木々の葉が色を変え始め、朝の空気はますます張りつめている。秋がやってきたのだ。そうなると、男の考えが自然と向かうところと言えば……そう、狩りである。私はというと、少々ひねくれているところがあるので、狩りについて考えることはあまりない。かわりに考えるのは銃規制のことだ。
私たちカナダ人は、アメリカ人と違って何世紀も前の憲法に縛り付けられてはいないので、カナダ社会において銃の所有を認める確立した権利は存在しない。さらに、政治家も裁判官も、銃の所有権を認めるべきだと考えてはこなかった。実際、銃器法(Firearms Act)に関する最高裁判決は、銃の「権利」を巡る議論にはっきりととどめを刺した。現在の連邦政府〔スティーヴン・ハーパー政権〕は、想定し得る範囲で最も銃に友好的な部類に入る [1] … Continue reading 。
だが一部の人々は、まだこのことに気づいていないようだ(特に西部のあたりは)。そこで、そうした人たちに向けて、なぜあなたは銃を所有するいかなる「権利」も持ってないのか、そして持つべきでないのか、をできるだけシンプルに説明したい。
銃規制の話で思い出すのは、しばらく前に色々なところで貼られていたとある政治広告だ。これは、アルバータ州の補欠選挙に出馬したリバタリアン党の候補が出していたポスターで、印象に残っている。
私が望むのは、同性婚のカップルが、銃を持って、育てているマリファナを保護できる社会です。
この広告は笑えるネタにはなっているが、同時にあっぱれなほど混乱しきってもいる。どうやらリバタリアン思想を奉じる御仁たちは、リバタリアンの教義がどのようなものなのか、人々にきちんと伝えることができていないようだ。少なくとも伝統的には、リバタリアニズムというのは「誰でも、どんなクソったれなことであろうと、自分のしたいことを何でもすることができる」というものではない。それはサウスパーク・リバタリアニズムとでも呼ぶべきものだろう。リバタリアニズムというのは伝統的には、「誰でも、他人に害を及ぼさない限りは、自分のしたいことを何でもすることができる」という思想を指す。
以上を踏まえた上で、上の広告をもう一度見てみよう。薬物、同性愛、銃の所有。うーん……。私自身はたまたま、上のどれも経験したことがない。だが向こうはこう言うだろう。「私がこれらの行動をとっていようと、あなたにはなんの関係もないことだ。あなたにはなんの影響も及ぼさないのだから」。上の3つのどれをとっても、他人に影響や害を及ぼすことはない、だからこれらは「個人の自由」の領域に入る、というわけだ。
これは妥当な議論に聞こえるだろうか? 私はそうは思わない。上の3つのうち、1つだけ他とは違うものがある、と言いたくなる。マリファナの禁止はパターナリズムだ。同性愛の禁止もそうである。だが銃はどうだろう? 銃の所有は、個人的な、自分だけに関わる選択だと考えろと言うのだろか? これはどう考えても、標準的な銃規制反対論の立て方ではない。銃規制の支持者は、「あなた自身を傷つけるかもしれないから、あなたは銃を持ってはならない」と言っているのではなく、「私を傷つけるかもしれないから、あなたは銃を持ってはならない」と言っているのだから(銃器法に関する最高裁判決を参照)。
我らがジョン・スチュアート・ミルの『自由論』における「古典的リベラリズム」の見解に立ち返ろう。古典的リベラリズム(つまりリバタリアン)の見解に基づくと、大麻を育てることは個人の権利の範疇に入るだろう。それは他人に害を及ぼさないからだ。あなたが大麻を育てていようと、他人にとっては知ったこっちゃない。同性愛も同様で、あなたの勝手である(同性婚は実のところ、ちょっとばかり込み入っている。それは法的地位の話だからだ。だが今回はスキップしよう)。
だが、銃の所有は他人に害を及ぼす。私はそのことを知っている。なぜなら、実際に私の近所の人々が銃を所有していて、私はその害を被っているからだ。考えの浅い人は、これに対し次のように応答する。「そんなことはない。銃を所有している人があなたに向けて銃を撃ったなら、それはあなたに害を及ぼす、というだけの話だ。責任感があり法律を守る銃所有者は、(定義上)そんなことはしない」。こうなると議論は統計の話へと逸れていき、銃の所有の増加が銃による死亡確率を上昇させるか、という議論へと移っていく。
