アレックス・タバロック 「西部戦線に『囚人のジレンマ』なし」(2005年8月24日)

協調的な関係というのは説明を要する現象という思い込みがあるのではなかろうか? 協調的な関係が成り立っているのは当たり前で、対立が起こるのはなぜなのかを説明する必要がある場合というのが時にあるのだ。
画像の出典:https://www.ac-illust.com/main/detail.php?id=22575598

第一次世界大戦中にイギリス軍とドイツ軍の間で繰り広げられた塹壕戦で「協調的な関係」――殺しも殺されもしない戦争――がいかにして生まれたかに関するロバート・アクセルロッド(Robert Axelrod)の解釈に対して、疑問を投げかける声はこれまでにほとんど上がってこなかった。あまりに見事な解釈だったからだ。・・・ん? どこからか「王様は裸だ!」と語る声が聞こえてくる(pdf)。アンドリュー・ゲルマン(Andrew Gelman)の声だ。王様をよく見てみると、・・・ゲルマンの言う通りじゃないか!

両軍の兵士は「囚人のジレンマ」に嵌(はま)っているというのがアクセルロッドの解釈の肝(きも)になっている。 それぞれの兵士にとっては相手の出方にかかわらず「敵を撃つ」方が得になるが、どちらの兵士も「敵を撃たない」で協調するのが社会的に最適な結果だというのだ。かような「囚人のジレンマ」からどうやって抜け出せるのか? アクセルロッドは、彼の名前と結び付けられて広く知れ渡ることになった「しっぺ返し戦略」だとかのアイデアを持ち出して、この上なく敵対的な状況においてでさえも協調的な関係が生まれる可能性を説明してみせる。

「それぞれの兵士にとって『敵を撃つ』方が得になる――自己利益に最も適(かな)う――っていうのは本当?」というのがゲルマンの突っ込みだ。

・・・(略)・・・「塹壕の中にいる兵士にとっては、銃を撃たずにいる方が得になる」と想定する方が理に適っているように思える。塹壕から顔を出して銃を撃つと、格好の的になってしまうおそれがある。銃弾が放たれた位置に狙いを定めて、敵の兵士が撃ち返してくるかもしれない。

まったくもってゲルマンの言う通りだと思う。ゲルマンは、さらに続けて次のように語る。「銃を撃つのが目先の利益にならないようなら、(どちらの兵士も銃を撃たないという)協調的な関係が成り立つのは至極当たり前の話で、これといった説明を要しない」。

アクセルロッドの解釈にしてもそうだし、アクセルロッドの流れを汲む一群の研究にしてもそうだが、協調的な関係というのは説明を要する現象という思い込みに縛られているんじゃなかろうか? そう見えてしまうことが時にあるのだ。自然状態における混沌を乗り越えた先にあるのが協調的な関係とでも言うように。しかしながら、ゲルマンが思い起こさせてくれているように、協調的な関係が成り立っているのは当たり前で、対立が起こるのはなぜなのかを説明する必要がある場合というのが時にあるのだ。今回のケースで言うと、兵士が敵を撃つのはなぜなのかを説明する必要があるのだ。

コメント欄を開放しておくので、何か意見があれば書き込んでもらいたいと思う。


〔原文:“No Prisoner’s Dilemma on the Western Front”(Marginal Revolution, August 24, 2005)〕

Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts