ジョセフ・ヒース「カラーブラインド政策を軽々しく放棄すべきではない」(2026年1月14日)

カナダで成功してきた政策を放棄し、アメリカで失敗してきた政策を採用すべきだというのは、ひどくねじれているように私には映る。

過去10年の社会正義を巡る議論の中でとりわけ疑問の余地あるものの1つは、人種的・民族的統合を達成する戦略としての「カラーブラインドネス」には何かしら間違った点がある、という主張だ [1] … Continue reading 。実際、厳密にカラーブラインドな(あるいは「アイデンティティ・ブラインド」な)制度的手続きを求めることはそれ自体がレイシズムの一種だ、という主張が一時期は大流行りだった。もちろん、厳密なカラーブラインドネスが正義に関する広く共有された直観と衝突してしまうような、極端な事例を考え出すことは可能である。このために不幸にも多くの人は忘れてしまっているが、圧倒的大多数のケースにおいて、個人間の平等を達成する最良の方法は、本人に選択できない特徴に基づく不当な比較をやめさせることである(そしてそのための最良の方法は、不当な比較の基盤として利用できる情報に意思決定者がアクセスできないようにすることだ)。そうであるがゆえに、カラーブラインドネスは人種を巡る不正義の問題の多くに対処する上で、解決策の基本的な柱であり続けている。

この文脈で私は、かつてあらゆるところでよく聞かれたとある不満を思い出す。黒人男性がニューヨークでタクシーを拾えないという事実に、アメリカにおけるレイシズムが現れている、というものだ。この問題は、かつてはアメリカの大衆文化の中で大きな位置を占めており(マイケル・ムーアにも取り上げられ、ダニー・グローヴァーは有名な訴訟を起こした)、学術文献でもよく言及されていた。しかし、10年ほど前から、この問題は公共的な意識を向けられなくなった。なぜか? 配車アプリが登場した(その後、タクシー配車アプリが導入された)からだ。具体的に言うと、こうした配車アプリは、乗客の人種に関する情報をドライバーに与えなかったのである。言い換えれば、UberやLyft(そしCurb)は、ドライバーに対してカラーブラインドな意思決定を強いたのだ。これで問題はおおかた片付いてしまったのである。

とはいえ先にも述べたように、極端な事例ではまた話は違ってくる。カラーブラインドな配車システムは完璧な解決策ではないということが判明したのだ。ドライバーが乗客の名前から人種を推測して差別するという可能性は残されていた。Lyftは配車依頼の際、ドライバーに顧客の名前を表示していたが、Uberはドライバーが依頼を受けるまで顧客の名前を表示していなかった。ある研究によると、この違いにより、黒人の乗客がキャンセルされる率が高くなったのは、LyftではなくUberであったという。ここから、Lyftのシステムはカラーブラインドネスの度合いが低いため、良い結果をあげているのだという主張も成り立ちはするだろう(その主たる効果は、差別を取り除くことではなく、差別を乗客から見えなくすることにあるのだが)。しかし、物事を大局的に見るのが重要だ。全体として見れば、カラーブラインドなシステムの導入は、アメリカにおける主要な人種的不満の源泉と誰もが見なしていた問題を、ちょっとしたイラだちのたね程度のものにしたのである。極端なケースにおいては、人種コンシャスな仕方で制度を少しばかりいじくった方が望ましいかもしれない。だがそのことをもって、この大きな達成がどう実現されたかという点を見失ってはならない。

カラーブラインドネスの支持者は、自らの立場を擁護するために、歴史的に人種コンシャスな措置を採用したがる傾向にあるアメリカと対比する形で、カナダの制度を取り上げてきた。これにはいくつか理由があるが、最も重要なのは、カナダの連邦政府がセンサス〔日本の国勢調査に当たる〕において、国民を人種で分類するようなシステムをとっていない点だ(歴史的に、より複雑で変動の多い、「民族的出自」による分類システムを用いてきた)。結果、カナダのほとんどの機関において、意思決定者は人種に関する公的な情報にアクセスできない。これは、とりわけ大学に大きな影響を及ぼしてきた。というのも、ほとんどの大学は、たとえ人種コンシャスな入学者選抜システムを採用したくてもできない状態にあるからだ。なにしろ大学は、出願者の人種に関する情報を持っておらず、それどころか学生の人種構成に関する情報すら持っていないのである。

