コーエン・N・チューリング「ケインジアン vs マネタリストの区別はもはや時代遅れである」(2023年5月23日)

この記事では、ケインズ主義とマネタリズムの区別は、(共にワルラス経済学に依拠していることから)現代のマクロ経済論争を理解する上で、時代遅れであると論じる。今、有用な区別は、(ケインズ主義とマネタリズムの統合からなる)新古典派連合(Neoclassicals)と、新オーストリア学派の区別である。この区別は、経済における公的債務の役割についてのそれぞれ異なる見解に立っている。

先週、ロバート・ルーカスが亡くなった。彼の研究は、マクロ経済学に永遠の変化をもたらした。「合理的期待」という考え方は、マネタリズムとニューケインジアンの発祥の地であるシカゴ大学やMITで使われているマクロ経済学モデルに浸透している。この記事では、ケインズ主義とマネタリズムの区別は、(共にワルラス経済学に依拠していることから)現代のマクロ経済論争を理解する上で、時代遅れであると論じる。今、有用な区別は、(ケインズ主義とマネタリズムの統合からなる)新古典派連合(Neoclassicals)と、新オーストリア学派の区別である。この区別は、経済における公的債務の役割についてのそれぞれ異なる見解に立っている。

コロナとウクライナ戦争後のインフレの急上昇は、マクロ経済政策についての公的論争に拍車をかけた。図1で示したよように、1980年以降、名目金利は長期的に低下を続けている(Teulings and Baldwin 2015)。中央銀行は長期間にわたって低金利を続けすぎたのだろうか? もっと自然な水準である4%に引き上げるべきだったのだろうか? 低金利はゾンビ企業を永続させたのだろうか? 低金利は住宅価格の高騰を招き、現在の高騰したインフレをもたらしたのだろうか。

図1 1980年以降の4つの主要通貨圏の10年物国債金利の長期的な低下
緑:アメリカ、青:ドイツ、赤:イギリス、黄:日本
出典:OECD

今勃発している論争は、1970年代のケインジアンとマネタリストの間での古の論争によくなぞらえられている。ケインジアンは、完全雇用を維持するために財政政策が重要な役割を担っていると主張した。対して、ミルトン・フリードマンは、失業率は、最低賃金、労働組合などの制度的要因によって決まり、財政政策によっては決まらないとする「自然失業率」という概念を提唱した。財政政策によって失業率を自然失業率以下にまで押し下げようとしても、インフレが起こるだけだ、と。フリードマンのこの考えは、マネタリズムとして知られるようになった。ロバート・ルーカスは、フリードマンのこの考えに「合理的期待」を追加して拡張し、積極的な財政政策は期待を不安定にするだけだと示した。

フリードマンの問題提起は、インフレと失業がまだ管理可能な時期に行われた。しかし、1970年代以降、オイルショックによってインフレと失業率が上昇し、マネタリストが勝利を収めた。中央銀行は、インフレ期待を抑制するために、金利の引き上げを余儀なくされたのである。

現在、ケインジアンは金融緩和を、マネタリストは正常な金利への回帰を提唱しているとされている。しかし、ケインジアンとマネタリストの間に論争があるとする分析は、今日の論争において非生産的なフレームワークである。本稿では、この従来までのフレームワークに代わって、〔現状の〕実質金利水準を消費における異時点間取引の精算とみなす新古典派な見解と、十分に高い金利を維持すれば非効率的な企業を廃業に追い込み、新興企業に資源が行き渡るとする新オーストリア学派的な見解との間に対立があるとする、別のフレームワークを提唱する。(全てではないが)ほとんどの経済学者が新古典的見解を支持しているのに対して、ほとんどの金融マスコミは新オーストリア学派を支持している。

新しい対立:新古典派 vs 新オーストリア学派

入門ミクロ経済学では、ヴィクセルの自然利子率を、消費の現在と将来の異時点間取引を精算した数値(価格)とする新古典派的な標準モデルが教えられている。これは、完全競争市場を想定していようと、Dixit-Stiglitzのような寡占による価格決定を想定していようと、ほとんど差はない。金利は、将来の消費に対する需要と供給によって決定される。例えば、平均寿命が伸びると、将来の消費に対する需要が増え、金利は低下する。このような現在における消費の相対価格の下落は、将来から現在にかけての消費の異時点間の置き換えを意味している。つまり、ヴィクセルの自然利子率は、魔法のように固定された数値ではなく、異時点間取引の精算による〔可変的な〕数値(価格)である。

