年をとるにつれ、周りの人が覚えていないことを思い出せる機会が増えていく。私がアイデンティティ・ポリティクスを巡る昨今の議論を真面目に受け取る気になれない理由の1つはこれである。私は既に同じことを経験してしまっているのだ。この映画は前に見たことがあるし、結末だって知ってる。
言い換えれば、私は1990年代のことを生き生きと思い出せるのだ。実際、私は90年代からこの仕事に就いているが、全く同じ考えについて(提示の仕方まで全く同じであることも多い)、人々がどれほどの熱量で議論していたかを覚えている。マキシム誌のような90年代後半の文化製品を取り上げて、「なんてこった、こいつらはセクシストだったんだ」と言ったり、「となりのサインフェルド」 [1]訳注:アメリカの国民的なコメディドラマ。 のジョークの一部には「問題がある」と不満を述べたりする若者を見るのは、愉快であるとともにゾッとする経験だ。若者は、こうした文化製品が、過去10年のポリティカル・コレクトネスの行き過ぎに対するバックラッシュの一環として流行っていたことを理解していないのだ。
ミレニアル世代の人間が「インターセクショナリティ」に熱狂しているのを初めて目にしたとき、ひどく戸惑ったことを覚えている。私が奇妙に思ったのは、彼・彼女らがそれをまるで新しい啓示かのように扱っていたことだ。例えば、黒人女性が、他の女性や他の黒人が被っていないような苦しみを受けているとは、これまで誰も思い付かなかったかのように扱っている。だが、1964年にストークリー・カーマイケル〔アメリカの人種差別撤廃運動の指導者の1人〕の無思慮な発言 [2] … Continue reading が有名になって以来、これは左派の間では常識であった(少なくとも人種とジェンダーの問題に関しては)。
これが私の妄想でないことを確認するために、1990年に出版されたアイリス・マリオン・ヤングの『正義と差異の政治』を読み直してみた。この本は大きな影響力を持っているからだ。案の定、インターセクショナリティの基本的な論点はばっちり書かれていた。
この10年間、社会主義者、フェミニスト、反人種差別活動家の間でなされた激しい論争により、この社会では様々な集団が抑圧されていると言わねばならず、どれか1つのタイプの抑圧に、因果的、道徳的な優先順位を与えるべきでない、というコンセンサスが生まれてきている。同様の議論は、〔帰属〕集団の差異が個人の人生に多様な仕方で交錯し、同一人物であっても、ある面では特権を持ちある面では抑圧を受けるということがあり得る、との認識にも繋がっている。抑圧概念を多元的に記述しなければ、こうした洞察を適切に捉えることはできない(p. 42)。
この本が30年以上も前に出版されていることは繰り返し強調したい。ヤングが言う「激しい論争」は、70年代後半から80年代に生じたものだ。ヤングの議論に欠けているのは、「インターセクショナリティ」という便利なキャッチフレーズだけである(一方で、ヤングの著作の顕著な特徴は、この「集団的アイデンティティ」の政治を従来の平等主義との関係に明示的に位置づけようとして、その緊張関係に悩まされていることだ。現代の理論家は、ヤングと比べるとこの論点にほとんど労力を注いでいない)。
90年代のことでもう1つ思い出すのは、たくさんの人が、今日の人々がアイデンティティ・ポリティクスに反対するのとほぼ全く同じ論拠で、それに反対していたことだ(最近、1995年に出版されたデイヴィッド・A・ホリンガーの『ポストエスニックアメリカ:多文化主義を超えて』を読み直して、今論じられていることの多くが既に論じられていたことを思い出した)。最近、“The Identity Trap”『アイデンティティの罠』という新著の販促宣伝を行っているヤシャ・モンクの議論を聞いて、私はこのことを考えずにはいられなかった。政治面で言えば、モンクの議論に同意できない部分はあまりない。唯一の問題は、フランス人が「68年の思想」(la pensee ‘68)と嘲笑して呼ぶもの(デリダやフーコーなど)と、現在の左派の行き過ぎを直線的に結び付けていることだ。「ブーマー世代の思想」(boomer thought) [3]訳注:ベビーブーマー世代の思想を指す語で、「68年の思想」と同義。 は、私が学部生、モンクが幼稚園にいた頃には大流行りだった。じきに、そのほとんどが時代遅れとなった。問題は、表面上は「ブーマー世代の思想」に結びついているように見える考えの多くが、なぜ今になって再来しているのかだ。言い換えれば、問題はアイデンティティ・ポリティクスがなぜ「ゴキブリのような思想」(cockroach idea)になったか、である(「ゴキブリのような思想」という言葉はポール・クルーグマンの意味で用いている。すなわち、「うまくすれば取り除けることもあるが、それも束の間、何度でも戻ってくる悪い考え」)。これを説明するには、非合理的で、非観念的な要因を真剣に考慮する必要がある。
