ジョセフ・ヒース「アメリカの憲政の危機:なぜアメリカは袋小路にはまっているのか」(2025年2月16日)

このエントリでは、リベラル・デモクラシーの政治哲学の基本原理にまで遡って、アメリカで現在生じている事態の何がこれほど破滅的なのかを説明したい。

ピエール・トルドー〔カナダの第20・22代首相〕の有名な「アメリカの隣国であることは、象の横で眠るようなものだ」という演説があまり話題に上っていないことに、私は少しばかり驚いている [1] … Continue reading

Pierre Trudeau’s Washington Press Club speech – Youtube

アメリカで現在生じている事態はまさに「象が動いたり唸り声を上げたりしている(twitch and grunt)」 [2]訳注:上の訳注を参照。 と言うにふさわしい。完全なる憲政の危機(constitutional crisis)だ。イーロン・マスクのおかしな言動の数々を無視したとしても、そうなのだ。トランプの大統領令は、第二次世界大戦以来、アメリカ連邦政府における権力行使のあり方に関して共有されていた基本的な認識を揺るがしている。

残念ながら、「憲政の危機」という言葉を使うと多くの人は退屈そうな顔をする。憲法学者は、憲政上の問題をとてつもなく退屈なものに思わせてしまうという残念な癖がある。全く残念なことだ。ある意味で、「憲政」レベルでの政治こそ、最も重要な活動が行われている場所だからだ。

憲政上の対立についてもう1つ残念なのは、それがいつも、政府を構成する三権の間の「権力分立」に関係していることだ。政治や公民の授業を受けた人なら三権の中身(立法府、司法府、行政府)を覚えさせられただろうが、教師は権力分立がいかに重要な政治的イノベーションだったかを説明し損ねてしまいがちだ。権力分立は本当に本当に重要なことなのである(その理由は以下で説明してく)。

このエントリでは、トランプ政権のとった具体的な行動にいちいちコメントするつもりはない。色々なことが起こりすぎて、1つ1つ追っていくのは困難になっている。その上、既にトランプ政権は解決まで数年かかるような訴訟を抱えている。このエントリでは、リベラル・デモクラシーの政治哲学の基本原理にまで遡って、アメリカで現在生じている事態の何がこれほど破滅的なのかを説明したい。

まず最初に、権力分立の原理は、政治哲学における最も基本的な問題を解決する試みだと理解するのが肝要だ。これは、しばしばプラトンが提起した問題だと言われている。すなわち、「誰が監視者を監視するのか」(あるいは別のフレーズだと「誰が見張りを見張るのか」)という問題だ。ああ知ってる知ってる、これはプラトンじゃなくてユウェナリスの言葉で、原語だと“quis custodiet ipsos custodes”なんだったね。

国家は、マックス・ウェーバーに倣って、「所定の領域内で正統な暴力の行使を独占する制度」と定義されることが多い。このように抽象的に定義すると、そんな強大な力を持った制度を持つのは悪い考えだと思うかもしれない。だが一定の条件下では、国家の存在は良いことであり得る。例えば、国家が法を実効化するためだけに権力を行使するなら、全員にとって利益があるだろう。実際、ホッブズやロックといった初期の社会契約理論家が論じたように、人々は暴力を私的に行使する権利を自発的に譲渡して、抑圧ではなく秩序の確保と法遵守の実効化のために権力を行使する国家を有することで、安心を得られるかもしれない。

ここで大きな問題となるのは、それほど大きな権力を持つ制度ができあがったとき、意図された目的に限定して権力を行使させるにはどうすればよいか、ということだ。国家が専制に堕すのを防ぐにはどうすればいいだろう? 公務員は、その「上」に監督役の人間を置けばコントロールできるが、この解決策は後退を生み出す。最終的には、最上位に立って誰からの監督も受けない人が出てきてしまうのだ。ヒエラルキーの性質上そうなってしまう。では、このトップの人間がその権威を、公共利益の増進ではなく、自身が権力の座に居座るためだけに使うのを防ぐにはどうすればよいだろう?