とはいえ、近年はカナダの状況も変化しつつあることに触れておかねばならない。その一因は、アメリカでの社会正義を巡る議論や政策の影響だ。オンタリオ州は最近、州内の大学の出願者一元管理システムに、「出願者多様性センサス」(任意回答)を追加した。だが、その情報のうちどれほどが州内の各大学へと提供されているのかはよく分からない。というのも、トロント大学〔オンタリオ州の大学〕は2020年、DEI全般への熱心な取り組みの一環として、学生の人種に関するデータを独自に集めることを決定したからだ。これに伴い、トロント大学「公平性センサス(Equity Census)」(必須回答)が導入された。その動機は次のように述べられている。

この取り組みは、反差別を支持し平等を高めようとする制度的試みと足並みを揃えている。そうした試みには、カナダ真実和解委員会に対するトロント大学の対応を記した「呼びかけに答える:ウィーチェヘトウィン」、反ユダヤ主義や反イスラモフォビアに対する近年の取り組み、人口統計データの収集の重要性を強調する「反黒人レイシズム・タスクフォース報告書」が含まれる。

ところが蓋を開けてみると、結果は、人種コンシャスな入学者選抜制度の支持者にとって、ちょっとばかりばつが悪いものであった。下のグラフは、厳密にメリトクラティックな〔能力主義に基づく〕入学者選抜プロセスが、どんな結果を生み出したかを示している(2023年のトロント大学公平性調査と、2021年のカナダのセンサスにおける人口データを並べている)。

私は統計分析の専門家ではないが、このグラフを眺めるだけでも、マイノリティの高等教育へのアクセスに関して大きな問題は何も存在しない、という印象を受けるのではないだろうか。繰り返し強調したいが、この結果は、カラーブラインドな入学者選抜プロセスによって生み出されたものである(加えて強調したいのは、このデータは、単にトロント大学というカナダで最上位の大学の学部生の人口構成を示しているわけではない、ということだ。トロント大学は、学部生の数で言えば、アメリカのアイヴィー・リーグ全体の合計に匹敵する規模である。そのため、このデータが示しているのは、カナダの高等教育システムが、社会的階層上昇の非常に強力な原動力であり続けているということだ)。

いずれにせよ、トロント大学は莫大な時間とエネルギー、資金を投じ、この大学の学生集団の中で過小代表されているのは白人のカナダ人(とりわけ白人男子)のみである、ということを明らかにした。トロント大学で教員をしている者なら、あるいはキャンパスを10分でも散歩したことのある者なら、誰でも知っていたことだ(この結果をどう理解すべきかも明らかではない。この種の人口統計的な分析は、カナダ社会で何が起こっているかについてほとんど何も教えてはくれない。こうした分析はまずもって、カナダの移民システムの運用のされ方を反映している。だがこれは、アメリカの人種政治に由来する考え方をカナダに輸入するのを控えるべきもう1つの理由となる。アメリカとカナダでは状況が大きく異なるからだ)。

もちろん、このグラフを見て人々が驚くとしたら、それは右側の青い棒よりも、左側の赤い棒の方だろう。というのも、カナダ人のほとんどは、カナダの人口構成を全く把握していないからだ。カナダ人はアメリカのメディアばかり摂取しているので、カナダの人口構成もアメリカと同じようなものだと思い込みがちでもある。とりわけ、カナダにおける黒人人口の割合を大変過大に見積もっている。2021年のカナダのセンサスで、黒人の割合が4.2%だった(その前のセンサスでは2.9%だった)と知ると、大抵のカナダ人は驚く。こうした印象は、それぞれの機関において各人種がどれほど「代表」されているか、に関する人々の認識に大きな影響を及ぼしている。例えば、注意深くない人は、トロント大学の学生のうち黒人の割合が6.4%だと知って、黒人は過小代表されている、と考えてしまう。実際には過剰代表であるにもかかわらずだ。

トロント大学の「反黒人レイシズム・タスクフォース報告書」にも同じようなことが言える。この報告書には、以下のような文言が含まれていた。

A.5 あらゆる学部、カレッジ、キャンパスは、EDI部門と協力しながら入学者選抜プロセスを見直し、本学において最も過小代表されているグループの1つであり続けている黒人学生に関して、データに基づく包括的な入学者選抜プロセスを検討すべきである。各部局/プログラムは、エントリー時において黒人学生のデータを収拾すべきである。

