ジョセフ・ヒース「左翼ポピュリズムの展望」(2025年11月22日)

現代世界の様々な側面を非難して、効果的なポピュリスト的スローガンを編み出すのは大して難しいことではない〔…〕問題は、左派にはこうしたスローガンに実際に対応するような政策がほとんど存在しないということだ。

少し考えてみてほしい。これまで、不平等というテーマを巡ってどれほどの議論が費やされてきただろうか。トップ1%とそれ以外の人々の間の格差の拡大に関してどれほどの記事が書かれてきただろうか。考え得るあらゆる点に関して人々の間に「格差」が生じているということを突き止めた論文がどれほど刊行されてきただろうか。グローバル不平等や所得不平等のトレンドを非難した学術書がどれだけ出版されてきただろうか。ではそれを、インフレというテーマに関して費やされてきた字数と比べてみてほしい。価格高騰の原因を糾弾するカンファレンスはどれだけ開かれてきただろうか。インフレが一般市民の生活に与える影響を論じた学術書はどれほど出されてきただろうか。不換紙幣から兌換紙幣への転換を求める怒りに満ちたパンフレットはどれほど書かれてきただろうか。

両者を比較するだけでも、現代の左派が陥っている苦境がよく見えてくる。ご存知の通り、進歩派の知識人の多くは、不平等を強く懸念する一方、インフレに関してはほとんど気にかけない。こうして見れば、なぜ左派が〔現在の状況に〕イラついているのか理解するのは容易い。アメリカのバイデン政権の不運を考えてみればよい。少なくとも2011年にオキュパイ運動が盛り上がって以来、富の不平等への怒りを焚きつけようとする試みが繰り広げられてきた。そうした怒りのいくばくかは民主党の支持へと繋がる、と期待されていた。だが、少なくとも選挙の面で言うと、こうした試みはほとんど全く成果を生まなかった。アメリカ人は経済問題ではなく文化の問題にばかり目を向けるよう仕向けられている、と言われていたのに、バイデン政権も末期に差しかかった頃、突如として全世界が深刻なインフレに見舞われ、アメリカ人は経済問題に関して激しい怒りに燃え上がった。この怒りは共和党への支持へと向かい、共和党はその見返りに、富裕層向けの巨額の減税を可決した。

この状況に多くの人が唖然としている理由を理解するのは難しくない。アメリカ人はなぜ、自分たちの経済状況にあれほど怒りながら、その苦境の実際の原因との明白な繋がりを見逃してしまうのだろう? なぜ移民に怒りを向けながら、大富豪には怒りを向けないのだろう? この怒りを利用して左派への支持を増やす方法が、きっと何かあるはずだ。かつては左派ポピュリストやポピュリストの左翼運動が存在したのである。なぜ今では、物事を進めるのがこれほど難しくなっているのだろうか?

ゾーラン・マムダニのニューヨーク市長選での当選は、こうした背景の下で理解しなければならない。バーニー・サンダースやアレクサンドリア・オカシオ=コルテスのような民主社会主義者の大物政治家たちは、「ポピュリスト」と呼ばれることがある。だが、彼らが最近敢行した「大富豪と闘う」というキャンペーンは、大きなムーブメントにならなかったし、ましてトランプへの支持を弱めることもできなかった(カナダ人はこの文脈で、マイケル・イグナティエフが聴衆たちに向かって「立ち上がれ」と呼びかけた場面を思い出してしまうかもしれない。誰もがこうした物事に向いているわけではないのだ)。一方でマムダニは、有権者に響くようなポピュリスト的メッセージとプラットフォームを作り上げ、最初の調査では支持率1%に満たなかったところから、一般選挙で50%以上の票を獲得して勝利するに至った。どうすればこの奇跡を再現できるのか、多くの人が知りたがっている。

ポピュリズムについて正確に理解すれば、マムダニの選挙キャンペーンとサンダース/オカシオ=コルテス式のキャンペーンの違いは容易く見て取れる。実のところ、両者の比較は、ポピュリズムに関する誤解の広まりがいかに左派の戦略を妨げているかを示す好例となっている。ポピュリズム、そしてポピュリズム的な怒りを理解する上で最も重要なのは、それが経済的エリートへの反逆ではなく、認知的エリートへの反逆であるということだ。ポピュリズムの中核は、インテリやその取り巻きが支持する「突飛な空論」を捨て、「常識」を肯定することにある。常識は、合理的な推論ではなく、直感の産物である。そのため、ポピュリズムを理解する手っ取り早い方法は、それを、システム2の認知に対してシステム1の認知を特権化する政治戦略と見なすことだ。

どちらの認知スタイルもそれぞれの強みと弱みを持つが、重要な違いは、直感〔システム1〕は世界との相互作用を通じて引き出されるため、非常に具体的な「一次」表象に焦点を当てることだ。一方、分析的システム〔システム2〕は「デカップリングされた」表象を操作でき、これは、抽象的、仮説的、反事実的な状態に関する推論を可能にする。キース・スタノヴィッチが論じてきたように、デカップリングは、主として注意の持続が求められるために、労力がかかる

進化は、デカップリングのコストを高くつくものにした。これには非常にもっともな理由がある。私たちが認知的シミュレーションに強く頼る最初の生命体になりつつあった時代、現実世界から長い間「遊離」してしまうのを避けることが非常に重要であった。それゆえ、世界の一次表象の取り扱いは、常に特別な顕著さを持つ。グレンバーグ(Glenberg, 1997)は、デカップリングの難しさを示す証拠として、深い思索を行うときに目を閉じる(あるいは空を見上げる、視線を逸らす)という行動を挙げている。私たちはこうした行動をとることで、世界の一次表象の変化が、進行中のシミュレーション(つまり、二次表象の変換)を妨げるのを防ごうとしているのだ。

ポピュリストの訴えとテクノクラートの訴えとを見分けるための簡単な目印は、ポピュリストのメッセージが一次表象に縛られているということだ。例えば、「生活費(cost of living)」は一次表象ではなく、抽象概念だ。だが、食料品価格は一次表象である。スーパーの棚を見るなり、最後に買ったオレンジジュースやパンの価格を思い出すなりすれば、「食料品価格」はすぐイメージすることができる。これはもちろん、トランプが多くの時間をかけて語っていたことであり(「食料品、なんてシンプルな言葉だろう」)、アメリカのバラモン左翼が嘲笑してきた点でもある(例えばここを参照)。だがそうやって嘲笑することで、左派はある種、高次の愚かさを露呈している。スタノヴィッチが考察しているように、一次表象は抽象概念と違い「特別な顕著さ」を持つのである。

マムダニはどうやら、トランプの発言から明白な結論を引き出した数少ない人物の1人であったらしい。トランプが食料品について語るのを(鼻持ちならない高慢さで)嘲笑する代わりに、左派も食料品について語るべきだとマムダニは考えた。そのため、マムダニの選挙キャンペーンでの主要公約の1つは、公有の市営食料品店を設立して食料品価格を下げる、というものだった。もちろん、食料品店が不当な利得を得ているために食料品価格が高騰しているわけではない、ということは、インテリの多くと同様、マムダニも恐らくは理解しているだろう。ニューヨークの食料品店の利益率が非常に低く、主要なコストはサプライチェーンのもっと上流で生じている、というデータを見つけるのは難しくないのだから。問題は、「サプライチェーン」というのが完全に抽象的な概念であることだ。そのため、ほとんどの人にとって「サプライチェーン」なるものは存在しないも同然である。食料品価格を低下させるきちんとした政策を立てたいなら、農業補助金、輸送コスト、小売業の間接費などについて考えるのが筋だろう。だがそんなことを語っても、一般市民を沸き立たせることはできない。生活費の高騰に怒っている人々は、サプライチェーンの連鎖の最後にあたり、最終消費者へと商品を直接販売する小売店(つまり、食料品店)に怒りを向けるだろう。

