●Mark Thoma, “Social Security is about insurance, not savings”(Economist’s View, April 5, 2005)
(以下の文章は、レジスター・ガード紙に “Social Security is about Insurance, not Savings”(「社会保障制度は、貯蓄のための手段ではない。その役割は、保険を提供することにある」)というタイトルで寄稿した記事(2005年2月24日付)の転載である)
1929年10月にアメリカを襲った大恐慌は、経済や社会に大混乱を巻き起こした。ごく普通の庶民たちの(経済面での)生活の安定(economic security)が脅かされたのである。
家族を養うために日々の仕事に追われる労働者たちが突如として職を失う可能性は、いつだってある。その理由は様々だ。新たに発明されたばかりの機械に取って代わられることもあれば、消費者の好みが変わったせいで勤め先の経営が悪化することもある。生産拠点が別の場所に移されるのに伴ってこれまで勤めていた職場が無くなってしまうこともあれば、景気が悪化して失業に追いやられることもあるだろう。
工業化の波が押し寄せるまでは、(経済面での)生活の安定を求める欲求はそれほど強くなかった。農業が生産活動の中心だった時代には、自分の畑で育てた農作物で自給自足できたし、拡大家族による相互扶助にも頼れたからである。
工業化は、経済面で多大なる恩恵をもたらした。しかしながら、それと同時に、ごく普通の庶民が直面する経済面でのリスクを大幅に高めるような変化も随伴した。都市化(農村から都市への移住)、拡大家族の解体、賃金所得を生計の資とする層の拡大、長寿化(平均余命の伸び)等々である。家の外で働いて得られる賃金だけが収入源の労働者にとっては、失業は単に辛い経験を意味するだけにとどまらない。職を失うことは、収入源を完全に失ってしまうことと同義でもあるのだ。
他人からの援助に頼ることもできず、貯金がたくさんあるわけでもない。それに加えて、社会保障制度も整っていないとしたら、どうなってしまうだろうか? そういう状況で職を失いでもしようものなら、餓死する可能性だってあり得る。退職後に備えてせっせと貯金してきた労働者も、病気に突然かかったり予想していたよりも長生きして、生活苦に追いやられてしまうかもしれない。
失業保険をはじめとした社会保障制度は、社会全体の貴重な資源――それも、できるだけ少ない資源――を使って経済面のリスクを和らげるための仕組みとして、大恐慌をきっかけに産声を上げた。
社会保障制度の狙いは、国民一人ひとりのために預金口座を用意することにあったわけではない。一家の大黒柱が職を失った世帯だったり退職者だったりに対してセーフティーネットを提供し、国民一人ひとりが自力で経済面のリスクに備える場合よりも少ない費用(安価)で保険を提供することがその狙いだったのである。
国民一人ひとりが自力で退職後への備えをしなければならないようだと、退職後も長く生きて高額な医療費を支払うために、かなりの額の貯金を蓄えておく必要があるだろう。しかしながら、そうするのは最適な方法とは言えない。というのは、一人ひとりが蓄えるべき貯金の額を抑えた上で、同じ目的を達成できる方法が別にあるからである。国民がみんなでお金を出し合ってそれをプールすれば、一人ひとりが拠出すべき金額は、平均的な余命や平均的な健康寿命を生きるのに必要な額だけで済むのだ。
火災保険と同じである。火災保険という仕組みが無ければ、一人ひとりは火事で家が燃えた場合に備えてかなりの額の(家を補修するために必要なだけの)貯金を蓄えておく必要があるだろう。あらゆるリスクをすべて自分一人で負担しなければならないので、火災保険という仕組みを通じて大勢でお金を出し合う場合よりも、ずっと多額のお金を前もって蓄えておかねばならないだろう。そんなに蓄える余裕が無くて、火事への備えが一切できていないという人も出てくるだろう。それに対して、火災保険という仕組みを通じて大勢でお金を出し合えば、自分一人だけで備える場合よりもずっと少ないお金を用意すればいい。運悪く家が火事で燃えてしまったら、プールされたお金を引き出して家の補修に充てることができる。払い込まれる(保険料の)総額と支払われる(保険金の)総額が必ず一致しなければならないわけでもない。社会保障制度を通じて提供される保険にしても、それは同じだ。
政府が保険の提供に関与する必要があるのは、なぜなのだろうか? 民間部門にその役割を一任することはできないのだろうか?
