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ザイード・ハッサン「国際援助の歴史:変化し続ける援助」

Zahid Hussain “The ever changing landscape of aid” (World Bank Blogs, March 17,2014)


現在の形での国際援助は1940年代前半に始まった。第二次世界大戦の後、物質的再生のためのキャピタルの決定的な不足にヨーロッパは直面した。その対応策は一般にマーシャルプランとして知られており、それに基づきアメリカはヨーロッパの再建を援助し、ピークの年には自国の国民所得の2~3%程度を移転した。マーシャルプランによる成果は、これ以外の状況における国際援助の有効性についても希望を生じさせた。富裕国の注意は1960年代に生まれた新興独立国へと向いた。複数国の協調による当時の援助は、二国間援助よりもより効率的でより政治的に中立だと考えられ、 国連、世界銀行、その他の国際機関の活動の顕著な拡大への道を開いた。

歴史的に、行われている援助が足りていないと主張する人は数多く存在してきた。戦後直後の期間には、マーシャルプランや、主に技術援助に焦点を置いた途上国援助の拡大により、大規模な資金拠出が行われた。1951年に国連の委員会は、各国の経済成長を2%まで引き上げるために、年間約50億ドルまで援助の増大するよう勧告した。最もよく引用される「開発のパートナー報告」は、援助国がその国民総所得の0.7%まで援助を拡大するとともに、援助の効率性を上昇させることを主張した。

2度目のオイルショックによって国際債務危機が起こった1970年代末に至ると、状況は突如として変わる。マクロ経済の不均衡が途上国の間に広く蔓延したのだ。援助戦略の焦点や政策は国内政策の失敗へと向かった。新たな開発においては、対外・対内的な均衡を達成することが必須不可欠な条件だと見る向きが広まった。援助ではなく貿易が多くの指導者や経済学者の間での支配的なスローガンとなった。1970年頃の楽観主義の後には、「構造調整」と経済の安定化、そして「援助疲れ」が起こった。しかし、援助の拡大を求める声は1980年代を通じて存在していた。1990年代には、冷戦の終了と援助国の予算制約の引き締めによって、海外開発援助(ODA)の減少を目の当たりにした。

1990年代前半の経済的・政治的要因の大きな収束により、援助にけん引された開発政策の分野には問題があるという気持ちが広まることとなった。国際面における政策決定者は、冷戦終了がもたらした変化を受けた新たな課題に直面することになった。援助は、基本的には地政学的な戦略ツールだと見られることから離れることが出来たのだ。さらに、アジア経済危機とサハラ以南アフリカのパッとしない状況が、深刻な課題を突き付けた。

市場の力の活用、対外指向(outward orientation)1 のますますの重視、そしてNGOを含む民間部門の役割が世界銀行その他によって強調された。二国間援助の援助国や国際機関は、途上国へどのようにリソースを向けるかについて悪戦苦闘した。金融プログラム援助や調整ローン2 が流行となり、政策コンディショナリティ3 はさらに広まった。こうした実行から得られた経験は「ワシントン・コンセンサス」を生み出したが、これは効果的な援助の流れの必要条件を定義したものだった。

1990年代後半以降、貧困削減がさらに注目されることとなり、援助の増大を求める声はまたしても強まった。開発援助に対する新たなアプローチが必要だという合意が形成されたことで、明示的に貧困の削減を目標とし、教育や保健、水へのアクセスといった基本的ニーズへの取り組みを行う、ミレニアム開発目標 (MDGs)が誕生することとなった。それに対応して、アフリカ委員会4 や、第三世界の債務帳消しを求めるジュビリー債務キャンペーン5 など、多くの運動が起こった。貧しい人たちの現状が人口に膾炙することとなり、それはセレブや政治家の間でも同様だった。

ここにきて国際機関について特定の問題の集合が収束し始めた。国際機関は、援助協調、債務救済、構造調整ローンの政策パッケージを中心に置いていた。ほとんどの主体が、構造調整の失敗が強く認識されているというポリシー・ナラティブを採用した。影響力のある政策決定者、実務家、研究者は、信頼性のある戦略的・運営的回答を与えてくれる新たな概念的枠組の探求を行った。1999年の重債務貧困国(HIPC)レビューは、国際開発政策における貧困削減戦略文書 (PRSP) のきっかけとなった。

