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ジョセフ・ヒース 「規範的な社会学(normative sociology)」の問題について (2015年6月16日)

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先週のエントリでは、昨今のアカデミアで見られる複合的な振る舞いについてジャーナリストたちが「ポリティカル・コレクトネス」という意味未分化な単語で描写しがちであることへの不満を述べました。「古典的な」ポリティカル・コレクトネス-たとえば言葉狩り-の問題はすっかり廃れているのですが、それとは別の困った傾向が潮流として存在することを述べたのです。今週はその続きとして、私たち(物事を分類するのが大好きなのです)が「規範的な社会学(normative sociology)」と呼んでいる、やはり少々問題がある慣習について書こうと思います。

この「規範的な社会学」というコンセプトの由来は、ロバート・ノージックが「アナーキー・国家・ユートピア」の中で軽い調子で書いたジョークです。「規範的社会学、つまり『何が問題を引き起こしている”べき”なのか』、の学問がわれわれ全員を魅了する」。これはカジュアルな発言ながら鋭い観察です。社会問題の研究にはほとんど抗い難い誘惑があります。それは自分がその問題の原因であってほしいものを研究してしまい(その理由は何であれ)、本当の原因を無視してしまうことです。これを修正しないまま続けていくと、さまざまな社会問題についての「”政治的に正しい”説明現象」が起こります。つまり、AがBを引き起こしているかどうかに関してしっかりした証拠はないのに、どういう訳か、AはBの原因であるべきだと考えてしまうという現象です。さらに、AがBを引き起こすという関係を否定することは道徳的な非難を受けるという状況に至り、この関係は証拠を調べることによってではなく、「そうあるべきだと思うから」という理由で支持されるようになります。

話を進めるために一例を挙げましょう。「人種差別」に関して、証拠が示すところをはるかに超えた強い因果関係の主張がなされているのをしばしば耳にします。その中には正しい主張もあるでしょうけれど、そこには聖なる道徳の印が刻まれており疑わしい因果関係が仮定されています。これは倒錯です。何が何を引き起こしているかという問題は純粋に実証的であるべきだからです。

その因果のつながりを問うことはしかし「人種差別を小さく見積もる」方向になりがちです。(実際、上の二つのセンテンスを読んで「オーマイガッ、この筆者は人種差別を小さく見積もろうとしているな」と思いはじめる人がほとんどでしょう)。また、人種差別はとても悪しき事であるがゆえに、それが他の多くの悪しき事をも引き起こしているに違いない、という感覚もあるようです。しかしこの直感は道徳的なものであり、非論理的です。一般に、(本質的に)極端に悪い事象なり、非常に一般的な事象であっても、因果の論理という面では特段重要ではないということなど幾らでもあり得ます。

この種の道徳と因果関係の間の倒錯はしばしば起こっていると感じます。さらに言えば、この問題は「定性的な」社会科学の領域で特に大きな悪さをしていると考えます(私はこの分野に強い共感を抱くものではありますが)。実は、社会科学の定量的アプローチの大きな利点の一つは、規範的な社会学をすることだけで済ますことを不可能にするところにあります。

なお「規範的な社会学」に左翼バイアスがあるというわけではなく、保守側の事例も多くあります(例えば離婚率の上昇は同性愛の受容が関係している、とか、婚外児の出産は福祉制度によって引き起こされている、など)。ただ、左の人々は社会問題を解決することに熱心であることが多く、それゆえ具体的な関心がより強いため判断に強いバイアスがかかりがちなのです。これは非常に苛立たしい状況です。原因を攻めることによって社会問題を解決しようとするためには因果関係を正しく把握しなければなりません。さもなくば介入が役に立たないどころか、逆効果になりさえします。

