マーク・ソーマ 「働きすぎのアメリカ人」(2007年7月15日)

アメリカ人が働きすぎなのは、張り合い競争のせい?
画像の出典:https://www.photo-ac.com/main/detail/23139472

GDPが一国の厚生を測る指標として不完全である理由――それゆえ、国別比較の指標として使うには適当じゃないかもしれない理由――はたくさんあるが、余暇の価値が考慮されていないというのもそのうちの一つだ。エズラ・クライン(Ezra Klein)が次のように指摘している。

Land of the overworked and tired” by Ezra Klein, Commentary, LA Times:

・・・(略)・・・アメリカ経済政策研究センター(CEPR)に所属するレベッカ・レイ(Rebecca Ray)&ジョン・シュミット(John Schmitt)の二人がまとめている報告書によると、・・・(略)・・・「アメリカは、・・・(略)・・・先進国の中で、有給休暇の付与が法律で義務付けられていない唯一の国」とのこと。「唯一」というところに注目だ。「アメリカを除くと、どの先進国でも有給休暇の付与が法律で義務付けられている。イギリスだと、法定の年次有給休暇の日数は20日。ドイツは24日で、フランスは30日だ」。

我が国は(法定の年次有給休暇の日数が)ゼロ日だという。・・・(略)・・・フルタイムで働く従業員だと10人中1人が、パートタイムで働く従業員だと10人中6人以上が、休暇をまったくとっていないのもそのためなのだ。有給休暇制度を取り入れている会社で働いている従業員にしても、有給休暇の使用日数の平均は一年間でわずか12日だ。・・・(略)・・・フランスで法律によって保証されている年次有給休暇の日数が30日だから、その3分の1をほんのちょっと上回る程度にとどまっているのだ。

アメリカは、数ある先進国の中で断トツで豊かな国だ。富の蓄積が進んでいて、生産性が高まっているのだから、・・・(略)・・・余暇に費やされる時間がきっと増えているに違いないと予想されるかもしれない。

・・・(中略)・・・

しかしながら、その予想とは真逆のことが起こっている。コーネル大学に籍を置く経済学者のロバート・フランク(Robert Frank)によると、平均的なアメリカ人の労働時間は、1970年代と比べると、年間で100時間以上も増えているというのだ。言い換えると、1970年代よりも2週間半余分に働くようになっているのだ。 平均的なアメリカ人女性に限ると、1970年代と比べて労働時間が年間で200時間以上も増えている。・・・(略)・・・労働時間が増えている分だけ、我が子/友人/配偶者と一緒に過ごす時間だとか・・・(略)・・・睡眠時間だとかが削られているのだ。

・・・(中略)・・・

みんなの望み通りの結果なのだとしたら、何の問題もないだろう。しかしながら、・・・(略)・・・聞き取り調査で「余暇」と「お金」のどちらか――収入は減るが、働く時間を減らしたいと思うかどうか――を一人ひとりに選ばせると、常に「余暇」に軍配が上がるわけではないが、勝負は拮抗している。聞き取り調査だとそうなっているのに、現実だと労働に費やされる時間がますます増えている。より多く消費するために、より長く働いてより多くの収入を稼ぐのを目指すという世の流れになっている。そんなことになっているのは、なぜなのだろう?

ロバート・フランクの研究が答えの一つを与えているかもしれない。フランクによると、アメリカ経済には、・・・(略)・・・「余暇」が過度に軽んじられる一方で、「消費」が過度に重んじられる方向に働くインセンティブが埋め込まれているという。「地位財」(“positional goods”)――他人との比較で価値が決まる財――の購入が「消費」の中身の大半を占めているというのだ。

・・・(中略)・・・

他人と比べてどうかというのに拘(こだわ)るのは、不合理なわけでもなければ、羨望(せんぼう)の表れに過ぎないわけでもない。同じくらい稼いでいる人たちの間で自分の立ち位置を維持するためには、彼ら(同じくらい稼いでいる人たち)の暮らしぶりに付いていく(彼らを真似る)必要がある。・・・(略)・・・取引先の相手を夕食に招待した時に、間違った印象を持たれないようにするためにも。・・・(略)・・・取引先の相手に間違った印象を持たれないようにするのを助けてくれるのが、家であり、車であり、洋服なのだ。そして、富裕層がますます豊かになるにつれて、 ・・・(略)・・・フランクが命名するところの 「支出カスケード」が発動することになる。ますます豊かになる大金持ちが支出を増やしていくと、すぐ下のお金持ちもそれに付いていこうとして生活レベルを上げ、その下の小金持ちも・・・というように、生活レベルを上げなきゃという圧力が下の所得層へと波及していくのだ。

その結果として、「地位財」の購入が真っ先に優先される一方で、他人との比較の対象になりにくい財の購入が手控えられるようになる。多くの人は、働く時間を減らしたいと望んでいる一方で、周りと比べた自分の(相対的な)立ち位置を維持したい(あるいは、高めたい)とも望んでいるのだ。そして、(周りと比べた自分の立ち位置を維持したいという)後者の望みが(働く時間を減らしたいという)前者の望みを上回るというのが何度も繰り返されているのだ。

だからといって、愚かで不合理な連中ばかりというわけでもなければ、誰も彼もが自分が何を欲しているのかがわかっていないというわけでもない。・・・(略)・・・古典的な集合行為問題の例に過ぎないのだ。誰か一人だけが張り合い競争から降りても、その人が(自分の立ち位置が下がる結果に終わるので)損をするだけだ。しかしながら、みんなが一緒に張り合い競争から手を引けば――そして、余暇のために費やす時間や資源をみんなで一緒にこれまでよりも増やすようにしたら――、みんなが得するのだ。

・・・(中略)・・・

アメリカの地で一年間に合計で4週間の休暇を会社に申し出ることができる働き手は、ほとんどいない。制度上無理というのもあるが、我が国の職場文化が大きな障害になっているというのもある。大半の働き手にとっては、周りと比べた自分の立ち位置を維持するのに加えて、立派な社員という評判を保つのが遵守すべき規範になっているのだ。

しかしながら、・・・(略)・・・大半の働き手が余暇に費やす時間を大幅に増やしたいと望んでいるようなら、・・・(略)・・・一人の力では叶えられない「みんなの望み」を政府の力を借りて叶える――余暇に費やす時間を増やしたいという「みんな望み」を法律に落とし込む――という手が残っている。・・・(略)・・・結果的にみんなが得するにしても、我が国に深く根付いている個人主義に一時的に目をつぶって、集団主義に訴える必要があろう。


〔原文:“Do We Need a Vacation?”(Economist’s View, July 15, 2007)〕

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