入門ミクロ経済学では、貨幣と相対価格の古典的な二分法も教えられている。名目価格での契約がなければ、あらゆる人の貨幣保有量を2倍にすると、あらゆるものの価格も2倍となるが、相対価格には影響を与えない。貨幣の分配が一定である限り、貨幣量は現実になんら決定的な影響を与えない。この考えは動的な文脈に拡張することができる。誰もが毎年一定の割合で(例えば、2%ずつ)保有する貨幣の量が増えるとすると、翌年の名目価格は全て2%上昇し、名目金利(実質金利に期待インフレ率を加算したもの)は、将来の消費の相対価格を一定に保つために2%上昇する。よって、この古典的な二分法では、インフレ率は予測可能なものである限り、経済活動に変化を与えない。ミルトン・フリードマンが述べたように、インフレは常に貨幣的現象である。

ここまでは、ミクロ経済学の話である。貨幣がどこから来ているのを問い始めれば、マクロ経済の出番となる。貨幣とは、将来の消費に対する債権(請求権)である。個人は、貨幣を多く保有していればいるほど、将来の消費に使える債権(請求権)も大きくなる。したがって、予測不可能なインフレは、債権(請求権)の本来価値を不確実にするため、個人にとって不都合が大きい。例えば、新車を買うためのお金を用意し、予測不可能なインフレで車の価格が上昇すれば、車を買えなくなるかもしれない。このように、予測不可能なインフレは、個人にとってのコストである。

こうした推論から、標準的な新古典派マクロ経済学が導き出される。効率的な金融政策は、インフレ予測を安定させる政策である。現時点での消費者需要が、供給(つまり現在の生産量)を上回ると、生産者は価格の引き上げで対応する。これが予測不可能なインフレもたらす。〔こうした事態が生じると〕中央銀行は、テイラールールに基づいて、名目金利を引き上げて対応しなければならない。金利が上がると、〔個人にとっては〕将来の消費の相対価格が下がり、現代の消費から将来の消費へと異時点間の置き換えが生じる。これよって、現在の生産物への市場の均衡は回復する。

この考察では、投資の役割が無視されている。投資は、消費を時間をまたいで移行させる追加的効果を持っている。現時点で、投資への支出が減れば、社会的には、リソースは将来から現在の消費へと移行される。現在時点で消費への過剰需要があれば、高金利によって、投資から消費への標準的な代替効果が起こっており、現在の投資が低下していることを意味している。
〔訳注:逆に、今のように低金利が観察される場合は、現在時点での消費が不足していることになる〕

この分析によって、1980年以降の名目金利の長期的な低下を理解することができる。〔この期間の〕期待インフレ率は、最近のインフレの急上昇まで中央銀行の目標値である2%をやや下回る水準で安定していたため、この期待インフレ率の低下に中央銀行はほとんど影響を与えていないと考えられる。よって、この低下は、ヴィクセルの自然利子率の低下に起因していたはずである。したがって、中央銀行による低い名目金利は、自然利子率を低下させておらず、自然利子率が低下した結果の反映である。こうした状況下では、将来の消費のために、現在の生産を手控える行為が、高い価値を持つ。投資の拡大による、将来の消費への資源のシフトが重要な手段となり、生産はより資本集約的になり、資本の限界生産性は低下し、資本からのリターンは低下する。

〔こうした自然利子率の低下環境で〕キャッシュフロ―が永遠に固定されているような資産(例えば、一定額の家賃を生み出す住宅)がどうなるか考えてみよう。こうした資産の価値は、キャッシュフローをヴィクセルの自然利子率で割ったものとなる。よって、自然利子率の低下とともに、資産価格は上昇する。つまり〔不動産のような〕資産価格の上昇も、中央銀行の金融政策に原因があるのではなく、自然利子率の低下によってもたらされたと考えられる。将来時点での消費への需要が高い場合、人々は将来の消費に紐づいた債券を持ちたがるので、価値の貯蔵物である金融資産の価格は上昇する。したがって、資産価格の上昇は、現在の生産への過剰需要のシグナルではない。全く逆であり、こうした資産価格の上昇は、将来の生産への過剰需要のシグナルである。よって、中央銀行は、資産価格の上昇を、現在の生産への過剰需要として測定しているインフレ統計に含めるべきではない。

