ジョセフ・ヒース「なぜ哲学者は未だにロールズについて語り続けているのか?」(2026年2月11日)

この気取ったところがない、多くの面でナイーブなアメリカの哲学者が、いったいどのようにして、コロッサス〔巨人〕のごとく世界を支配するに至ったのだろうか? 本エントリでは、このわけを説明していきたいと思う。

〔本エントリは、政治学者のヤシャ・モンク(Yascha Mounk)氏が創設したオンライン・マガジンPersuasionに掲載されたものであり、ジョセフ・ヒース教授の許可に基づいて翻訳・公開している(元記事はこちら)。〕

編集部

本エントリを、私たち〔Persuasion〕の新シリーズ「リベラルな徳と価値(Liberal Virtues and Values)」の記事の1つとして掲載できることを嬉しく思います。

リベラリズムが脅威に晒されている、というのは今やクリシェになっています。ですが、そうした決まり文句が反リベラリズムの世界的な復活になんら太刀打ちできていないのも事実です。その一因は、リベラリズムが、市民の支持を取り付けるにはあまりにも「薄い」思想と見なされがちであること、そして、リベラル自身が道徳的な語彙で物事を語るのを恐れすぎていることです。対照的に、リベラリズムの敵対者たちは、人々の情念や深い道徳感情に訴えかけています。

本シリーズは、ジョン・テンプルトン財団(John Templeton Foundation)からの寛大な支援により実現したものです。このシリーズで私たちは、以上のようなリベラリズムの語られ方を変化させることを目指します。ポッドキャストでの議論や長文記事の発信を通じ、リベラリズムがそれ固有の徳と価値を有していること、そうした徳と価値が、権威主義を突き動かしている不満に応答できることを示すようなコンテンツを取り上げていきます。リベラリズムの徳と価値を示すことで、リベラリズムが信ずるに足る(そして擁護するに足る)イデオロギーであるという信頼を取り戻すことができるでしょう。

* * *

世間の見方によると、大学は文化的マルクス主義、批判的人種理論、ポストモダニズムに支配されており、ラディカル左翼の洗脳装置と化している、ということになっているようだ。過去30年間の知的な流行や熱狂をアカデミアの内部で間近に見てきた人間として言うと、申し訳ないが、この認識は単に誤っているだけでなく、事実とは正反対である。私のキャリア全体を通じて、政治哲学、法理論、政治学における覇権的イデオロギーは、アメリカ式のリベラリズムであった。それも、単なる一般的なアメリカ的リベラリズムではない。ジョン・ロールズがその仕事を通じて明示化した、リベラリズムの伝統の非常に具体的な現れである。

実際、思想界は長らくロールズの完全な支配状態にあり、誰もがロールズについて語るのに飽き飽きしているほどだ。ロールズの影響がどれほど甚大であったかという感覚を掴みたいなら、過去1世紀の間に英語圏で出版された政治哲学の著作の中で最も引用されている上位5つの文献を見てみるといい。そのうち2冊はロールズの著書であり〔『正義論』『政治的リベラリズム』〕、他の3冊はロールズの議論に応答した著書だ〔ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』、セン『正義のアイデア』、キムリッカ『多文化時代の市民権』〕。政治哲学とは、私の記憶の範囲では、基本的にずっとロールズ一色であった。10年ごとに新しい本が現れて、別の話題を提起し、パラダイム・シフトを約束するのだが、その勢いも徐々に失われ、結局みながロールズに引き戻されるのだ。

なぜロールズはこれほど長く影響力を保ち続けているのだろか? この気取ったところがない、多くの面でナイーブなアメリカの哲学者が、いったいどのようにして、コロッサス〔巨人〕のごとく世界を支配するに至ったのだろうか? 本エントリでは、このわけを説明していきたいと思う。

だが本題に入る前に、ロールズの著書を正当に評価する上で邪魔になっているいくつかの要素を確認しておこう。ロールズの著書の何章かを読んでも、彼の議論の何がそれほど重要なのか理解できない、という人は多い。問題は、ロールズの文章が不明瞭という点にあるのではない。ロールズの英語は、完全に普通の平凡な文体である。註釈の利用も控えめで、他の論者の議論を取り上げることも少ないので、背景知識をほとんど持たない読者でも読めるようになっている。ロールズの文章の最大の問題点は、退屈なことだ。ロールズが言っていることのほとんどは、自明に思えてしまうのだ。全ての議論が控えめに論じられているので、その重要性が見過ごされてしまいやすいのである。