これは「反逆の神話」の中で消費主義について書いたときに考えていたことです。この本でアンドリューと私が示したかったことの一つは次のようなことです。左翼は「過剰生産による恐慌は資本主義の宿命である」というマルクスの古い思想を基本的に受け入れて、何が消費主義を引き起こしたかの理論を打ち立てそれに固執しました。そして、消費主義に関連するさまざまな現象(公告、計画的な陳腐化、不足感を煽り続けること)は、過剰生産の問題を何とかする試みであるとして説明しようとしたのです。こうして時間をかけ、精巧な建造物がこのたった一つの根拠の薄い主張の上に構築されて行きました。この主張は実証的に検証されることもなく、しかも少し詳細に分析すれば意味すらなさないものだったのにもかかわらずです。資本主義には「矛盾」がビルトインされていると信じたかったのです。かくして、活動家たちは本来解決しようとしていた問題とは関係のないものを変えようとし、とりわけ消費主義の問題ではむしろ事態を悪化させる「解決策」を推し進めようとし、結果として膨大なエネルギーを浪費することになりました。

私はそのように考えていたので、ロバート・フランクの著書「Choosing the Right Pond」の次の箇所には感銘を受けました。以下の箇所で彼は上に書いた左翼の傾向について不満を正確に述べています。

左の批評家たちは歪んだレンズを通して市場を見ている。彼らはまず、市場の中に強者が弱者を搾取するシステムを見る。市場支配力がある企業は、機会が限られている労働者たちよりも不当に有利な立場にあると。左の批評家たちはさらに、市場は社会のニーズのない製品を売ることを促しており、市場はこれに立脚してすらいると見る。彼らは巧みな広告を見て、環境は汚染され、子供たちの読むべき良い本がない状況なのにもかかわらず、引っ込み式のヘッドライトを備えた燃費の悪い車に所得を吐き出させるように人々を誘惑するものだと捉える。そして最終的には、市場システムにおける報酬は、必要性にもまたメリットにさえも比例しないとする。ほんの少し才能や能力が違うだけで、しばしば収入が劇的に変わるというわけだ。報酬は行われた仕事の社会的価値とほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

ここまではお馴染みの話ですが、ここからもっと面白くなります。

ほとんどの人は当然ながら、政治的スペクトルの両極端に位置しているわけではない。市場システムについて両端の勢力が主張している見方の中間のどこかを真実と見ているだろう。本章において、一番実りの多い解釈は市場が両端の主張の中間地点に領域にあると安易に捉えることではないということを述べる。ここで描写される市場は、擁護者が主張している肯定的な諸価値と、批判されている欠陥を網羅したものになるだろう。但し、左翼が市場がうまくいっていない理由として指摘しているものはほとんど例外なく間違いであることについても述べよう。(162-3)ほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

この章の締めくくりは控えめな勝利宣言です。

左翼は、実際の問題を特定しながらそれを間違った原因に帰着させてしまったため、政策としての解決策を提示することが難しいということになったのだ。(177)

このような意見表明を聞くことは滅多にありませんので読んで驚いたものです。左翼は常に正しく問題を捉え、しかし説明を間違え(そして間違いと判明してからも長い間それに執着し)、そのため何ら実効性のあることができていません。

「規範的な社会学」はいろいろな意味でこのことと関係していると思います。また、ざっくり見たところ(社会問題を批評する人の言うことを何百時間も聞いてきた経験から)次のような四種類があります。

1.政策手段を求めて

そもそも未解決の社会問題が未解決になっているのは、その問題が直ちに法的な判断が下せる領域の外で起こっているからです。それは私的領域での問題だったり(たとえば家族内でのジェンダーの分業)、個人の自主性の行使と関係するものだったりします(たとえば高校からの落ちこぼれ)。従って問題を簡単に解決できる明確な政策手段は存在しません。国は単純にこれらの分野に直接介入する権威(あるいは権力)を持っていないのです。

よって、それらの問題の解決を望んで問題分析に取り組む人にとっては、何か別の政府が政策手段を確かに持っている領域が、対象と因果関係を持つと考えたくなるという、非常に強い誘惑が存在するわけです。この傾向がいちばん明確に表れているのは不平等からの因果関係を過大視する傾向だと思います。なるほど富の再配分は政府がコントロールすることができます。なのでもし「厄介な社会問題A」が「集団Bの貧困」によって引き起こされているということを示すことができれば、政府に問題Aの解決手段が与えられることになります。集団Bに富を再配分することは常に可能なのですから。

