●Tyler Cowen, “Why are the social sciences backward?”(Marginal Revolution, April 1, 2008)
ブルース・コールドウェル(Bruce Caldwell)がゴードン・タロック(Gordon Tullock)の『The Organization of Inquiry』(初版が刊行されたのは1966年)に再検討を加えている(コールドウェルの論文は、タロックの業績を再評価するために開かれたシンポジウムで発表されたもの。そのシンポジウムで発表された全論文のリストはこちら)。コールドウェル曰く、
次にタロックは、社会科学の後進性の背後にある真の理由の検討に移る。タロックによると、その理由は、自然科学と社会科学の「社会システム」としての特徴の違いに求められるという。どんな違いか? 一つ目の違いは、自然科学に比べて、社会科学では応用研究が手薄という点である。社会科学の分野では、応用研究の成果を特許化しようがなく(例えば、タロックは次のように問いかけている。モノを販売する新たな手法にどうやって特許をかけることができるだろうか?)、そのせいで応用研究が手薄になっているという。その結果として、自然科学とは対照的に、応用研究が基礎研究(純理論的な研究)に睨(にら)みを利かせることがあまりできていないという(p. 149)。次に二つ目の違いだが、社会科学の分野では、研究を駆り立てる動機の一つである「好奇心」が「科学とは別の目的(方向)に差し向けられがちな傾向にある」という。タロックは次のように述べている。
『・・・(略)・・・ (社会科学の分野では)好奇心が芸術方面へと差し向けられる可能性が強く秘められている。文学作品の多くは、ジャンルを問わず、人間に対する注意深い観察の上に成り立っている。同胞たる「人間」について詳しく知りたいとの好奇心に駆り立てられた偉大な頭脳の持ち主たちの筆先からは、科学上の偉業ではなく、文学上の傑作が数多く生み出されてきているのだ。』(p. 151)
タロックとは別の理由を挙げているのが、ミーゼスであり、ハイエクである。ミーゼスにしても、ハイエクにしても、自然科学と社会科学の違いを「複雑性」と「主観性」の二つに求めている。①社会科学が対象とする人間社会の出来事は、自然科学が対象とする自然界の出来事よりも「複雑」であり、②人間の選択には「主観的」な面が付き纏うし、「予想」が果たす役割も無視できない、というのだ(ただし、ミーゼスとハイエクの二人は、まったく同じ立場というわけではない。ハイエクなんかは、「主観性」よりも「複雑性」を強調する方向へと次第に軸足を移している)。
私の考えはどうかというと、経済学は物理学よりも遅れているが、人間の脳だったり深海の実態だったりに比べると、経済についての方が理解は進んでいるように思う。科学の発展度合いは、研究対象の複雑さと、利用可能な情報(データ)の量によって決まるというのが私の立場だ。そんなわけで、ハイエクとはそこまで意見に違いはないが、ちょっとだけ苦言を呈しておくと、ハイエクは、経済学の分野で「定量的な手法」なり「実験」なりが長足の進歩を遂げる可能性を過小評価していたようだ。
古代には、哲学は言うまでもなく、コンピュータ(もどき)を作る技術まで発展していたようだ。となると、やはり謎だ。経済学がそれなりに発展を遂げるには18世紀の中頃まで待たねばならなかったわけだが、それはどうしてなのだろうか? 思想史におけるアノマリー(不可思議な現象)の一つだ。
(追記)アーノルド・クリングもコメントを加えている。
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