最近世間でちょっとした意味論的〔言葉の定義弄る〕お遊戯がよく行われているが、そういったお遊戯は分析する価値があるように思われる。(哲学者は「意味論的な問題」に拘ってよく批判を行うのだが、哲学者の誰かがそういった批判をこのお遊戯に対して行ったら良いんじゃないか? と) カナダ社会をあらゆる社会制度と十把一絡げにして、全面的かつ体系的に人種差別主義的である、と糾弾するのが、いたる所で非常にスタンダードになってきている。しかしながら、「人種差別」という言葉の使われ方には、重要な曖昧さがあるのだ。人種差別を批判する人達はしばしば、「人種差別」という言葉の2つの全く異なる意味をふらふらと言ったり来たりして使うことで、ある意味で批判の効力を弱めてしまっている。
ほとんどの人は「人種差別」という単語を耳にしたら、1960年代の公民権運動からお馴染みの意味で理解している。このタイプの「人種差別」は、何よりもまず、特定個人への侮蔑的な態度であり、その態度が他者への差別的な言動の実行に至っているもの――人種的特徴に基づいて一部の人を他者より優遇する行為――として解釈されている。こういった態度は、意識的かもしれないし、無意識的かもしれないし、あるいは人種差別的にあからさまかもしれないし、微妙かもしれないし、隠蔽されているかもしれない。重要なのは、(伝統的な理解における)人種差別とは、侮蔑的な態度として表明されたものであり、そうして表明されたことで人間関係の相互作用に体系的影響を及ぼすものである。
この伝統的な考え方では、レイシストになることを避ける履行処置は、こうした態度を自身でパージするか、それが不可能であると分かった場合は、こういった態度を自身の行動に影響を及ぼしていないかチェックできる環境の整備を満たすことだ。多くの場合で、「カラーブラインド〔人種を見えなくする〕」手続きを設けることが、これを確実に履行する方法となっている。例えば、多くの国で、求職者は履歴書に写真を添付するのが一般的だが、北米ではこれを行っていない。履歴書が、雇用者を(人種を含む様々な形態の)差別に従事させる招待状のように見えてしまう、というのが理由の一端になっている。同様に、大学教授は、学生の評価になんらかの差別的な偏見を持ち込む可能性を避けるために、学生に名前ではなく、学籍番号だけを記載して課題の提出を求めるケースもある。
このタイプの人種差別では、他者との交流の中で「レイシスト」との批判に立たされた場合、「その交流の時点で、私は人種を意識していませんでした」と示すのが正当な対抗処置となっている。(例えば、私はかつて、「大学の成績評価に人種差別がある」と告発する学生からの不満に応じるために、オンタリオ州人権委員会の訴訟手続で証言するのに不快で無為な数日間を過ごしたことがある。私は学科の学部生教育の副責任者として、彼女が自身の科目成績を上げるために再評価を求めて提出した一連の請願書を処理することになった。この人種的偏見の告発に対して、大学が主に行った対抗処置は、学生とのやり取りを全て電子メールで私が行い、彼女の学科成績の再評価を盲検で行うことだった。そして、彼女の名前は全く漏れなかったので、彼女の人種が何なのか誰にも気づかれなかった。他にもいくつかの複雑な要因があったが、大学が勝訴したので、対抗処置の核心は成功したと、私は思っている。)
このタイプの人種差別について最後にもう一件。我々の社会において、「人種差別」は、非常に深刻な人格的欠陥だと一般的に見なされている。なので、もし常人を「君はレイシストだ」と非難し、非難された人はその非難を「差別的言動」の意味で解釈したら、非難された人は、通常その非難で気を害するだろうし、非難に応じるための対抗処置を模索するだろう。同時にまた、その非難が事実なら、非難された常人は自身の言動に深刻な問題があると把握し、そのような振る舞いを止めるのにできることをやるべきだ、との理解に至るだろう。これは別の言い方だと、差別的言動の意味から「それは人種差別的ですよ」と指摘することは、「君はその言動を止めるべきだ」という規範的意見と直結しているわけである。
しかしながら、「人種差別」という言葉には、学者間では非常に一般的だが、市井の一般人にはほとんど知られていない別の用法がある。これは大抵は「制度的人種差別」もしくは、最近増えている表現では「体系的人種差別(システミック・レイシズム)」と呼ばれているものだ。大雑把に言えば、差別的な影響を及ぼす「システム」は存在する可能性はあるが、態度的な意味で「レイシスト」である一個人は存在していない、という考え方だ。これを説明するには、アメリカ最高裁が公民権法において、一個人への「差別的取り扱い(disparate treatment)」と、「差別的影響(disparate impact)」との用語を区別したことでもって説明するのが一番分かりやすい。例えば、求職者に対する昔ながらの差別は、人種に基づいた「個人への差別的取り扱い」に関係している。しかしながら、人種に従って個人を差別的取り扱いで選別しない雇用基準を課すことは可能だが、人種集団ごとに異なった「差別的影響」与える雇用基準を行うのは可能となっている。アメリカ最高裁は、なんらかの基準がこのような影響を与えている場合、その基準が許容されるには、正真正銘の職業上の必要条件として構成要素になっていることを示さねばならない、との判決を下している。
