今や誰もがキャンセル・カルチャーについて論じるのに飽き飽きしている。そろそろ私たち研究者が議論に参加してもいい頃だろう。最近、イブ・ンの“Cancel Culture: A Critical Analysis”『キャンセル・カルチャー:批判的分析』を興味深く読んだ。この本はキャンセル・カルチャーにそれほど批判的というわけでもなかったが、この現象の歴史を提示している点で有益だった。ただ残念なことに、この本は事例を豊富に載せているだけで、キャンセル・カルチャー現象の明確な定義や説明は提示していない。そこで本エントリではこの空白を埋めるために、根底にある社会的ダイナミクスの分析に基づいて、キャンセル・カルチャーのシンプルな理論を提示したい。
議論を始める上でまず明確にしておくべきは、キャンセル・カルチャーの起源が政治的なものでも文化的なものでもないということだ。キャンセル・カルチャーは、ソーシャル・メディアの発展が促した、社会的インタラクションのダイナミクスの構造的変化によって生じている。これは、(イブ・ンがキャンセル活動と呼ぶものに現れている)キャンセル・カルチャーの基本的特徴が世界中で見られ、様々な政治志向を持つ人々が動員されてきたという事実に反映されている。
アメリカにおいて、キャンセル・カルチャーの批判は「ウォーク」政治を巡る議論と大きく重なっている。しかし多くの評論家が指摘するように、共和党内部のダイナミクスもキャンセル・カルチャーの特徴の多くを示している。RINO [1]訳注:Republican In Name Only。「名ばかり共和党員」と訳される。 やコック(cuck) [2] … Continue reading とラベリングされることへの恐怖は、左派におけるスピーチ・コード〔発言規制〕の支配とよく似た規律効果を、保守の言論にもたらしている。なので、キャンセル・カルチャーは本質的に左派的、ウォーク的というわけでは全くない。さらに、それはアメリカの政治的分極化の帰結でもない。キャンセルは中国でも大きな問題となっており、ナショナリストの暴徒たちがオンラインの言論を取り締まって、些細な発言を理由に有名人から懺悔と謝罪を引き出している。
ちょうど今朝、Weibo(微博)にチャーハンのレシピを投稿してキャンセルされた中国人のシェフの記事を読んだ(「ネットで一千万人以上のファンを持つ人気シェフの王剛氏は月曜日に動画を投稿し、『シェフとして、二度と卵チャーハンを作りません』と誓った。王氏は動画に対する激しい批判を鎮めようと『厳粛な謝罪』を行った…」)。どこかで聞いたことのある話ではないだろうか。
これを読めば、分別のある人なら誰でも、何か新しい、奇妙で、懸念すべき、国内の政治論議よりもはるかに大きく重要な何かが起こっていると理解できるはずだ。同時に、こうした議論に抵抗し、キャンセル・カルチャーなんてものはない、コンシクエンス・カルチャー〔因果応報〕があるだけだ、と主張する人もまだ存在することを認識しておくべきだ。私の経験上、これはキャンセル活動に喜んで参加している人々の防衛的反応であり、そのほとんどが「我々が悪者だって?」問題の重症例であるように思われる。
端的に言えば、あなたがキャンセル・カルチャーをまだ問題だと思っていないとしたら、それはあなた自身がこの問題の一部だからかもしれない。
一方で、キャンセル・カルチャーの擁護者は、あるタイプのオンラインでの言論がこうした反応を引き起こすことに何も目新しいことはないと指摘している点で正しい。つまり、キャンセル・カルチャーに見られる社会的ダイナミクスは新しいものではなく、私たちがよく知る人間の社会的インタラクションの特徴なのだ。違うのは、個人間の対立において利用される戦略がソーシャル・メディアによって増幅され、それが大衆現象をもたらし新しいタイプの困難を突きつけていることである。
簡潔に言えば、ソーシャル・メディアは、第三者を対立に巻き込む能力を飛躍的に増大させた。人間は様々な点で〔他の動物と比べて〕際立った生き物だが、最も重要な特徴の1つは、本来は無関係な第三者が、見知らぬ人の間で生じた対立に介入しがちなことだ。これは場合によっては、規範的秩序の実効化を伴う。チンパンジーにはドミナンスの順位があるが、秩序を実効化する義務は完全に順位の高い個体に課せられている。順位の低い個体が最高順位の個体からものを盗んでも、それは最高順位の個体だけの問題で、他の個体がやってきて「ちょっと、それはやっちゃダメだろ!」などと言うことはない。一方、人間は、個人として利害関係がない対立にも首を突っ込みがちだ。
