コスマ・シャリジ「二重過程理論は『啓蒙思想2.0』に不要である:ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』書評」(2022年3月6日)

ヒースは私たちが理性や経験、自然、あるいは社会について学んできた重要な物事だけでなく、啓蒙のプロジェクトに伴って生じた失敗や悲劇の歴史についても、真剣に考えているのだ。

The Bactra Review: Occasional and eclectic book reviews by Cosma Shalizi 173 Enlightenment 2.0 Restoring Sanity to Our Politics, Our Economy, and Our Lives”
Drafted 26 December 2021, posted 6 March 2022

『啓蒙思想2.0』は、大変面白い本だが、少々時代遅れになってしまった部分もあり、また非常に論争を呼ぶような主張もしている。私自身、本書についての自分の立場を定めかねているが、それを明らかにするために、書評を書くことに決めた。

以前から言ってきたように、ジョセフ・ヒースは注目すべき哲学者である。なぜなら彼は、フランクフルト学派、特にハーバーマスの優れた教え子であり、同時にゲーム理論にも精通した、世界で唯一の「合理的選択批判理論家」を名乗る資格を持った哲学者だからだ。フランクフルト学派とゲーム理論の両伝統は、「理性」や「合理性」といった概念を大きな拠り所としている(ハーバーマスの「コミュニケーション的理性」と、フォン・ノイマンによる、頭にスーパーコンピューターを搭載した「利己的で信用ならない」ソシオパスを結びつけるという、ヒースのアクロバティックかつ見事な試みについては、必要がないのでここでは特に触れない [1]訳注:ヒースの著書『ルールに従う』での議論を指すと思われる。 )。本書でヒースは、2つのテーマに取り組んでいる。(1)心理学者によれば、人々は大して合理的なわけではなく、そして(2)物質的に恵まれている民主主義国家(特にアメリカのような)は狂気に支配されつつあり、理性からますます遠ざかっているように見える(本書が2013年ごろに執筆されたことを思い出そう。こうしたことはまだ可視化されていなかった)。一見すると、この2つの意見にはなんの関係もないように見える。もし心理学者が正しいなら、私たちは以前からずっとバカだったということになるが、これではなぜ一部の人々が〔最近になって〕より狂っていっているように見えるのかを説明するのが難しい(定数によっては変数を説明することはできない〔つまり、固定的な性質から変化を説明することはできない〕)。

ヒースは、この2つの意見を独創的な形で結び付け、さらに人間の認知についての「二重過程理論」あるいは「二重システム理論」を採用することで、この問題を自らのゲーム理論的、またハーバーマス的な関心へと繋げている。ヒースの二重過程理論の説明は、ダニエル・カーネマンに拠るところが明らかに大きい(ただしカーネマンだけを参照しているわけではない)。〔二重過程理論によれば〕システム1は、人間のパターン認識能力や、原始的な社会的相互作用能力などによって構成されている。システム1は、並列的で、速く、直観的、前言語的で、内観によってはアクセスできない〔つまり自覚、あるいは意識することができない〕。システム1を動かしているのは、速く〔認知のリソースを〕節約するヒューリスティックス〔本能的反応〕であり、これは私たちの祖先が暮らしていた進化的環境においてはうまく機能したが、資本主義と代表制民主主義を採用している、メディアで溢れかえったポスト産業化社会という環境には適合していない。システム1はまた、修正を施すことができない。錯視は錯覚に過ぎないと分かっていても、錯視に惑わされるし、頻度の判断は利用可能性ヒューリスティック [2]訳注:記憶に残っているものほど頻度を高く見積もるヒューリスティック。 に著しく影響を受けると分かっていても、利用可能性ヒューリスティックから逃れられるわけではない。

上に見たようなシステム1の特徴は、もう一方のシステムであるシステム2、すなわち理性あるいは合理性と好対照を成す。理性は直列的で、遅く、明示的なものだ。また、言語によって明確に表現することができ、自己反省的で、自己修正を行うことができる。システム2はまた、そしてこれが決定的に重要なことなのだが、文化・社会によって間接的にもたらされたものである。

ヒース曰く、〔二重過程理論を正しいとするなら〕私たちが理性的になるには、方法が二つあるとされる。一つ目は、分かりやすい方法だが、(ヒース曰く、意識的で、努力と負荷を要する)システム2に頼って、システム1の反応を無効化するやり方である。(高次の能力が、〔低次の能力の〕抑制によって機能するというのは、心理学や神経科学の歴史において古くからあるテーマだが、ヒースはこの話題にあまり立ち入っていない)。〔しかし〕私たちがシステム2によってシステム1を制御する(言わば、人間的な自由を実現するために「必死で頑張る」)能力は、非常に制限されており、また過剰な負荷を強いる。