私は別の方向で議論を組み立てたい。それは、「多くの人々は銃を恐れている」という明白な事実に基づくものだ。あなたは銃を恐れていないかもしれないが、私は恐れている。銃が怖くて仕方がないのだ(アメリカ人の友人が私に聞かせてくれた話を思い出す。彼は、デザートイーグルを初めて手にしたとき、「こんなもの誰も持つべきじゃないと強く感じた」という)。
私からすると、〔銃だけでなく〕銃を所有している人々も怖くて仕方がない。公の場での議論を見てみれば、そう思っているのは私だけではないと分かるはずだ。多くの人が、私と同じように、銃を心底恐れている。それだけでなく、銃を収集し、実際に撃ち、その他銃でできるあれこれを好む、あなたのような人たちのことも、本気で怖がっている(正直な人なら、銃の魅力の一部が、人々から恐れられていることに由来する、ということを認めるはずだ。だからこそ銃はかっこいいのである)。
これこそが、銃の所有がもたらす害である。それは、他人に恐怖を与えるのだ。そして、他人に恐怖を与える能力を制限するというのは、法規制の根拠として完全に正統である。結局のところ、街頭犯罪が大きな問題となるのは、それが特定の個人や資産に与える実際の被害のためというより(それは全体から見ると大したものではない)、それが広範囲に恐怖をもたらすためなのだから。
それゆえ、銃の所有に関して真に問うべき唯一の問題は、こうだ。銃が他人にもたらす恐怖は、「真正の害」と見なすべきだろうか? これは、その恐怖が正統なものであるかどうかに依存する。例えば、同性愛者を恐れている人は数多く存在する(だからそれはホモフォビアと呼ばれる)。同性愛者の権利を信じる人なら、そうした恐怖を真正の害とは見なさないはずだ。そのような不合理な恐怖を感じる人々の側が、自身の恐怖心を克服すべきなのである。銃所有の支持者たちは、銃器に関しても同じ議論を行う。銃に恐怖を感じるのも非合理であり、銃を怖がる弱虫たちの方がその恐怖を克服すべきなのだ、と。
これが、銃の所有「権」と言われるものを支持する議論の根幹だ。銃を恐れることが理に適っているなら、その恐怖は銃規制を支持する考慮事項と見なせる。銃への恐怖が理に適ったものでないなら、単に私の側が恐怖を克服すべきだということになる。
こうした議論に対して、地方部と都市部の差を持ち出す人もいる。都市部では、銃を正統に利用できる場面など実質的に存在しないので、銃を所有すること自体が本質的に怪しい行為であり、脅威となる〔が、地方部では事情が違う、と〕。だが、地方部なら銃は無害と言えるのだろうか? 私にはそうは思えない。もちろん、荒野の真ん中で銃を持っているだけなら、誰も気にしないだろう。だが、農場で銃を持っている場合はどうだろうか? 以下では、地方部と都市部の2つのケースを検討してみよう。
地方部のケース
地方部においてすら、銃は素晴らしいものではないし、無害なものでもないということを示したい。私としては、銃は迷惑なものと見なしたくなる。
私は、自然保護区画のすぐ裏手に農場を持っている。その自然保護区画では、狩りを行うことが許されている(「農村の生活様式」の重要な一部だからという理由で)。私からするとこれは迷惑だ。近隣住民がすることの中で、私の生活の質を最も低下させているものは何かと問われたら、「狩り」と答えるだろう(肥料の悪臭が漂っていたり、不良に郵便受けを破壊されたり、犬の吠える声がうるさかったり、ティム・ホートンズのカップやクアーズの缶が車の窓から投げ捨てられたり……といったことは、まだ我慢できる。銃はこれらとは全く次元の違う話だ)。
この文脈で、数年前、近所の住民が自然保護区画で犬を散歩させているときに、狩猟者に銃で撃たれて死んでしまったという事件があったことに触れておくべきだろう。怪我をしたのではない。死んでしまったのだ。それ以来、自然保護区画で犬を散歩させる人の数は激減した。もちろん私ももう散歩はしていない。
銃所有の支持者たちの多くは、これを聞いても、肩をすくめて「狩りの季節に森を歩くなんてバカな真似をしなければよかったのに」と言う。いいだろう、ちょっと立ち止まって、これが相手にどう聞こえるかを考えてみよう。「あなたはもう森の中を散歩してはいけません。私たちが森で趣味を楽しんでいる(あるいは自然と触れ合っている、あるいは家族の重要な伝統を守っている)ときに、誤ってあなたを撃ち殺してしまうかもしれないからです」。
このように言えば、あなた(そしてあなたの趣味)が他人にとって迷惑になっているということが分かるだろうか?