PRSPが援助関係に大きな変化をもたらしてくれるだろうという楽観主義は長くは続かなかった。貧困削減に対して政治面での能動性を生み出すことについて、果たしてPRSPはうまくいくのかという疑念が生じたのだ。PRSPのアプローチは、援助国の実行を、国内的に策定された貧困削減計画に対する共同支援へと変化させることを必要とした。援助側が主張するところのオーナーシップと、非援助側の解釈の間の不一致があまりにも強く明らかとなったのだ。6

また再び援助が再考されている。援助はより広い意味での国際関係のほんの一部でしかない。他の目的が援助の実施に対して大きく影響することもありえる。援助に対する見方は、とりわけても理論的・道徳的考慮によって非常に様々なものとなっている。国家中心の考えから、国家と非国家主体、公的制度と非公的制度7 との相互作用へと移ることによって、ガバナンスと開発とのつながりが論争の的となっている。援助関係の発展的なローカル・ナラティブ8 がこうした現在の議論にとって必要不可欠だという合意が形成されつつように見える。シャンタ・デヴァラジャンが最近挑発的にこんなことを書いている。「援助が、開発問題の解決の一助となることを目的としているならば、それは破壊的なものでなければならない。そうでなければ、私たちは貧しい人々を彼らが数十年に渡って囚われ続けている下位の政治的均衡に囚われたままにしてしまう危険を冒すことになるのだ。」

現在の援助再考の裏にある動機は、ローレンス・サマーズが見事に要約している。「過去4半世紀にわたって、私はマーシャルプランという先例によって引き起こされた12の事例を仔細に見てきた。そのいずれもオリジナルほどの成功を治めなかった。機能する制度は外から押し付けられてはならないという真実をこれは反映している。国とそこに住む人々が彼ら自らの運命を形作るのだ。」

(本エントリは世界銀行のウェブサイト使用条件に従って掲載しています。The World Bank: The World Bank authorizes the use of this material subject to the terms and conditions on its website, http://www.worldbank.org/terms.)

  1. 訳注;規制を取り除いて、貿易や資本移動によって開発を進めること。 []
  2. 訳注;お金を貸すけど、その代わりXXをしなさいというようなもの。基本的には、後段で触れるワシントン・コンセンサスに沿った改革を行うことが条件とされていた。 []
  3. 訳注;先に註釈した調整ローンのように、援助と引き換えに特定の政策を行うよう義務付けるもの。IMFのものが一番有名だが、世銀含む各援助機関がやっていた。 []
  4. 訳注;2004年にイギリスでブレア首相(当時)が立ち上げた、アフリカの開発と援助に対する提言を行うための委員会。 []
  5. 訳注;2000年を節目として最貧困国の債務帳消しを求める運動。ジュビリーとは元々は旧約聖書にある25年周期の祭日で、この節目で奴隷の解放などが行われた。 []
  6. 訳注;構造調整アプローチによって援助側からあれせいこれせいと言われた結果、被援助国のオーナーシップ(あるいは主体性)がなくなってしまったという批判があった。PRSPの一つの目的としてはそうした問題の改善であったので、当然オーナーシップ重視が柱の一つとなっている。が、それはそれで被援助国が勝手なことを言い出した時に、援助側がイラっときてしまうという不一致が生まれるという問題点が出てきたという趣旨。 []
  7. 訳注;公的制度(formal institution)は法を始めとした国家による仕組みで、それに対して非公的(informal)な制度はその地域独特の慣習などといった、政府による決まり事ではないけれども実質的にルールとして機能しているもののこと。開発を行うにしても、そうした地元の事情を汲んでいないとだめだよね、という議論。 []
  8. 訳注;ローカル・ナラティブはこの文脈では先に出てきた非公的制度と同様に、その地域における決まり事のようなもの。その地域の特徴を良く理解したうえで、援助との相互作用で新たな決まり事に発展させていくべきだという議論。 []

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