具体的な例を挙げよう。かつてトロント警察は、警察官に身長制限を設けていた。このことは、低身長の人への「差別的取り扱い」を明らかに引き起こしていたが、当時は「警察官は権威的存在であらねばならない」という理由から正当化されていたと思われる。いずれにせよ、人口が移民によって多様化するにつれ、この規則はほとんどの東アジア人を雇用から排除する予期しなかった効果をもたらすことになり――結果として、特定の人種集団に差別的影響を与えることになってしまった。このことで、身長制限は正真正銘の職業上の必要条件として考えられるかどうかの問題が提起され、必要条件ではないとの結論に至ったのである。(あるいは、警官は、背が高く堂々としていることで業務遂行能力を得ていた効果は、アジア人の警官がほとんどいないという不利益を上回っているかどうかの問題が提起され、不利益が上回っているとの結論に至ったわけである)。よって、この規則は廃止された。
こういった事例は何を内在しているのだろう? 人種集団はそれぞれ様々な点で異なっており、構成要素として人種的アイデンティティが全てなわけではないので、なんらかの中立的な形質(例:身長)は、人種的な形質(例:中国系)とは相関関係があるかもしれず、結果、中立的な形質に基づいて差別的取り扱いを伴う政策は、人種的な形質を有する個人に関して差別的影響を与える可能性がある。結果、差別的取り扱いの根拠となっている形質の中立性を指摘することは、差別の告発において適切な対応ではないのだ。理由はいろいろあるが、一番明白なのは、人種には具体的に触れずに、人種差別的な一連の規則を恣意的に制定することで、隠された差別をあまりに簡単に行うことができてしまうからだ。そういった規則を擁護するためには、その規則は〔差別とは〕無関係に正当化できることを示さなければならない。
しかしながら、この種の〔警官の身長選別のような〕の事例と、差別的取り扱いに関わるもっと身近な事例との間には、重要な規範的不一致がある。なんらかの特定制度が人種集団に差別的影響を与えるように規則を適用させているのを単に観察するだけでは、その制度や規則を糾弾することとイコールにはならないのだ。故に、そのような体系・制度を「人種差別」と呼ぶのは、少し偏向的だ。我々が、人に対して「それは人種差別ですよ」と言うことは、「あなたはそれを止めないといけない」に自動的に移行する。しかしながら、制度に関して(体系的な意味で)「それは人種差別ですよ」と言うことは、必然性を伴って「それを止めないといけない」という判断に自動的に至るわけではない。道徳糾弾を行うためには、規則が単に人種差別的な影響を持っているという事実だけでなく、規則の適用において何か問題があることを他にも示さないといけない。規則が何らかの形で今や正当化できないことを示さないといけないのだ。(例えば、雇い主は、職の必要条件として特定の教育水準を課すことが可能となっている。そして、人種集団ごとに教育達成の平均値が異なる場合、この教育水準による職の必要条件化は、人種差別的影響を持つことになるだろう。ただそれでも、この必要条件化は、完璧に正当化される可能性があるだろう。)
残念なことに、多くの人が、特定の制度の改革を行う(あるいはその制度を「人種差別」だと糾弾する)には、その制度が不遇な人種集団にネガティブな差別的影響を与えている事項を特定することが全てにおいて優先されるべきである、と考えているようなのだ。これは悪手だ。通常、この論法は、言動的な意味での人種差別(これは常に間違えていること証明するのが非常に難しい)と、体系的な意味での人種差別(証明するのは簡単だが常に間違えているわけではない)との間の曖昧さを利用することで機能している。別の言い方をすれば、人は「人種差別はいかなる時でも間違えている」という判断を維持したいのなら、「制度には“体系的人種差別”による人種への差別をもたらす影響が一体化されている」と言及すべきではない。なぜなら、この用語的意味での体系的人種差別は、必ずしも間違いではないからだ。
ここまで私は、この論法がどのように使われてきているか、かなり抽象的に話してきたが、人々がどのようにこの区別を恣意的かつ曖昧に使用しているかの具体例を示そう。2月26日に、ジャーナリストのマーシー・イェンは、グローブ・メール紙に「カナダで車の運転する際、黒人と白人にはダブルスタンダードが適用されている」と題した論説を掲載した。イェンは、停止標識で停止しなかった場合の、警官の停車命令処置の個別要素について詳細に述べている。記事の見出しが示すように、彼女は、まず最初に自身が警官に停車命令を受けたことを記載し、それを含め様々な検問の個別要素には、警官の人種差別に起因したものがある、と断言している。彼女は以下のように言っている。
しかしながら、真実から逃れることはできません。私の娘の学校に設置されていた停止標識は、〔私の家から〕500m離れたところにありました。なぜ警官はその場で私を停車させなかったのでしょう? 警官は、私の家まで追跡してきたのです。警官は、私の免許証の住所を見てから、「君はこの家に住んでいるのか?」と訪ねたのはなぜでしょう?