以上までの見解は、細かいメカニズム的な違いはあっても、シカゴ大学のジョン・コクラン(2022)から、オリヴィエ・ブランシャール、ポール・クルーグマンに至るまで、幅広いマクロ経済学者によって共有されている。皆、標準的なミクロ経済理論にしっかりと根ざした、同じモデルを基本的に用いている。

しかし、この見解は、すべてのエコノミストに共有されているわけではない。一部のエコノミストはクラスター化して、別の見解を共有しているようだ。私は、彼・彼女らを、「新オーストリア学派」と呼んでいる。この妥当性は、ファイナンシャル・タイムズの多くのコメンテーター等、金融マスコミのほとんどがこれを信奉している事実によって、強く裏付けられる。新オーストリア学派は、標準的なミクロ経済に基づいていない傾向にあるため、正当に評価するのはやや困難だ。とはいえ、頑張って評価してみよう。

新オーストリア学派では、自然利子率は固定されており、どうも4%程度だと考えているようである。中央銀行は、景気後退期には金利を自然利子率より低くして経済活動を刺激する必要がある一方で、景気加熱局面では金利を引き上げて景気を冷やす必要がある。新オーストリア学派の見解は、金融マスコミで頻出する文面「この10年間は極めて緩和的な金融政策が取られた」に象徴的に現れている。新古典派の見解では、中央銀行の金融政策はインフレ期待の安定を目的としているため、こうした文面は意味不明である。インフレ期待は目標値の2%を下回っているため、中央銀行の金利設定はむしろ高すぎた可能性が高いからだ。新オーストリア学派の見解では、名目金利は、彼らが想定している自然利子率の4%をはるかに下回っているため、こうした文面は彼らからすれば完全に理にかなっている。

この「自然利子率は4%」という考え方は、企業の資金調達市場が大きく歪んでいる見解と紐付けられている。新古典派の見解では、生産資源を利用できるのは、その資源を使って最も高い付加価値を生み出せる企業だけである。これは、その資源に最も高い支払いを行える企業を意味する。新オーストリア学派の見解では、新古典派とは逆に、市場メカニズムによる効率的な資源配分は信頼されていない。金利が低すぎると、本来なら廃業に追い込まれるような企業が、低すぎる金利から資金調達できるため、ゾンビ化するとされている。なので、中央銀行は、インフレ期待の安定ではなく、非効率的な企業を廃業させるために、金利を上げなければならない。新オーストリア学派は、中央銀行による不適切に低い金利が非効率的なビジネスモデルをゾンビ化すると考えているが、新古典派ではこうした現象を、過剰な資本供給に対応して資本集約的な生産に効率的な代替が起こり、ヴィクセルの自然利子率が低下すると解釈される。

新オーストリア学派は矛盾を抱えている。それは、彼らが、自由市場の恩恵を究極的には信奉しつつも、金融市場は中央銀行の緩和的金融政策によって歪められる脆弱で幼稚的なものだとしているからだ。

ヴィクセルの自然利子率の低下は何によって説明できるのだろうか? 経済学者たちによっていくつかの説が唱えられているが、ここではその一つである人口動態について簡単に説明しよう(Lu and Teulings 2016)。人はその生涯で、現役時代に貯蓄を行い、退職後の消費資金とする。こうした年金貯蓄は、退職直前にピークに達する。日本、ドイツ、中国等の様々な国では、現時点で、退職間際の人口層がかつてない規模で大きくなっている。彼らが、退職後のために巨額の資金を積み上げることで、貯蓄過剰となり、ヴィクセルの自然利子率は低下する。

政府の財政政策もヴィクセルの自然利子率に影響を与える。政府は、政府債務を拡大させることで、資金需要を増やし、自然利子率を上昇させることができる。したがって、金融政策と財政政策は、それぞれ異なる役割を担っている。金融政策は、名目金利を操作して、インフレ率を目標水準の2%に維持しようとする。金融政策が完全に成功すれば、名目金利は実質金利にインフレ目標である2%のインフレ率を加算したものとなるだろう。財政政策は政務債務の水準を選択することで、ヴィクセルの自然利子率を定めることができる。債務が巨額であればあるほど、国民の資金需要は高くなり、ヴィクセルの自然利子率も上昇する。よって、過去10年間のユーロ圏での低金利(図1参照)は、貯蓄の供給を吸収するだけの政府債務の水準が、ヨーロ圏諸国ではあまりに少なすぎることを示している。