また、ロールズの最も有名な議論(すなわち「無知のヴェール」と「格差原理」に関する議論)が実際には上手くいっていない、という点に気を取られてしまう読者も多い [1] … Continue reading 。この点で、ロールズはイマヌエル・カントと少し似ている。多くの読者は、カントの道徳哲学の議論を真剣に受け止めることができずにいる。『道徳形而上学の基礎づけ』の第2章でカントが展開する「定言命法」の論証は上手くいっていないからだ。だが、カントの提示する道徳の至上原理が間違っているということだけをもって、カントの道徳に関する議論にはなんら興味深い点がない、と結論づけてしまうのはひどい誤りである。カントの道徳哲学において重要なのは、彼の問題設定の仕方だ。道徳に関する私たちの思考に革命をもたらしたのは、カントによる問題の枠組み設定であって、その問題に対して彼が提示した解決ではない。

全く同じことがロールズにも言える。私が身を置いている哲学の業界で、ロールズの提案した具体的な正義の原理を支持している人に遭遇したことは一度たりともない。ロールズの仕事の重要性を理解するためには、彼が現代リベラリズム、そしてリベラルな政治哲学の問題の枠組みをどのように設定したか、という点に目を向ける必要がある(入門教科書を読んでもロールズの重要性を掴むのが難しいのはこのためだ。入門書は、ロールズの見解の教義的側面〔格差原理など〕に焦点を当てがちだが、そうした側面こそ、ロールズの議論の中で最も擁護しがたく、また最も面白みのない部分なのだ)。

ロールズは(良い意味で)アメリカ人なので、主著である『正義論』の冒頭で、自身の考えを極めて明晰かつ平易な文体で述べている。

本書の目標は、ロック、ルソー、カントに見出されるおなじみの社会契約論を、一般化しかつ高度に抽象化した正義の構想を提示することだ。この目標を達成するには、原初契約を、特定の社会に参入するためのものとか、特定の統治形態を設立するためのものとかと考えるべきではない。むしろ、本書の指針的なアイデアによれば、社会の基本構造に関わる正義の諸原理こそが、原初的な合意の対象である。 [2]訳注:川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論 改訂版』p. 16。訳文は一部改変。

これが、ロールズの見解における最初にして最大の重要なパラダイム・シフトである……のだが、文体があまりにシンプルなので、この点は見落とされてしまいやすい。18世紀の古典的な社会契約論は、リベラリズムの基本原理を確立した一方で、一般性を欠いていた。それは、国家についての理論でしかなかったのだ。そのため、その他の社会領域に関しては、国家介入から自由であるべきだという以外に、何も言うべきことを持たなかった。19世紀に入ると、これは社会契約論の大きな弱点となった。19世紀は、産業化、都市化、プロレタリア化が進行した時代だが、社会契約論は、ますます増大していく大量の社会問題(経済領域で生じていた問題のほとんどを含む)に対して、何一つ語ることができなかったからだ。そのため、リベラリズムは20世紀初頭に実質的な死を迎えた。当時の最も差し迫った問題群についての議論から身を引いてしまったのだ。

ロールズによるリベラリズム再興の戦略は、社会契約をより抽象的な仕方で概念化し直すというものだった。ロックやルソーの議論に見出せるおなじみのストーリーによれば、人々は当初「自然状態」に置かれているが、そこから抜け出すために主権を創出する。これは、人々が当初、集合行為問題に陥って互いに協力できないでいるが、その状況から抜け出すために制度を創出する、ということのメタファーと捉えるべきだ。この観点からすると、社会は「相互利益のための協力の企て(cooperative venture for mutual advantage)」と見なすべきである [3] … Continue reading 。そして、社会は基本的な制度構造によって統制されている。この基本構造の中には国家も含まれるが、国家だけに留まるわけではない。とりわけ重要なものとして、経済(所有権と交換関係のシステム)も基本構造には含まれている。

協力のシステムを編成する方法は無数に存在する。そのため、協力システムの具体的なあり方を選択する必要があるが、この選択問題は、単に当事者たちの自己利益に訴えかけるのでは解決できない。そこで、協力のあり方を決定するために、一連の原理が必要となる。ロールズが言う「正義の理論」とは、基本的にこうした原理の集合である。どのような協力システムを選択するかに関して合意に至る上で、最大の障害となるのは、自己利益に従う個人が利己的な提案を行いがちなことだ。他の人は当然ながらこの提案を拒否するので、これでは合意に至ることができない。それゆえ、合意を達成するための最良の方法は、利己的な提案を行う傾向を中和することだ。そのために、個々人が、自身が社会においてどんな位置を占めることになるか知らない状態で、正義の原理を選択しなければならない、という状況を想像してみるのである。正義の理論は、そうした制約下で支持されるだろう原理によって構成されるべきだ、とロールズは主張した。そうした原理の有力候補としては、経済学者が好む「パレート効率性」の原理や、適切に定式化された「平等」の原理が挙げられる。