マムダニの市営食料品店の公約は、アメリカの医療保険会社に向けられている怒りと明らかに類比的である。ニューヨークの路上で生じたユナイテッドヘルスケアCEOの射殺事件も、ポピュリスト的な盛り上がりを生み出し、殺害容疑をかけられたルイジ・マンジョーネは英雄視されることとなった。このときも、経済オタクたちがわらわらと現れて、健康保険会社の利益率はかなり低いので、アメリカの医療システムのコスト高騰は保険会社の責任ではない、と指摘していた。だがこのような分析は、一連の抽象概念(例えば「モラルハザード」)に依存しており、直感では理解不可能だ。食料品店と同様、保険会社も、医療のサプライチェーンにおいて最終消費者と相対する最後の部分である。さらに、保険というのはそれ自体、難解な商品であり、理解できている人はほとんどいない(ほとんどのアメリカ人は、保険会社はいかなる価値も生み出しておらず、請求を拒否することで収益を得ていると考えている)。そのため、医療費高騰に怒っている人々(現在医療費債務を負っているアメリカ人の3分の1が含まれると思われる)にとって、医療保険会社というのは責めるべき相手として自然なのだ。

こうして分析してみると、サンダース/オカシオ=コルテス式の「悪いのは大富豪だ」というキャンペーンが、なぜ本当の意味でのポピュリズムと言えないのかが分かるだろう。不平等を批判することの問題は、不平等もまた抽象概念であり、不平等それ自体を気にかけるのはインテリだけであるということだ。一般市民は所得不平等や富の分布に関して何も知らないということを示す研究はたくさん存在する。その理由の1つは、人々が不平等を大して気にかけていないからだ。人々が気にかけているのは、何よりもまず、自身の経済状況である。他人の経済状況にいらだつ場合でも、その態度は特定の準拠集団(reference group)との比較に基づいている。人々が自分と比較するのは、隣人、高校の同級生、兄弟姉妹など、自分と似たような状況にあると考えられる個人または集団だ(それが一次表象を形成する)。そうして、自分の状況がそうした人々と比べてどれぐらい良い・悪いかを基に、自分の人生の成功度合いや物質的な満足感を判断するのだ(この点で、H・L・メンケンの「真に豊かな男性とは、妻の姉妹の夫よりも多くを稼いでいる者のことだ」という考察には一片の真理が含まれている)。

ジェフ・ベゾスのヨットやイーロン・マスクの実効税率の低さを非難することが政治戦略として問題なのは、こうした大富豪がほとんどのアメリカ人にとって、完全に比較対象の外にあるということだ。そのため、大富豪の経済状況は、一般市民が自身の経済状況と比較できるようなものではない。人々にこうした抽象的な事柄について考えさせ、怒りや強い感情を湧き起こさせるというのは非常に難しい。

ポピュリズムを効果的に利用するには、一般市民が気にかけている問題に焦点を当てるだけでなく、一般市民による問題のフレーミングの仕方も、多かれ少なかれ受け入れなければならない。こうして、左派にとってジレンマが生じる。一般市民による問題のフレーミングは、複雑な現代社会において、大抵の場合間違っているからだ。結果、左翼政治家が真正のポピュリストになれるような問題を見つけるのは非常に難しい。例えば、気候変動であれ、公共交通機関であれ、医療費高騰であれ、左派が解決したいと考える問題の多くは集合行為問題である。残念ながら、集合行為問題は極めて反直感的だ(私は黒板を使いながら集合行為問題の基本構造についてゆうに1時間説明することもあるが、それでも学生たちはそれを誤解してしまう)。選挙キャンペーンで食料品店に焦点を当てるとしても、真に食料品価格を低下させたいなら、政府介入がより効果的となるような、サプライチェーンのもっと上流に目を向ける必要がある。結果的に、このような選挙キャンペーンはちょっとした釣り商法(bait-and-switch)となってしまう。