人間が理性的になるためのもう一つの方法は、システム2が認めるような仕方で、つまり〔十分な〕時間と資源を与えられればシステム2が実行したように、システム1が反応するよう環境を整えてやるというやり方である。ヒースの説明によれば、この方法のほうが、合理性の源泉としては重要かつ、非常に一般的とのことだ。長い淘汰のプロセスを経て(文字通り)進化してきた伝統、制度や受け継がれてきた慣習が、私たちの直観や習慣的反応を、合理的・適応的にするような状況を作り出している例は数多くある。ヒースによれば、その限りで保守主義は正しい。

それゆえ、(ヒースにとって)合理性は、以下の2つ要素から社会的なものとなる。一つは、人は、行いがちな選択と行うべき選択が一致するように、公式・非公式な制度等の環境を構築している。もう一つは、システム2による明示的で明晰な合理的思考に頼っているときでさえ、私たちは自分よりも他人を批判する方が得意なため、少なくとも最低限の誠実さと、なんらかの実用的な思索を伴っていれば、議論は実際にアイデアや思考を向上させる。

ヒースが合理性を重要視するのは、それが内在的価値を持つからというだけではなく、大規模な集合行為問題を解決するために必要不可欠なものだと考えているからである。小規模な集合行為問題や社会的ジレンマならば、互恵性や規範の強制といった、個人に負荷を課すシステム1的な人間に備わった特質によって解決できる。しかし、狩猟採集社会の規模を超えると、私たちは「もし全員が同じことをしたらどうなるか?」といった思考を行うことや、秩序だった様々な組織(特に国家 [3] … Continue reading )を組み合わせたものの手を借りないと、集合行為問題を解決できない。これらは、理性がなければ成立しないものだ。

そして現在、ヒースが2010年頃に懸念していた状況が現実化している。彼は、社会制度等、私たちの構築環境が劣化し、合理性を保つのがますます困難となっていっていることに深い懸念を抱いていた。本書では複数の領域でこのような劣化が生じていると論じられているが、ここでは広告、およびそれと関連するものとしてニュースメディアを取り上げよう。ヒースは、19世紀中盤から広告のテクニックが発達していくにつれて、消費者が製品を好ましく思ったり、欲しくなったりするような説明を行う形態からどんどん離れていったプロセスを描いている。政党や選挙の候補者でも、事態は同様の経過を辿っているとしている。現代の広告のテクニックは、システム2による合理的熟慮をショートカットするために、直感的なシステム1を利用しようとしていることを、ヒースは示している。メディア環境の劣化については、理性が言語的なものでしかあり得ないという考えに重点を置いて議論を展開している。画像や動画の氾濫は、視覚的なシステム〔システム1〕を刺激し続け、理性〔システム2〕は損なわれる。24時間放映のニュース番組(ヒースによると、こうした番組は実は15分間の同じニュース映像を繰り返し繰り返し再生し続けている)の台頭は有害である。直感システムは、繰り返しや、〔発話者の〕自信、頻度を真実のしるしだと思い込んでしまい、そうした思い込みから逃れることは困難だからだ。もっと一般的に言えば、(ヒースが使っていない言葉を引くなら)企業は私たち消費者からお金を巻き上げるために、直感的な認知〔システム1〕の反応を引き出すための理にかなった方法を利用して製品を作っており、そうした製品に消費者は四六時中囲まれるという形で、消費者を騙すことが産業のプロセスの一部になっていることを深く憂慮している [4] … Continue reading。そうした企業のふるまいは、あからさまな政治的内容を持っていない場合でも、個人にシステム1の直感的反応に対処するための労力を費やさせることで、合理的であるための能力、セルフコントロールの能力を掘り崩してしまうことをヒースは懸念している。世知に長け理性的な政治のプロたちは、ほのめかしや厚顔無恥や嘘によって、理性的な批判をたやすく回避できるという認識をますます広めているが、こうした傾向は事態をいっそう悪くすることになりかねない。

この点で、私はヒースの主張の多くを素直に支持することができるし、他の部分の多くにも共感を抱いていると言っておきたい。私は故ハーバート・サイモンの信奉者として、ヒューリスティックスがうまく機能するような環境を構築することが、合理的となるための鍵だとする意見を自然に認めることができる。更に、ダン・スペルベル(と、むろん言うまでもなくカール・ポパー——本書の議論の多くはポパーが”Towards a Rational Theory of Tradition”「伝統の合理的理論に向けて」で既に書いているが、ヒースはなぜかこの論文に言及していない)の支持者として、批判と議論がアイデアを向上させには不可欠であり、議論での規範や思考のための道具は、それ自体が文化的に受け継がれた社会的所産であるという主張も既に理解し納得している。そして、それらが、制度を含む構築環境の質〔の低下〕によって、私たちの共同生活についてきちんと思考するための能力にもたらす影響にも深い懸念を抱いている。特に、テレビとソーシャルメディアの影響について、深刻な懸念を抱いている [5] … Continue reading