ロールズはこうして、社会契約論を概念化し直した。これは、いくつかの成果をもたらした。まず、正義の概念が、従来の見解に比べ大幅に脱神秘化された。かつては、正義の原理とは神から言い渡されたものだとか、説明も擁護もできないような直観によって把握されたものだとかと言われていた。一方、ロールズの見解では、正義は安定的な協力のシステムを作り上げるための努力から有機的に生じるものだ。こうして、正義を確立しようとする私たちの試みは、人間社会の歴史における重要な要素と位置づけられるようになった(もう少し哲学寄りの言い方をすると、ロールズの規範原理は、特定の社会存在論的見解と結びついていた)。人類の文明の軌跡を辿っていくと、より広範でロバストな協力のシステムを構築しようとする試みを見て取ることができる。また、それに伴い、そうした協力のシステムのうちでもとりわけ成功している制度を構造化している正義の原理を明示化する試みが、ますます洗練されていっていることも見て取れる。ロールズの見解が影響力を保ち続けている理由の1つは、この社会の描像が大きな説得力を持っていること(そして、競合する見解がこれに匹敵するような説得力ある社会の描像を持ち合わせていないこと)だ。

ロールズの議論が成し遂げたもう1つの(もっと明白な)成果は、古典的リベラリズムの最大の弱点を修正したことだ。ロールズの正義の原理は、国家だけでなく社会全体に適用される。結果、経済が資本主義的に編成されるべきか、社会主義的に編成されるべきか、その中間であるべきか、という問題は、リベラリズムの枠組みの中できちんと議論できるものになった。実際、ロールズ主義的視点をとれば、経済における国家の適切な役割に関して、極めて細かいレベルで問いを立て、それに答えることができる。一方、古典的リベラリズムは通常、自由放任資本主義を支持する傾向にあったが、それは何か積極的な根拠があったからというより、単に私的領域に適用できるような正義の理論を欠いていたからに過ぎなかった。こうして、ロールズの議論により、西洋リベラリズムの「諸子百家」時代が到来した。すなわち、理論家たちが、様々な領域におけるロールズの議論の含意を探究するようになったのである。

* * *

『正議論』は、1971年に出版されるやいなや大きな注目を集め、同時に多くの批判も浴びた。『正義論』時点でのロールズはまだ、政治哲学の問題(例えば「正義とは何か?」)を、プラトンと同じ仕方で扱っていた。つまり、政治哲学の問題を、解くべき知的パズルの集合と捉えていたのだ(そのため、「正義とは何か」が突き止められれば、その理想を実現するような社会の構築へと進めばよい、と考えていた)。そしてロールズはすぐさま、プラトン以来の問題に直面することとなった。彼は、自らが支持する正義の構想を、最も賢明な仕方で擁護したにもかかわらず、多くの人はなおも彼の議論に同意せず、彼とは全く異なる見解を擁護し続けたのだ。

こうして、ロールズの仕事における第2の重要な展開が生じた。ロールズは2冊目の著書『政治的リベラリズム』において、全員の意表を突く変化球を投げた。哲学者のほとんどは、自身の議論に対して反論を突きつけられると、当初の方法にいっそうこだわって、より良い議論を提示しようとする。そうすれば、批判者を黙らせ、全ての不同意を終わらせることができるだろう、と願いながら。しかし、ロールズは異なる道を選んだ。批判者たちに対するロールズの応答を会話調で表現するなら、次のようになるだろう。

「私は、私の支持する正義の構想をあなたに提示しました。あなたも、あなたの支持する正義の構想を私に提示しました。私たちは確かに不同意を抱えています。その上、私たちの双方と意見が合わない(いっそう強い不同意を抱えている)人々も世の中には存在しています。例えば、様々な宗教伝統の正統的な信仰者たちを考えてみてください。もしかすると、いつの日か誰かが、大変に説得力のある議論を思いついて、全人類が合意に至れる日が来るかもしれません。ですが、それまでの間、私たちは不同意を抱えたままでしょう。それでも、不同意を抱えているにもかかわらず、私たちは相互に利益をもたらすような協力に取り組むことができます。そのような協力のシステムを確立するには、なんらかの原理が必要になります。これを、正義の原理と呼んでもいいでしょう。私たちは根本的な正義の問題に関して不同意を抱えている人々の間で協力のシステムを打ち立てようとしているのですから、当然ながら、正義の原理は、特定の見解の正しさを前提にしてはいけません。正義の原理は、あらゆる立場から自立的(freestanding)でなければならないのです。」

