A short essay on the differences between Marx and Keynes
Posted by Branko Milanovic on Wednesday, June 29, 2022
こちらのエッセイは、ジョーン・ロビンソンによる1942年出版の『マルクス経済学に関する論考(Essay on Marxian Economics)』のフランス語訳版を、彼女が長年に渡って書いてきたマルクス、マーシャル、そしてケインズに関するテキストとともに読んだことに触発されたものである。また同時に、カロリーナ・アルヴェスがThe Journal of Economic Perspectivesに寄稿したジョーン・ロビンソンの生涯と先程の書籍に関する書評にも影響を受けている。
本文を始める前に、まずは知識の限界を設定させていただきたい。私はマルクスに精通してきており、つい2ヶ月ほど前にマルクスの所得分配についての見解について、実質賃金、資本の有機的構成の上昇、利潤率の低下傾向などの基本的なトピックスを扱った長い章立て(近日発刊予定)を書き終えたばかりであるため、知識としては刷新された状態である。
ケインズに関してはその限りでないが、それでも、私は何年も前にケインズの『一般理論』に関する指南役として素晴らしい方を迎えていた。私は一対一でアバ・ラーナーの指導を1年受けたのだ。彼は言わずと知れたケインズの最初期の弟子の1人であり、彼の指導法は、まず私に『一般理論』を第1章ずつ読ませ、それを要約した上で議論しアバに送ると、来週には私の文章を全て赤字で訂正して返す、というものだった。私はケインズの偉大さを尊敬しており、ラーナーが私に何度も読み返させた「自己利子率」と「貨幣のキャリッジコスト」についての章は今でも鮮明に覚えている(そしてこのことをケインズの書籍とは実に縁遠いところで書いている)。しかし、私はケイジアンによるマクロ経済学の展開については全くフォローしていなければ、概してマクロ経済学に関心がないのである。そこで、ここではケイジアンについてではなく、私自身のケインズ観についてお話ししようと思う。
ジョーン・ロビンソンの『マルクス経済学に関する論考』の目的は、マルクスによる有効需要の欠如をもたらす資本主義的生産関係についての見解が、(ケインズによる)『一般理論』のテーマが類似していることを示すことで、マルクス経済学とケインズ経済学を「和解」させることにあった。以下はその裏付けとなるマルクスからの引用である。
「全ての現実の恐慌の究極の発生原因は、やはり、さも社会における絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとする資本主義的生産の衝動に対する大衆の貧困と、消費制限である。」(資本論第3巻、第30章より)
この他にもマルクスとケインズの類似性の根拠を見出すことが可能であり、ジョーン・ロビンソンは実際にそのように試みている。他には、マルクスの言葉を借りれば、個々の資本家にとって、自身が雇用している労働者は「敵」であり賃金を下げたい存在である。しかし、資本家にとっては、他の資本家が雇う労働者達は「友」であり顧客である。全ての資本家が労働者からの搾取を試み、それが成功してしまうと、結果的に経済危機が生じるのだ。
マルクスによる経済危機のもう一つの説明は、消費財を生産する部門と投資財を生産する部門の不均衡な成長であるが、この説明にケインズ主義者はあまり関心を寄せていない。ロビンソンは労働価値説、転形問題、利潤の低下傾向など、他のマルクスの思想についても非常によくまとめているのだが、やはり彼女が強調してるのは、先述した「恐慌の起源」と「有効需要」についてである。
ロビンソンはマルクス、マーシャル、ケインズを比較し、それぞれの研究において、経済の機能に関する「科学的」な前置きと、この3人全てに見られる「イデオロギー的」な動機は切り離すべきだと主張している。そのイデオロギーとは以下の通りである。マルクスでは、資本主義は歴史的(したがって一過性の)生産様式であるという確信。マーシャルでは、生産の組織化は「自然に」行われるとする資本主義についての仮定。ケインズでは、資本主義を改善したい、あるいは自己破壊から救済したい願望である。
私には、少なくともマルクスとケインズの違いは、イデオロギー的なものというよりも(そのような違いが実際にあることは否定しないが)、彼らが分析にどのような時間軸を用いているかの違いにあるように思われる(おそらくシューペンターも〔マルクスとケインズの違いについて〕似たようなことを考えていたため、あまり斬新な考えではないかもしれない)。
マルクスは、恐慌論を論じるときでさえ、常に長期的な時間軸の観点に立っている。マルクスからすれば、恐慌とは、資本主義的生産が直面する長期的な(固有な)問題が一時的に顕在化したものに過ぎない。よって、グロスマン、ブハーリン、マンデルといったマルクス主義者達が(おそらくマルクスに忠実なことで)恐慌を長期的な利潤率の低下と短期的な不安定性の重なとし、資本主義の終焉の始まりを見たのは驚くべきことではない(ロビンソンもまた利潤率の低下傾向は否定しつつも、この〔マルクス主義的な〕恐慌の説明自体は、当然のように支持している)。ジョーン・ロビンソンの言う通り、マルクスの主張の全ては歴史的であり、読み手は常に歴史の先を見つめ、資本主義の根本的な原動力について考えることを指示されるのだ。
しかし、ことケインズにおいては話が変わってくるどころか、ほとんど真逆である。ケインズの理論は(ケインジアン的な理論とは別に)、その全てが”短期的”なものである。経済を安定させ、完全雇用あるいはそれに近い状態に戻すことを目的としているのだ。ケインズは資本主義の長期的な側面には特に関心がない。おそらくは明言こそしていないが、資源の完全雇用を目指して資本主義を「修正」していく限り、資本主義は永続すると彼は信じていたのだろう。ここでの「修正」は政府主導の投資や、利子生活者の安楽死などを要する可能性もあるが、ケインズ自身は純粋主義者ではないため、事態を修復するために一見社会主義的に思えるものも含めてあらゆる手段を取ることだろう。
「長期のマルクス」と「短期のケインズ」との違いを、おそらくこの二人が同じことを述べているであろう概念、「アニマル・スピリット」と「産業予備軍」から説明しようと思う。アニマル・スピリットは、よく知られているように、ケインズが資本家の投資決定を説明するために導入した考え方だ。資本家はほとんどの場合で、予想される利益と損失の正確な計算ではなく、自身の直感(=アニマル・スピリット)に基づいて行動し、何らかの理由からその直感が変われば、経済は需要の急激な拡大や縮小を経験する。ジョーン・ロビンソンはこうした(厳密な意味での)投資の非合理的動機が、常に利潤を最大化させる資本家を資本家たらしめるだけなく、資本家は資本を再投資しようとするとするマルクスの視点と似ている、と主張している。マルクスにおいて、利潤を消費せず再投資して初めて資本家は資本家になる。そして蓄積は、(別の有名な引用をすれば)「モーセおよび全ての預言者たち」[1]マルクスの『資本論』における「蓄積せよ、蓄積せよ、これがモーゼであり、予言者たちである」という文言からの参照。 である。いずれにせよ、〔ケインズとマルクス〕どちらの場合でも、投資へのインセンティブは、唐突な楽観主義や悲観主義、あるいは「資本家精神」と呼ばれるものといった、経済学的合理の範疇外からもたらされることとなる。しかし、ケインズの場合だと、この概念は短期的な変動を説明するために用いられる。しかし、マルクスの場合には、階級全体を定義するための特徴であり、したがって長期的な概念となる。
あるいは、経済活動の盛衰に伴って縮小したり拡大したりする「産業予備軍」について考えてみると、これはケインズにおいて大きな役割を果たした(実際に彼の一般理論の執筆動機となったとも言える)「周期的失業」と非常によく似ているのだ。しかしマルクスによるとこうした「予備軍」は、常に存在し、それゆえに資本主義の長期的な特徴となる。資本家は労働者を管理するために産業予備軍の存在を必要とし、もしある時期に予備軍が縮小し資本家階級の相対的な力が低下すれば、直ちに予備軍を復活させる力、すなわち労働力を節約するための投資が行われるのだ。マルクスにおいては産業予備軍の消滅はあり得ないが、ケインズにおいては循環的な失業をゼロにすることが理想とされ、資本主義の適切な管理によってそれは達成される。マルクスは長期的な構造的特徴、ケインズは主要な経済変数間の短期的な相互作用という具合に、ここでも両者の時間軸は異なっているのだ。
マルクスは資本主義の根源となる歴史的特徴についての最初の研究者であり、ケインズは最後のカメラリスト(官房学者)だった。マルクスは経済が歴史を形作ると信じた歴史家であり、ケインズは権力に対する最も賢明なアドバイザーだった。『資本論』には資本主義の「聖書」が、『一般理論』には資本主義を経済運営するための「君主論」が宿っているのだ。
References
↑1 | マルクスの『資本論』における「蓄積せよ、蓄積せよ、これがモーゼであり、予言者たちである」という文言からの参照。 |
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