どんなにダサい分野でも、「批判的(critical)」という語をつければ少なくとも多少はかっこよくなる、というのは学術の世界において語られざる前提となっているように思われる。そのため、時を経るごとに、「批判法学」や「批判的人種理論」だけでなく、「批判的コード研究」だとか「批判的大学研究」まで現れだす始末だ。私のお気に入りは「批判的ジェノサイド研究」である。従来のジェノサイド研究は、ジェノサイドという現象にあまりに甘かったという含みを持たせているのだ。
実際、私たちは「過剰批判(overcritique)」の時代を生きている。その大きな帰結の1つは、アカデミアの中で「批判それ自体への批判」という動きが活発になっていることだ。雰囲気を掴んでもらうために、トム・ボーランド(Tom Boland)の著書『批判のスペクタクル(The Spectacle of Critique)』の冒頭に位置する印象的な一節を引いてみよう。
現代は、批判が不足している時代ではない。批判が溢れ、拡散し、過剰にすらなっている時代だ。いかなる「批判(Critique)」についての説明も、それ自体が批判の対象となり得る。それゆえ本書は、複数形の批判(critiques)に焦点を当てる。批判は現代社会に溢れかえっており、現代の思考の大きな側面を構成している。そのため本書は不可避的に、1つの批判であるとともに、批判の「ポスト批判的(post-critical)」説明でもある。というのも、本書は特定の仕方で批判的であることを拒否しながら、それでも部分的には、批判についての「無批判的(acritical)」あるいは「非批判的(non-critical)」な説明を行っているからだ。つまり、批判を、よりよく理解すべき複雑な文化形態として認めようとしているのだ。
文体はともかく、私はこの本を気に入っている。この本は、明白であるにもかかわらず無視されてきた問題を扱っているからだ。批判理論家は常々、反省性(reflexivity)へのコミットメントを自負してきた。ボーランドは要するに、堂々と「で、我々〔批判理論家〕はいったい何をやっているんだ?」と問うているのである。ボーランドは批判理論家に対して、学術実践としての「批判」もまた、他のあらゆるイデオロギー的構成物と同様、批判的な社会学的探究の対象として扱うべきだ、と求めているのである。結局、批判もまた一種の権力/知の複合体に見えるのだから……。
批判の蛇が自らの尾を飲み込み始めるというこの反省的転回をもたらしたのは、疑いなく、ブルーノ・ラトゥールの「なぜ批判は力を失ったのか(Why has Critique Run out of Steam?)」という自己批判的論考であった。批判に対するこれらの反省的考察は、ポストモダニズムにいつも不満を言っているような人々が、批判理論の外から論争を仕掛けるために書いたものではない、という点に注意すべきである。ボーランドもラトゥールも、批判理論の本殿の内部にいる人物だ。加えて、このような「批判への批判」において用いられている概念的道具が、通常の「批判」的探究の武器庫から持ち出されていることは誰の目にも明らかだ。
私はこうした流れに対して、ある種の傍観者、あるいは興味本位の見物人のような立場をとってきた。というのも、私自身はそもそも目下自壊しつつある極端な形態の批判に惹きつけられたことがなかったので、それがどうなろうと知ったこっちゃない話なのだ。私の研究は、20世紀後半のどこかの時点でリベラルなカント主義へと進化していった、フランクフルト学派の批判理論の伝統にピッタリと位置づけられる。このタイプの批判理論は常に、ときに度が過ぎるほど、自らの批判的企ての規範的基礎を明示しようとしてきた。そのため、「我々はいったい何をしているんだ?」という類の問いに答えるのはそう難しくないのである。
とは言いながらも、「批判(critique)」や「批判的(critical)」といった語の使われ方が手に負えないものになっている、という一般的な感覚は私も共有している。私自身の批判理論の理解は伝統的な立場に属すもので、批判理論(ないし批判的社会科学)というのは、規範的関心、経験的関心、実践的関心を明示的な形で組み合わせた社会科学的探究の一形態である、というものだ。ジェームズ・ボーマン(James Bohman)がかつて(マックス・ホルクハイマーの「伝統的理論と批判理論」について)述べたように:
ホルクハイマーによる批判理論の定義に従うと、批判理論が適切なものであるためには、説明的であること、実践的であること、規範的であることという3つの基準が同時に満たされなければならない。つまり、批判理論は、現下の社会的現実のどこが間違っているのかを説明し、それを変革すべき主体が誰であるかを特定し、さらに、批判のための明確な規範と、社会変革に向けた実現可能な実践的目標の双方を提示しなければならない。
この基準に従えば、現在「批判的」学究を名乗っている研究の大半は、実際には(少なくとも伝統的な意味では)批判理論とは言えない。最も明白なのは、これらの研究が、探究の規範的基盤を明示的に述べるための努力を全く行っていないことだ。この手の研究のほとんどは、ミシェル・フーコーやピエール・ブルデューに由来する分析枠組みを利用しているが、両者はいずれも、規範的に基礎づけられた社会批判の可能性を明確に否定していた。この系譜において仕事を行っている研究者たちが、明らかに社会正義へのコミットメントに動機づけられているにもかかわらず、正義が何を要請するのかについて自らの考えを述べる段になると、ひどく歯切れが悪くなるのはこのためである。
このテーマに関しては膨大な文献が書かれてきた——今では「規範的基礎」を巡る論争に誰もがウンザリしてしまっているほどだ。最近の私の関心は、批判理論の〔規範的側面ではなく〕実践的側面の方へと向かっている。すなわち、批判理論は、社会的現実に対して単に抽象的な道徳的非難を行うのではなく、実践に指針を与えるような形で、是正可能な問題を特定すべきである、という考え方だ。このような考え方は、ある意味で、ハーバート・マルクーゼが1950年代に提示した、「必要な抑圧」と「過剰な抑圧」の区別にまで遡る。マルクーゼは、社会が人間の本能的性向の抑圧によって成り立っている、というフロイトの主張を受け入れていた。だが、抑圧の存在を指摘するだけでは批判にはならない。そうした抑圧の多くについて、それを保持するもっともな理由が存在するからだ。そのためマルクーゼによると、私たちにとっての問題は、不必要な(つまり、社会秩序の望ましい特徴を維持する上で必要ではない)抑圧が大量に存在することだ。それゆえ、批判がなすべきなのは、「過剰な」抑圧を特定することだ。「過剰な」抑圧は、悪しき帰結をもたらすことなく廃絶できるからである。
こうした考察に基づいて私は、「批判」という語を、少なくともある程度は厳格な仕方で用いたいと思うようになった。というのは、自らの特定した問題が少なくとも対処は可能であると示す努力をしないなら、それは本当の意味での「批判」ではない、と思っているからである(批判は「社会変革に向けた実現可能な実践的目標」を提示しなければならない、という先のボーマンの主張を思い出そう)。「資本主義」を巡るレトリック、そして、資本主義システムの不完全性を極めて道徳的な仕方で非難する政治哲学の近年のトレンドほど、こうした厳格な言葉遣いが必要となる場面はない。この手の議論は不誠実さに満ち溢れている。というのも、半ばマルクス主義的な身振りで資本主義をレトリカルに糾弾してはいるが、なんらかの意味で現状からの改善をもたらすと言えるような社会主義システムをどう設計すればいいのかについて、誰も見当すらついていないからだ。
この最もコミカルな例は恐らく、マーク・フィッシャーの著書『資本主義リアリズム』だろう。本書でフィッシャーは、「資本主義へのオルタナティブは存在しない」という見方をイデオロギー的だと非難し、100ページほどかけて左派の〔資本主義への〕認識的な囚われを批判するのだが(「ここでの『リアリズム』は、いかなるポジティブな状態、あるいはいかなる望みも、危険な幻想だと考えてしまう抑うつ者の悲観的視点と類比的だ」)、資本主義に代わるいかなるオルタナティブも提示しないまま本書を閉じている。