ここでの「代表」という語が文字通りの意味なら、黒人学生はトロント大学において最も過小代表されているグループではない。個人的には、黒人学生が過小代表されていると述べることで得をする人など誰もいないように思える。今や我々はデータを手にしているので、この有害なステレオタイプは過去のものとして葬り去れるだろう(なお、トロント大学はカナダにおける最上位の大学であり、アメリカにおけるハーバード大学やイギリスにおけるオックスフォード大学と同様、全国から学生を集めているはずなので、学内における各人種の代表性を判断する上で適切な基準は、カナダ人口であるはずだ)。

カナダ人がとりわけ陥りがちなバイアスについては脇に置くとしても、もっと普遍的に観察される、興味深い認知バイアスが存在する。このバイアスのせいで、多文化主義社会に暮らすあらゆる集団のメンバーが、その社会におけるマイノリティの人口を過大に見積もってしまっている。例えば次のように:

繰り返し確認されているように、アメリカ人は、どんな属性であっても、人口に占めるマイノリティの割合をひどく過大に見積もってしまっている。2022年の研究によれば、「黒人のアメリカ人は、平均で、アメリカの成人人口に占める黒人の割合を52%と推定した。非黒人のアメリカ人は、約39%と推定した。実際には12%であった。第一世代の移民は、アメリカの成人人口に占める第一世代移民の割合を40%と推定した。非移民は、約31%と推定した。実際には14%であった」。

(このバイアスに関する学術文献として、これこれを参照。)

戦略的観点からすると、左派はこの事実にもっと注意を向けるべきだ。というのも、こうしたバイアスのせいで、マイノリティが強く出すぎて失敗することがあるからだ。過去10年の間、マイノリティ集団のメンバーたちは、伝統的なリベラリズムに基づく権利や制度を激しく攻撃していた。このような政治的狂騒のどれほどが、マイノリティの側による誤解によって生じていたか、考えずにはいられない。彼ら彼女らは、リベラルな権利というのが、圧倒的大多数の民主的多数派からマイノリティを守る唯一の壁であるということを理解し損ねていたのだ(デイヴィッド・ブルックスは、この政治的狂騒の後遺症を次のように述べている。「アイデンティティ・ポリティクスは、マジョリティの側が取り組んだときにより効果を発揮することが明らかとなった」)。カラーブラインドネスへの攻撃は、この狂騒の一部であったように私には思える。結果として人々は、厳格な手続き的中立性〔カラーブラインドネス〕のまずもっての受益者が、さもなくば差別を受ける可能性が高かった人々である、ということを忘れてしまったのだ。

私の経験上、移民はこのことによく気がついている。カラーブラインドネスが、比較的最近成立した民族集団の間で非常に人気となりがちなのは、これが1つの理由だ。移民たちは、手続き的中立性からの逸脱はインサイダーや既得権者を有利にしがちであり、自分たち移民を有利にするわけではない、という妥当な予測に基づいて、カラーブラインドネスを支持している。とはいえ、この事実をもって、全てのマイノリティがカラーブラインドネスを支持していると結論づけるべきではない。極めて重要かつ目立った例外が存在するからだ。すなわち、非移民のマイノリティ集団が、一定の主権や自己決定を獲得しようとして行う、ナショナリスト運動である。カナダでは、ケベック人や様々な先住民がこれに当たる。

ナショナリストの際立った特徴は、多数派社会の制度への統合を求めておらず、むしろそこから離脱して、多数派社会とは別個に制度体系を確立しようとする点にある。つまり、多数派社会から離れて、自分たちが多数派となる制度を別個に作ろうとするのだ。例えば、トロント大学公平性センサスは、カナダにおける多様性の主要な軸である、フランス語と英語の言語的分断に全く関心を払っていない。実際、トロント大学において、フランス語話者の学生にどんなサービスや配慮が提供されているのかを気にかけたり、教員構成においてフランス語話者がある程度代表されるようにすべきだと考えていたりする人間など、1人として出会ったことがない(例えば、秋の新入生オリエンテーションでは、「ラティーネクス(Latinx)」 [2]訳注:北米で暮らすラテンアメリカ系の出自の人々。ラティーノやラティーナといった性別を特定する呼び方に代わるものとして導入された。 の学生のために特別なセッションが開かれた一方、フランス語話者の学生に対しては何も行われなかった)。理由の1つは、単純にトロントはトロントだからである(鼻持ちならないところなのだ)。また、カナダの左派がアメリカの社会正義の政治に認識的に囚われているためでもある(教員にアメリカ人が多いため、この傾向が助長されている)。だが、別の理由として、カナダにはフランス語系の大学もあれば英語系の大学もあり、トロント大学は英語系の大学である、ということが挙げられる。フランス語話者の学生は、英語系の大学で提供されるサービスに不満があるなら、そこから離脱してフランス語系の大学〔例えばモントリオール大学〕に行くことができる。これは、スペイン語や中国語を母語とする学生たちには与えられていない選択肢だ。

この文脈で注目に値するのは、DEI思想の中心にあるカラーブラインドネス批判が、アフリカン・アメリカンの議論に端を発していたことだ。つまり、これは元々、アメリカにおける黒人に固有の状況や望みに焦点を当てた議論だったのだ。アフリカン・アメリカンというグループの重要な特徴は、彼ら彼女らは移民ではなく、非自発的にアメリカへと組み入れられた集団〔すなわち黒人奴隷〕の子孫である、という点だ。この点で、アフリカン・アメリカンは、アフリカ系カナダ人(あるいはその他、移民によって形成されたカナダ国内の民族集団)よりもむしろ、フランス系カナダ人と多くの共通点を有している。このことは、アフリカン・アメリカンが強いナショナリスト的感性を持っているという事実に現れている。アフリカン・アメリカンは、多数派制度への統合の実現を目指していない。それゆえ、アフリカン・アメリカンの多くがカラーブラインドネスに批判的で、アイデンティティ・ポリティクスに共感的なのは驚くべきことではない。ナショナリストはみな、アイデンティティ・ポリティクスにコミットするものだからだ。間違っているのは、アメリカにおける黒人ナショナリストという具体的なケースを一般化してしまうことだ。つまり、アメリカの黒人ナショナリストはカラーブラインドネスに反対しているのだから、世界中のヴィジブル・マイノリティ [3] … Continue reading もカラーブラインドネスに反対するはずだ、と想定するのは誤りなのである。

こうして我々は最終的に、アメリカの社会正義を巡る政治をカナダの文脈に適用するのが不適切である根本的な理由に辿り着いた。アメリカにおける人種政治は、〔黒人内部における〕ナショナリスト的な要求と統合主義的な要求が複雑に絡み合っており、全てを同時に満たすことは不可能である。このことが、アメリカにおける人種対立をこれほど解決しがたいものにしているのだ。カナダにおける先住民の状況は、アメリカにおける黒人の状況と似ており、それゆえカナダの先住民問題も同様に解決困難となっている(先の議論で、トロント大学における先住民の代表性の問題を避けたのはこのためだ。これは、全く異なる問題を提起する)。しかし、カナダにおける移民と民族的多様性の状況は、これほどややこしくはなっていない。実際、トロント大学の入学者選抜手続きの結果を見れば分かるように、問題ですらない場合さえある(まして解決困難な問題などとは言えまい)。カナダで成功してきた政策を放棄し、アメリカで失敗してきた政策を採用すべきだというのは、ひどくねじれているように私には映る。勝利の機会が差し出されているなら、それを受け入れるべきだ。

[Joseph Heath, What colourblindness hath wrought, In Due Course, 2026/1/14.]

References

References
1 訳注:カラーブラインドネスとは、人種・民族に基づく差別や不平等などの問題に対処する上で、属性を判断基準から排除するという方針を指す(典型例は、入試や雇用の場面で人種を聞かないこと)。これに対して、逆に属性を明示的な判断基準として取り入れる方針をカラーコンシャスと言う(典型例はアファーマティブ・アクション)。
2 訳注:北米で暮らすラテンアメリカ系の出自の人々。ラティーノやラティーナといった性別を特定する呼び方に代わるものとして導入された。
3 訳注:肌の色など外見的特徴で識別可能な、非白人のマイノリティ。カナダで用いられている分類で、黒人やアジア人などを指し、フランス語話者などの可視的でない特徴に基づくマイノリティとは区別される。
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