人が何者であるのかは問題とされていません。何であるのかが問題となっているのです。カナダで黒人であることは、違う基準、多くの場合は外見判断に基づいた異なる法に従うことになってしまっているのです。
ここで提起されている主張は、明らかに「差別的取り扱い」の一つだ。実際、黒人は「異なる基準に従うことになっている」と主張することは、ほとんど「差別的取り扱い」の定義下にある。その上、イェンは論考の後半で「すると、どうすればこれを解決できるのでしょうか? 簡単な解答は存在しないでしょう。しかしながら、解決策の一つは、私たちの子供から始めることでしょう。子供は偏見を持って生まれてこないことを私たちは知っています。人種差別は学習されるのです」と述べていることからも、この差別的取り扱いは、態度的な意味での人種差別に動機づけられていると、イェンはハッキリ主張している。この警官は偏見を抱いていたと、イェンは言外の意味で明示してしまっているわけである。
トロント警察は、イェンの違反行為(一時停止の標識で止まらなかった違反)が映されたビデオを公開し、「停車を命じ、車から降りるまで、イェンの人種は警官には視認できなかった」と指摘して、イェンの主張に反論している。これは、差別的取り扱いの告発に対する標準的な「カラー・ブラインド」対抗処置である。要は、「あなたの人種は知らなかったので、人種の違いでもって異なる扱いはやってませんよ」とお巡りさんは言ってるわけだ。
シェリー・パラドカールがトロント・スター紙でイェンを擁護するコラム(「マーシー・イェンに対するトロント警察の反応は、警察が人種差別の基本に対して悲惨なまでに無知であることを示している」)を書いたことで、事態はより興味深いものになった。パラドカールの見解によるなら、警官がイェンの人種を知らなかったことをもって対抗処置を構築しようと考えたことで、警察は初歩的ミスを犯している、ということだ。パラドカールは「イェンの記事内に、停車させた警官はレイシストである、との断言は存在しない」と主張している(これは、イェンの記事を可能な限り文字通り読めば、事実たしかにそうかもしれないと私は思う)。パラドカールは続けて、トロント警察は“人種差別”という言葉の意味をイェンの使い方とは別に理解していること示している。「人種差別は、意図だけにあるのではないのです。人種差別は結果にも関係しています。人種差別は人がレイシストでなかったしても――あるいは人が有色人種に対して積極的な偏見を持っていなくとも、起こりうるのです」と示している。
パラドカールがここでやってることは、「態度的人種差別」の申し立てから、「体系的人種差別」への(あるいは「差別的取り扱い」から「差別的影響」への)すり替えである。実際、彼女は続けて、オタワでは(奇妙なことにトロントを挙げず)黒人運転手は、他人種より頻繁に停車させられていることを示す統計値をいくつか引用している。しかしながら、この論法は問題を孕んでいる。上で私が指摘したように、この種の人種差別は必ずしも間違いではないからだ。適用されている規則が正当化されており(ほとんど交通規制は正当化されている)、人種集団によって異なる差別的取り扱いを伴わない形で施行されている場合、人種集団に異なる差別的影響を与えているという事実は直接的にも間接的にも関係ない問題だ。さらに重要なのが、警察が法の執行において、人種差別的影響を回避しようとすることは、警察の義務でも責任でもない。(例えば、殺人罪で逮捕される人は圧倒的に男性が多いが、警察にはこの法の執行において男女差別をなくす義務はない。) 警察は、社会をあり方のままに受け入れねばならず、できる限り中立的に法を執行せねばならない。犯罪の社会的決定要因(例えば、様々な社会的に不利な立場の形態)は、人種的に中立な形で配分されているわけではないため、人種によって犯罪発生率には違いが出てくるはずであり、法の執行が人種差別的影響をもたらすのは当然である。
