マイルズ・キンボール 「ジョン・ロックの所有権論 ~労働と所有権~」(2017年9月10日)

●Miles Kimball, “On John Locke’s Labor Theory of Property”(Confessions of a Supply-Side Liberal, September 10, 2017)


 

ジョン・ロックの『統治二論』「第二編 市民政府について」(第5章 「所有権について」)の第27節では、所有権の帰属に関する興味深い原理が表明されている。

地上の自然も、この地に生きる下等なあらゆる被造物も、全人類の共有物だとしても、誰もが自分自身に対しては唯一の所有権の持ち主である。私の身体に対する所有権の持ち主は、私以外にはいない。さらには、私が身体を動かして行う「労働」の成果も、私の手が行う「働き」の成果も、同じく、私のものであると言ってよかろう。それゆえ、手付かずの天然の恵みの中から私が取り出した(取得した)ものは何であれ、私の所有物となる。というのも、それには私の労働が混ざり合っており、私に帰属する何ものかが付け加わっているからである。全人類の共有物たる自然の中から、手付かずのままになっている天然の恵みを取り出したのは、この私である。私が手にした天然の恵みには、私の労働が付け加わっており、それゆえに、最早全人類の共有物ではなくなる。労働の所有者は、労働を行った当人であることは疑い得ず、私の労働の成果(私の労働が付け加わったもの)に対する所有権を主張し得るのは、私以外にはいない。少なくとも、私が手にしたのと同じくらい良質の天然の恵みがまだ手付かずのままで十分に残されている限りは、そうなのだ。

ロックが議論の出発点に据えている主張は、至極もっともなものに思える。

1. 人は、誰もが自らの身体に対する所有権の持ち主である。
2. 各人には、自らの労働の成果に対する所有権を可能な限り認めるべきである。

ロックの前には、難題が立ち塞がっている。ロックがどうにかして切り抜けようともがいた難題――私の所有物ではなかった何ものかに「私の労働」が付け加わったとしたら、それは一体誰のもの?

  • 「私のもの」だとすると・・・、「私の労働を混ぜ合わせる」ことによって、私の所有物ではなかった何ものかを横取りする、ということになるのでは?
  • 「私のもの」ではないとすると・・・、何ものかに付け加えられた「私の労働」がその持ち主(所有者)たる私から奪い去られることになるのでは?

まだ誰の労働も混ざり合っていない(付け加えられていない)手付かずのモノがあちこちにたくさん溢れている。ロックはそのように想定している。そうだとすると、私の所有物ではなかった何ものかも、ひとたび「私の労働」が付け加えられるや、「私のもの」。そうしたって構わないんじゃないか。これまでは「私のもの」ではなかったけれど、今となっては「私のもの」。そうしたって、私以外の誰かのものが減るわけじゃない。私以外の誰かも、望めば「自分のもの」を手に入れられる。ロックはそう主張する。しかしながら、そのような見解はあまりに楽観的だ。2017年という当世に目を向けると、誰にも所有されていない有用な土地というのはごく限られている。どこの国にも属していない土地となると、なおさらそうだ。アイデアもまた稀少物だ。私が何らかのアイデアを閃いたとする。あなたも一週間遅れあるいは一年遅れで私と同じアイデアを閃いたとしても、そのアイデアを真っ先に「イデア界」から引っ張り出してきたのは私であり、そのアイデアの所有権は私だけにある。私はそう主張することだろう。

限界生産力理論は、ロックの所論と似た原理を説く。誰かしらが所有する何ものかに私の労働が付け加わった結果として、その価値が高まったとしたら、その何ものかの所有者は、私に対して喜んで対価を支払うに違いない。限界生産力理論はそのように説く。ところで、誰の労働も付け加わっていない何ものかに対する所有権は誰に帰属するかというと、・・・その点については、限界生産力理論は何も語らない。

「コースの定理」からはどのような原理が導かれるだろうか? コースの定理によると、取引に一切摩擦が伴わないとすれば(取引費用がゼロであれば)、所有権がどのように割り当てられようとも、最終的にはパレート効率的な結果(資源配分)がもたらされることになる。しかしながら、現実の取引には様々な摩擦が伴う。そこで、各種の摩擦を原因として引き起こされる非効率をできるだけ抑えるためには、所有権をどのように割り当てたらよいか、という問題が浮上することになる。例えばだが、取引費用を抑えるためにも、不完全競争に起因する各種の問題を和らげるためにも、何ものかに対して労働を付け加えた人物にその何ものかに対する所有権を割り当てる(帰属させる)のが(他の事情を一定とすると)何かと都合がいい、という場合もあるかもしれない。これはコース流の議論から導かれる可能性の一つ(あくまでも一つ)だが、(所有権の根拠を労働に求める)ロックの所論が示唆するのと同じ方向を向いている可能性の一つではある。

誰の労働も付け加えられていない手付かずのモノ(資源)があちこちに溢れている状況の中からいかにして所有権が創発してくるかという問題に関する限りは、ロック流の(所有権の根拠を労働に求める)所有権論はもっともなものに思える。ただし、所有権の帰属が一旦確定して以降に待ち受けている展開に目を向けなければ、という限定が付く。誰の労働も付け加えられていないモノ(資源)が時とともに少なくなってくるにつれ、稀少性の問題は無視できなくなってくる。所有権の根拠を労働に求めるロック流の所有権論は、所有権に関するとっかかりの理論としては大変優れているように思えるが、まったく非の打ち所がない完璧な理論かというと、それには程遠い。他にどんな理論があり得るかという問題は、大いに検討してみる価値があるだろう。この問題については、「ジョン・ロック」シリーズのどこかでまたいつか立ち返ってみたいと思う。

「ジョン・ロック」シリーズの他のエントリーも見逃すなかれ。これまでのエントリーは、こちらにまとめてある。

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