〔「その1」の翻訳記事はこちら〕
中国の現在の経済的困難を解釈する上で、分析アプローチにおける根本的な問題が生じている。当ブログ『チャートブック』でミニ連載記事を始めたのは、この問題について議論するためだ。
〔中国の現状を〕「権威主義の行き詰まり」(考え直した結果、その1のタイトルを修正した)であるとする解釈は、アダム・ポーゼン〔ピーターソン国際研究所所長〕がフォーリン・アフェアーズ誌〔英語/日本語〕で力説している。ポーゼンは、中国が今、あらゆる権威主義政権が必然的に陥る運命に見舞われていると論じている。それゆえ、ポーゼンの論文のタイトルは「中国経済の奇跡の終わり」(The End of China’s Economic Miracle)となっている。
これは、財産権、信頼、自己拘束に関する超歴史的な〔trans-historic:どの時代でも共通する〕哲学に根ざした見解であり、リベラル志向の欧米人には明らかに魅力的である。
経済学者のマイケル・ペティスは、この見方に対して最も鋭い批判を展開している。
アダム・ポーゼンは、中国経済が現在直面している問題を正しく認識しているが、問題を引き起こした要因や北京〔中国政府〕が講じるべき経済回復の措置については、彼の説明は(私の見立てでは)まったくの的外れである。
ペティスのツイッター(X)
ペティスの見解をここで詳しく繰り返すのは控えたい。中国に関心のある人は皆、彼の日々の論評をフォローした方がいい。彼の論評は(毎回!)中国の政治経済における構造的な問題の分析に根ざしている。彼の分析と説得の取り組みは、実にユニークで、持続的かつ鋭い。〔本記事で〕私がしたいことは、ペティスとポーゼンの意見が対立する論点を明らかにすることで、(できれば)この議論に付加価値をつけることである。
ペティスが指摘するように、「権威主義の行き詰まり」論は歴史との矛盾を抱えていえる。「政府当局はまず腐敗した役人を捕まえ、次にハイテク産業の寡占資本家を捕まえ、そして自分(普通の中国人)を捕まえに来た」という具合で、ゼロコロナの失敗を中国に対する国民の信頼の断絶点と見なすのは、道徳的な筋書きとしてはいいかもしれない。しかし、中国経済の問題は2022年になって始まったわけではない。すでに2019年には、その成長の軌道が懸念されていたのである。この点を一般化して論じるなら、「リベラルな反権威主義の歴史観には、論理の飛躍した歴史解釈と根拠の薄弱な歴史解釈の両面がある」と言うことができよう。歴史解釈が飛躍しているのは、物事がどのように進むかを(「よくある話」として)最初から確信してしまっているためである。
しかし、そのような歴史解釈では、何故そうした避けられない災難が、とある時代に実際に起きてしまうのか、理由がわからないままになってしまう。これについては、チャールズ・メイヤー(ハーバード大歴史学教授)が一昔前に指摘している。メイヤーは、『History Workshop Journal』での素晴らしい論文で、1989年のソビエト政権崩壊に関連づけてこの問題を論じている。ポーゼンもまたこの問題を認識しており、中国がこれまで受けてきた「奇跡」の恩恵が今や過去のものとなったと率直に論じている。
これに対してペティスの説明は経済史と経済分析に基づいており、ポーゼンや権威主義的行き詰まり論者が提示する説明とは根本的に異なっている。
今、中国の成長を遅らせている根本的な問題は、権威主義がインセンティブや財産権を弱体化させ、民間部門に対する信頼や投資を低下させていることではない。真の問題は、中国の政権が権威主義的な手段だけでなく、金融的抑圧というもっと巧妙な手法を使って、大規模な社会経済的不平等を引き起こしていることである。家計の可処分所得の抑制、またそれによる有効需要の抑制こそが、中国経済の根本問題なのだ。消費が占める割合が驚異的に低く保たれている一方で、投資が占める割合は非常に大きく膨張している〔下記Xのポストのグラフは青線が米国、赤線が中国の投資対GDP比〕。中国経済の問題は、供給側(企業経営者や投資家)ではなく、家計や消費者の需要側にある。
この偏りは社会的不均衡になっていると言えるだろうが、政権がもっと妥当な成長率に落ち着く気があれば、危機の原因にはならなかっただろう。しかし、そうした気配はないため、負債金融(借入による資金調達)型の投資が強制的に繰り返されることとなり、またその種の投資を履行すべく、政権は繰り返しの介入を余儀なくされている。介入の原動力となっているのは、中国共産党の強権主義でも習近平の3期目〔によって強大化した権力〕でもなく、政治経済の偏りと政権の成長優先主義である。
