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スコット・サムナー「続 ロバート・バロー」

Scott Sumner “Further thoughts on Robert Barro” (TheMoneyIllusion, January 21, 2014)

訳者補足;失業保険に関してクルーグマンによるバローディス→各保守派の批判→サムナーの擁護[邦訳]→コーエンの反論[邦訳]→本エントリという流れ。


クルーグマンが批判した、2011年のロバート・バローの文章の最初のほうには次のように書いてある。

ふつうの経済学による一般的な予測は、フードスタンプなどの所得移転の拡大が雇用、ひいては国内総生産(GDP)を減少させるというものだ。ふつうの経済学では、インセンティブが経済活動の動力源であるということが中心的な考えの一つとなっている。収入が低い水準にある人々への追加的な所得移転は、働くことによる報酬を減らすため、仕事量を減らすよう働きかける。

つまり「ふつうの経済学」とは、インセンティブに基づいた、「サプライサイド」経済学や新しい古典派、RBCとか何とかであるということのようだ。だから私はそのまま読み進め、「正確に言えば、需要ショックも重要なのだ」という文が出てくるのを待った。しかしそうしたものは見つからなかった。また、需要ショックが重要でないということをはっきりと述べているところも見つからなかった。しかし、需要ショックが重要でないと思っている経済学者たちが使う類のレトリックは何度も繰り返されているのだ。

バローに公正を期して言えば、これについてはケインジアンが責を負うべきところもある。バローはAS/ADについて間違っていると私は考えているが、総需要というのが不適切な用語であるという点について彼は正しい。これは「需要」とは何ら関係がないものなのだ。特定の類の政府支出が(厚生を押し上げることはないが)GDPの名目数値を押し上げるという考えを彼が受け入れるであろうことを私は疑っておらず、したがってバローが「需要は重要である」と書いた何かを見つけるのは可能だろう。しかし私が思うにここには鍵となる2つの論点、すなわち減税や所得移転という形の財政刺激が名目GDPを押し上げるかどうかというものと、それとは完全に別の問題である名目ショックが実質GDPに影響を与えるかどうかというものが存在しているのだ。

この2つの論点はしばしば混同される。前者は金融政策による相殺、あるいはクラウディング・アウト、リカードの等価定理といったことに関してのものだ。後者は粘着的な賃金及び価格についてだ。長文の論説であればバローはこの2つの大きく異なる概念を1文ずつ、ないしは1つの文の中で節に区切ることができたのかもしれないが、今のところそうしてはいない。だから私はクルーグマンが正しいかどうか言うことはできないが、バローの書いたものからはクルーグマンが受けたものと全く同じ印象を私も受ける。少なくともバローが名目ショックを重要と考えているかどうかに関しては。

タイラー・コーエンはバローがAS/ADモデルに批判的だった1995年の論文を引用しているが、この論文でもバローは総需要の基本的な概念を理解している。

この論文を読めば3つのことに気付くだろう。1点目は、バローは「総需要的な」現象を完全に気づいていて、そうした考えを否定していないということ。2点目は、バローはAS-ADよりもIS-LMを好んでいるようだということ。IS-LMが行いうる間違った予測についていくつか注意をしているし、注2では彼が自分の1993年の教科書2 に載せた説明のほうが良いとしてはいるけどね。

タイラーが言うところの「総需要な現象」が何を意味するのかについて確信はないが、名目ショックのことだろうと解釈している。名目ショックもしくは貨幣的ショック、あるいはどういった名前で呼ばれるにせよそういったものの概念をバローが理解していることは明らかだ。問題なのは、そうしたものが大きな実物的影響をもたらすと彼が考えているかどうかだ。

2011年の文章にあるこのあいまいな表現について考えてみよう。

どうすればこれが正しいことになるのか。政府がお金を借りてそれを人々にあげるだけで物事が改善するなどということを許した市場の失敗がどこにあるというのか。ケインズは、その「一般理論」(1936)において、そうしたことがなぜうまくいくのかということについてきちんとした説明を行ってはおらず、その後の世代のケインジアン経済学者(私の若かりし頃の取組みも含め)もケインズ以上のことを行うに至っていない。

次に1995年のバローのAS/AD論文を見てみよう。

バロー及びグロスマン[1971; 1976, Ch. 2]では、名目の価格と賃金が過剰な水準で粘着的である場合においてはIS-LMモデルが有用な表現となることが示されている(略)

バローが今となっては否定している彼の「若かりし頃の取組み」には、グロスマンと共著の1971年と1976年の論文が含まれているのではないかな。価格が粘着的な場合にはIS/LMが有効だと主張したやつが。

総需要が重要だと信じている者にとって、「市場の失敗」がどういったものであるかは明らかだ。粘着的な賃金及び価格だ。そしてそういった仮定はバローとグロスマンの研究にも組み込まれていたものだと記憶している。しかし、バローは今となってはそうした取組みはもはやうまくいかないと述べている。