残念なことに、資本主義を巡るこうした議論は分極化していきがちだ。資本主義システムの持つ明白な欠陥や不正義を取り上げて、それは実のところ欠陥や不正義などではない、と言い出す連中がすぐ見つかるからである。こうして私はいささか居心地の悪い立場に置かれることになる。というのも、私自身の考えでは、資本主義へのよくある批判の大部分は、哲学者の言い方を用いれば、一応(pro tanto)は正当化されるからだ。だが同時に、実現可能なオルタナティブが存在しない以上、そうした批判を全部足し合わせても、全てを考慮した上で(all-things-considered)資本主義システムが非難すべきものである、ということにはならないとも考えている。そのため私は、資本主義の批判者に対して同意を示しつつも、その批判が実践的含意を持つという点は否定したいのだ。
資本主義の批判者の多くに対して私が抱いているいらだちは、つまりこういうことだ。複雑な経済を組織化するための実現可能な選択肢を人々に提示して、その中から1つ選ばせるとしたら、大多数の人は、少し迷った後で、適切に規制された市場経済と寛大な福祉国家の組み合わせを選択するだろう。すると、資本主義に手をつけるつもりがないのなら、資本主義を威勢よく批判することになんの意味があるのだろう? それは無意味な不満の表明にしか見えない。より具体的に言えば、それは「ぼやき(kvetching)」に見えるのだ(「ぼやき(kvetch)」とは、イディッシュ語に起源を持つ英単語で、「愚痴を言うこと」、「いつも何かに不満を述べている人のこと」と定義される)。

このちょっとした用語法の工夫によって、私の抱えている問題がすっきり解決されることに気がついた。批判とぼやきを区別すれば、近年の政治経済学(より一般に「批判的研究」)の文献の多くに対して私が抱いているいらだちを、手っ取り早く伝えることができる。つまり、こうした文献のほとんどは不満の羅列でしかないのだ。問題は、こうした不満が間違っていることではない。こうした不満を全て足し合わせても、それらが対処可能であると示す努力がなされていない以上、いかなる実践にも繋がらないということだ。つまり、こうした議論全体が、単なるぼやきでしかないのだ。私の見解では、批判とは、何にでも貼り付けられるラベルなどではなく、目指すべき目標である。
私がこの用語法を使い始めたのは、大学院生に対して、もっと本気を出すようはっぱをかけるためだった。だがその後、この用語法をもっと真剣に用いる機会が訪れた。ワヒード・フセイン(Waheed Hussain)の著書『見えざる手とともに暮らす(Living with the Invisible Hand)』のシンポジウムに招待されたのだ。ご存知の方も多いだろうが、ワヒードはトロント大学での私の同僚であり、若くして癌で亡くなってしまった人物だ。ワヒードの著書(本書の草稿を私は数回にわたり読んでいる)は、2023年、彼の死後に出版された。長年にわたるワヒードと私の意見の対立点は、まさにここにあった。ワヒードの市場批判は信じられないほど厳格な道徳原理に基づいているので、その基準に照らせば、市場だけでなく、現実的に複雑な分業を組織化するために用いられるいかなる制度も排除されてしまう、と私は感じたのだ。
こうしてできあがったのが、「フセインの市場論:批判かぼやきか?(Hussain on the Market: Critique or Kvetch?)」だ。この論文はこの度、Canadian Journal of Philosophyで刊行された。同じ号には、上述のシンポジウムに寄せられたAndrew Franklin-HallとLouis-Philippe Hodgsonによる優れた論考も掲載されている。上で私が行った議論が、挑発的な割にきちんと掘り下げられていないと感じた向きには、ぜひ論文を読んでほしいと思う。ところで1つ言っておくと、トロント大学の外でこの原稿の発表をした際、一部の人から「このタイトルは意地悪すぎるんじゃないか」との意見が寄せられた。事実は正反対だ。このタイトルは、彼への親愛の情の表現であり、ちょっとした内輪ネタなのだ。というのも、ワヒードを知る人なら誰でも知っているが、彼は懲りることを知らない希代のぼやき屋だったからである。
[Joseph Heath, Anatomy of a kvetch, In Due Course, 2025/12/3.]