中国がまだ基本的なインフラを必要としている限り、投資主導の成長は悪いことではないだろう。 30年前、中国はまだインフラを切実に必要としていた。このため、中国の猛烈な成長は世界史に残る変革の勝利となり、何億人もの人々を貧困から救った。しかし、この15年間で投資は限界に達した。つまり、中国は収穫逓増期に達したのだ。公共投資か民間投資かは問題ではなく、その総計こそが問題になっている。単純に規模が大きすぎるのだ。
そして、いったん収穫逓減の壁に突き当たると、金融が問題になり始める。負債金融モデルは非生産的で危険なものになる。なぜなら、積み上げられた負債がもはや生産的な資産と一致しなくなるからだ。中国は痛みを伴う評価損の山を築きつつあり、いずれは現実に痛みをもたらすことになる。どのバランスシートに負債があるかという問題は、戦略的な問題というよりむしろ戦術的な問題である。これについては、このシリーズの次の記事で詳しく述べる。
つまり、ペティスの筋書きでは、歴史的因果関係はまったく異なる。ポーゼンの説明では、権威主義の足元が崩れるのは時間の問題であり、それまで崩壊しなかったことが「奇跡」であるのに対し、ペティスの見解では、投資主導の成長モデルがいつ収穫逓増に陥るかが問題なのだ。そうなれば、負債を燃料とする成長複合体はますます機能不全に陥り、危険となり、成長か不平等かという巨大なトレードオフはますます支持できなくなる。
しかし、ペティスの論立ては投資の面だけに立脚しているわけではない。成長モデルの不均衡は、中国の恒常的な貿易黒字となって表れている。そしてそれは、国際的なもつれを意味する。
中国のマクロ経済体制は権威主義的であり、歴史的に見て特異なものであることは間違いない。しかし、この体制の問題は、ペティスに倣ってマクロ経済の不均衡として理解するだけでは不十分である。また〔ポーゼンが論じるように、〕非自由主義体制に特有の性質に過ぎないと考え、この体制は「原罪」にまで遡るほどの自信の欠如に苦しむ運命にあると誇張することもできない。実際、中国の問題は、1980年代から1990年代にかけてのドイツや日本のような輸出依存型の民主主義国家が抱えていた問題を、多くの点で反映している。さらに、中国の不均衡は単なる比較対象ではなく、このような重商主義的戦略はすべて、黒字を輸出できる大きな市場の存在があることを前提条件としている。黒字には赤字がつきものなのだ。1945年以来、慢性的な輸出超過国の市場は米国が提供してきた。
つまり、ペティスにとって中国の困難はグローバルな構造に根ざしている。さらには、地理的、政治経済的に異なる国々に共通する問題として、不平等の問題と、経済政策の構造的階級バイアスの問題が存在する。中国の貿易黒字が不十分な内需に根ざしており、それが不平等に起因しているのと同様に、ドイツでも、また(逆の意味で)米国の慢性的な貿易赤字でも同じことが言える。ペティスは最近のFT紙で次のように論じている。
米国政府債務の制限に関する議論の多くは、債務増加はワシントンの政策立案者たちの浪費の結果であると仮定しているが、問題は実際には構造的なものである。アメリカ人は、債務の増加か失業率の上昇かの選択を迫られている。その主な理由は、アメリカ国内の所得格差が、アメリカの巨額の貿易赤字によって悪化し、アメリカの企業や製造業に対する消費者の需要が激減しているからである。
ペティスとグローバル分析における彼の共同研究者であるマット・クライン(彼らの著書『Trade Wars are Class Wars〔貿易戦争は階級戦争である〕』)が中国、ドイツ、アメリカの間の体制の違いを否定していないのは明らかである。
しかし、問題となっているのは、ポーゼンが焦点を置くインセンティブや官と民の境界ではなく、中国共産党体制と資本制民主国家において不平等がどのように生み出され、また再生産されるかである。いずれにせよ、中国の不平等に根ざした不均衡は、持続不可能な投資主導・負債金融型の成長モデルを政権が追い求める原動力となっており、同様にアメリカの不均衡もまた、アメリカの強力な不平等構造と結びついている。ペティス(とクライン)の解釈における中国の問題は、グローバルな機能不全のパターンの一部であり、「現実に存在している」資本主義は、不均等で複合的な発展(この言い回しは私の用法であり、彼らの用法ではない)を通じて、大衆の繁栄を損ない、不安定性を増幅する傾向を生んでいる。