バローは2011年の文章を次のように締めくくっている。

所得移転政策を通じたケインジアンの刺激策については二つの見方がある。一つは、自分が与えたもの以上に受け取るという神の奇跡で、もう一つは首切りというマクロ経済的な調整だ。もちろん私は後者の立場に軸足を置いてはいるが、より多くの実証的証拠を今も待ち望んでいる。

この結論にはがっかりだ。それは彼が間違っているからではなく、彼が正しいことを誤解を招くな形で書いているからだ。例えば、通貨発行による名目GDPの押し上げは雇用を作り出すが、赤字支出はそうでない(リカードの等価定理/金融政策による相殺/クラウディング・アウト等々のせいで)とバローが考えているとしてみよう。その場合彼は正しいが、その結論は非常に誤解を招きやすいと言わざるをえない。お金を刷って雇用を作り出すというなどという考えは「神の奇跡」であると思ってしまう、右寄りのウォール・ストリート・ジャーナル読者たちに訴えかけるように書かれているからだ。バローはウォール・ストリート・ジャーナルの読者にとびきりのネタを提供しただけであって、実際の彼の考えはそれよりもずっと深い意味のある賢明なものだいう可能性はある。しかしそうであるならば、そうした深い意味のある考えとは実際にどういったものであるかを彼がきっちりと説明するよう求められるべきだったのだ。

前回のエントリでは、失業保険問題についてはバローに不当なことを言っているという批判からクルーグマンを擁護した。そして今、クルーグマンがバローは総需要が重要とは考えていないとしていることについて、タイラー・コーエンが避難をしている。クルーグマンがバローの考えを正確に述べているかは分らないし、私がクルーグマンであったならもっと慎重な態度をとっていただろう。タイラー・コーエンは正しいのかもしれない。しかしバローの文章を読むと、需要側の効果ではなくインセンティブ効果こそが雇用を決定するという印象を彼が読者に与えようとしているというように思えた。両方とも効果があると彼が考えている可能性はある。ただ私の勘では、彼は突然の名目ショックは特定の場合においてはそこそこの効果をもたらすが、現在の失業率の説明については実質上一切関係していないと考えているように思える。そうであるならば、クルーグマンによる批判は多少やり過ぎではあるものの、大きく的を外しているわけではない。私はクルーグマンにやや共感しているのだと思う。バローの文章はイライラさせられるほどにあいまいだからだ。

さて、ここからは細かいところから離れてもっと大きな視点で見てみよう。次のことは私が繰り返し目撃しているものだ。

1.「ケインズ経済学」、特に財政刺激を馬鹿にしている保守派の経済学者。問題なし。私もそうだ。

2.金融刺激に対してはそれよりもずっと口数は少ないが、非常に懐疑的であるように見える保守派の経済学者。

3.政策は名目GDPを押し上げないということと、名目GDPは実質GDPを押し上げないということの境界線がぼやけていること(二つは全く異なる考えだ)。

4.保守派が本当に「実質の問題は実質」であると信じているならば、「ケインズ経済学」を馬鹿にするのではなくて、「ケインズ/ミルトン・フリードマンに連なる全ての経済学」を馬鹿にするべきなのだ。結局のところ、フリードマンもまた名目ショックが失業に対して長期間に渡って影響を与えると考えていた。しかし保守派がフリードマンの名前を出すことはない。

5.保守派がケインジアンの財政的な考えとフリードマンのマネタリスト的考えを区別したいのであれば、財政刺激は首切りにつながると否定する一方で金融刺激は擁護すべきだ。しかし彼らがそうしたことを行ったことはないように見える。(言い換えれば彼らはマーケット・マネタリストになるべきなのだ。)

6.一般的に、とある集団がとある論点について避けようとする場合、彼らは自分たちの考えが実証的な精査に耐えられるか完全には自信がないのだと私は考える。バローが財政についてこれほどまでに強硬である一方で(自身を裏付ける研究があるため)、名目支出が今現在役に立つかどうかについては地沈黙している(金融刺激を否定する実証的な証拠は財政に対するそれよりも遥かに弱いのだと私は思う)のはそうした理由からなのかもしれない。

タイラーは、バローがどう考えているか見つけ出すには40年に及ぶ彼の業績の軌跡を辿る必要があると言っている。私はバローが大好きだ。院生時代のマクロ経済学の授業では彼の教科書を使っていた。彼の1995年の論文も読んだ。彼はすごい。しかし私には、ほとんどすべての経済学者は自分たちが信じていたことを2007年に突然捨て去り、2009年に全く新しい経済学モデルを採用したように見える。新しいケインジアンは古いケインジアンとなった。マネタリストはオーストリアンになった。バローが他の経済学者とは違っているなんてことはあるだろうか。2007年における標準的な考えは、FEDは名目支出を操り、ゼロ下限は金融刺激の障害ではないというものであったことを思い出してもらいたい。これが2007年の主流派経済学だった。そして今やこの考えは破棄されたが、その理由はこの考えを正しいとしてしまうと、2008-2009年の大停滞は経済学者たちによって引き起こされたということになってしまうこと以外には見当たらないのだ。


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