●Mark Thoma, “Smart Ph.D. Economists and the Minimum Wage”(Economist’s View, December 10, 2006)
ダンカン・ブラック(Duncan Black)が「労働市場における買い手独占」に触れて次のように述べている。
最低賃金についてあちこちで取り沙汰されているが、経済学の入門レベルの知識を得意げに語るコメントで溢れかえっているようだ。見逃すわけにはいかないので、割って入らせてもらうとしよう。現実の労働市場で完全競争が成り立っていないようなら、最低賃金が引き上げられたとしても雇用量が減るとは限らない。そればかりか、最低賃金の引き上げ幅が小幅にとどまるようなら、雇用量が増える可能性すらある。換言すると、雇い主たる企業が労働市場で価格支配力を持っている(労働市場が買い手独占的である)と考えるに足る証拠が大量にあるようなら、最低賃金の小幅な引き上げは、雇用量の増加という「逆説的な」結果を招くか、雇用量にさして影響を及ぼさない可能性があるのだ。・・・(略)・・・
もう一丁、引用しておこう。
いつか機会があるようなら、経済学の博士号を持つ切れ者でも理解できるように [1]訳注;ブラックのこのエントリーは、PGL のエントリーを受けて書かれている。PGL … Continue reading、買い手独占について入門レベルの解説を試みたいと思っている(残念ながら、買い手独占については、経済学の入門講座で必ず教えられているわけじゃないのだ)。
ブラックの代わりを務めるつもりでいたのだが、Angry Bear ブログの執筆陣に名を連ねる PGL に先を越されてしまったようだ。さらには、「経済学の博士号を持つ切れ者」の一人であるデビッド・アルティグ(David Altig)が PGL のエントリーに触発されて、最低賃金について言うべきことを巧みにまとめている(“Modern Labor Economics And The Minimum Wage”)。少々長くなるが、アルティグのエントリーを以下に引用しておこう。
———————————(引用ここから)———————————
見逃してしまったブログエントリーを読み尽くそうとむなしい努力を続けていた最中に、Angry Bear ブログで PGL が執筆しているエントリーが目に留まった。
ダンカン・ブラックが薦めているのが、アラン・マニング(Alan Manning)の『Monopsony in Motion:Imperfect Competition in Labor Markets』だ。出版社による内容紹介の一部を引用しておこう。
「労働経済学の多くのモデルでは、どの労働者も速やかに転職可能だと想定されている。労働経済学の分野で標準的なモデルとなっている完全競争モデルへの系統立った挑戦を試みているのが、アラン・マニングのこの一冊なのだ。・・・(略)・・・」
今回のエントリーでは、私の能力の許す範囲で――少なくとも、私がそれなりに通じていると言える話題について――情報を提供したいと思っている。何よりも真っ先に指摘しておかないといけないのは、「労働経済学の分野で完全競争モデルが標準的なモデルになっている」というのは、労働経済学の現状を正確に捉えたものではないということだ。その証拠として、ロバート・シャイマー(Robert Shimer)の言葉に耳を傾けてみるとしよう。シャイマーは、労働経済学のフロンティアの開拓に熱心に取り組んでいる筆頭の一人である。
まずはじめに、モルテンセン&ピサリデス流のマッチングモデル [2]訳注;モルテンセン(Dale Mortensen)とピサリデス(Christopher Pissarides)は、ピーター・ダイアモンド(Peter … Continue readingのこの上なく単純化されたバージョンから説明するとしよう。
・・・(中略)・・・
このモデルの核となる特徴は、求職者と企業が雇用契約を結ぶ(求職者と企業との間でマッチングが成立する)と、両者の間で双方独占的な関係が成り立つことである。雇用契約を一旦結んだ後の求職者(従業員)に目を向けると、今の職場を離れて別の職場へ転職するのはいつだって可能ではあるが、今の職場にとどまることを選びがちである。気が短いし [3] 訳注;将来の利得を割り引いて考える、という意味。、転職活動には時間がかかるし、仕事の内容はどの職場でも同じだからである。その一方で、企業の側はどうかというと、今雇っている従業員を解雇して新たに別の求職者を雇い入れるのも可能ではあるが、新たに人材を確保するためには時間がかかるし、求人に応募してくる求職者が今雇っている従業員よりも仕事をうまくこなせる保証もない。
求職者と企業との間で雇用契約が結ばれたとしよう。交渉の結果として賃金はどの水準に決まるのだろうか? 幅があるというのが答えである。賃金がどのように決まるのかについては、モデルからは手掛かりがほとんど得られないのだ。・・・(略)・・・
・・・(略)・・・あえてこの箇所を引用したのはなぜかというと、労働市場を完全競争的なスポット市場になぞらえる見方への挑戦は、もうとっくに試みられている――労働経済学の分野だけにとどまらず、マクロ経済学の分野(pdf)においてすらそうである――ことを強調したかったからだ。現代の労働経済学のモデルでは、「どの労働者も速やかに転職可能」とは想定されていないし、企業は従業員のクビを切るのに躊躇しないとも想定されていないのだ。
さて、本題に入るとしよう。現代の労働経済学は、最低賃金の効果についてどんなことを語っているのだろう? この複雑な問いへの答えを探るために、私にとっては極めて科学的に思える手法に訴えてみた。Google の検索バーに「minimum wage matching model」というキーワードを打ち込んでみたのだ。これはという論文がいくつか見つかったので、順に紹介するとしよう。
まずはじめに紹介するのは、エイドリアン・マスターズ(Adrian Masters)の論文――“Wage Posting in Two-Sided Search and the Minimum Wage”――である。名のある学術誌に掲載されている論文だ。以下にアブストラクト(要旨)を引用するが、均衡における賃金の水準がかなり低くなる(雇用量が最大化される水準を下回る)可能性があるという。
本稿では、マッチングが成立する相手が違えば総利得にも違いが生まれる両方向サーチモデル(two-sided search model)の均衡における賃金の決定に焦点を当てる。雇用主が無数に存在するにもかかわらず、雇用主は価格支配力を手にすることになる。サーチ(取引相手の探索)にはコストがかかるため、雇用主と求職者との交渉がそれぞれのケースごとに分断されるからである。雇用主は、お互いに共謀せずに、求人の募集を出す段階で一方的にどれだけの賃金を支払うつもりかを提示することにより、マッチングが成立するおかげで生まれる総利得の大半を掌中に収めることになる。均衡賃金(均衡において成立する賃金)は、雇用量が最大化される水準を下回ることになる [4] 訳注;それゆえ、最低賃金の引き上げ(あるいは、最低賃金の導入)に伴って均衡賃金が高まるようなら、雇用量が増えるかもしれない。。・・・(略)・・・
速断は禁物だ。リチャード・ロジャーソン(Richard Rogerson)がマイケル・プリーズ(Michael Pries)との共著論文――“Hiring Practices, Labor Market Institutions and Labor Market Flows”――の内容について、以下のようにかみ砕いて説明している。
最低賃金をはじめとした労働市場への介入は、どのような効果を持つのだろうか? ロジャーソンによると、最低賃金が均衡賃金を上回る水準に設定されてしまうと、企業が求人への応募者の採用を控えるようになる可能性があるという。
その理由は、最低賃金の水準が高まると、実際の仕事ぶりを観察するために試しに雇い入れてみるコストが高まるので、応募者を見る目が厳しくなる(応募者への要求水準が高くなる)からだという。応募者の仕事に対する適性を見極めるためには、採用面接を行うだけでは十分ではなく、実際の仕事ぶりを観察してみる必要がある。最低賃金の水準が高まると、応募者の仕事ぶりを観察するために試しに雇い入れてみるコストが高まることになるのだ。最低賃金を上回る賃金でいずれかの応募者が採用される可能性は皆無かというと、そうではない。ただし、その場合に採用されるのは、仕事に対する適性の高さが面接の段階で窺い知れる応募者だけに限られる。
ロジャーソンは、『車の試乗』のたとえを持ち出して説明を加えた。「車の試乗を禁じる法律が可決されたと想像してみてください。車の試乗ができなくなると、(その車が自分の好みに合っているかどうかを確かめるための)重要な情報源が一つ失われてしまうことになります。・・・(略)・・・」 車の試乗が法律で禁じられたとしたら、どんな結果が待ち構えているのだろうか? 「自分の好みにぴったり合う車を見つけられる可能性が低くなってしまうでしょう。経済厚生の損失が生じるわけですね」とロジャーソン 。
ロジャーソン&プリーズの二人が分析を加えている一連の政策――最低賃金、失業保険、解雇規制、税金――は、車の試乗を法律で禁じるのとまったく同じとは言えないが、求人への応募者を「試乗してみる」――その応募者が仕事に対する適性があるかどうかを見極めるために、試しに雇い入れてみて仕事ぶりを観察する――コストを高める効果を持っている。そのせいで、企業が応募者の採用を控えるようになる可能性があるのだ。
・・・(略)・・・解雇規制にしても、失業保険にしても、税金にしても、それ単独でどれくらいの効果を持つか(労働移動率、失業率、失業期間の長さ、生産量にどれくらいの効果を及ぼすか)を問題にするなら、大したことないというのがロジャーソン&プリーズの二人が得ている結論である。しかしながら、これらの政策が並行して(一緒に)実施されるようなら――現実の世界ではしばしばそうなっている――、その効果はかなりの大きさになるという。
労働市場に対する政府のあれやこれやの介入を別々に分けて論じるのではなく、すべてひっくるめて論じるべきなのかもしれない。以下に引用するのは、ピエール・カユック(Pierre Cahuc)&アンドレ・ジルベルベルグ(Andre Zylberberg)の共著論文――“Job Protection, Minimum Wage and Unemployment”――のアブストラクト(要旨)だ。
本稿では、(賃金がいかにして改定されるかを規定する)労使の交渉制度と雇用保護規制が相まって失業率に対していかなる影響を及ぼすかを検討する。雇用消失率(job destruction rate)が内生的に決まる [5] 訳注;内生的に決まる=モデルの解として求められる、という意味。モルテンセン&ピサリデス流のマッチングモデルに依拠して分析を進めるが、賃金が改定されるのは労使がともに同意する場合に限られるという想定を付け加える。賃金の変動に厳密なミクロ的基礎を与えるためにである。・・・(略)・・・ 賃金が改定されるのは労使がともに同意する場合に限られるという想定を置く利点は、他にもある。最低賃金をマッチングモデルの枠内にすっきりと組み込めるようになるだけでなく、最低賃金と雇用保護規制が相まってどのような効果を生むかを分析できるようにもなるのだ。本稿では、解雇手当の引き上げなり解雇規制の導入なりが失業率に及ぼす効果をコンピュータを使ってシミュレートしているが、賃金が伸縮的であるか最低賃金が低めに設定されているようなら、その効果は取るに足りない一方で、最低賃金の水準が高めに設定されているようなら、その効果はかなり大きくなる(失業率を大幅に高める)可能性が仄めかされている。
失業率が高まるという事態は好ましく思われないのが普通だが、何らかの政策のせいで失業率が高まったとしよう。その政策は失敗だったのだろうか? 話をややこしくするようで申し訳ないが、そう言えるとは限らないのだ。クリストファー・フリン(Christopher Flinn)の論文――“Minimum Wage Effects on Labor Market Outcomes under Search with Bargaining”――のアブストラクト(要旨)をご覧あれ。
・・・(略)・・・本稿では、最低賃金の引き上げが雇用情勢や経済厚生に対していかなる効果を及ぼすかを分析する。本稿でのモデルによると、最低賃金が引き上げられると、雇用量は確実に減るが、労働市場に参与している主体(被雇用者、求職者、雇い主)の経済厚生は高まる可能性がある。・・・(略)・・・アメリカでは、1996年に連邦最低賃金(時給)が4.25ドルから4.75ドルへと引き上げられた。最低賃金の4.75ドルへの引き上げが経済厚生にどのような影響を及ぼしたかを直接推計してみたところ、経済厚生は若干ながら高まった可能性があるとの証拠(あくまで限られた証拠)が得られた。さらには、労働者の交渉力をはじめとしたパラメータの推計結果を用いて最低賃金の引き上げが経済厚生に及ぼす影響をシミュレートしてみたところ、1996年に最低賃金がそれまでの2倍の水準に(4.25ドルから8.46ドルへと)引き上げられていたとしたら、失業率が容認し難いほどの高さにまで上昇していた可能性がある一方で、労働市場に参与している主体(被雇用者、求職者、雇い主)の経済厚生は大幅に高まっていた可能性が示されている。
同じくフリンの関連する論文――“Minimum Wage Effects on Labor Market Outcomes under Search, Matching, and Endogenous Contact Rates”――のアブストラクト(要旨)より(この論文は、大変権威ある学術誌に掲載されている)。
・・・(略)・・・本稿でのモデルによると、最低賃金が引き上げられると、失業率が高まる可能性もあればそうならない可能性もあるが、労働市場の需要側(雇い主)・供給側(被雇用者、求職者)のいずれの側の経済厚生も高まる可能性がある。・・・(略)・・・1996年に最低賃金をどの水準に定めるのが最適だったかは、接触頻度 [6] 訳注;求人を出している企業と求職者が接触を持つ頻度。を外生的と見なしうるかどうか(最低賃金の水準が変更されても接触頻度は変わらないと言えるかどうか)によって答えに違いが出てくるが、最低賃金が変更された例はごく限られているため、接触頻度を外生的と見なせるかどうかの検証には困難がつきまとうだろう。
さて、最後に問うとしよう。最低賃金(の引き上げ)は、得策なのだろうか? そうじゃないのだろうか? 現代の労働経済学の理論に加えて、その定量的な検証が明瞭に語っているのは、「時と場合による」(最低賃金の引き上げが得策な場合もあれば、そうでない場合もある)という答えである。
———————————(引用ここまで)———————————
通念とは反対に、最低賃金の引き上げは経済厚生を悪化させるとは限らないのだ。
References
↑1 | 訳注;ブラックのこのエントリーは、PGL のエントリーを受けて書かれている。PGL のエントリーでは、最低賃金が引き上げられると、雇用量が減ると当然視している経済学者(経済学の博士号の持ち主)のコメントが紹介されている。経済学の博士号を持っているなら知っていて当然のモデル(買い手独占モデル)によると、必ずしもそういう結論にはならないのに・・・と揶揄する意味で、「経済学の博士号を持つ切れ者でも理解できるように」と述べているのだろう。 |
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↑2 | 訳注;モルテンセン(Dale Mortensen)とピサリデス(Christopher Pissarides)は、ピーター・ダイアモンド(Peter Diamond)とともに、2010年度のノーベル経済学賞を受賞している。サーチ理論(あるいは、マッチング理論)の発展に大きく貢献したのが受賞理由。労働市場の分析にサーチ理論を応用している試みについては、例えば次の論文で先行研究がサーベイ(概観)されている。 ●Richard Rogerson&Robert Shimer&Randall Wright, “Search-Theoretic Models of the Labor Market: A Survey(pdf)”(Journal of Economic Literature, Vol. XLIII (December 2005), pp. 959–988) |
↑3 | 訳注;将来の利得を割り引いて考える、という意味。 |
↑4 | 訳注;それゆえ、最低賃金の引き上げ(あるいは、最低賃金の導入)に伴って均衡賃金が高まるようなら、雇用量が増えるかもしれない。 |
↑5 | 訳注;内生的に決まる=モデルの解として求められる、という意味。 |
↑6 | 訳注;求人を出している企業と求職者が接触を持つ頻度。 |
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