具体的な例として、昨今よく耳にする「社会的健康勾配(social health gradient)」というものがあります。健康状態とSES(socio-economic status: 社会経済的地位)の間には驚くほどの強い相関があります。対して医療リソースの分布は比較的公平なのです。SESは、富と社会的地位の不平等を統合して表すようにデザインされた複合概念です。当然のことですが、国からすれば富は容易に再分配することができるものである一方、社会的地位の方の扱いはかなり難しく、そのヒエラルキーに介入したり、ましてや改良したりする力は国にもほとんどありません(富の再分配よって間接的に介入することはあり得るでしょう。しかし、その受益者は給付を受けるという正にそのことよって社会的地位を失ってしまうという、意図と逆の結果に終わることが多いのです)。このように地位の不平等に関連する社会的健康勾配に対しては、国にできることが事実上何もないのです。公衆衛生に関してのこんなプレゼンテーションは、これまで幾つ聴いて来たかわかりません。SESの話から始まるのですが、富の不平等の話に微妙にずれて行き、何らかの所得再分配を推奨して終わるというような。

2.「被害者を非難してしまう」心配

この道徳と因果関係との間のいちばん良くある錯誤は、人々が「責任」を考え始めるときに発生します。X氏がAを引き起こした時に、Aの責任はX氏が負うと考える傾向はものすごく強いものがあります。そのため、あなたがAの責任X氏に負わせることを望まない時には、 X氏の選択ないし行為がAを引き起こしたことを示唆するものすべてに抵抗したくなる強い誘因を覚えることになるわけです。これはもちろん錯誤です。なぜなら、X氏がAを引き起こしたのかどうかは単に事実の問題であって、責任の問題を判定するものではないからです。ところが、学者がある社会問題の原因について単に実証的な結論を述べた際に、「被害者を非難するのか?」と攻撃される話をしばしば耳にするわけです。道徳が無関係なところに侵入しているのです。この種の推論に従ってしまうと、私たちは「本当の原因そのもの」についてではなく、「本当の原因であってほしいもの」について語ることにのみ終始するようになります。

もう少し説明しましょう。ある結果に対する責任を誰かに割り当てるとき、原因(因果関係)はその目的のための必要条件ですが、十分条件ではない場合もむしろ多くあります。「『多すぎる原因』現象」と呼ばれるものがあるのです。たとえば私がビール瓶を窓から戸外に放り投げたとして、下の通行人がケガをしたら、ケガを引き起こしたのは私であることは明白です。ただ、他にもその人がその瞬間に私の家の前を散歩しようと思い立ったこともまたケガを引き起こしています。同様に、その場所での散歩が禁じられていないということや、酒屋が私にビールを売ったことなど、寄与していたことはいくらでもあるのです。このように「誰の責任であるか」は因果とは別の問題です。「何が何を引き起こしたという話」と「誰の責任なのかという問題」とは完全に切り離されるべきなのです。もちろんたいていの場合前者は後者のための議論ですが、前者の議論に後者への関心を持ち込むことは厳に避けられるべきです。

この問題がはっきり出ている例を一つ挙げましょう。貧しい国々の開発が遅れている原因として地域事情があることを認めることに対する非常に強い抵抗です。貧困は金持ち国によってもたらされている害悪であるとか、あるいは金持ち国の過去の罪のせい(たとえば植民地主義の遺産)であるとして取り扱うための圧力が存在します。そうなってしまうのは、説得力のあるメカニズムを想定することによって、と言うより、「被害者を非難」したり貧しい国々の人々自身の状況のせいにすることを避けるために、という方がむしろ適切です。

3.相関の片側を強調

これは微妙な問題です。統計分析ではよく二つの事柄間の相関関係を明らかにするのですが、誰もが知っているように相関関係は因果関係を意味しません。AがBと相関する場合には次の可能性があります。1)AがBを引き起こしているか、2)BがAを引き起こしているか、3)互いに補強し合っているか、4)別のCがAとBの両方を引き起こしているか。にもかかわらず統計的相関が因果関係として報道されることなどしょっちゅうです。(例えば、医療報道でも大きな問題です。私の母は大人になっても、アルツハイマー病患者の脳にアルミニウムが存在していたという研究の報道に影響され、アルミニウム鍋での調理や抗発汗剤の使用を恐れていました。しかしこの研究が正しいとしても、アルミニウムへの暴露がアルツハイマー病を引き起こしているとする理由はなく、話しは逆で病気がアルミニウムの蓄積を引き起こした可能性もあります。)このような思考の転倒はいつでも起こり得るもので、AがBを引き起こしていると考えたい人が、相関関係の証拠に過ぎないものを自分の見解を立証するものと見なしてしまうのは自然なことです。