人間がいかにしてこうした性質を獲得したかというのは、進化理論において未だ解決されていない重要な問題だが、社会生活のあらゆる領域で、人々が他人の話に首を突っ込む傾向を強く持っていることは明らかだ。これは、社会規範を実効化するために即席の協力関係を築くことを可能にするため、社会的安定性を大きく増大させることが多い(例えば、行列に割り込もうとする人や、弱かったり傷つけられやすかったりする人を虐待している人に対して第三者がどんな行動をとるか考えてみよ)。しかし、これが対立をエスカレートさせる場合もある。命を脅かすような暴力の多くはこの第三者効果、つまり、当初の当事者ではなく、当事者によって巻き込まれた「協力者」たちによって生じている。協力者の介入が対立を緩和したり悪化させたりする理由の解明は、犯罪学や紛争研究における大きなテーマである(この点で、マーク・クーニーの“Warriors and Peacemakers: How Third Parties Shape Violence”『戦士と仲裁者:第三者はいかに暴力を形作るか』は推薦してもしきれない)。
究極的な説明がなんであれ、対立の渦中にいる人が自然と無意識的に協力者を探しだすというのは、人間の社会的インタラクションの中心的特徴である。実際、公共の場で議論を行おうとする人は、ときおり辺りを見渡して、人々に「こっちに加勢しろ」と請うことがある。あるいは、「空気を読め」(つまり、「お前に仲間はいない」)と言うことで相手を黙らせようとする人もいる(より洗練された文献を上げるなら、リュック・ボルタンスキーの影響力の大きい論文“La dénonciation”「糾弾」は、こうした第三者の巻き込みに焦点を当てたもので、これも非常におすすめだ)。
インターネットによって、協力者を求める人間の能力がいかにして大きく増幅されたかを理解するのは難しくない。これまでなら当事者以外誰にも知られずに生じては消えていったような日常的な揉め事について、今や公衆の面前で糾弾されるかもしれないのだ。動画や写真を撮ってオンラインで投稿し、人々に味方になってくれないかと呼びかけるだけでいい。喜んで味方しようとする人を見つけるのは、大抵の場合難しくない。その数は、数千、数万、ときに数十万にも上る。Reddit〔アメリカのインターネット掲示板〕で「ちょっとだけ激怒したこと」(mildlyinfuriating)という板(subreddit)に投稿されたありがちなポストを見てみよう。このポスト(「夫は食洗器にこんな風に食器を入れるんです」)は、4,400件のいいね(upvote)と176件のコメントを獲得し、フロントページに表示されるようになった。
私たちが生きているのはこういう世界なのだ。ある日、仕事を終えて家に帰ってくると、妻が怒っているだけでなく、文字通り何千もの人々が妻の側についていることを知らされるのである。
もちろん、こうした家庭内の些細ないざこざは私的な問題であり、直接に影響を被る当事者の間で解決されるべきだという考えは、比較的最近生まれたものだ。シャリヴァリ [3]訳注:共同体の規範を破った者への制裁で、再婚者などに対して行われた。 が示すように、中世ヨーロッパ社会の人々は他人の家庭の問題に強い関心を持っていた。私たちの多くが理解しているような「私的な生活」は、18世紀に発明されたものだ。重要なポイントは、社会が昔の規範に戻ってきているということではなく、第三者による介入の規模が大きく増大していることだ。これによって、対立をエスカレートさせる能力が劇的に高まり、2つの注目すべき影響が生じている。1つは、日常的なエチケットへの違反といった些細な対立の多くが、非常に激しく糾弾され、制裁されるようになったことだ。2つ目は、従来はあり得なかった仕方で個人や制度に脅しをかけられるようになったことだ。
「社会正義」について争点化することは、このダイナミクスの多くを曖昧にさせてしまっている。キャンセル・カルチャー現象を適切に理解するためには、紛争理論の視点を採用すべきだ。実際、現代の「被害者性の文化」(victimhood culture)の最もいらだたしい特徴の1つは、訴えの多くが、明らかに関係性攻撃〔人間関係や社会関係の操作を通じた他者への攻撃〕の形をとっていることである。キャンセル・カルチャーを批判しても、キャンセル・カルチャー問題を解決するのに効果的でないだろう理由も、これで説明できる。第三者を対立に巻き込むという、根底にある人間の性向が変化する可能性は低いし、この能力が〔情報〕技術によって増幅されるのは明らかに不可逆的な流れだ。それゆえ、キャンセル活動が消えることはないだろう。唯一の建設的な問いは、キャンセル活動に対する人々の対応の仕方が変わる可能性があるかどうか、である。