しかし(だからといって「しかし」と疑問を呈しても良いはずだ!)、このテーマにおけるヒースの書きぶりには多くの疑念がわく。理論に関する疑念もあるが、現在私たちが直面してるトラブルへの具体的な解決策に関する疑念もある。

まず、専門的で、全般的な問題の方から始めよう。私は、本書で、二重過程理論による説明が必要だとは思わなかったし、役立っているとも思わなかった。二重過程理論が不要というのは、ユーゴ・メルシエとダン・スペルベルが、”The Enigma of Reason“『理性の謎』(概要はここで読める)という好著において、理性は社会的、コミュニケーション的、動物的な進化史に根ざした直観的能力であるという、明晰とは言えないまでもそれなりにそれなりに説得力ある説明を行っているからだ(具体的に言うと、理性とは、表象と他の表象の関連性を測る直観的能力であり、議論を行うため、また自分自身や自らの行った主張を他者に対して正当化するために進化した、という議論である)。メルシエとスペルベルが正しくて、ヒースと彼が参照しているカーネマンが間違っていると言いたいのではない(そういう疑いは持っているが、その疑いを述べてもここでは意味がない)。私が指摘したいのは、合理性についての心理学的議論について、ヒースがもしメルシエとスペルベルの議論の方に理を認めたとしても、ヒースの政治哲学的、あるいは社会批評的な主張は依然として全く問題なく通用するということだ。なぜなら、ヒースの議論は実は二重過程論に依拠しなくても主張できるからだ。

この論点を考えていて気づいたことだが、ヒースは心理学の研究に頼って議論を進めている。ヒースのやろうとしているプロジェクトにおいて、人間の思考や行動についての経験的研究に目配りすることは、明らかに正しいアプローチだ。しかし2010年代初頭という時期は、こうしたアプローチを採用するにはかなり不運な時期だった。なぜなら、そのすぐ後に「再現性の危機」が叫ばれるようになり、心理学の研究の多くが、実はエビデンスを根拠にした占いに過ぎなかったことが認識されたからだ。そのため、ヒースは(カーネマンと同じように!)システム1の弱点として〔再現性の危機以後、研究として信頼を失っている〕社会的プライミングに何度も言及してしまっている。セルフコントロール(私が先ほど「必死で頑張る」と表現したもの)の限界について論じる際に、ヒースは繰り返し、ロイ・バウマイスターの「自我消耗」 [6]訳注:セルフコントロールに用いることのできる精神的リソースは限られているという考え。 の研究に言及している。「自我消耗」の研究は、広く知られており、影響力を持っていて、多くの場所で言及されているが、〔実験結果の〕再現に失敗したことでも有名である「自我消耗についてはこれさえ知っておけば大丈夫」という記事を参照してほしい。そこでエリオット・バークマンはこんなことを言っている。「相当古いカンファレンスでの記憶の一つに、セルフコントロールを研究する他の研究者らと、自我消耗の実験をどれほど再現しようとしても誰も再現できなかったことについて話したことがある」)。企業が私たちの進化によって生じた食欲をいかに操作するかについて論じるときも、ヒースは再び、ブライアン・ワンシンクの研究に好意的に言及している。ワンシンクの研究は(好意的な言い方をするなら)最近になって信頼性を失った。ヒューリスティックスは生身の私たちに不合理なバイアスをもたらすのか、逆に私たちは一般に「生態学的合理性」を持っているのか、といった問題についてすら論争があり、心理学においてかなりの権威ある人物でさえも、心理学者は「バイアス・バイアス」に囚われている [7]訳注:人間はバイアスに囚われているという想定で人間行動を理解してしまうバイアス、の意かと思われる。 、と主張しているのだ(また、ヒースの主張に、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンの提唱する問題含みのナッジを好意的に解釈してしまっていることについても言いたいことはあるが、それはまた別の話である)。

更に、ヒースが(バーク的な保守主義の方向性に賛同しており、またホフスタッターを形式的に引用しているにも関わらず [8]訳注:邦訳文庫版p365。第9章注12。「アメリカの反知性主義」の広がり、および文化的特殊性をきちんと評価していないことも気にかかる。ヒースがもしタイムスリップして、1955年頃のアメリカ(あるいはカナダ)の文化的環境に身を置くことになったら、その時代に現代よりも(ヒースの言う意味で)理性的なものを彼が見出すとはとても思えない。この時代は、マッカーシズムが吹き荒れ、白人至上主義が暴力的に主張され、コミックにおいてはモラルパニックが生じており、などなど…。