公的債務とリスクプレミアム

個人は、リスクを回避しようとするため、リスク資産より、リターンが確定している安全な資産を優先的に保有しようとする。しかし、実際の投資は、常にリスクを伴う。あらゆる投資にリスクがある場合に、安全な資産はありえるだろうか? 将来の消費のための無リスク債権が成立するためには、この将来の消費の供給を保証する義務を持つ別の当事者がいなければならない。この場合、「義務を負うべき当事者」とは何者となるのか? 政府のみである。資金需要が超過し、政府が新規国債の発行による債務のロールオーバーが不可能になった時に、将来世代に課税して元の状態に戻せるのは政府だけだからだ。

複式簿記のルールに従えば、安全な債権と債務の合計は等しくならなければならない。言い換えれば、総貯蓄と、総負債は等しくならなければならない。民間部門は、安全な資産、つまり将来の消費に備えて安全な純債権の保有を望んでいる。この場合、公共部門は必然的に、同額の純債務を保有しなければならない。金融マスコミや、IMFのような著名な機関は、「世界には借金が多すぎる。公的部門も民間部門も借金を減らし、ショックの吸収に備えて黒字を増やすべきだ」と頻繁に主張している。こうした主張は矛盾している。公的部門の純債務と、民間部門の純黒字は等しくなるため、両部門を同時に増やしたり、減らしたりするのは不可能である。

この分析は、公的債務の役割についての洞察を提供する。公的債務は、民間部門に安全資産を供給し、それよってリスクを現役世代から、将来世代に移行させる。政府は、〔公的債務によって〕保険会社のような役割を担っているのである。政府は、現役世代に無リスクの債権を販売する一方で、この活動によって将来世代の便益に担う保険料(リスクプレミアム)を課す。政府が債務をロールオーバーする際に高金利を支払わなければない状況では、将来世代に高金利という負担を負わせることで、将来世代にとってリスクとなっている。このリスクによる見返りが、リスクプレミアムである。よって、〔政府による〕公的債務の保有は、ある部門にとってのリスクプレミアムと、他の部門にとっての将来の金利上昇リスクとのトレードオフである。

著者注:本記事は、(i) rとgをめぐる難問、(ii) 貨幣数量説の妥当性、(iii) 金利の期間構造と量的緩和、(iv) 中央銀行の金融政策へのReiss(2022)による批判、(v) 財政統合がされていない貨幣の問題、(vi) rとgをめぐる将来価値、(vii)2%のインフレ目標の最適水準、等の一連の疑問点を扱った長論文からの抜粋である(Teulings 2023)。

参考文献
Blanchard, O (2019), “Public debt and low interest rates”, American Economic Review: 1197-1229.

Blanchard, O (2023), Fiscal policy under low interest rates, MIT press.
(邦訳:『21世紀の財政政策 低金利・高債務下の正しい経済戦略』)

Caballero, R and E Farhi (2018), “The safety trap”, The Review of Economic Studies 85(1): 223-274.

Cochrane, J H (2022), “Expectations and the Neutrality of Interest Rates”, NBER Working Paper 30468.

Lu, J and C Teulings (2016), “Falling real interest rates, house prices, and the introduction of the pill”, CEPR Policy Insight 86.

Reis, R (2022), “The Burst of High Inflation in 2021-22: How and Why Did We Get Here?”, CEPR Discussion Paper 17514.

Teulings (2023), “The distinction between Keynesians and Monetarists makes no sense anymore”, SSRN paper 4450095.

Teulings, C and R Baldwin (2014), Secular stagnation: facts, causes and cures, CEPR Press.

著者:コーエン・N・チューリング。1958年生。ユトレヒト大学経済学特別教授。前ケンブリッジ大学経済学部教授。経済政策の助言や、総選挙前の各政党のマニフェストの評価を行うオランダ政府傘下のシンクタンクであるオランダ経済政策分析局(CPB)の局長を7年間にわたって務める。2004年から2006年までアムステルダムのSEO Economic ResearchのCEOを務める。アムステルダム大学、エラスムス大学ロッテルダム校の経済学部教授を歴任。1998年から2004年まではティンバーゲン研究所の所長を務める。1985年にアムステルダム大学で経済学修士号を、1990年に博士号を取得。

[Coen N. Teulings, “The distinction between Keynesians and Monetarists is obsolete” voxeu.org, 26 May, 2023]
Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts