効率的な環境保護活動に罪悪感を感じるのはなぜだろう?
私の作ったグラフは、環境保護についてのポスターに使われるかもしれないが、私自身は環境保護活動のポスターガールには絶対にならない。
私が食事を作っているのを見れば、環境破壊しているようにしか見えないだろう。ほぼ電子レンジしか使わない。調理にはほとんど時間をかけない。調理に10分以上かかる食事は〔環境保護の観点からは〕食べる価値はない。私はほぼパッケージ化されたものを食べている。アンゴラ産アボガド、メキシコ産バナナなどだ。地元で作られた食材はほとんどない。地元産かどうかについて気にして、ラベルをチェックする必要もない。
これは「持続可能」と思われている行為と正反対だ。我々の脳裏にある「環境に優しい食事」のイメージは、地元の市場からの仕入れ、有害な化学物質を使わない有機(オーガニック)農場での生産、プラスティック梱包よりも紙バッグでの持ち帰り、加工されたジャンクフードではなく新鮮なままの肉や野菜、時間をかけてのオーブンでの調理などだ。
私は自分の食事方法が低炭素排出であることを知っている。何年もかけてデータを調べてきたからだ。電子レンジは最も効率的な料理方法だ。ローカルフードは大陸をまたいで輸送された食べ物と比べて低炭素なわけではない。オーガニックフードは二酸化炭素排出量が多いことが多い。食品包装は、環境負荷に極めてわずかした影響を与えておらず、たいていは食品の保存期間をわずかに伸ばすだけだ。
それでもまた間違っているように感じるだろう。私は、自分のやっていることが環境のために正しいことを知っている。それでも、私の中の一部は自身を裏切り者のように感じている。私の〔正しい環境保護活動についての〕確定事実を聞いて、困惑してる人がいるのが分かる。私は自身が「悪い」環境保護論者のように思われているかもしれないと、居心地の悪さを感じているのだ。
こうなってしまうのも、環境にとって「良い」ことが、私たちの直感と反していることが多いからだ。環境負荷を削減するために最も効果的な行動について尋ねると、リサイクル、古い電球の交換、地産地消の食事などが答えとして返ってくる。しかし、本当に役立つことは見落とされがちだ。調査は、こうした断絶を繰り返し示している。
最も原始的・直感的な行動の一つである肉食でも、私達の感度は明後日の方向を向いている。牧草で育った牛肉は、環境に優しい選択肢に見える。ホルモン剤を使っていない鶏肉もそうだ。しかし、肥育場での集約的畜産は、動物福祉では高負荷かもしれないが、環境コストでは低負荷なことが多い。
こうした誤算は食べ物だけはない。ビニール袋は、紙袋よりずっと悪いことのように思える。しかし、事実は逆だ。
ガス暖房より薪ストーブのほうが環境に良さそうだ。多くの人が、石炭(Coal)は、原子力エネルギーより良い選択だと考えている。しかし、後者のほうが、二酸化炭素排出量ははるかに少なく、何千倍も安全だ。田舎に住んだほうが、都会に住むよりずっと良いことだと考えられている。ロンドンの地下鉄でドアに押し付けられているときには、これ以上ないまでに「緑」でない場所だと感じる。週末に丘の上のコテージにドライブする方がはるかに持続可能に思える。しかし、そうではない。人口密度の高い都市は、気候にとっては良い。規模の経済を利用することで、輸送やサービスによる排出量を削減することができ、運が良ければ隣人と暖房を共有することもできる。
すると、なぜこうした間違いに私たちはよくハマってしまうのだろう? おそらく「自然の誤謬」に起因している。「自然」な性質に基づいているように見えるものは、良いことのように見える。あるいは、「自然=善」、「自然でない=悪」は、「自然と人の心に訴える」のだ。私たちは、工場由来の合成物質に怪しさを感じる。
こうした考え方についてはあざ笑いたくなる。多くの点で非科学的なので、「非科学的」と烙印を押すことができる。念を押すまでもなく、「自然」でありながら致死的な植物、ウイルス、化合物は枚挙にいとまがない。
しかし、トンデモだと嘲笑することは、変化を促すには効果的な方法ではない。そして、こうした安易な罵倒を私は避けている。おそらくだがその理由の一つは、私自身がこうした感情を完全に払拭できていないからだ。ヒトの本質に根ざした「自然」な解決策に、私はまだ本能的に魅力を感じてしまう。それに対抗するには、何度もの、場合によっては不快な努力を必要としている。
しかし、それこそが私達の克服しなければならないものだ。私たちの直感があまりに「ズレている」事実は深刻な問題だ。世界が肉の摂取量を減らす必要に迫られている今、代替肉は「加工」されているという理由で反対されている。農業に使う土地は減らす必要があるが、最近では有機(オーガニック)農業を復活させようとしているようだ。しかし、有機(オーガニック)農業は土地をさらに必要とする農法だ。もっと多くの人が密集した都市に住む必要があるが、自給自足できる庭付きの田舎でのロマンティックな生活を夢見る人が増えているという話をよく聞く。
私は今、私たちが環境を生まれた時よりよい状態で残せる最初の世代になれる機会をを持っていることについての本を執筆中だ。私たちを後退させるのではなく、前進させる行動とな何かを示す必要がある。これはハードルが高い挑戦だ。人々に、直感的に間違えていると思っているビジョンを納得させなければならないからだ。ヒトが何千年も抱える社会的プログラムを解消させるのは難しい。
〔訳注:執筆中の本は“Not the End of the World(世界の終わりではない)”のタイトルで2024年に出版され世界的なベストセラーとなった。〕
好奇心旺盛でオープンマインドな人は、意外な発見に喜びを見出すことが多い。そうでない人、特に特定の行動様式とアイデンティティが結びついてしまっている人は、脱皮を困難としている。確たる事実や数字で納得させようとしても、それだけではおそらく不十分だろう。私たちの行動が純粋な合理性に基づいていることはめったにない。物事をどのように感じるのかが鍵だ。
もっと持続的な生活を送るためのモチベーションの一部とすべきは、自身が少しでもなすべきことをしていると感じることだ。私たちの「すべき」ことが、正しいと感じることと矛盾しているのなら、それは問題だ。なら、社会の持続可能性に対するイメージを変える必要がある。実験室で培養された肉、密集した都市、原子力エネルギーは、ブランドの再構築を必要としている。これらは、持続可能性を前進させる新しい象徴とならねばならない。
「環境に優しい」行動のイメージが、効果的な行動と一致するようになって初めて、良い環境保護者であっても罪悪産を抱かなくなるのだ。
著者紹介:ハンナ・リッチーはOur World In Dataの研究責任者。ツイッターアカウントは@_HannahRitchie。
[Hannah Ritchie, An environmentalist gets lunch, Works in Progress, Sep 05, 2022]
「環境に良いとされている生活習慣(ビニール・プラスチック消費、地産地消)は実際には環境に良くないことが多い」
この場合、ビニール・プラスチック消費ではなく紙袋じゃないですか?
ありがとうございました。少しタイトルを変更しました。
対応ありがとうございます。