社会保障制度を通じて提供されているようなタイプの保険は、民間部門では十分に提供されないのではないかと疑うに足る理由がいくつかある。そういう保険は、(アメリカで社会保障制度が産声を上げた)1935年になるまでどこにも存在していなかったという事実がそのうちの一つ。企業年金の現状は満足いくものとは言えないが、この事実ももう一つの理由である。
経済理論的には、「市場の失敗」の例だと言えるかもしれない。「市場の失敗」というのは、民間部門で最適な量の財なりサービスなりが提供されないケースを指している。「市場の失敗」を是正するためには、政府の介入が要請される(必要とされる)ことになる。
民間部門で保険が提供されたとしても、多くの人は退職後に備えて十分なだけの貯金を蓄えられるとは限らない。社会保障制度は、民間部門に保険の提供が委ねられた場合に生じる数々の問題を解決するために編み出された仕組みなのである。
社会保障制度の民営化をめぐる議論では、社会保障制度に備わる「保険」としての側面に十分な注意が払われているとは言えないようだ。社会保障制度は、貯蓄のための手段ではなく、社会保険を提供するための仕組みである。国民一人ひとりが自力で経済面のリスクに備えるよりも、政府が社会保険を提供するというかたちで社会全体で協力して経済面のリスクに備える方が得なのであり、その理由をきちんと認識しておくことが大事である。
民間部門に委ねてもうまくいかず、それゆえに1935年に社会保障制度が産声を上げたのだった。民間部門に委ねても今でもうまくいかないだろうと疑うに足るもっともな理由はいくつもあるのだ。
現状の社会保障制度を手直しする必要があるかどうかという別の争点もある。手直した結果として「社会的なセーフティーネット」が弱体化するようなら――社会保障制度の民営化は、そのような方向へと踏み出す一歩だと言えるが――、政府が(経済面での)生活の安定を保障するために国民と結んだ「社会契約」が揺らぐことにもなろう。
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●Mark Thoma, “Social Insurance and the Severity of Recessions”(Economist’s View, August 1, 2009)
にわかに注目を集め出している問いがある。(このたびの世界的な経済危機の最中に)財政刺激策が打たれずに金融機関も救済されずにいたとしたら、景気はどこまで悪化していたろうかという問いがそれである。確実な答えを知る手立てはないが、(財政刺激策が打たれずに金融機関も救済されずにいたとしたら)景気は今よりもずっと悪化していたに違いないというのが私の考えだ。しかしながら、財政刺激策が打たれずに金融機関も救済されずにいたらどうなっていたかを確かめてみないことには――そうすることは不可能だ――、確実な答えを知ることはできない。
私にとってはかなり判然としているものの、世間からは十分な注目を集めているとは思えないことが一つある。景気の悪化によって個々の家計や経済全体が被る(こうむる)痛みを和らげる上で「自動安定化装置」(automatic stabilizer) [1] 訳注;「ビルト・イン・スタビライザー」とも呼ばれる。が果たした役割がそれだ。
自動安定化装置とは何か? 自動安定化装置というのは、財政制度に埋め込まれた仕組みのことであり、税金の支払いや移転支出の一部(例. 失業保険やフードスタンプ)が景気の変動に応じて自動的に増減するおかげで、景気の上下動が和らげられることになる。例えば、景気が悪化すると、フードスタンプ向けの政府支出(歳出)が自動的に増えることになる。景気の悪化に伴って、フードスタンプの受給者が増える(あるいは、受給資格が緩和される)からである。フードスタンプ向けの政府支出が増えるおかげで恩恵を受けるのは、フードスタンプの受給者だけじゃない。受給者がフードスタンプを使って買い物をしたお店とそこで働く従業員にも恩恵が及ぶのだ(それだけではない。乗数効果が働くおかげで、恩恵はさらに広い範囲に行き渡ることになる)。同じように、景気が悪化して失業者が増えると、失業保険の給付も自動的に増えることになり、これまた総需要を下支えすることになる。景気が悪化すると、対GDP比で測った所得税の負担も減る。これもまた総需要を下支えする役割を果たす。
コテコテの右派のアドバイスが聞き入れられて、自動安定化装置としても有効に機能している福祉国家プログラムが全廃されていたとしたら、景気はどこまで悪化していたろうか? (1930年代の)大恐慌の再現・・・とまではいかなかったろう。それはどうしてかと言うと、1930年代に比べるとだいぶ豊かになっていて、いざという時に当てにできる民間の資源(資産、財産)の蓄えが1930年代よりも豊富だからだ。とは言え、誰もがいざという時に備えて十分な財産を蓄えているわけじゃない。もしも社会保険という仕組みが無かったとしたら――今では当たり前の存在と思われているが、アメリカで社会保険という仕組みが導入されたのは大恐慌がきっかけである――、景気の悪化が脅威としてずっと切実に感じられたろうし、景気の悪化に伴って生じる痛みもずっと酷かったろう。勘違いしてもらいたくないが、景気が悪化しても社会保険制度(社会保障制度)のおかげで痛みを一切味わわずに済んでいると言いたいわけじゃないし、社会保険制度の縮小を訴えたいわけでもない。景気が悪化すると、痛みはどうしても起こる。その痛みを和らげるためにも、社会保険制度を今よりもっと手厚いものにすべきだというのが私の意見だ。現状の社会保険制度には何の問題も無いと言いたいわけでもない。問題はある。しかしながら、社会保険制度が景気後退の最中に果たしている重要な役割――自動安定化装置としての役割――を見過ごしてはならないのだ。
社会保険の給付水準だとかその具体的な形態だとかについては、色んな意見があるだろう。個人的な意見としては、今よりもっと手厚くすべきだと思うし、医療費も社会保険でカバーすべきだと思う。しかしながら、社会保険制度が果たしている「自動安定化装置」としての重要性と有用性――景気の悪化に伴って生じる痛みを和らげてくれるその重要で有用な働き――については意見が割れることはあり得ないというのが私の考えだ。
景気の悪化を和らげるという狙いを持った政策介入の効果(有効性)を評価するためには、比較対象(反実仮想)が必要だ。そのような比較対象として、二通り考えられるだろう。「財政刺激策が打たれず、金融機関も救済されずにいたとしたら、どうなっていたか」というのが一つ目の比較対象である。だいぶ悲惨なことになっていたろう。「財政刺激策が打たれず、金融機関も救済されず、社会保険制度も存在していなかったとしたら、どうなっていたか」というのが二つ目の比較対象である。だいぶどころじゃないほど悲惨なことになっていたろう。
References
↑1 | 訳注;「ビルト・イン・スタビライザー」とも呼ばれる。 |
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