権威主義的な政治体制は、この問題の解決策を未だに見つけられていない。例えば中国は文化大革命後、国家主席は2期までしか務められないとする憲法の条項を採択した。しかし、習近平が国家主席になると、いつまでも国家主席に居座れるように憲法を修正してしまった。ウラジーミル・プーチンがロシアでやったのも本質的には同じことだ。

ナイーブな論者に言わせると、リベラル・デモクラシー社会は定期的に選挙を行い、権力の頂点に位置する人々をその座から追い出すことで、この問題を解決したということになっている。だがロシア(そして他の多くの国)の例が示すように、民主的な選挙だけでは十分でない。強力な指導者は民主的プロセスを容易に腐敗させられるからだ。実際に最も重要な防波堤となっているのは権力分立である(事実、権力分立はリベラル・デモクラシーの「リベラル」の部分の大きな要素だ)。

権力分立という戦略は、「見張り人」問題を解決するために、国家権力を三つの異なる部分に分け、市民に対して力を行使するなら三者が足並みを揃えなければならないと要求するものだ。そのため、古典的な定義に従うと、法がどうあるべきかを定め提示する「立法府」、特定の状況における法の適用を決定する「司法府」、法を遵守させるのに必要な実効化の仕事を実際に担う「行政府」、が存在する。そして、例えば立法府は、法の行使を指示したり、個人に具体的な処罰を課したりすることができず、法律を作ることができるだけだ。その法律も、司法府と行政府に引き渡さないといけない。

モンテスキューが明示化した古典的な権力分立の教義によれば、権力の過剰な集中は、三権の間でほどほどの対立を促すことで回避される。この制度編成は、構造的に見ると、現代の軍隊に似ている。軍隊は大抵、三つかそれ以上の部門に分かれ、それぞれが互いに適度な敵対関係を持つよう促されている。これは軍事クーデターの可能性を減らす。軍隊の全ての部門が協調して文官の権威に対抗するのは困難だからだ(例えば、陸軍が反乱を起こしても、それを鎮圧できる力を持った海軍や空軍の協力者を見つけることができる)。

権力分立という解決策は、理論的に見ればエレガントなものではない。〔対立が生じた場合に最終的な決定権を持つ〕「究極的」な権威がどこにあるかを明確に特定していないことが多いからだ。それでも、理論家肌の人間は不満に思うかもしれないが、古典的リベラルの目指すところは、こうした三権間の緊張関係を、憲政秩序の欠陥ではなく、その特徴とすることなのだ。そこで期待されているのは、政府内部で一定の麻痺状態を生み出し、広範な合意が得られない限りは国家が強制力を行使できないようにすることである。

現実問題として、このリベラルな制度編成は、明らかに問題を生み出す可能性がある。三権間で対立が生じた場合、明確な裁定手続きが存在しないためだ(これは、皇帝と教皇の双方がそれぞれ神に対してのみ責任を持ち、互いに不同意が生じた場合の解決手続きは存在しない、という中世の両剣論において生じた問題と似ている)。そのためリベラル・デモクラシー社会は大抵、進化にも似たプロセスを通じて、憲法習律(constitutional conventions) [3]訳注:明文の規定はないが重要とされる憲政上のルール。 を生み出し、三権のどれか一つに究極的な意思決定権力を与えることでこの行き詰まり問題に対処してきた。

西洋諸国の政治システムの間の大きな違いの1つは、国によって、三権のうちのどれを「最高位(supreme)」とするかが違うことだ。立法府の国もあれば、司法府、あるいは行政府の国もある。

カナダは議会優位が規範となっており、どんな問題や対立であろうと、最終的に決着をつけるのは議会の投票である。カナダのシステムのこの特徴はイギリスから受け継がれたものだ。イギリスでは議会優位が憲法習律となっている(この習律がカナダに持ち込まれ、1882年憲法法への適用除外条項(notwithstanding clause)の導入によって、憲法で明文規定された)。

対照的にフランスでは、行政優位が規範となっている(この仕組みとその実践の擁護に関しては、ピエール・ロザンヴァロンの『良き統治』が素晴らしい説明を行っている)。これは、行政府の長である大統領が首相を任命するという事実に最も明確に表れている。立法府が行政府に対して異議を唱えることのできるメカニズムは存在するが、現在に至るまで大統領権力への敬譲(deference)の習律が力を持っている。

そしてアメリカは、司法優位の規範を持つシステムへと進化してきた。最高裁判所が、立法府と行政府の決定を超えた最終的な権威として機能している。これも憲法習律であるということは強調しておくべきだろう。司法優位は成文憲法で規定されているわけではない(この点は重要だ。その国に成文憲法があることは、不文憲法がないことを意味しないし、成文憲法が不文憲法より重要であることも意味しない)。

これらのシステムのどれをとっても、巧妙な仕組みが存在する。こうしたシステムの多くはゼロから作られたのではなく、旧来の政治システムから進化してきたものだからだ。とりわけ、イギリスのシステムは封建君主制から進化してきた。私たちが「行政府」と呼んでいるものは王の権力に遡れるし、「立法府」は貴族を代表する機関(つまり議会)にまで遡れる。イギリスは、民主的に選出されていない君主を保持したまま、その(法律上ではなく、事実上の)権力全体を議会へとゆっくり移転するという決断をした。さらに下院は参政権の拡大によって民主的な立法府へと変化していった。

一方でアメリカは、伝統的な王の権力を大統領府が保持しながら、大統領職を民主的な選挙で選出することで、大統領府に民主的正統性を与えるという決断をした。それゆえアメリカの憲法は本質的に、18世紀の君主が持っていた権力の多くを、そのまま大統領府に与えている。例えばアメリカの大統領顧問団(President’s cabinet) [4] … Continue reading は、18世紀イギリスの内閣(基本的に王の諮問機関であった)とほぼ同じように機能している。議会システムにおいて、選挙で選ばれた議員によって内閣を構成するという習律が生まれたのはずっと後のことだ。こうした進化は、アメリカでは全く生じなかった。

ホアン・リンス(Juan Linz)が(正当に評価されている論文の中で)指摘しているように、大統領制は特に深刻な行き詰まり問題に陥りがちだ。議院内閣制において、立法府優位は非常に安定した制度編成だ。民主的正統性を主張できるのは議会のメンバーだけだからである。大抵は国民主権と代表原理に訴えるだけで、対立の局面において行政府と司法府を引き下がらせることができる。対照的に大統領制においては、行政府の長も立法府の議員も民主的正統性を主張できる。大統領制が極度に不安定な理由の1つはこれだ、とリンツは主張している。行政府と立法府の間で行き詰まりが生じた場合、どちらも引き下がる必要を感じないだろう。そのため、行き詰まりを打破するために非民主的な権力(恐らくは司法、最悪の場合は軍隊)が介入することになりがちだ。

ここでも、国によってこの問題を回避するために採用してきた方法は様々だ。1つの方法は、大統領の実権を完全に奪い名誉職にしてしまうことだ(ドイツのように)。他にも、フランスが1958年に(第五共和政を樹立して)行ったように、大統領により多くの権力を与えるという手もある。だがアメリカの場合、そのような決定的な変化を起こすことは不可能だ。憲法の拘束によって、18世紀以来の権力分立を根本的に改革することが完全に阻まれているからである。トランプ政権は現在、これら全てをひっくり返そうとしている。大っぴらに議会に反抗し(Tiktokの禁止など、議会で通過した法律の実行を拒否するなど)、司法にもますます対決姿勢を見せている(エリック・アダムズの起訴を取り下げるよう指示するなど)。

最も重要な点は、トランプが憲法習律に挑戦していることだ。これが成功すれば、トランプの行動によって三権の関係が再編され、それがこの先も続くかもしれない。根本的な問題は、アメリカの立法府が完全なる機能不全に陥っていることだ。権力は真空を嫌うという言葉もあるが、20世紀のアメリカにおける司法権力の台頭は、立法府の弱さが原因だった。一定の結果を望んでいるのに、議会がまるで役に立たないなら、人々は喜んで、司法がその結果を課すのを受け入れる。だが司法優位のシステムにはたくさんの病理が存在する(費用や効率性といった問題をほぼ完全に無視する点など)。トランプ政権による行政権力の拡張という現在の事態は、これらの問題双方(能力を持った立法府の欠如と、司法支配による非効率性の蓄積)への応答である。

こうした事態は全て、アメリカにおける民主党の苦境をますます悪化させる可能性が高いと思われる。民主党はこれらの問題に関して、自らを窮地に追い込んでしまっている。アメリカが直面している問題の多くは、公共セクターの役割を拡張することでしか解決できないと、民主党員は理解している。だが一般市民に対してそのことを説得するのにひどく手こずってきた。なぜなら、アメリカの公共セクターは単純な仕事においてすら極度に無能だからだ。アメリカの公共セクターがこれほど無能なのは、行政府が二つの説明責任の系列(一つは一般市民、もう一つは司法)に縛られ身動きをとれなくなっているからである。これは効率的な行政と全く両立しない。こうした問題を解決する唯一の方法は、「行政国家」、つまり行政府により多くの裁量権力を認めることだ。だが民主党員はそれに乗り気ではない。共和党が行政権力を掌握したときの事態を懸念しすぎているからだ。

目下、問題はさらに悪化している。共和党がたくさんのひどい考えに基づいて行政国家を改革しているからだ。そのため民主党員は、改革に抗おうとし、現在使える唯一の駒である司法権力を利用している。トランプが政権に就いて以来、平均で1日に2件は訴訟を起こされているのはそのためだ。だが行政府の「行き過ぎ(overreach)」を阻むために司法へ頼ることで、民主党員はアメリカの政治システムの最大の欠陥を悪化させてしまっている。結局、アメリカ政府に得意なことが1つあるとすれば、それは誰かが変革を起こすのを防ぐことだ。この「拒否権政治(vetocracy)」は、進歩的な政策目標の実現を阻む最大の障害だ。それでも民主党員は現在、まさにそうした特徴を利用してトランプを抑え込もうとしている。

このことから民主党員が学び取るだろう教訓は、ある程度予想がつく。それは、行政国家をより注意深い司法審査の下に置く必要がある、というものだ(これは保守派のロバーツ・コート [5]訳注:ジョン・ロバーツを最高裁主席判事とする、2005年以降のアメリカ最高裁を指す言葉。 の見解と一致している)。これはせいぜい、現状を強化するだけだろう。だが現状への不満こそが、有権者をドナルド・トランプへの投票という絶望的な解決策へと駆り立てたのである。この悪循環から抜け出す方法を見つけ出すのは、極めて難しい課題だ。

[Joseph Heath, Observations on the U.S. constitutional crisis, In Due Course, 2025/2/16.]

References

References
1 訳注:現在のカナダ首相エリオット・トルドーの父、ピエール・トルドーが、アメリカの隣にあるカナダの状況を例えたスピーチを指す。象がどんなに友好的で落ち着いているとしても、動いたり(twitch)、唸り声を上げる(grunt)たびに、隣で寝ているこちらは影響を受けざるを得ないとトルドーは述べている。
2 訳注:上の訳注を参照。
3 訳注:明文の規定はないが重要とされる憲政上のルール。
4 訳注:閣僚などで構成される会議体で、議院内閣制における内閣に対応する(そのため内閣と訳されることもある)が、議会に対して責任を負うわけではない。
5 訳注:ジョン・ロバーツを最高裁主席判事とする、2005年以降のアメリカ最高裁を指す言葉。
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