ブランコ・ミラノヴィッチ「哲学と芸術としての統計:初期中華人民共和国における統計の利用と誤用」(2023年2月10日)

本書の貢献は、特に中国に焦点を当てているにもかかわらず、中国における統計の背景にある哲学の研究を可能にするだけでなく、統計調査一般の思想的・哲学的基礎の理解をも可能にしているところだ。

中華人民共和国の建国から15年の間の統計作成は、アルナブ・ゴーシュが“Making it Count”〔未邦訳〕という素晴らしい著書で論じているように、3つの期間に分けるのが(やや単純かもしれないが)有用だ。最初の期間は、1949年の中華人民共和国建立から、ほぼ1956年までの時期となる。この時期、中国の統計システムと、統計に対するアプローチ全般は、ソ連の影響を強く受けていた。統計は計画の侍女と考えられていた。この見解は、1954年(つまり、スターリンが死んでから、フルシチョフの「雪解け」までの間の時期)のモスクワでの非常に重要なカンファレンスで明確にされたように、統計は社会科学であり、その利用は産業化と発展という課題に直接結びついているということを含意している。ソ連の統計学の3つの重要な原理は、網羅性、完全性、客観性だった(これは中国の統計学者も採用した)。これが意味するところは、研究対象の現象全体を網羅し、文書化すべきである、つまりは統計は非確率論的で「客観的」な、ほとんど記述的な方法で行わねばならないとされたのである。これは、現在の統計学の哲学において支配的な見解〔つまり推測統計〕を、抽象的な数学的統計学へと追いやり、社会現象をほぼ扱えないものとしてしまう結果を招いた(ソ連における統計の政治化によって、傑出した統計学者の一部は政治的な議論から離れ、統計学の知見を天文学の研究に応用することを決意した、とゴーシュは述べている)。

中国では、ソ連のやり方を適用しても、不可能なことが即座に明らかになった。ソ連のやり方は、情報提供者に極めて高い要求を突きつけ、膨大な事務作業を発生させ、国家統計国(SSB)をデータの海に溺れてしまってしまった――逆説的にも、SSBは、データを政策決定者に有用な情報としてまとめるための知見を持っていなかったのだ。そのため、2つの相反する現象が生じた。データ提供者は、時間と労力のコストが莫大かつ準連続的であることに不満を述べる一方、他方でSSBはその役割を全うすることができなかったのだ。ゴーシュは、産出と生産物についての重要情報を必要不可欠としていた何十万もの村々や農家で構成された農業セクターにおいて問題が非常に深刻であったことを示している。この〔統計〕システムは、小規模で集約的な産業セクターにおいてはそこまで非効率性を生じさせなかった。

1956年から1957年の政治的変化によってソ連との蜜月関係が破綻すると、中国の統計学者の採用するアプローチにも変化が生じた。中国の統計学者たちは、インドへの傾倒を強めた。インドは当時、第二次五か年計画(1956-51)を開始しており、そこでは統計が重要な計画ツールと考えられていた。しかしインドは、P・S・マハラノビス(中国では「馬教授」と呼ばれた)の影響の下、網羅的な国勢調査を追求せず、無作為調査システムを採用した。無作為調査は、他の調査方法より迅速で安価なだけでなく、(例えば穀物や綿花について)正確で、平均値の誤差も定量化できる統計データを生み出すと喧伝された。

マハラノビスは、個人的にも政治的にもネルーと近しかった人物で、インドを訪れた周恩来やその他の中国の要人の、インド統計への関心を刺激することができた。バンドン会議をきっかけとした中国とインドの政治的和解によって、コルカタのインド統計局と北京のSSBの間に数年にわたる蜜月関係が結ばれた。SSBは包括的で列挙的な統計アプローチから、ランダムサンプリングへと慎重に移行し始めた。

ランダムサンプリングにはいくつかの面で実用的なアドバンテージがあるが、2つのアプローチの背景にある哲学の違いを無視すべきではない。ゴーシュの著書は、それをはっきりと明るみに出している。包括的で網羅的なアプローチは、社会的現実を完全かつ完璧に理解することを目的としている。ボルヘスの短編小説「学問の厳密さについて」で書かれているように、このアプローチの目的は、研究対象である社会的現実の再現に他ならなかった。サンプリングアプローチの目的はもっと限定的で、プラグマティックかつ功利主義的であり、ランダム化と層化によって、意図に応じた方法で、同じ社会的現実をより安価かつ迅速に把握できると想定されている。

中国統計の第3の期間、3つ目のアプローチに向かう前に、重要な事実として、全ての時期を通じて、異なる統計アプローチが背景に存在したことに言及しておかねばならない。このアプローチは、毛沢東自身が1927年に湖南省の地方部の社会構造を研究していた際に、熱烈に支持していたものである。毛沢東は、研究者が対象の社会に直接参与するエスノグラフィー(民族誌)的な方法を特権化した。このエスノグラフィー的方法は包括的でありつつ、その目的は農民の社会それ自体を研究することにはなく、現実の注意深い観察を通じて、階級間での利益の相違と、どの階級が共産主義政治に賛成・反対する可能性が高いかを見分けることを目的としていたという点で、意図に応じた方法でもあった。エスノグラフィー的アプローチは、研究対象である社会的現実に媒介を通さずに接触し、社会的現実を直接的な知識として仕入れることを奨励した。これは、網羅的な列挙やサンプリングといった通常の統計手法では見られない特徴である。通常の統計では、工場や農場の情報を提供する人々、その情報を収集する人々、そして情報を公共や政策決定者にどのように提示するかを決める当局の統計学者たち、これらそれぞれの間には距離が存在している。