私やヒースのような人間にとって、2016年 〔トランプが当選した年〕や2020-2021年〔トランプ支持者による議事堂襲撃事件などが発生した時期〕 の両方の状況を鑑みれば、物質的に恵まれた民主主義国家では、大衆のかなりが理性から自主的に離反しているという主張は、依然として説得力を持っている(ちなみに、このような出来事を指摘できなかったことは、本書に説得力を与え価値を高めていると私は考えている)。しかし本当の問題は、以前よりも多くの有権者が理性から離れているのか否か、そしてもしそうなら、〔非理性的な〕有権者は以前よりも政治に影響を及ぼすようになっているのかどうか、ということである。私は、これについては全く確信がないが、私たち市民の大部分は、以前と同程度に、もしかすると以前よりも合理的であり、事実に基づいた思考が行えるのではないかと考えている。しかし、現代のコミュニケーション〔環境〕は、5千万の異なるベクトルを引き込んで互いに相殺させる〔つまり異なる方向性の意見をぶつけさせることでより妥当で合理的な認識を可能にする〕ことよりも、私たちの非合理性をまとめあげ、妄想にまみれた小さなコミュニティ凝集させることに優れているかもしれない(それゆえ、どうして「”インターネット博士”は実はモンスターの生みの親の名前である」のかについて、ヘンリー・ファレルと共同プロジェクトを進めていたが、この続きが書かれることはないかもしれない)。この考えが正しいかどうか分からないが、正しいとするなら、ヒースとは全く異なった診断と処方を提示することになるだろう。私たちはどちらが正しいかを判断するほどの十分な知識を持ち合わせていないと私は考えている。

私はこの書評の冒頭で、この本についてどう考えればいいかよく分からない、と書いた。書評を閉じるにあたって、この書評を書いたことで、本書をどう考えるべきかが(少なくとも私にとっては)ハッキリした、と言わせてもらいたい。啓蒙のプロジェクトを再起動させ、それを目指すのは、壮大な野望である(なにしろ繰り返させてもらうが、ヒースはハーバーマスに多くを拠っているのである)。しかし、ヒースは、同じような目的を掲げる他の書き手と違って、「もっと啓蒙を!」といった分かりきった説教を繰り返したりはしない。事実、ヒースは、そういった説教は知的に不誠実であり、啓蒙のプロジェクトの最も重要な価値を損なっていると述べている。もっと正確に言うなら、ヒースは私たちが理性や経験、自然、あるいは社会について学んできた重要な物事だけでなく、啓蒙のプロジェクトに伴って生じた失敗や悲劇の歴史についても、真剣に考えているのだ。『啓蒙思想2.0』は、刺激的かつ思考を搔き立てる本であり、またその中核にある懸念と洞察は(私の大変頼りない意見によるなら)妥当であり、大変重要でさえある。もし私の記述の多くが批判的なものに見えたとしたら、それは結局、批判こそ最大の賛辞だからである。

References

References
1 訳注:ヒースの著書『ルールに従う』での議論を指すと思われる。
2 訳注:記憶に残っているものほど頻度を高く見積もるヒューリスティック。
3 原注:なぜ国家が、私的な復讐に任せたり、犯罪者や一般大衆の感情を満足させるような罰を行ったりせず、犯罪者に対する罰を代行することが合理的かつ必要不可欠なのかについてのヒースの考察を正当化するつもりはない(このダジャレはたまたま)。しかし、ヒースは多くの言葉を使っていないとしても、国家は地球上における合理性の具現化だと議論しており、これほどまでにヘーゲル的論拠によって、ここまで露骨にヘーゲルをバカにした本を読んだ記憶がないと言っておこう(誤解のないように言えば、私も彼と同様にヘーゲルをバカにしている)。
4 原注:ヒースは、マネーポンプダッチブック論証は、意思決定理論的な意味で、人々が企業に利用されることと関係しているという示唆すらしている。告白すると、ここでのヒースの議論は全く理解できなかった。なぜなら、ヒースがここで提示している例は、どれもダッチブック論証や非推移的な選好、あるいは双曲割引や自信過剰(といった互いに異なる問題)には関係がないように見えるからだ。そもそも、私は、ダッチブック論証を全く説得的だと思っていない(そのような論者は私以外にもいる)。〔ハードカバー邦訳p224~227を参照〕
5 原注:もちろん、私は両親に、TVを軽蔑するような人間に育てられ、私が35を過ぎてから、ソーシャルメディアが大流行するのだが、あなたは予見できただろうか??
6 訳注:セルフコントロールに用いることのできる精神的リソースは限られているという考え。
7 訳注:人間はバイアスに囚われているという想定で人間行動を理解してしまうバイアス、の意かと思われる。
8 訳注:邦訳文庫版p365。第9章注12。
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