マンキューがめちゃくちゃ鋭い指摘をしている。
Greg Mankiw’s Blog: “Why Economists Like Immigration”:
移民制度改革に向けた議論が上下両院で進められている最中だが、移民に友好的な上院案に大半の経済学者が賛同している理由をまとめておいてもよさそうだ。
経済学を学ぶと、次の二つの強烈な衝動が体内に埋め込まれることになる。
- 「リバタリアン」の衝動:大人同士がお互いに得になると考えて行うやりとりには、そのやりとりに伴って外部性が生じない限りは、干渉すべきではない。自由な市場経済圏で暮らす人々が豊かになれるのは、自発的なやりとりが認められるおかげである。政府が自発的な交換(やりとり)を邪魔すると、市場の「見えざる手」が魔力を発揮できなくなってしまう。
- 「エガリタリアン」(平等主義)の衝動:市場経済圏では、一人ひとりの報酬(稼ぎ)は、その人に内在する価値によってではなく、需要と供給のバランスによって決まる。市場は、人生の浮き沈みだったり、どの家に生まれるかという偶然だったりに対する十分な備えを提供できずにいることがしばしばある。それゆえ、ハシゴの一番下で喘いでいる人々(貧困層)を救う方法を探さねばならない。
大半の経済学者は、どちらの衝動にもある程度突き動かされている。「右派の経済学者」と「左派の経済学者」の違いは、どちらの衝動により強く突き動かされるかの違いにある。右派の経済学者は、「リバタリアン」の衝動により強く突き動かされる一方で、左派の経済学者は、「エガリタリアン」の衝動により強く突き動かされる。
経済学者の間での言い争いは、どちらの衝動により強く突き動かされるかの違いに還元できる場合がしばしばだが、移民の問題については「リバタリアン」の衝動と「エガリタリアン」の衝動が手を取り合う。「リバタリアン」の衝動が囁く(ささやく)。「アメリカ人の雇用主がメキシコからやって来た移民を雇う邪魔をするな。大人同士の自発的な交換(やりとり)なのだから」。「エガリタリアン」の衝動が囁く。「メキシコからやって来た移民は、アメリカ人の雇用主やアメリカ人の労働者よりも貧しいじゃないか。移民の入国制限が緩和されたら、貧しい彼らが恩恵を受けるのだ」。
最後に、ちょっとした思い付きを述べておこう。特定の政策が「リバタリアン」の衝動と「エガリタリアン」の衝動のどちらにもアピールする(訴えかける)ようなら、その政策の是非について経済学者たちの意見は割と一致するに違いない。移民の問題がその実例だ。
私としては、三つ目の衝動も付け加えたいところだ。「コスモポリタン」の衝動がそれだ。経済学者は、異国人も同胞も同じ人間なのだから、同胞の境遇(厚生)だけでなく異国人の境遇(厚生)も考慮に入れるべきと考えがちなのだ。そういう観点からすると、移民の受け入れを増やすのは、世界全体の経済発展を支える超強力な開発政策の一つに位置づけられることになる。それとは逆に、移民の制限についてはどう言えるかというと、国内の貧困を減らすためのめちゃくちゃコストが嵩(かさ)んで効果もあまり期待できない政策というのが関の山だろう。
(a) 経済学者だけれど、(b) ラテンアメリカ諸国からの移民の受け入れに懐疑的という人物も勿論いる。ジョージ・ボージャス(George Borjas)がそうだ。
〔原文:“Greg Mankiw Explains Why Economists Favor Immigration”(Grasping Reality on TypePad by Brad DeLong, July 06, 2006)〕