アイデンティティ・ポリティクスは、ナショナリズムと比較するのが最も有益だ、と私は主張したい。アイデンティティ・ポリティクスは、思想というより社会政治的な戦略である。それは第1に、人々を集合行為に取り組むよう動員する方法であり、第2に、現代社会で生じているアイデンティティと意味を巡るジレンマに対処する方法だ。これは、アイデンティティ・ポリティクスが感情を喚起するような魅力を持っていることと、理性的な反論に抵抗することの両方を説明できる。
ナショナリズムとアイデンティティ・ポリティクスに共通の特徴は、どちらも「グループ性(groupishness)」(もう少し長ったらしく言うと、社会的世界を内集団のメンバーと外集団のメンバーに分けたいという衝動)と呼ばれる人間の強力な心理的性向を活性化していることだ。こうした活性化のまずもっての実践的な帰結は、外集団への敵対心(協力性の減少など)と組み合わさって、内集団における連帯を高める(それゆえ、集合行為の能力を向上させる)ことだ(敵対心と連帯という2つの影響を互いにどの程度分離できるのかは、今も社会心理学で活発な議論が行われているテーマである)。
歴史的に、個人がまずもって忠誠を尽くす集団は、地域共同体だった。19世紀後半の大発見は、マスコミュニケーション技術(印刷や、より強力なものではラジオやテレビ)の利用などを通じて、この忠誠と帰属の感覚をより大きな政治的単位(つまり「ネーション」)に移植できるということだった。伝統的な啓蒙的理性主義の支持者(ほとんどの社会主義者を含む)は当初、ナショナリズムがある種の大規模な部族主義と道徳的偏狭さを伴っており、平等や不偏的な道徳的配慮へのコミットメントと直接に矛盾するという明白な理由から、それを完全に拒否しようとした。ナショナリズムはまた、あからさまな虚構的要素が多すぎて、(当初は)真剣に受け取ることも難しかった。やがて、理性主義の支持者たちは、労働者の連帯がナショナリストの訴えかけによっていとも容易く分断されたことで、自分たちが間違っていたことに気づいた。
時は流れ、原理的な観点からはナショナリズムを拒否する人の多くも、ナショナリズムと共生する道を見つけた。これは1つには、ユーリ・タミルが指摘したように、比較的ナショナリスティックな国家という文脈の外で、リベラルな正義に適う体制の制度化が一度も成功していないからだ。これを説明するのは難しくない。大規模な再分配を実現する唯一の方法は、大規模な連帯を確立することであり、大規模なレベルで私たちの偏狭な性向を克服する方法は、ナショナリズム以外に知られていないのだ。多くの人々が互いに負担を負うことに同意するのは、単に人間であるという以上の何かを共有していると感じられる場合に限られる。
しかしもちろん、ナショナリズムと「共生」できるためには、外集団への敵対心から生じる明らかな負の帰結を中和する戦略がうまくいってなければならない。20世紀前半の戦争から得られる最も重要な教訓の1つは、ナショナリズムによって育まれる敵対心が、放っておけば極度に破壊的な力を持ち得るということだ。それゆえ、外集団への敵対心を、軍国主義やむきだしの暴力に向かわせず、スポーツの競争のようなもっと被害の小さなはけ口に向かわせるよう、協調的な努力が行われてきた。
アイデンティティ・ポリティクスの根底にある戦略的計算は、これとは少し違っている。アイデンティティ・ポリティクスは、連帯の範囲を拡張することに関心を持っておらず、抑圧の下にいる人々の間でより強い連帯を促し、抑圧者に抵抗するための集合行為を促すことで、抑圧を打ち負かそうとしている。言い換えれば、アイデンティティ・ポリティクスの戦略は、抑圧の事実について意識を高めること(コンシャスネス・レイジング)を超えて、抑圧されているグループのメンバーに、自身はそのグループの一員なのだと考えるよう促し、それをアイデンティティの一部にさせることを目的としている。内集団のメンバーであるという感覚は、〔集合行為の能力を高めるという〕実践的影響に加え、多くの人が渇望している帰属の感覚を与える(これはリベラルな制度の抽象的な普遍主義では満足させられないものだ)。ナショナリズムも多くの人にこの帰属の感覚を与えるが、マジョリティ・ナショナリズムは排他主義的かつ不寛容で、リベラルな理念と相容れないと見なされがちである。対照的に、抑圧されたメンバーとしてのアイデンティティはこの2つを両立させられる。つまり、グループに帰属したいという原始的な欲望を満たしながら、全ては正義のためになされていると自分を納得させられるのだ(分離独立派や反植民地主義運動におけるマイノリティ・ナショナリズムも同様に、帰属感覚とリベラルな理念を表面上は調和させる)。それは、個人の抽象的な平等へのコミットメントと、もっと激しい、内集団と身内贔屓的な感情的繋がりを持ちたいという欲望とから生じる認知的不協和を抑える。