上記三つの傾向を全部含んだ格好の例を提供してくれるのが、所謂「貧困の文化(culture of poverty)」についての議論です。貧困には、自己弱体化とでも言うべきさまざまな行動(十代の妊娠、家族崩壊、麻薬中毒、ドメスティックバイオレンスなど)が伴うということが(統計的に)はっきりしています。これを踏まえてステレオタイプの保守派はこう言います。「彼らが貧しいのも無理はない。彼らが自身が間違った選択をしたのだから。」同じものを見てステレオタイプのリベラルはこう言います。「彼らが悪い選択をしてしまったのは無理もない。彼らはとても貧しいのだから。」実際には両方が相互に補強し合っているとするのが妥当な場合が多いのですが、因果関係の片方向を抽出し、そちらだけに集中するというのが、むしろよく見られるイデオロギー的反応です。

リベラルのこの振る舞いは上記の「政策手段を求めて」とみなすこともできます。「貧困の文化」と説明はされますが、誰もそれを変えるアイデアを持っていません – 聖職者の説法を聴けば少しは良くなるというものでもないでしょう。ところがお金の再配分なら実行可能です。また同じく上記の「犠牲者を非難する」のを避けようとする欲望も明らかに発動しています。悪い文化的傾向を「前提と考える」のは、何らかの形で個々に責任を負わせていると見られることになってしまいます。しかしお金を配れば良いとするならばその心配がありません。)

4.道徳的畏敬

先にも少し書いたのですが、ある種の行動やエピソードについては道徳的畏敬(the moral awfulness)により重大な帰結が要請されている、ということがしばしばあります。そこからは容易に、この帰結を認めない者はある意味で道徳的畏敬を軽視しているという認識が導かれます。(誰もが道徳的な帰結主義者であるならばこの問題はありません。道徳的畏敬が純粋に効果にだけ向けられるのであれば、効果が小さければ畏敬もわずかで済みます。しかしほとんどの人は帰結主義者ではないのです。)

近年の議論におけるこの一つの良い例は、不平等の広がりに対する態度です。ほとんどの人は不平等はとても悪しき事と考えています。そして、とても悪しき事はさらに多くの別の悪いことを引き起こしているに違いないと考えたくなります(リチャード・ウィルキンソン とケイト・ピケットによる「平等社会」やジョセフ・スティグリッツの「世界の99%を貧困にする経済」がこの傾向のよい例です)。また、政情不安や革命は貧困と不平等によって引き起こされると考える欲望にも根強いものがあります。しかし証拠からは、むしろ不平等は「原因になっていない」ことが示唆されています(実は重要なのは「期待の高まり」なのです)。こうして不平等からのそのような連鎖を認めない人であっても、その言い訳をしようとしがちになります。(ここではクルーグマンがスティグリッツの文章に対して興味深いコメントをしているのですが、わざわざ自分が不平等を批判するものであることを強調していることに注目しましょう)

追記:アレックスさん、貴重なご指摘どうもありがとう。二点。第一に、社会学者の一部はこの問題に敏感になりつつあります。誤解を招かないように言いますが、この話は実際の社会学についてのものではありません。次のジョークの中で”社会学”という単語が使われているということです。「社会学者は社会の問題(たとえば、何だか変な風習)の原因を研究する人々です。規範的社会学者は何が原因であるべきかを研究する人々です(よほど変!)。」私自身は、実際の社会学者に対してではなく、第一に哲学および政治理論畑の人々に適用するものとしてこの言葉を使います。第二に、「お前こそ主張をサポートする証拠を示していないではないか」との指摘に対しては「ええと、これはブログエントリなのですが」と。もしあなたが規範的社会学がなされるのを一度も見たことがないとおっしゃるなら、ご同慶の至りです。あなたは私が参加してきた会議よりもまともな会議に出て来られたのでしょう。


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