第1、第2の時期に用いられていた統計的方法は、情報生産者自身が研究対象の社会に個人的に参与すべきとする毛沢東の見解と相反する要素があった。毛沢東のアプローチにおいて、研究対象の社会底現実の直接的知識が有用だとするのは正しいが、複雑で巨大な経済、そして当時7億以上の人口を抱えていた中国社会へのアプローチとしては、端的に実行不可能なものだった。

第3の期間は1958年の反右派闘争と、それに続く1959年から1960年の大躍進政策から始まる。この時期には、従来までのアプローチは放棄され、社会現象の全体性ではなく、その典型的・平均的特徴に関心を向ける、「典型的」ないし「意図に応じた」サンプリングを研究者たちは支持するようになる。私が慣れ親しんだ領域である所得・消費の分配の観点から言うと、典型性に基づくアプローチは、人々の受け取る所得のスペクトラム全体(つまり、貧困層、中産階級、富裕層)のカバーを目的にはしておらず、アプリオリに選ばれた典型的な家計に焦点を合わせて詳細な研究を行うものだった。言い換えれば、当時の関心は、あらゆる家計の行動ではなく、典型的な家計の有り様にあった。典型性に基づくアプローチは、都市部と地方部の格差に焦点を当て、典型的な産業家計と典型的な農業家計の比較を目的としていた、ソ連の家計調査に起源を持っている(更に、19世紀中葉のイギリスの労働者家計調査にまで遡ることもできる)。このアプローチには大きく2つの問題が存在する。分配全体を無視していることと、どんな家計が典型かをアプリオリに選んでいることである。典型的家計の選択は言うまでもなく政策決定に動機づけられており、後述するように、大躍進政策の時期には破滅的な結果をもたらした。

大躍進政策期における統計の利用と誤用についてのゴーシュの議論は、特に重要である。大躍進政策期には、統計情報において、政治的正しさを専門知識よりも優先したことで中央が混乱・弱体化していき、情報収集も、ポジティブな情報のみを提示し、ネガティブな情報は全て隠すよう促す明確なインセンティブによって分散化し崩壊したととの説が一般的だが、ゴーシュによればこれは事態の一面に過ぎない。統計思想の変化にも原因があったのだ。情報供給者にバラ色のデータを提供する政治的インセンティブが与えられていた事実はあるとしても、方法論的選択もまた、社会的現実の誤った描像を生み出していたのである。大躍進政策期においてデータ収集が行われたのは主に、比較的成功しているか、飢餓による被害がそれほど大きくなかった村だった。そのため、こうした異常事態において指導者に提示されたデータは、調査設計それ自体によってバイアスがかかっていた(事態がそれほど深刻ではなくなっても、典型性に基づく調査の利用がもたらした破壊的帰結がそれほど改善しなかったのは明らかだろう)。

統計調査の背景にある哲学の理解は甚だ貧弱であり、統計が現在のような立場に深化してきた歴史は統計の実践者たちにすら教えられたり知られたりしていないため、ゴーシュの著書は重要な貢献を行っている。本書の貢献は、特に中国に焦点を当てているにもかかわらず、中国における統計の背景にある哲学の研究を可能にするだけでなく、統計調査一般の思想的・哲学的基礎の理解をも可能にしているところだ。もう1つの本書の貢献は、著者も言及しているように、アメリカ、或いはソ連中心主義的な単純すぎるアプローチから離れて、南側における国家間協力の初期の例、および、情報、アイデア、方法の交換が1950年代にインドと中国の間で果たした役割を探っていることだ。こうした協力が継続し、大躍進政策や、チベット動乱に続く政治的事件、またダライ・ラマのインドへの亡命による協力の頓挫がなければ、1970年代における中国の統計の状況は、現実よりはるかによいものになっていただろうという印象を読者は間違いなく持つだろう。

本書は、もう1つの、ことによると中国の統計にもっと大きな影響をもたらした、文化大革命の前の時期で終わっている。文化大革命の最初の数年間において、SSBの公刊した統計資料の数は、実質的にゼロまで落ち込んだ。1950年代に中国全土で20万人を雇用していた統計局が、〔この時期には〕数百人しか雇わなくなったという事実は、この断絶の規模を示している。今日まで続く第4の期間(1970年代初頭にの情報収集の若干の改善とともに始まり、1981年に中国の最初の統計年鑑の公刊によってついに端緒を見る)については、示唆されているだけである。

Statistics as a philosophy and art:The use and misuse of statistics in the early years of the People’s Republic
Branko Milanovic
Feb 10

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