかか?」「なぜ金融システムは貯蓄の流入を持続可能な形で振り向けることに失敗したのか?」の2問だ。ケインジアンの観点では、貯蓄率が慢性的に高すぎるため、生産は需要の制約を受ける世界というのは何の不思議もない。しかし、貯蓄過剰仮説論者は、こうした視点から議論しているわけではない。彼らは別の文脈では、貯蓄率が上がれば投資が増え、成長が加速することを自明としている。
特に以前指摘したように、こうした話を主張している人の多くは、政府の財政赤字を削減することが非常に望ましいとも考えている。ところが、政府の収支を黒字にすることの経済的な利益について経済学者に尋ねれば、民間部門に貯蓄を解放する、つまり金利を低下させることにあると答えるだろう。〔つまり、彼・彼女らは矛盾している。〕
二つ目。『The International Economy』での議論に戻ろう。寄稿者の多くが、私と基礎的な分析では同じ活論に達していることが印象的だ。低金利はあまり効果はなかったが、財政当局が適切な刺激策を実施できなかったことを考えると、やらなかったよりマシだ、というものだ。興味深いのは、こうした私と同じような分析を行っている人たち――2010年代の低金利は2020年代初頭のインフレの原因にならなかったと考えている人たちと、政策評価の観点では私と大きく異なってるいることだ。私は、ジェイミー・ガルブレイスの書いたことに全面的に同意する。特に、民間の借り手はゼロ金利(ましてやマイナス金利)にほとんど影響を受けておらず、高金利は過剰な投機の抑制にはほとんど効果がない(「AI」市場を見れば一目瞭然だ)、というガルブレイスの指摘を高く評価している。ハイナー・フラスベックの言ってることの全て(特に、労働者賃金が柔軟であれば、経済に利益をもたらすかどうかについての実証的なテストが行われたが、その結果は否定的だった)にも同意する。ブリジット・グランヴィルの主張にもほぼ全面的に同意する。ところが、この4人の評価は、私はB、ガルブレイスはF、フラスベックはAマイナス、グランヴィルはDとなっている。評価が分かれているのは、金融政策の実際のパフォーマンス評価において、政策を現実的な成果で見るか、政策を約束した内容で見るかの差だろう。
三つ目。この10年間のマクロ経済政策について、私がここまで肯定的に評価しているのは奇妙に見えているかもしれない。私はある種の急進左派だと思われているからだ。実際、現在の西側諸国の政府に対して、私は憤りと嫌悪感を感じているので、数ヶ月前に〔過去10年のマクロ経済政策に肯定的な〕この文章をタイピングしていて自分自身への若干の戸惑いすら感じた(なお、こうした文章は掲載まで数ヶ月前かかるのが一般的だ)。
しかしここには重要な勘所がある。近年のマクロ経済の中心的な問題が、需要不足であったことを忘れてはならない。過去15年間の経済問題は、実質資源の不足〔生産性の問題〕ではなく、支出が潜在需要を下回っていたという圧倒的な証拠と、これについての極めて広範なコンセンサス(共通見解)を、人々に再確認してもらうことが重要となっている(過剰な低金利が懸念される世界とは、経済の中心的な問題が「希少性」である世界ではない)。そして、少なくとも、アメリカや西ヨーロッパにおいて、この需要不足という問題に一貫して対処しようとしてきた機関が中央銀行であったことは事実であり、これは重要な事実だと思う。
現在〔需要不足下〕の、中央銀行の積極的な利上げを批判してもいいかもしれないが、緊縮の主役として圧力をかけているのは選挙で選ばれた政府である。この点ではヨーロッパが最も顕著だ。しかし、アメリカでも、FRBの政策よりも、連邦政府がコロナ危機下で行われた失業給付や税額控除を打ち切ったことのほうが大きな被害をもたらしているだろう。選挙で選ばれた政府は、構造的な大きな赤字と寛大な社会保障に偏向するという古い考え方がある(この件についても、ヨルグ・ビボウが適切な批判を行っている)。しかし、かつてはそうだったとしても、今やそうではないことは明らかだ。
こうした背景をふまえると、2010年代になってヒステリシス(経済停滞の履歴効果)や慢性的な需要不足が広く認識されるようになったことや、この10年間のコロナ危機に対して積極的な対策が行われたことは、いずれも維持・擁護・発展させるべき前向きな教訓だと思う。国内向け経済政策の成果と、対外的に無惨な政策が同じ政府によって行われたことを、区別して考えるのは非常に困難だ(この件について、私は産業政策の文脈で『Dissent』誌に近日中に掲載予定の論文で論じている)。それでも、政治的にも分析的にも、この慢性的な需要不足に取り組み続けることが極めて重要だと思う。
[JW Mason, “Low Interest Rates Were OK,” Money and Things, May 17, 2025]