もちろん、真の左翼ポピュリストは存在する。だが、彼ら彼女らは進歩的な政策目的の実現において、目覚ましい成績を残せていない。ナオミ・クラインやリンダ・マクウェイグといったカナダ左翼の大物たちは、ベネズエラのウゴ・チャベスを支持して痛い目を見た。チャベスの問題は、彼が真のポピュリストであったことだ。単にバカのふりをしていただけでなく、インテリの奉じる「突飛な空論」を本当に拒否していたのである。ベネズエラ経済のインフレ(特に食料品価格の高騰)に対するチャベスの対応は、生活必需品に価格規制を敷くというものだった。チャベスはそのプロセスで、基本的に経済の全セクターを違法にした。具体的に言うと、損失を出さずに食料品を販売することを不可能にした。人々はこの政策を受けて、市場から財を引き上げた。特に、多くの農家は自家農業に切り替えて、商業作物の栽培をやめた。何百万のベネズエラ人が飢餓の寸前まで押しやられ、経済は完全に崩壊し、人口の約25%が国を離れた。こうして、近代でも最悪の経済的破滅の1つを自ら招くこととなった。

私の考えでは、問題はチャベスが社会主義者だったことではなく、ポピュリストだったことだ。世界を理解する上で一次表象しか用いないならば、インフレは商品価格の全般的な上昇のように見える。難解な推論を辿っていけば、この見かけがミスリーディングであり、インフレが実際には貨幣価値の下落に過ぎないということが分かる。この抽象的な推論を辿れる人々は、インフレに対する正しい政策対応が、貨幣価値の下落を止めるための金融政策(例えば金利を上げたり、貨幣供給を絞ったりすること)であると理解できる。これは、ポピュリストによるインフレへの対応とは正反対だ(世界のどこを見ても、ポピュリストがやりたがることと言えば、金利を下げることである)。チャベスの政策は、物事を具体的に考えようとする人が惹きつけられがちなものだ。彼は、財の価格を上げた人に対して、それをやめるよう命令したのである。そして、命令への対応の仕方が気に食わなければ、軍を送って商品を没収した。

ここに、左派が昨今夢中になっているポピュリズムへの羨望の問題点が見てとれる。現代世界の様々な側面を非難して、効果的なポピュリスト的スローガンを編み出すのは大して難しいことではない(とはいえ、自分自身でない人や、自分自身が属しているのでない集団が被っている不正義を和らげるために、特定の政党を支持するよう有権者に呼びかけるというのは、もはやポピュリスト的な訴えではない、ということは記しておくべきだろう)。問題は、左派にはこうしたスローガンに実際に対応するような政策がほとんど存在しないということだ。左派が置かれたこの難しい立場は、2020年の「警察予算を打ち切れ(defund the police)」の熱狂にも見て取れる。このスローガンはポピュリズム的な盛り上がりを生み出したが、それが何を意味し何を含意しているのかについては、なんの合意にも辿り着かなかった。ある意味で、「警察予算を打ち切れ」運動においてインテリたちが同意できていたのは、このスローガンが通常の英語の意味で用いられていないということだけだったように思える(同様に、アレックス・ヴィターレ(Alex Vitale)の『取り締まりの終焉(The End of Policing)』〔未邦訳〕を買って読んだ人は、タイトルが言葉遊びであり、ヴィターレが取り締まりの終焉を求めているわけではないことに気づいて失望したと思われる。この本は取り締まりの〔是非ではなく〕目的を論じるものだったのだ)。

繰り返すが、この種の釣り商法は、左翼ポピュリズムにとって避けられないものだ。多くの人がこのようなキャンペーンに気乗りしていないのも恐らくそのためだ。マムダニは明らかにたぐい稀なる有能な選挙戦術家であり、トランプの感覚を理解できる人物であるようにすら見える。問題はマムダニが、彼を当選へと至らせたポピュリスト的な炎を消してしまうことなく、ニューヨーク市民の生活を向上させるために真に必要なテクノクラシー的政策を実行できるかどうか、である。

[Joseph Heath, The prospects for left-wing populism, In Due Course, 2025/11/22.]
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