ここでもロールズは、議論を控えめに提示してしまう天賦の才のために、このような意味での「自立的」な理論を、正義の「政治的」構想と呼ぶことを提案している(だから『政治的リベラリズム』というタイトルなのだ)。そして、『正義論』で提示された正義の理論は、「正義とは何か?」という昔ながらの問いに対する正しい答えではなく、正義の政治的構想の一候補と見なすべきだ、と主張した。それは、(もう少し強い意味で)最良の理論が何であるかについて議論を続けていく間、用いるべき当座の理論と考えられる。

多くの哲学者はこの議論に当惑した。というのも、ロールズは、哲学者たちが慣れ親しんでいる論争ゲームの中で駒を進めるかわりに、ゲームの盤面をひっくり返したからだ。ロールズは哲学者に対して、ゲームそれ自体を変えるよう勧めたのである。社会の最良のあり方、善の本性、人生の意味、といった伝統的な1階の問題に答えを与えようとするかわりに、そうした1階の問題に対する正しい答えに関して同意に至れない人々が、それでも受け入れられるような原理を見つけ出す、という2階の課題に取り組むべきだ、とロールズは主張したのである。

このアプローチは、個人の権利といったリベラルの伝統的観念に対して、全く異なる考え方を提示した。私は、孤独な観想的生活こそが善き生に不可欠だと考えるかもしれない。一方であなたは、野放図に快楽を求める生き方を選ぶかもしれない。だが、こうした違いはあれど、この両立し得ない善き生のビジョンをそれぞれが追求できるよう、それぞれに一定の権利の束が与えられるべきだ、という点についてなら私たちは合意できる。そうした権利は、まず何よりも、他者による干渉から私たちを守ってくれるからだ。つまりロールズは、深い分断を抱えた問題を解決しようとするかわりに、可能な限り最も浅い合意の基盤に焦点を当てるべきだ、と提案したのである。そうすることで、彼の言う「重なり合う合意(overlapping consensus)」が達成できる、とロールズは論じた。

こうして見ると、エイドリアン・ヴァーミュール [4]訳注:ハーバード大学ロースクール教授。カトリック教徒で保守派の憲法学者として知られている。邦訳に『リスクの立憲主義』など。パトリック・デニーン [5]訳注:ノートルダム大学教授。『リベラリズムはなぜ失敗したのか』の著者で、ポストリベラリズムの代表的論客。 といった、反リベラルな立場をとる近年の「共通善保守(common good conservatives)」の論者たちが、哲学者たちからあくび交じりの〔冷淡な〕反応で迎えられた理由も理解しやすい。ロールズ以後の世界では、こうした見解はいかなる意味でもリベラリズムへの挑戦と見なすことができないのだ。共通善保守の論者は、正義の問題に関して政治的に思考しようとする努力を全く行っていないからである。彼らは古いゲームを未だに続けており、ロールズが議論の土台自体をひっくり返したことに気づいていないようだ。そのため、共通善保守の論者に対してリベラル側がなんらかの応答を行う必要があるとすれば、それは次のようなものになるだろう。

「おめでとうございます、あなたの支持している善き生の構想を上手く明示化できたんですね! 次のステップは、お仲間のキリスト教徒たちに、カトリックの教義の正しさを説得することです [6]訳注:ヴァ―ミュールやデニーンはカトリックを支持している。 。それができたら、無神論者、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒などを説得する作業に取り掛かってください。そこで合意に至ることができれば、理想社会を建設するためのスタートが切れます。ですが、合意を達成するまでの間も、社会制度を統制する一定の原理が必要になるでしょう。私たちは当分の間、互いに不同意を抱えたままでしょうが、それでも相互に利益をもたらす協力に取り組める機会はたくさんあるからです。私たち〔リベラル〕はまさにこのようなことについて語ってきたのです。この議論に貢献できる材料を持っているとお考えなら、どうぞ遠慮なさらず、私たちと議論しましょう。」

いつの日か道徳的天才が現れて、全人類を統一できるような魅力的な善き生のビジョンを提示するかもしれない、という可能性をロールズが排除していなかった点に注意しておこう。ロールズは、政治的リベラリズムへのコミットメントを、彼の言う「多元性の事実(fact of pluralism)」に基礎づけている。それは、善き生の問題に関する理に適った不同意(reasonable disagreement)が、まず何よりも、私たちが暮らす世界の経験的特徴であって、必然的特徴ではない、という点を強調するためだ。同時にロールズは、この現状が変化する見込みが高いとも考えていなかった。むしろ、自由で平等な状況において人間理性が発揮されれば、善き生の性質に関する不同意は、減るのではなく増えていく傾向にあるだろう、と彼は述べている。