当然のことながら、2つの対立する解釈の間には、根底にある政治性と自己位置づけの根本的な違いもある。
中国の問題に関するペティスの分析には、極めてラディカルな特徴がある。中国共産党体制における政治経済の分配的側面は、過去25年間にわたる変革的成長から生まれたものだが、ペティスの分析は、それを根底から揺るがす変化が生じていることを示唆している。しかし、ペティスは政権そのものを批判しているわけではなく、実際、彼の提案している解決策が、習近平の謳う「共同富裕」の約束を実現するのに役立つことは容易に理解できる。ホブソン・ケインズ主義的な観点で見れば、ペティスが提案しているのは中国の新たな成長路線であり、現在の路線に比べて成長ペースは鈍化するかもしれないが、中国国民の大多数の実際のニーズには一層応えるものとなろう。これによって政権の正当性が高まる可能性もあるし、中産階級の従順さが薄れる恐れもある。〔その効果については〕我々には分からないし、ペティスもあえて意見を述べない。しかし、クラインとの仕事を見る限り、アメリカにおいても相応の対応がなされれば、アメリカを苦しめている深刻な正統性の問題を緩和するのに役立つとペティスらが考えているのは明らかなようだ。否定できない事実は、ペティスの分析によれば、現在の成長モデルを継続すれば、たとえそれが一層ダイナミックな民間投資を伴うものであったとしても、危険を増大させることになるということである。
対照的に、ポーゼンによる「権威主義の行き詰まり」という解釈は、法の支配による社会(すなわち「西側」)と、気まぐれな「独裁国家」に支配された社会とを、直接的かつ和解し得ないものとして並置している。ポーゼンの解釈によれば、中国が持続的な成長を再開するには、重大な政権交代(レジーム・チェンジ)しかないということになる。今、中国は(ポーゼンがなぞらえるように)ベネズエラと同じ道を歩んでいる。ベネズエラは、結果的に世界最大級の難民危機(2023年5月時点で700万人)を引き起こしているが、ポーゼンはその光景に恐怖を覚えるどころか、むしろこの危機をさらに深刻化させる最善の方法について、アメリカ政府に助言を与えている。彼は、中国の上流階級の退出を促し、彼らに「出口車線(オフ・ランプ)」と「自己保険」の機会を提供することで、習近平政権への圧力を高め、中国経済の終焉を加速させることを提唱している。ポーゼンの分析によれば、この終焉は、成長率の鈍化、停滞、そして政策の信頼性喪失による不安定性の増大、さらには深刻な危機のリスクの増大という形をとることになる。
両者の立場がいかに対照的であるかを理解するために、ポーゼンとペティスの分析が、その最も明確な対象である政策立案者によって読まれ、真剣に受け止められたと仮定した場合の未来を想像してみよう。
ペティスは、14億人の中国人と、中国が貿易を行う世界全体(労働者階級のアメリカを含む)の利益のために、より包括的な成長モデルを提唱している。対照的に、内部からの改革を否定したポーゼンは、米国とその同盟国に対して、中国の強力な亡命ブルジョアジーの形成を奨励するよう提唱している。「権威主義の行き詰まり」の見方によれば、それこそが、中国が習近平が歩もうとしている隷属への道から抜け出す唯一の方法なのだ。
このような未来の歴史を描くことは、ポーゼンの繊細で多面的な議論を戯画化するものだと言われるかもしれない。明言しておくが、私が指摘しているのは、ポーゼンが中国の大衆福祉に関心がないということではない。個人的なことを言えば、私はポーゼンの、あらゆる種類の中国人移民に対する寛大さを支持する主張に非常に共感している。私は、アメリカにおける中国人学者に対する嫌がらせを嫌悪しているし、自身の属する専門職にとっての恥である。私が恥を感じてしまうのは、アメリカの大学で働くことが人種差別的な監視と猜疑の体制に加担することにつながっている点だ。中国の状況についてのポーゼンの分析は説得力に欠けるが、この連載の続きで詳しく述べるように、開かれたドアの必要性については、私は彼の見解を強く支持する。このような異なるシナリオをドラマチックに描いたのは、ポーゼンを批判するためではなく、新たな冷戦の影で私たちの想像力がいかに暗くなっているかを浮き彫りにするためである。
[Adam Tooze, “Chartbook 233: Whither China? Part II – Posen v. Pettis or “authoritarian impasse” v. “structural dead-end“, Chartbook, 15 August, 2023]