いっそう悪いことに、私の土地と自然保護区画を隔てるフェンスは状態が良くなくて、錆びついている場所もあるので、狩猟者がしょちゅう私の土地に入り込んでくる。森の中の私が所有する区画で、ショットガンや威力の高いライフルを持っている男に出くわすこともある。私の子どもたちが遊んでいる、その森の中でだ。
大して想像力を働かせなくても、これが私の生活の質にマイナスの影響を及ぼし得るということは分かるだろう。確かに、世界の終わりというわけではない。私たちは蛍光オレンジのジャケットをいくつか買って、妻は蛍光オレンジの毛糸で子どもたちのためにマフラーを編んだ。10月から1月までの間はそれを身に着けさせるのだ。そして年に2週間、鹿狩りのシーズンは、森の中に入らないようにしている(この森は私の所有地であり、私の個人的な私的所有物であるということはぜひとも言わせてもらいたい。リバタリアンなら、私は一年中、私有地で暮らす権利を持つべきだと考えるだろう)。
いつかはフェンスを修理しなければならないが、それには数千ドルほどかかるだろう。修理する理由はただ1つ、狩猟者を私の土地から締め出すためだ。私が「迷惑」と言っているのはこういう意味である。
とはいえ、地方部の住民が銃を持つ気持ちは分からないでもない。家の庭の芝生を我が物顔でのろのろ横切っていく野生の七面鳥の群れを見たら、夕食用に一羽仕留めたくなるものだ。そして、家の裏手に積もった雪の中に人の足跡を見つけると、何かあったときにオンタリオ州警察が駆けつけるまでどれくらいかかるだろう、なんて考えてしまう。だが同時に、幻想を抱いてもいけない。地方部ですら、銃の所有が広まれば、他人に深刻な害を課すことになる可能性は高い。だから銃を持つな、と言っているのではない。銃を所有するにあたっての条件を交渉する必要があり、その過程で一定の妥協を覚悟しなければならない、と言っているだけだ。「銃を所有するのは私の権利だ」と言うだけでは議論は終わらないのである。
同じように、「そんな経験をしたなんてお気の毒に。でも私はそんなことはしていないし、責任感があり法を守る銃所有者ならそんなことはしませんよ」と言ったところで、議論は終わらない。私は、現行の法律の下でどんな帰結が生じているか、現実世界で物事がどう動いているか、を論じているのだ。現実世界において、銃の所有は、地方部においてすら深刻な迷惑となり得るのである。
都市部のケース
都市部において、銃を所有する正統な理由は実質的に存在しない。都市部では、銃が存在することそれ自体が莫大な恐怖を引き起こす。
銃所有の支持者たちから返ってくるよくある反応は、次のようなものだ。法を守る市民が銃を所有している場合には、問題は起こらない。問題が起こるのは、犯罪者が銃を手にして悪事を働いたときだ。責任感を持ち法を守る趣味人が、なぜ少数の邪悪な犯罪者のために罰されなければならないというのか?
ここで少し立ち止まって、こうした議論でしょっちゅう登場する、「法を守る市民(law abiding citizen)」なる概念についてきちんと検討してみたい。「法を守る市民」というのは何を意味しているのだろう? これはすなわち、これまでの人生で(少なくとも重要な)法律は全て守ってきた、と言っているのだ。スピード違反とか大麻とかはやったかもしれないが、人を撃ち殺したり、店に強盗に入ったりといったことはしていない、ということである。
ここで強調したいのは、それが事実なのだとしても、ここでの議論とは全く無関係だということである。法を破るその日まで、誰もが法を守る市民であるからだ。私のご近所さんを銃で撃ち殺した感じのいい老人は、その日まで法を守る市民だったことだろう(そして、彼は過失致死罪に問われたが結局は無罪となったので、現在も法を守る市民であり続けているだろう)。だから、「私は法を守る市民なんです」と言われても、これまであなたがどうだったかなんてことは私にとってはどうでもいい。問題は、これから先ずっと法を守り続けると保証できるのか、ということである。いや、できないだろう。結局のところ、私はただ「こちらを信じてくれ」と言われているだけなのだ。
私が嫌だと思っているのは(そして恐ろしいと思っているのは)、あなたがほんの気まぐれで私を殺せてしまう能力を持っているという事実なのだ。「心配しないで、そんなことはしません」と言われても、根本的な問題が解消するわけではない。
急ごしらえだが、以下のちょっとしたアナロジーを考えてみてほしい。
次のような状況を考えてみてほしい。私は、小さな子どもに向かってギリギリ当たらないように石を投げる、というちょっと変わった趣味を持っている。私はこれが大の得意なので、子どもに石が当たってしまったことは一度もない。近所の公園をぶらぶらして、石を拾い、そこで遊んでいる子どもたちに向かってギリギリ当たらないように投げるのが大好きなのだ。
もちろん、子どもを見ている親たちは怒るだろう。「ちょっとちょっと、何してんの? 私の子どもに石を投げるのをやめなさい」と。私は冷静に落ち着き払ってこう言い放つ。「奥さん、安心してください。あなたの子どもに何かしてたわけじゃありません。私はこんな風に石を投げてもう20年になりますが、子どもに当たってしまったことは一度もありません。私を信頼してください」。
こんなことをすれば親たちは怒り狂うはずだ。荷物をまとめて公園から出ていく家族もいれば、石投げをやめてくれと私に懇願してくる家族もいるだろう。だが私はいつも通り自分のしたいことをするだけで、自分の行動が引き起こしている恐怖や苦痛を全て、きっぱりと無視する。なぜか? だって、考えてみればそれは親の側の責任だからだ。親たちが落ち着きさえすれば、なんの問題もない。なにしろ私は責任感のある投石者なのだから。
これは、私の石投げ行為を正当化する筋の通った議論に聞こえるだろうか? そうは聞こえないだろう。子どもに向かって石を投げることはそれ自体が危険なのであって、あなたがいくら注意深かろうと、いくら責任感があろうと、そうした行為は他人に不安を与えるのだ、と言いたくなるのではないだろうか。そしてこれは、私の行動を規制したり控えさせたりするための正統な根拠となる。
銃もまた本質的に危険なものだと私は考える。銃が存在するだけで、その持ち主がどれほど責任感を持ちどれほど法を守っていようと、コミュニティの中に恐怖と不安が生まれるのだ。
煎じ詰めれば、銃の所有者たちが言っているのは、「とにかく私たちを信頼すべきだ」ということだ。実際、途方もないほどの信頼を差し出すよう、私たちに求めているのである。だが一方で、銃の所有者たちは、銃を所有していないその他大勢の人々が抱いている心情に対して微塵も配慮していないように思われる。それどころか、銃を持っていない人々の心情を冷淡に無視しているようにすら見える。いったいどうやってそんな人たちを信頼すればいいというのだろう?
実際、銃が生み出す恐怖の大きさを考えれば、銃規制の反対者たちは、ある種の基本的な人間的良識を欠いているのではないかという印象を抱いてしまう。私が実際に責任感のある投石者で、実際に子どもたちに石を当てたことは一度もないとしよう。それでも、私の行動が親たちを動揺させているという事実だけで、この投石趣味をやめる理由にならないだろうか? 同じことは銃にも言える。自分が趣味を楽しむために、他人は本物の死の恐怖を甘受すべきだというのは、無神経にもほどがあるように思われる。あなたが本当にそんな風に考えているなら、あなたは悪い人間だと結論つけざるを得ない。
専門家向けの追記
多くの論者は、リスク管理について(つまり、実際に権利侵害が起きているわけではなく、潜在的な侵害しか生じていないケースについて)なんら有益なことを論じられないことが、リバタリアニズムの理論の深刻な限界だと考えている。このリバタリアニズムへの反論の古典的な定式化は、ピーター・レイルトン(Peter Railton)の“Locke, Stock and Peril: Natural Property Rights, Pollution and Risk”に見出される。私はこの手の議論を熱心に追っているわけではないので、レイルトンの論文に対する理に適った、説得力のある応答を知っている人がいれば、ぜひ教えてほしい。
[Joseph Heath, Why you have no right to bear arms, In Due Course, 2014/9/26.]References
| ↑1 | 訳注:当時のハーパー政権が銃規制に乗り気でない姿勢を見せていたため、「カナダは本当に銃の所有権にそこまで厳しいと言えるのか」といった反論が来ると見越して、ハーパー政権は外れ値的存在だと補足している文章だと思われる。 |
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