とはいえ、内集団の連帯の高まりが外集団への敵対心を伴う限り、ナショナリズムと同様、アイデンティティ・ポリティクスの戦略にも明白なリスクが存在する。言うまでもなく、アイデンティティ・ポリティクスへの最も強力な批判は、それが(倫理的にであれ認識論的にであれ)普遍主義的な原理に違反しているという懸念に基づくものではない(それは言うまでもないことだ)。最も強力な批判は、その戦略の負の心理的影響を真剣に考慮していない(あるいは、そうした影響が表面化した局面で、自らに責任がないとは主張できない)ために、自己破滅的になるリスクがある、というものだ。「連帯の高まり」の効果が解放的なものであるためには、抑圧される側においてのみ連帯が高まる(抑圧する側の連帯は高まらない)のでなければならない。言い換えれば、「アイデンティティ・ポリティクスはこちらのためのもので、あちらのためのものではない」という、根本的な非対称性が維持される必要がある。具体的に言えば、マイノリティ集団のメンバーのみがアイデンティティに基づく利益を増進し、マジョリティはそれを控えなければならない。
この非対称性は(特に、社会的アイデンティティの問題に最も苦しんでいるティーンエイジャーにとっては)正当化しがたく、偽善だという非難を広く招いている。しかし、理論的に一貫性のある仕方で正当化できたとしても、この非対称性を心理的に維持するのは難しい。マイノリティ集団において外集団への敵対心を育むことは、集団外の人間からの反動的な敵対心を呼び起こす傾向を持つからだ。社会的カテゴリー化は、その性質上、対称的な集団分極化をもたらしがちだ。これはどうしたって逆効果をもたらすものになる(ソーシャルメディアによって、アメリカの白人は現在、白人性をマイナスの価値を持つ特徴と見なすような、ひどい嫌がらせ的発言を日常的に受けている。これが白人のナショナリズムを高めたとして、いったい誰が驚くだろう?)。
モンクが考察するように、アイデンティティ・ポリティクスの支持者の多くは、こうした政治的介入の予期される帰結に関して、恐ろしいほどにナイーブだ。おそらく最も無鉄砲な行為は、(アカデミアにおける「白人性研究」と共鳴して)社会的アイデンティとしての「白人性」を意図的に育て上げたことだ。これは、アイデンティティ・ポリティクスの意図せざる負の帰結を取り上げ、意図的にその負の帰結を生じさせるようなものである。マジョリティ集団のメンバーに人種的なアイデンティティを育ませながら、ただその人種的アイデンティティに罪悪感を抱き懺悔すべきだとする考えは、説得的でないだけでなく、荒唐無稽だ。もちろん理論的には、「無徴」(unmarked)の人種集団の一員であることは特権の一形態であり、それは〔無徴の人種〕集団内の人種意識を高めることでしか克服できない、ということになっている。しかしこの理論はあまりに思弁的で、そうしたアイデンティティを育むことが外集団〔つまりマイノリティ集団〕のメンバーに負の帰結をもたらすだろうという懸念を真剣に考慮していない。
とはいえ、私はアイデンティティ・ポリティクスに反対したいわけではない。私の提案は、ナショナリズムの扱い方から学んだのと同じやり方で、アイデンティティ・ポリティクスを扱おうというものだ。つまり、アイデンティティ・ポリティクスはナショナリズムと同様に、1. 本質的に原理に基づいたものではなく、2. 心理的には頑迷で、3. 手段としては有用であり、4. 潜在的な負の副作用を、積極的に別の方向に昇華させるべきもの、と見なすべきなのだ。アイデンティティ・ポリティクスの場合、今必要とされているのは4にもっと焦点を当てることだ。具体的に言うと、西洋社会での外集団嫌悪(exophobia)の高まりが、社会正義という大義を促進するために採用してきたアプローチの戦略的失敗をもたらす可能性を、進歩派はもっと懸念すべきである。
〔Joseph Heath, The futility of arguing against identity politics, In Due Course, 2023/11/26〕
References
↑1 | 訳注:アメリカの国民的なコメディドラマ。 |
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↑2 | 訳注:人種差別撤廃運動における女性の立場についてカーマイケルが発したジョークを指していると思われる。以下を参照。https://en.wikipedia.org/wiki/Stokely_Carmichael#Views_on_women。 |
↑3 | 訳注:ベビーブーマー世代の思想を指す語で、「68年の思想」と同義。 |