マーク・コヤマ「歴史・政治・経済学における争点としての封建制」(2025年2月24日)

「暴君たる封建制という概念は完全に廃位を宣言されるべきであり、中世史家への影響力も最終的には終わらせねばならない」(エリザベス・ブラウン 1974年)

「暴君たる封建制という概念は完全に廃位を宣言されるべきであり、中世史家への影響力も最終的には終わらせねばならない」(エリザベス・ブラウン 1974年)


歴史・政治・経済学(Historical Political Economy:HPE)の目標は、社会科学者と歴史学者の間に繋がりを築くことだ。しかし、この称賛に値する目標は、実際には非常な困難さを伴っている。学際的〔学問分野をまたいだ〕研究の困難さは増していっており、学問の専門家が進む中、学際性は価値を喪失していっている。また、一般的な経済学や軽量社会科学の新しい技術を習得するために必要な集中的なメソッドトレーニングは、他分野の読書や訓練を妨げてしまう。

お気に入りの歴史・政治・経済学の論文の一つに、リサ・ブレイデスとエリック・チェイニーによる2013年にAmerican Political Science Reviewに掲載された『封建制革命とヨーロッパの台頭:西暦1500年以前の西欧キリスト教世界とイスラム世界の政治的相違』がある。

ブレイズとチェイニーは、ヨーロッパと中東の支配者の在位期間についてのデータを収集し、支配者の在位期間――王や女王がどれだけ長く君臨したかを、政治的安定性の基本的な指標とした研究を行った。この研究の結論は単純明解である。

まず、西ヨーロッパでの支配者の在位期間は、中世になってイスラム世界の支配者の在位期間と統計的に乖離するようになった。次に、この乖離は、部分的には、西ヨーロッパにおいて君主制が転覆する確率が低下したことを原因としていた。

論文の図1で、主な結果が示されている。これは、凝った計量経済学を必要としていない、シンプルかつ強力な実証的発見だ。10世紀のある時点まで、中東イスラムと西ヨーロッパの支配者の在位期間は、同じように短期間だった。しかし、それ以降、支配者の在位期間は乖離するようになった。西ヨーロッパの支配者は、以前より長く安定した統治期間を享受するようになった。

言い換えるなら、西ヨーロッパとイスラム世界の政治的な乖離は、経済的な乖離が生まれるずっと以前から存在していたのである。

キリスト教西ヨーロッパとイスラム世界との在位期間の乖離

ブレイデスとチェイニーは、この乖離をどのように説明しているのだろうか? 彼らの答えは「封建革命」だ。彼らは封建制の勃興についての簡潔な歴史概説を行っている。

西ローマ帝国の崩壊後、ローマ帝国の後を引き継いだゲルマン民族による諸国家の財政状況は脆弱な傾向にあった。税収によって軍事支出を賄うことができなかったヨーロッパの支配者らは、軍隊を動員するための別の手段を模索することになった。シャルルマーニュ(カール大帝)が導入したイノベーションは、転換的変化をもたらした。徴税システムを導入する能力を欠いていたシャルルマーニュは、地主に対して、資金の代わりに兵士を提供することを要求した。

この変化は、2つの点で、大地主の力を増大させた。第一に、小規模で独立した地主は、自らが軍役に就くことを避けるために、大地主の土地と自身の土地を共同管理するようになった。こうして個々の地主が「集約」され始めると、軍役の負担を多くの農民に分散させ、土地の耕作を確保できるような大地主が現れた。第二に、同時期に、シャルルマーニュのようなヨーロッパの王は、鐙(あぶみ)を導入したことで、歩兵だけでなく騎馬兵を必要とするようになった。鐙のよる技術革新によって、「騎兵突撃戦」が戦争の標準となり、戦闘用の馬と鎧を購入するために多額の投資が必要となった。このため、君主は騎馬軍事エリートの役割を果たすだけの裕福な個人をリクルートする必要にさらされた(White 1962)。

騎馬兵士ないし騎士は、国王への軍事奉仕の対価として、土地を供与されることが一般的となった(North, Wallis, and Weingast 2009, p. 79)。マイケル・マン(1986, p. 393)によるなら、ヨーロッパ経済は原初状態にあり、資金不足の君主にとって唯一の選択肢が、「家臣である兵士に潜在的に独立した権力基盤を与える土地の供与」となったのである。封建制度の下で活動するヨーロッパの封建領主(baron)は、自前の装備・弓兵・お供の歩兵を率いて戦闘に参加した。こうした封建領主は、戦闘の結果として、領土を増やしたり、領土以外で栄達する機会を多く得ることになった。中世ヨーロッパで生まれた軍隊の徴兵手法は、合わせて封建制度として知られるようになった。

この研究は今後の学術探求に大きな影響を与えるべき論文だ。そして、もうそうなっており、Google Scholarでは319回も引用されており、支配者の在位期間を政治的安定性の代理指標とする手法は世界の他の地域での研究にも適用されている。しかし、そうした引用のほとんどは、歴史学者ではなく社会科学者が行っている。私の知る限り、歴史学者からはほとんど無視されている。なぜだろう?

いかにして封建制は「罵り言葉(Fワード)」になったのか。

歴史学者は間違いなく、(上記で引用した)ブレイデスとチェイニーの歴史概説に異論を挟むだろう。ローマ帝国の財政制度と徴税依存の悪化は、シャルルマーニュのはるか以前から始まっていた。騎兵突撃戦の出現は、正確には11世紀後半か12世紀初頭とするのが妥当だろう。しかし、それがこの研究の無視されている理由とは思えない。

学際性(分野間をまたいだ)対話の大きな障壁となっているのは、概念/イデオロギーである。

対話における概念上の障壁は何になっているのだろう?

歴史学者の多くは、「封建制」という言葉を完全に否定している。2009年の『History Compass』に掲載されたサーベイで、リチャード・アルベスは次のように述べている。「中世史家の間では、『封建制』は学術論文だけでなく、教科書や教室からも禁止されるべきだというコンセンサスが高まっている」。実際、この10年間で、「封建制」は、中世史研究専門家の間では、皮肉を込めて、あるいは挑発意図を持って「Fワード(蔑視言葉)」として語られている。

なぜ歴史学者は、「封建制」という言葉を、中世世界について考える構成的概念としてでさえ拒絶するのだろうか?

ここでこの議論を十分に論じきることは不可能だ。簡潔にまとめると次のようになる。

第一に、歴史学者が封建制という言葉を信用しなくなった一般的な理由にに、1974年にエリザベス・ブラウンが発表した影響力のある論文の存在を挙げられる。この論文は、封建制の定義があまりに多岐にわたることが指摘している。封建制は1066年でイングランドで導入されたのか? それともアングロサクソン時代のイングランドはすでに封建的だったのか? 封建制の定義はあまりに多岐にわたるため、この定義の問題を解決する明確な方法は存在していない。マルクス主義では封建制を、歴史の発達段階論から定義しており、主に軍事徴兵制度から定義したF.L.ガンスホーフのような20世紀半ばの歴史学者のそれとは大きく異なっている。定義の曖昧さから、封建制は非常に多くの時代や場所にも適用されてきている。明治時代以前の日本、18世紀のフランス、帝政ロシア、12世紀のドイツも封建制のレッテルを貼られているが、ほぼ共通点はない。ブラウンは次のように指摘している。

封建制という用語の定義は多岐にわたり、いかなる歴史学者も他の歴史学者による封建制の定義を受け入れようとしておらず、混乱の主たる原因になり続けている(p. 1070)。

これほど柔軟に適用されている用語に、確たる意味などありえるのだろうか?

その後、スーザン・レイノルズは1994年に『封土と家臣(Fiefs and Vassals)』を著し、F.L.ガンスホーフやマルク・ブロックのような20世紀の歴史学者が確立した封建制概念の根底において鍵となっている概念に対する本格的な攻撃を行った。ガンスホーフやブロックは、封建制を定義するにあたって、マルクス主義的・一般的な封建制の概念を排し、領主と家臣の法的関係に焦点を当てた。この定義では、封建制という考えは、領主が兵役と引き換えに家臣に土地(領地)を与えることにあるとされる。ガンスホーフはブロックは、この領地と家臣の関係が、より大きな封建秩序を支えるものとみなした。

レイノルズの議論は、テクニカルかつ学術的なものだった。彼女は、現代の歴史学者の理解下にある封建制とは、実際には中世後期から近世にかけての法文化の発展の産物であると主張した。

その結果〔近代16世紀以降の法学者によって後付でまとめられ〕生まれた封土(fiefs)についての学術的な法体系では、封土(fiefs)と呼ばれる領地の(そしてその領地所有者を家臣と呼んだ)法だけに関心が絞られていた。これは、中世ヨーロッパのいわゆる封建的王国とみなされる国の宮廷で実際に運用されていた法とは、ほとんどの場合で、希薄で直接的な関係がないものであった」(Reynolds 1994, p 4)。

ここでのポイントは次となる。

さらに、16世紀から発展してきた家臣や封土という概念は、研究対象である中世後期の文献に依拠しておらず、16世紀の学者の研究に端を発している。

レイノルズが指摘したのは、封土と家臣という法的関係は、実際の中世社会で中核となっていた特徴ではなく、中世から何世紀も後になって、法律家たちが作り出した抽象概念だったということだ。

レイノルズは、一般化や理念の類型化を否定しているわけではない。「ある程度の一般化は必要だ。(…)しかし、一般化には、検証や反証が可能となっている命題であるべきで、中身を検討せずに貼り付ける抽象的なラベルであってはならない」と述べている。

封建制という概念は…「旅先で遭遇する生物の説明において、その獣の本質を明らかにすることなく種類を教える」ようなものかもしれない。

しかし、レイノルズは次のように反論している。

これは封建制のいかなる意味にも当てはまらない。16世紀以降、封建制という概念が果たしてきた役割は、遭遇する生き物の識別を手助けするものとなってきておらず、中世の生き物は全て同じなので、わざわざ観察する必要のないと告げるようなものだ。別の言い方をするなら、封建制とは、本来なら目を見張るほど多用で奇妙な中世の生物を、賢しらに観察するある種の保護レンズを提供してきたのである(p. 11)。

この議論の是非についてどう考えるかはともかく(そして、専門家でないほとんどの人は、情報に基づいた意見を持つことができない)、レイノルズの『封土と家臣』は、印象的で、圧倒的な学術的成果だ。


どうすればよいのか?

では、歴史・政治・経済学に関心がある我々としてはどうすればよいのだろうか? 答えは人それぞれだろうが、私の考えは次のようなものだ。

まず、良き歴史社会科学であらんとするなら、最新の歴史学と対話する必要があることは言うまでもない。しかし、これは難しい。対話は、一般的な学術雑誌への掲載が要求されるため、ハードルはさらに高くなってる。歴史学における特定の解釈を巡る論争に言及する長い脚注は、論文が投稿用に編集される際に真っ先に削除対象になる。編集者、査読者、そして読者は要点を求めているのであり、歴史的な細部の全てを必要としない。

次に、社会科学学者は、歴史学者がそのトピックについて現在どのように考えているかを把握しておくべきだとは思うが、他分野の学問的流行に縛られるべきではない。

封建制のような概念は、1970年代だとある程度は批判される必要があったかもしれない。しかし、だからといって、今日、それを使うことを禁じるべきではない。実際、ブラウンの1974年のエッセイを読むと、2025年にはもう存在しない敵と彼女は戦っているように感じられる。

もう一つの問題は、「十全に発達している」とか「古典的」とか「完全に形成された封建制」といった概念によって、地域や社会を規範的にランク付けしたり評価したりする傾向があることだ。(p 1076)

ある個人や集団がなんらかの規範に沿って生きようとする、あるいはそれを実現しようとしていると言うことは、確かにそうした人や集団の高潔な献身性を示している。封建化されていない国を遅れていると宣言することは、その地域がある意味で遅れていることを示すことになる。さらに「衰退した封建制」とか「堕落した封建制」とか「まがいものの封建制」といった表現は、明らかに規範的であり、これらは全て、かつては進歩をもたらす純粋な原則を維持することができなかった、あるいはできていない社会を意味する表現である。(p 1077)

封建制(フューダリズム)という用語を使用すると、ほぼ必然的に、「
~主義(イズム)」や、その封建制度という制度があるとの理解や、制度という自律的な主体があるとして扱うことになり、中世の人々(少なくとも当時において最も洞察力がある人々)が封建制という概念を理解していて、それを達成しようと奮闘していたかのように仮定してしまい、社会・地域・制度を単純化された理想型にどれほど近づいているのか、あるいはどれほど逸脱しているのかという観点からの評価・ランク付けにつながることになると思われる。(p. 1088)

ブラウンの批判はすべてもっともな指摘であり、妥当であることに疑いの余地はない。しかし、社会科学学者が封建制をどのように用いているのかという点では、あまり関係のない指摘だ。

この指摘は私の研究にも適用されるのだろうか。個人的には、封建制は適切に使用される限りにおいて有用な概念であることに変わりないと考えている。

デジレ・デシエルトと私は最近、『封建的政治経済(Feudal Political Economy)』と題する論文を発表した。論文では、1000年から1300年頃の中世ヨーロッパには特徴的な政治制度があり、その政治制度を「封建的」と呼ぶのは理にかなっていると論じている。そして、この封建制の定義に基づいて、ジェイコブ・ホールとのマグナ・カルタについて共同研究を行っている。

我々は、歴史学の研究者らに、Fワードが復権したことを納得させねばならない。

[Mark Koyama, Feudalism as a Contested Concept in Historical Political Economy, How the World Became Rich, 2024/2/2.]
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