言い換えれば、人間存在に関する深い問いになると、誰も悪い意図を持っていなくとも、また誰も推論や判断の誤りを犯していなくとも、人々は異なる答えに行き着く傾向にある。こうした問いに関して人々がより自由に考え議論できるようになるほど、生み出される見解は多様になっていく。そのため、価値の多元性は一過性の現象ではなく、リベラル・デモクラシー社会の恒常的条件と考えるべきだ。重要なのは、価値が多元的であるからといって、正義に関する議論ができなくなるわけではない、ということだ。リベラリズムの伝統は、その歴史全体を通じて、特定の価値の正しさを前提とせずに擁護できる原理を見つけ出すことを、その中心目標としてきたのである。

* * *

以上を踏まえると、なぜ現代の哲学者の多くが、リベラリズムの歴史をロールズ以前とロールズ以後に分けて考えるのかは説明しやすい。ロールズが重要なのは、彼の提示した具体的な教義のためではなく、現代社会の直面する政治的問題に対して彼が採用した一般的アプローチのためなのだ。むろん、ロールズがリベラルな哲学にもたらした革命は、それ固有の難点も伴っていた。例えば、古典的リベラリズムと違い、現代リベラリズムは、憲法や個人の権利の理解に関してずっと曖昧だ。リベラルな社会における選出民主制の役割という伝統的な問題に関しても、簡潔な答えを提示できていない。国際法やグローバル正義の問題を扱えるように理論を拡張するのも容易なことではない。マイノリティの権利、人種関係、家族問題への応用に関しても、議論が割れている。こうした弱点や曖昧さは、膨大な批評や議論を生み出し、政治理論家をここ数十年ずっと忙しくさせてきた。

もちろん、リベラルな思想がアカデミアで比類なき覇権を握っている時代に、西洋社会で左右の別を問わず反リベラリズムが台頭しているというのは、ちょっと皮肉な事態である。大学が若者を堕落させていると非難する向きもあるが、学部1年生向けの講義を担当している教員のほとんどは、学生たちが既にしっかりと反リベラルな思想を持って大学にやってくるということを実感している。そのため、私たち教員は、学生たちにそうした思想を再考するよう促さなければならなくなっている。私自身、ロールズの「理に適った不同意」という概念を教える際、かつてなら5分も概説すれば十分だったのが、今では1講義丸ごと使って説明している。

同様に、多くの大学(私の勤めるトロント大学を含む)で人事職員が暴走しているというのは、現実の問題として確かにある。だが、それは彼ら彼女らが私たちの講義を聴いたからではない。もし講義を聴いていれば、私たちがひどく穏健だが同時に奇妙な説得力を持つ理論、すなわちジョン・ロールズのリベラリズムに過剰なほどの時間を費やしていることに気づくだろうからだ。

[Joseph Heath, The Unexpected Persistence of John Rawls, Persuasion, 2026/2/11.]

References

References
1 原注:詳細について知りたい人向けに説明しておこう。ロールズは、個人が自分の占める社会的立場を知らずに(「無知のヴェール」の下で)社会に関する正義の原理を選ぶように強いられれば、最も悪い境遇にある個人の利益を最大化するような制度編成を選ぶだろう、と考えた(「格差原理」)。批判者たちはすぐさま、個人が通常の確率的推論を行えば、平均的利益を最大化する社会編成を選ぶはずだ、と指摘した。格差原理を選ぶのは、異常にリスク回避的な人か、偏執狂(つまり、自分が占めることになる社会的立場は、最悪の敵によって決められる、と予期している人)だけだろう。
2 訳注:川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論 改訂版』p. 16。訳文は一部改変。
3 訳注:邦訳では「相互の相対的利益(ましな暮らし向きの対等な分かち合い)を目指す、協働の冒険的企て」(川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論 改訂版』p. 7)となっている。訳者には、このような訳し方をしなければならない理由が理解できないので、「相互利益のための協力の企て」というシンプルな訳語を採用した。
4 訳注:ハーバード大学ロースクール教授。カトリック教徒で保守派の憲法学者として知られている。邦訳に『リスクの立憲主義』など。
5 訳注:ノートルダム大学教授。『リベラリズムはなぜ失敗したのか』の著者で、ポストリベラリズムの代表的論客。
6 訳注:ヴァ―ミュールやデニーンはカトリックを支持している。
Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts