マーク・ソーマ 「頼るべきは、冷厳なる数字」(2007年9月16日)

直感や経験に頼るその道の専門家 vs データ分析に頼る絶対計算家。勝つのはどっち?
画像の出典:https://www.photo-ac.com/main/detail/22360786

デヴィッド・レオンハート(David Leonhardt)がニューヨーク・タイムズ紙でイアン・エアーズ(Ian Ayres)の『Super Crunchers:Why Thinking-by-Numbers Is the New Way to Be Smart』(邦訳『その数学が戦略を決める』)を書評している。

Let’s Go to the Stats” by David Leonhardt:・・・(略)・・・1980年代後半に、・・・(略)・・・オーリー・アッシェンフェルター(Orley Ashenfelter)は、「Liquid Assets」と命名されたニュースレターを発刊して、ボルドー産のワインの出来(でき)をそれぞれの生産年度(ヴィンテージ)ごとに予測する試みに着手した。プリンストン大学に籍を置く経済学者であるアッシェンフェルターは、その予測にあたって、樽(たる)に入れられて間もない段階でのワインの味わいや香り(という主観的な判断)に依拠する代わりに、客観的なデータを頼りにした。そして、ブドウの収穫期の気候がどうだったかを突き止めさえすれば、その生産年度のワインに将来的にどのくらいの値が付くかを驚くほど正確に予測できると信じるに至った。収穫期に気温が高くて乾燥している(雨が少ない)ようだと、質の高い(将来的に高い値が付く)ボルドーワインができるようなのだ。

言うまでもないかもしれないが、アッシェンフェルターの発見はワイン評論家(その道の専門家)に歓迎されなかった。イギリスで発行されているワイン雑誌は、「あまりにばかばかしい」と酷評。ワイン評論家として名高いロバート・パーカー(Robert Parker)は、アッシェンフェルターを「まごうことなきペテン師」と評する始末。

・・・(中略)・・・

アッシェンフェルターと似たり寄ったりの扱いを受けた例は、あちこちで見つかる。ベストセラーとなったマイケル・ルイス(Michael Lewis)の『マネー・ボール』では、米国のプロ野球チームであるオークランド・アスレチックスでGM(ゼネラルマネージャー)を務めたビリー・ビーン(Billy Beane)の奮闘の軌跡が描かれている。ビーンは、資金力の乏しい貧乏球団だったオークランド・アスレチックスを強くするのに成功した。その主たる理由は、選手の能力を見抜くために直感よりも統計分析(データ分析)に頼ったことに求められるが、『マネー・ボール』が出版されてからというもの、昔気質(むかしかたぎ)の野球評論家たちは、テレビや新聞のコラムで反ビーンの論陣を張り続けたのだ。もっと悲劇的なのは、19世紀のオーストリアで医師として活躍したイグナッツ・ゼンメルワイス(Ignaz Semmelweis)のケースだ。ゼンメルワイスは、手洗いの重要性を説いて回った。医者や看護婦が分娩室で赤ん坊を取り上げる前に手を洗うようにするだけで、多くの産婦の命が救われる可能性があることを示す証拠を集めていたのだ。しかし、同僚たちからは、馬鹿にされ無視されたのだった。

そんなゼンメルワイスも今では英雄だ。『Super Crunchers』の著者であるイアン・エアーズにとっては、・・・(略)・・・ゼンメルワイスは、世の中に旋風を巻き起こしているデータ探偵(絶対計算家)の先駆者でもあるということになろう。エアーズ曰く、「我々は、馬と蒸気機関車のしのぎの削り合いに匹敵するような歴史的瞬間に立ち会っている。そして、直感や経験に頼るその道の専門家たちがデータ分析に頼る絶対計算家たちに敗れてばかりいるのだ」。

・・・(中略)・・・

その成果にもかかわらず、データ分析には大いなる疑いの目だけでなく敵意までもが向けられ続けている。なぜなのか? エアーズも指摘しているように、データ分析によって各方面の専門家たちが手にしている「情報独占」が打ち破られようとしているというのも理由の一つだろう。しかしながら、既得権益が脅かされているわけではないその他大勢にとっても、本能や直感に頼る代わりに、冷たくてお堅い数字に頼るというのは、血が通っていない虚(うつ)ろな行(おこな)いに思えてしまうようだ。

・・・(中略)・・・

人間は直感をあまりに信頼してしまいがちであり、時として数字に耳を澄ました方がうまくいくことがある。エアーズが言わんとしていることは、そういうことだ。アッシェンフェルターは、データ分析の助けを借りて、1986年産のボルドーワインは「並みの質」(将来的に並みの値が付く)と予測した。その一方で、パーカーは、ワイン評論家としての長年の経験の助けを借りて、1986年産のボルドーワインは「ずば抜けて上質」(将来的に飛び抜けて高い値が付く)と語った。正しかったのは、アッシェンフェルターの方だった。

本書の白眉(はくび)と言えるのは、エアーズ本人や同僚の経済学者が関わっているエピソード――ワインの将来の値段の予測だったり、最高裁の裁判結果の予測だったり、失業保険の効果の予測だったり――が語られている箇所だ。その一方で、大学の外の世界でのエピソード――「根拠(証拠)に基づく医療」を提唱する医者のエピソードだとか、映画の興行収入を予測するために「ニューラルネットワーク」を使っているハリウッドの重役たちのエピソードだとか――が語られているところは、いくらか説得力に欠ける面がある。

・・・(中略)・・・

エアーズは、データ分析のインパクトについてあまりに楽観的過ぎるようだ。エアーズによると、「絶対計算アプローチが勝利を収め、直感や経験に頼った名人芸がお役御免となっている」とのことだが、それは言い過ぎだ。彼が気に入っている例の一つをひくと、「根拠(証拠)に基づく医療」が我が国(アメリカ)で当たり前になるまでには程遠いのが現状だ。絶対計算家たちは、安価なコンピュータの高い演算能力に支えられて、見事なまでの仕事ぶりを発揮している。次なるステップは、それなりの人数の(データ分析のさらなる普及を後押しする)絶対説諭(せつゆ)家という別の支えを見つけることにある。


〔原文:““Relying on Cold, Hard Numbers””(Economist’s View, September 16, 2007)〕

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1 comment
  1. 数学者は無明の荒野から方程式を発見するわけではない。彼らは大抵、一種の預言者としてそう見られることを望むが、演繹的に原理を見出しているわけではない。
    統計データや数理モデルが現実の事象に対して乖離することは、(一概にはいえないが)inputが妥当であればあまりない。但し、その後の分析においては大きく意見が異なることはよくある。
    「厳密な計算のみで成立し推測可能」というものが既に幻想に過ぎない。直感は重要であり、どのような前提が要素として必要か?などの経験や暗黙知などの帰納的思考がなければそもそも成立しないのだ。
    ベイズ主義統計の論争を見れば、これらのことは簡単な問題ではないと理解できよう。
    ここでよく翻訳される経済学者や心理学者の安易な結論には気をつけるべきである。

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