ならば、なぜ人々は警察に対してあえて「体系的人種差別」非難を行うのか不思議に思われるかもしれない。一つの可能性は、人々は単に混乱しているというものだ――警察の行動を糾弾するには、差別的影響を示すだけで事足りると考えているわけだ。この可能性はたしかにありえるだろう。しかし、より可能性が高いのは、人々は、「結果の相違」を、態度的人種差別の証拠と考えている可能性だ。言い換えれば、法の差別的影響に関する非常にもっともらしい説明として、警官は差別的取り扱いを行っていると、人々は考えているわけである。実際、パラドカールはコラムの後半で、これと似たようなことを言っている。彼女は、イジョマ・オルオ [1]訳注:人種差別・フェミニズムの論客として有名なナイジェリア系アメリカ人のジャーナリスト。 の発言を好意的に引用して以下のように言っているのだ。
警察は人種に基づいて個人に接触しているかもしれないことを信じる前に、人種的中傷、鉤十字、燃える十字架といった動かぬ証拠を要求する人達がいます。要求する人達は、私たちが知っているもの、私たちが実証している数字を無視しているのです。…私たちは標的にされているのですよ。
「私達は標的にされている」という主張は明らかに、差別的取り扱いの申し立てだ。差別的影響ではない。
ここでは、言語的ペテンお遊戯が行われていることを観察できる。「態度的人種差別」の申し立てが行われる→加害者は無罪を主張し、中立的な証拠を提出する→すると、申し立てが「体系的人種差別」に切り替えられ、加害者の対抗処置は無効化される。しかしながら、このような「切り替え」は、申し立ての道徳的な効力を無効化することにもなっている。加害者がこのペテンを指摘すると、スイッチは体系的人種差別の非常に蓋然性が高い説明として「態度的人種差別の仄めかす方向」に戻される。移行、切り替えは永遠に続く……。
このような論点ずらしの全ての原因に、人種差別は至るとこに存在していると思い込んでいても、その人種差別の証拠を日常生活の中から提示するのに苦労している人が経験している、ある種のフラストレーションが関係していると私は考えている。証拠の提示が困難になっているのは、レイシストの多くが、自身の態度をおおっぴらに発言すれば、受けいられないことを理解してきており、自身の意見を隠匿し、あからさまな開陳を避けるのを学んできたことに一因があるのは、疑うまでもない。このことは、あちらこちらに人種差別の底流がかなり存在しているのではないかとの疑惑を呼び覚ますことになっているが、底流の存在を突き止めるのは困難なことにもなっているのだ。なので、批判者達は、自身の主張を「体系的人種差別」の一つにすり替えることになる。これは、私が上で言及したように、結果の統計値を単純に提示することで、非常に安易に証明できる。不幸なことに、これは完全に間違えているわけではないので、批判者たちは〔批判対象の〕「悪っぽい感じ」を保つために、結果の差別は、態度的人種差別の証拠であると仄めかすことになる(例えば、「内在化された偏見」によって媒介されている)。
このような概念的混同は、批判者が街頭でビール瓶箱の上に立って、人種差別を抽象的に糾弾することを望んでいるだけなら、大きな問題ではない。しかしながら、この概念的混同が不適切であると証明される場合は、実際の人種差別的な不正を取り除こうと具体的な措置を取る時なのだ。その時点で、問題となっている“人種差別”は「差別的取り扱い」なのか「差別的影響」なのかどちらを伴っているのかが極めて重要になるので、弁別的な区別が必要となる。そのような状況下で、パラドカールがやっているような首振り動作やよろよろ挙動は、まったく役に立たないのだ。
追記:学術文献では、「体系的人種差別」は、別のもっと洗練された概念として存在していることを私は承知している。私はそれらを批判しているのではなく、大衆的な議論の場で起こっているある特有の混乱についてコメントしている。
Redefining racism
Posted by Joseph Heath on March 6, 2018 | Ontario, race
※訳注:“racism”は「人種差別」、“attitude“は「態度」、“institutional racism”は「制度的人種差別」、“systemic racism”は「体系的人種差別」、“disparate treatment”は「差別的取り扱い」、“disparate impact”は「差別的影響」と訳語を当てている。
References
↑1 | 訳注:人種差別・フェミニズムの論客として有名なナイジェリア系アメリカ人のジャーナリスト。 |
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