この点についてある程度の楽観主義をとる理由はある。キャンセル・カルチャーに対する私たちの現在の認識は、コミュニケーション技術の導入の世代差に強く影響されている。具体的に言えば、若者はソーシャル・メディアのアーリー・アダプターだったので、上で見てきたような、対立をエスカレートさせる能力の高まりは、しばらくの間、世代間で不均等に分布していた。結果、私と同じかそれより上の年代の人間が働いている組織の多くにおいて、オンラインで暴徒と化し様々な要求を行う若者たちの出現は寝耳に水だった。上の年代の人々の多くは、率直に言ってパニックに陥り、非常に愚かな選択を下すことになった。
(私が勤める組織〔トロント大学〕で数年前、こんなミーティングがあったことを鮮明に覚えている。私と数人の同僚たちは、ジョーダン・ピーターソンを辞めさせろという要求に過剰反応していた管理職やスタッフを説得することに成功したのだ。彼・彼女らは「我々はどうすればいいんでしょう?」と尋ねてきた。私たちは「何もしなければいいんじゃないですかね?」と答えた。彼・彼女らは「でも、こうした人たちになんて言えばいいんでしょう?」と返してきたので、堅苦しい地味なタイプのロースクールの教授が、彼・彼女らを正気を失っているかのように見やって、「失せろと言ってやったらどうだ?」と言い放った。これがこのミーティングのハイライトだった。)
ポイントは、大きな公立大学の上級管理職がオンラインの陳情に翻弄されるような時代はすぐに過ぎ去ると期待できる理由がある、ということだ。それは大部分、こうしたオンラインの暴徒たちのほとんどが張り子の虎だということが分かったからだ。彼・彼女らが第二の行動に出ることはない。キャンセルは「ショックを与えて慄かせる」(shock and awe)戦略であり、その成功は、最初の脅しが効果を上げるか否かにかかっている。
追加的な行動がとられないのは、オンラインでの言論の支配を現実世界の行動に結びつけるのが難しいためだ。これは、現代の若者世代が政治的行動を非常に不得意としていることを説明するかもしれない。初期のキャンセル活動の成功により、若者たちは自分たちが古い世代の人間を権力や権威の座から引きずり下ろせることに気づいて、大きな興奮がもたらされた(映画「ター/TAR」は、世代間対立のこうした側面をよく描いている)。残念なことに、これによって若者世代全体が、自分たちは伝統的な政治論議に参加する義務を免れていると感じるようになった。若者は、自身の見解を擁護する必要はないと考えるようになった。オンラインで暴徒を集めれば、意見の違う人間を糾弾できるのだ。同時に若者は、オンライン空間での支配の成功を、現実世界での政治的動員(例えば、若者に投票に行かせること)に結び付ける方法を発見できていない。こうして若者は、政治的議論で勝つための能力を獲得していないだけでなく、現実世界で組織構築を行う能力も持っていないという、奇妙な政治的宙ぶらりん状態に置かれることになった。結果、効果的な政治的変革のための基本的な技術を、若者たちは何一つ習得していない。
いずれ、主要な社会的組織の〔年配の〕スタッフは、オンライン空間に精通し、ソーシャル・メディアを管理する効果的な戦略に習熟した人々に置き換わるだろう。これにより、試合の土俵はかなりの程度平等になって、若者が過去数十年間享受してきた優位性はみな中和されるだろう。既にこの非対称性は減ってきていると感じている人もいるかもしれない。私の感覚だと、少なくとも北米において、キャンセル活動が最も効果を上げていたのは2018年頃で、それ以降は力が弱まってきている。とはいえ、私の認識が間違っている可能性も大いにある。
原則として、不正義や傷つけられた人に注意を向けさせ、その味方になるよう他人を巻き込む能力が高まっているという流れは、良いことだ。問題は、その結果生じてきた訴えの大氾濫の中で、もみ殻から小麦を選り分ける〔真っ当なものとそうでないものを見分ける〕方法がまだ見つかっていないことである。繰り返すが、この点で進展を期待する理由は存在する。しかしそれは恐らく、現在の過渡期的状況が終わってからのことだろう。
〔Joseph Heath, A simple theory of cancel culture, In Due Course, 2023/12/3.〕