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ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 3」(2009年3月2日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 3“, Bill Mitchell – billy blog, March 2, 2009.

Part 1 の翻訳はこちら

Part 2 の翻訳はこちら

 

この記事は財政赤字101のPart 3だ。このシリーズは、財政赤字を恐れるべきではない理由の説明のために書いている。この記事では、銀行システムにおける財政赤字の影響を考察することを通じて、「財政赤字が政府借入需要を増やし、金利を引き上げる」という既存の神話を蹴散らすつもりだ。この二つの議論には関係がある。重要な結論は、(a)財政赤字は金利に対して下落圧力をかける動態を持つ、ということと(b)政府債務発行は政府支出の”資金調達”をするものではない、ということだ。そうではなく、債務発行は、(オーストラリア中央銀行(RBA)の目標金利維持志向としての)金融政策をサポートするために行われるものだ。

 Deficits 101 Part 1 (訳注:邦訳はこちら)では、政府と非政府部門の間の垂直関係と、そこでの経済内の金融純資産の出入りについて描写した図を提示した。こうした政府-非政府部門間垂直取引は一体どのようなもので、それを理解することが経済理解にどう重要なのだろうか? こうしたことをつなぎ合わせる手助けになる関連図として、以下のものを提示しておこう(私の最も最近の著書であるFull Employment Abandoned: Shifting sands and policy failuresからの引用)。画像はクリックして別ウィンドウで見てもらって、ここから先のテキストについては印刷して読んでもらった方が良いかもしれない。

金融的垂直関係・水平関係

この図は、政府と非政府部門の本質的な関係を垂直的に示したPart 1のに、さらなる詳細を加えたものだ。

最初に垂直面に注目すると、納税義務が、通貨(currency)の垂直的・外生的な構成部分の最下部となっているのがわかるはずだ。統合政府(財務省+オーストラリア中央銀行)は垂直連鎖のトップにあたる。なぜなら、統合政府は通貨の独占的発行者であるからだ。グラフの中間セクションは民間(非政府)部門に占められている。民間部門は財・サービスを国家貨幣単位と交換し、納税し、残余(会計的には政府赤字支出にあたる)を蓄積させる。蓄積形態は、流通現金、準備預金(商業銀行がオーストラリア中央銀行に対して保有する)、政府(財務省)債券、証券(オーストラリア中央銀行を通じて提供された銀行預金)といった形を取る。

納税に用いられた通貨単位(the currency units)は、支払プロセスにおいて消費(破壊)される。国民政府は任意に紙幣を発行するか、オーストラリア中央銀行に会計情報を発行することが出来るので、納税が政府に対して支出余力を追加(還流)させたりすることはない。

政府の二つの部門(財務省と中央銀行)は非政府部門の金融資産ストック蓄積及び資産構成に影響を与える。(財務省が司る)政府赤字は、民間部門における金融資産ストック累積量を決定する。そして中央銀行は、こうしたストックの組成を、紙幣や硬貨(現金)、ないし(交換尻決済に用いる)準備預金、および政府債券の中で組み替える。

上で示した図では、ストック累積が、我々が「非政府部門のブリキ小屋」(Non-government Tin Shed)と名付けた不換紙幣・準備預金・政府債券の蓄積によってなされるということを示している。「キャンベラのどこかに備蓄地域があって、国民政府がそこにすべての余剰物資を後の利用のために備蓄しているのだ」という大衆の思い込みを解除するために、「ブリキ小屋」(Tin shed)というアナロジーを用いている――それは過去の政府体制における重大主張だったのだ。実際には、そこに備蓄などない。なぜなら、余剰のある限り、購買力は永久に損なわれているからだ。しかし、非政府部門は確かに金融システムのいたるところで「ブリキ小屋」を所有している。

政府部門から非政府部門へ流れるあらゆる支出は、非政府部門に現金・準備預金・債券の形で残っている税負債(the taxation liabilities)を取り上げるものではない。したがって、「ブリキ小屋」に積み上げられている金融資産の蓄積は、累積財政赤字を反映したものであるということが分かる。

垂直の線の一番下は税で、ごみ箱に繋げることで、何かをファイナンスしているのではないことを強調している。税は民間部門の金融収支を減じるが、何ら政府のプラスになるわけではない――その減少分は請求されるものの、どこかへ流れるわけではないのだ。

このように、不換紙幣発行政府による自国通貨貯蓄というコンセプトは、不適切な代物なのだ。

政府が蓄積資産の購入に純支出を用いることもあるかもしれない(例えば、金の余剰分を買い入れたり、オーストラリアの場合なら、オーストラリア未来基金に貯蓄されている民間部門の金融資産を買い入れたり)が、そうした行為は、政府による財政黒字形成(支出を上回る徴税)によって未来のための資金が貯蔵される、ということを意味するものではない。こうした考えは誤りだ。つまるところ、債券売却は、流動性の除去になるのだが、同時に流動性の解体を生じることになるのである。

民間信用市場は(水平矢印で描写されたような)関係を表し、商業銀行、企業、家計(海外含む)による信用レバレッジ活動が行われている。多くのポストケインジアン系経済学者は、これを内生的貨幣循環として考察している。垂直取引との決定的な違いは、水平取引では金融純資産を創造しないということだ――全ての資産創造は同量の負債と一致するので、取引全体ではプラスマイナスゼロになる。このことが示す含意については、政府純支出が流動性に与える影響と、債券発行の役割について考える際にすぐに触れよう。

別の重要なポイントとしては、民間のレバレッジ活動は、全体ではプラスマイナスゼロなので、「ブリキ小屋」の話における通貨(currency)・準備預金・政府債券の役割を担えないという点がある。標準的な教科書には大抵逆のことが書いてあるが、商業銀行は信用を生み出す際に準備預金を必要とはしない。

中央銀行は銀行システム内の流動性を管理することを通じて、短期金利をその時点の金融政策を決めている公式目標に合致させる。こうした目的を達成するため、中央銀行は(a)日常的な資金需給を管理するためにインターバンク市場(例えば、アメリカではフェデラルファンド市場)に介入し、(b)商業銀行から金融資産を現価で購入し、(c)緊急資金を求める銀行にペナルティ的貸出金利を課している。実際、ほとんどの流動性管理は(a)を通じて達成されている。要するに、中央銀行のオペレーションは、準備預金・現金・証券の組成を変更することを通じてシステム運用上のファクターを埋め合わせるものであり、非政府部門の金融純資産を変化させないのである。

金融市場では商業銀行(及びその他の金融仲介機関)は法定準備を満たしたり他の商業目的上の資金獲得を行うために、短期金融商品を相互に取引する。図に従えばこうした取引はすべて水平的なもので、全体ではプラスマイナスゼロになる。

商業銀行は中央銀行に準備預金口座を保持することで、準備預金を管理し、手形交換決済を円滑に行っている。中央銀行は、貸出金利(公定歩合)の設定に加えて、商業銀行が中央銀行に対して保有している準備預金へのサポート金利も設定している。オーストラリア、カナダ、ユーロ圏といった多くの国々では、超過準備に既定金利が支払われる(例えば、オーストラリア中央銀行では、余剰為替決済勘定にかかるオーバーナイト金利に比してより低い25ベーシスポイントの超過準備付利を支払っている)。他の国、例えば日本では、超過準備に付利を行わず、過剰な流動性がそこに留まっていれば、政府による債券売却(あるいは増税)がない限りは、短期金利をゼロまで引き下げることになる(2006年半ばまでの日本のように)。こうしたサポート金利は、経済において金利の底になる。

短期的ないし運用上の目標金利は、現在の金融政策スタンスを示すものだが、中央銀行によって公定歩合とサポート金利の間に設定されることになる。こうした構造は事実上、短期金利が流動性変動と共に変化できる範囲としての回廊(corridor)ないし幅(spread)を作り出す。このspreadこそが中央銀行が日常業務で管理しているものだ。

ほとんどの国では、商業銀行は、ある特定期間の累積で、中央銀行に対する準備預金保有をプラスに保たなければならないと法律で定められている。商業銀行は各日の終わりに準備預金口座の状態を査定する必要がある。準備預金口座が赤字なら、中央銀行から公定歩合で必要資金を借入することが出来る。一方、超過準備を持つ銀行は、何の行動も起こさない場合は、オーバーナイト資金に対する現在の市場金利を下回るサポート金利の稼得に直面する。明らかなことだが、この場合銀行は超過資金を市場金利でほかの銀行に貸し出した方が利益が出る。超過準備を抱えた銀行同士の(慣習に則った)競争によって、短期金利(オーバーナイト金利)には下落圧力がかかり、全体的な流動性の状態に基づいてインターバンク金利は、オペレーション上の目標金利より低い水準まで低下することになる。システム内の流動性が全体で見て過剰である場合、こうした競争が金利をサポート金利まで引き下げるのだ。

資金市場における短期資金需要は、インターバンク金利に対して逆向きに動く。というのは、インターバンク金利が高くなると、予想不足量を他の銀行から借りようとする銀行が減るからだ(準備預金量予想の失敗をカバーするために、中央銀行から末日に資金を借りるはめになるリスクと比較して、の話ではあるが)。公開市場オペレーションを通じた流動性管理のための主要な手段は、政府債務の売買である。オーバーナイト資金市場における競争的圧力によってインターバンク金利が望ましい目標金利より低くなってしまう場合、中央銀行は政府債務売却によって流動性を取り除く。このような公開市場介入はオーバーナイト金利を引き上げる。重要なポイントだが、債務発行は、金利維持を実現するために作られた金融政策手段だと位置付けられているのである。こうした理解は、債務発行が財政の一側面であり、赤字財政支出の資金調達のために必要なものだと主張するオーソドックスな理論と全く以て対照的なものである。

後にさらに発展させていくこうした議論における重要なポイントは、クラウディングアウトが神話であるということを暴くことだ。政府支出(財政赤字)は、中央銀行による流動性管理を考慮しない場合は、商業銀行が中央銀行に対して保有する(準備預金の)精算後差額で見て、超過準備(現金供給)を発生させることになる。我々はこれを「システム全体の余剰」と呼ぶ。この場合、商業銀行は、他の(資金不足の)銀行に貸し出して利益を得ようとしない限り、超過準備に支払われる低いサポート金利に甘んじることになる。事後的に生じる超過準備の押しつけ競争によって、オーバーナイト金利は下落圧力を受ける。しかし、そうした取引は水平取引であり、必然的に総和はプラスマイナスゼロなので、銀行間取引は、システム全体の余剰を解消できない。よって、もし中央銀行が現在の目標オーバーナイト金利を維持しようとするなら、流動性余剰を政府債務売却によって除去しなくてはならない。これは垂直取引だ。

 

神話としてのクラウディングアウト

我々は今、「通貨発行権のある政府(currency-issuing government)に金融的制約がある」という考えを永続化させようとする神話の存在を知っている。この神話は、マクロ経済政策における政府の行動主義に対抗する正統派経済学者の議論を支えているものだ。消滅させる必要のあるしぶとい神話は他にもある――「政府支出が金利影響を通じて民間支出をクラウディングアウトする」という神話だ。

これまで見てきたように、中央銀行は必要に応じてリスクフリー金利を管理するのであり、直接的な市場圧力に従属したりはしない。正統派経済学のアプローチでは、永続的財政赤字は国民貯蓄を減らし、金利を引き上げ、投資支出を引き下げると論じられる。2日前に私が書いた 7.30 Report transcriptという記事を思い起こしてほしい。不幸なことに、「財政赤字が債務発行を増やし金利を引き上げる」というロジックの提唱者は、金利がどのように設定されるか、及び債務発行が経済においてどのような役割を担っているかについて理解できていない。明らかのことだが、長期投資金利にとって好ましいかどうかは度外視して、中央銀行がゼロ金利を設定・維持することは可能である。

政府支出はどこからか資金調達しているわけではないし、また集められた税金がどこかに向かって支出されているわけでもない、ということを確認してきたが、それと同時に、政府純支出には流動性面での実体的な影響があるということも議論してきた。債券を購入する資金は、会計的には政府支出によって供給されるので、「政府支出が民間投資用の有限な貯蓄を制限してしまう」といった考えは無価値である。アメリカの金融エキスパートであるTom Nugentは以下のように要約している:

『政府赤字支出の全影響を織り込むと、連邦政府による財務省証券発行は、常に新規発行資金と等しいので、財政赤字拡大による金利上昇への警戒というのは、ほとんど意味がないということも分かる。全体での影響は常に織り込まれ、金利は連銀が常に操作することになる。日本について考えてみればよい。日本は有史以来最大の公的債務を抱えており、繰り返し格下げもされているが、日本の政府証券金利は0.001%なのだ! もし財政赤字が本当に金利上昇を起こすなら、とっくの昔に日本は破綻していないといけない!』

これまで説明してきた通り、連邦政府と民間部門の取引は、システム全体の収支バランスを変化させるだけだ。政府支出や、中央銀行による政府証券(財務省債券)購入は流動性を追加するし、租税や政府証券売却は流動性を除去する。こうした取引は日常的にシステム内の現金量に影響を与え、当該取引による公的部門からの資金流出入の水準に応じて各日におけるシステム全体の黒字(赤字)が決定することになる。システムにおける現金量は、中央銀行の金融政策に関する決定的な暗示である。中央銀行による公開市場オペレーション(債券売買)の決定を反映するものだからだ。

この議論の理解の手助けのため、別の図を用意した。新しいウィンドウで開き、印刷して参照すれば、これまでの議論が分かりやすくなるだろう。

政府のそれぞれの部門の機能は以下のように要約される:(a)財務省による財政政策は、各日における政府支出と租税として要約され、経済全体に対して黒字(政府支出G>租税T)か赤字(G<T)の影響を与える。(b)オーストラリア中央銀行は金利目標の設定を通じて金融政策を遂行する。オーストラリア中央銀行はまた、目標金利を維持するためにシステム全体の現金量を管理する。これは政府債務の売買によって、商業銀行の準備預金を変化させることで行われる。では、政府債務の発行は、政府支出の資金調達に用いられないのに、なぜ行われているのか? 要するにそれは、中央銀行による(特定のオーバーナイト金利の保持を目的とした)準備預金操作のために行われているのである。図のように、政府支出Gは準備預金を加え、租税Tは準備預金を除去する。したがって、各日においては、もしG>T(財政赤字)であれば、準備預金は全体で増加することになる。

特定の銀行が準備預金不足になることはあり得るが、全体で見た準備預金の総額は過剰である。オーストラリアでは、オーバーナイトで残存する準備預金には目標金利以下の付利しか発生しない(いくつかの国では、付利すらない)。したがって各日において商業銀行は不要な準備預金を処分したがる。準備預金の余剰のある銀行は超過準備をインターバンク市場で貸し出そうとする。一部の準備預金不足の銀行はそうした貸出を受け入れて準備預金を補い、オーストラリア銀行の貸出窓口(discount window)で割高な準備預金借入を強いられる事態を回避しようとする。

結局は、準備預金余剰の銀行が自身の超過準備を処分しようとする競争によって短期金利は下落する。しかし、もしあなたが上記で議論した水平取引(全体ではプラスマイナスゼロ!)を理解したなら、非政府銀行システムがそれ自体(インターバンク市場における貸借といった、商業銀行同士の水平取引の遂行)によって(財政赤字によって創造された)システム全体の超過準備を処分することができないということが分かるはずだ。

必要なのは垂直取引――政府と非政府部門の間の相互作用だ。示した図に見る通り、債券売却によって、銀行に対して超過準備を処分できる魅力的な有利子証券(政府債務)を提示することで、準備預金を除去することが出来る。

このように、債券売却(債務発行)によってオーストラリア中央銀行は現金システム内の超過準備を除去し、金利への下落圧力を縮小させることができる。そうすることで、金融政策のコントロールが保たれる。重要なことは:

・財政赤字は金利に対して下落圧力をもたらす;

・債券売却はオーストラリア中央銀行の目標金利水準に金利を維持させる;

 

以上より、債務マネタイゼーションというコンセプトは全く不合理だ。一旦オーバーナイト金利が設定されたら、中央銀行はその目標を維持するのに必要な流動性変化の分だけしか政府証券を取引しない。中央銀行は準備預金をコントロールできないので、債務マネタイゼーションは全く不可能だ。中央銀行が財務省から政府証券を購入し、同時に政府支出が増加した場合を想像してほしい。超過準備の存在によって、中央銀行が同量の政府証券の売却を強いられるか、オーバーナイト金利がサポート水準まで下落するのを看過するかのどちらかになる。金利設定型金融政策のロジックから鑑みると、これはマネタイゼーションというより、単に中央銀行が仲介者として働いたに過ぎないのだ。

究極的には(訳注:政府支出が十分以上に増加した場合)、民間主体はそれ以上の現金・債券の保有を拒絶するかもしれない。債務発行がなければ、金利は中央銀行の設定するサポート下限(ゼロかもしれない)まで下がることになるだろう。これも明らかなことだが、民間部門がミクロレベルで政府証券なしに不要な現金を解消したかったら、民間部門の消費レベルを引き上げるしかない。現在の租税構造においては、このことは全体での貯蓄需要を減らし、民間支出を拡張し、財政赤字を減らし、最終的には、貯蓄需要が低い水準であり続ける限り、民間雇用レベルの上昇と必要な財政赤字の低下という形でポートフォリオがリバランスすることになるだろう。政府にとって、実物の限界を超えて経済を拡大する動機がないことは明らかだ。政府支出がインフレを起こすかどうかは、名目需要増加を満たすような経済の実物産出拡張能力に依存している。財政赤字の大きさそれ自体で決定するのではない。

 

この記事の主要な結論についてまとめておこう。

・中央銀行は自身の政策志向に基づき短期金利を設定する。実務的には、(マクロ経済学の教科書でクラウディングアウトとして描かれている神話とは対照的に)財政赤字は金利に下落圧力をかける。中央銀行はこの圧力に対して、政府債券を売却することで対抗でき、これを行うと政府が国民から借入を行ったのと同じことになる。

・借入を行わない(訳注:国債売りオペを行わない)ことのペナルティとしては、その国の回廊(corridor)の底への金利下落が生じる。回廊の底は、中央銀行が準備預金付利を行わない場合は、ゼロである。例えば日本は、国民からの借入(訳注:国債売りオペ)以上の支出によって形成した財政赤字を通じて、何年もの間ゼロ金利政策を維持することが出来た。このことは、政府支出が国民からの借入から独立して政府支出が可能であることと、国民からの借入というのは政府支出より順番的には後に発生するのだ、ということも示すことになる。

・政府債務発行というのは、財政政策固有の行為というよりは、金融政策手段である。

・会計的観点から見ると、財政黒字が示すのは、政府が何を行ったかであり、何を受け取ったかではない。(訳注:財政黒字は単に民間の金融純資産の除去を行っただけであり、それを通じて政府が何かを獲得することはないということ)

 

端的に言うと、我々は「連邦政府の赤字創出は有害であり、将来世代に負債を残す」という考えを否認する必要があるのだ。政府はあるプラスの短期金利の維持を選択してきているし、現金システムから生じる金利下落圧力に対して債務発行を必要としている。このシリーズの次の記事であるDeficits 101 Part 4ではなぜ短期金利が(現在の日本やアメリカのように)ゼロあるいはその周辺に維持されるべきかについて議論するつもりだ。

 

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 2」(2009年2月23日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 2“, Bill Mitchell – billy blog, February 23, 2009.

Part1の翻訳はこちら

Part3の翻訳はこちら


さて、「私たちは財政赤字を恐れる必要がない」ということを説明するために書くシリーズの第二回だ。今回は、所謂、「財政赤字を”ファイナンスする”」ことをめぐる神話のいくつかを解消したい。とりわけ「財政赤字はインフレをもたらす」、ないしは/もしくは、「財政赤字により政府は借り入れをする必要が出てくる」という神話だ。結論としては、政府には財政制約がなく、売られているものがある限り、それらに対して好きなだけ支出できるということになる。そして、支出が常にインフレをもたらすわけではないし、必ず政府債務を増加させるわけでもない、ということだ。

まず前回のパート1の復習から。一般の個人の場合、その支出は入手可能な原資に制約されている。自分の所得や資産の売却、どこかからの借りるなどを合わせても限度がある。対して、政府の支出は容易に可能で、中央銀行に小切手を振り出せばよい。政府の支出は、政府が中央銀行に持っている政府預金の額とは基本的に無関係なのだ。政府支出の小切手の受領者(政府にモノやサービスを売った人)が、小切手を銀行に持ち込むと、小切手は中央銀行収支(準備預金)を通じて清算され、民間銀行システムを通じ、口座への振込み記帳となって現れる。言い換えれば、政府支出は、民間銀行が中央銀行に持つ口座に信用を与えることによってなされている。このプロセスは、何か先行する収入(つまり税や借入)と関係しているわけではない。また、この信用付与によって政府資産は何ら減少しないし、政府の支出能力が減じることもない。

対して納税だが、民間部門からの納税が、民間銀行への小切手振出(または銀行振込)によってなされ、中央銀行が民間銀行の口座から引き落とす記帳となる。このとき何かの実質資源が政府に移転するというわけではない。また、この記帳によって政府の支出能力が高まるということもない。

この点に関して主流経済学は、家計の予算と政府の予算の違いを区別しないゆえの誤謬に陥っている。「政府の貯蓄と貯蓄取り崩しは、ちょうど家計のそれと思って考えていい」とは、評判の高い経済学者ロバート・バローの言葉だが、このような言明は全くの誤りだ。

主流経済学では政府予算制約(GBC:the government budget constraint)という枠組みを用い、次の三形態に分けた分析を行う。(1)増税、(2)民間部門への利付負債(国債)販売、(3)利子のないハイパワードマネーの発行(貨幣創造)、だ。そして、「ハイパワードマネーによるファイナンス(債務マネタイゼーション)の場合は赤字がインフレをもたらす」、であるとか、「債務発行によるファイナンスは民間部門の支出を搾り取る」、という結論を導き出すシナリオをいくつも構築する。実際のところのGBCは「事後的」にとらえた会計の姿に過ぎないのにも関わらず、従来の経済学ではそれが政府支出の「事前の」資金的制約であると主張されている。

GBCという枠組みを教えられる学生たちは「政府支出の際には、紙幣を刷ることでインフレーションにならないよう、増税か国債発行が必要になる」と信じることになる。人々も、政府支出のための金は税や国債が賄っているという誤解を持っている。政府が赤字を増やすと(徴税より多い支出をすると)債務残高が増えるか「お金を刷る」かのどちらかになるに違いない、いずれにしても望ましくない結果だと考えている。

しかし実際の政府の財政運営は、そのような先入観とはまるで違っている。家計、すなわち貨幣の使用者(user)は、使用者であるがゆえに支出の前に第一に資金を調達しなければならない。全く逆に、政府、すなわち通貨の発行者(issuer)は、必然的にまず支出(民間銀行口座に信用を付与)することによって、後日必要に応じて民間口座からの引き落としができるようになるのだ。政府は、民間部門が支払いや納税や貯蓄(取引のための残高維持も含む)のために必要とする資源の源(the fund)そのものだ。政府は自国通貨の支払いに困ることはない。

主流経済学ではこれを「貨幣創造」と呼ぶが、正確ではない。人気のあるオリバー・ブランチャードの教科書によれば、政府は

私やあなたにはできないことをすることが出来る。政府は貨幣を刷ることによって赤字を事実上賄うことができる。ここで”事実上”と言うのは、貨幣を作るのは政府ではなく中央銀行だということだ。しかし、中央銀行の協力があれば、政府は事実上、貨幣の発行によって自ら資金を調達することができる。政府は債券を発行し、中央銀行に購入させることが出来る。その際、中央銀行は自身が発行した通貨を政府に支払い、政府はその通貨を財政赤字の調達に用いる。このプロセスは債務マネタイゼーションと呼ばれる。

これが主流経済学者が「紙幣を刷る」と言っているものだ。しかしこれは金融システムから見れば間違った認識だ。マネタイズとは、貨幣への変換という意味だ。かつて金(gold)は政府が金(gold)を購入して金証券を発行するときにマネタイズされていた。中央銀行が外貨を購入するときにもマネタイズは起こっている。外国通貨の購入は、外国通貨を自国通貨へと変換あるいはマネタイズしていると言える。このとき中央銀行は、新規発行されたドルに対して銀行システム内に利子を稼げる手段を提供するために、連邦政府有価証券を売却する。不胎化と呼ばれる処理だ。広い意味で言えば、独自通貨を持つ政府の負債は貨幣だ。赤字支出のプロセスとは何を買うのであれ、マネタイズのプロセスということになる。

確かに、あらゆる政府支出が貨幣創造を伴っているのは明らかだ。但し、これは経済学の教科書や公共の言論においての言われているところの債務マネタイゼーションとは意味が異なる。ブランシャールの概念に従えば、債務マネタイゼーションは通常、中央銀行が政府債券を財務省から直接購入するプロセスのことを指すことになっている。言い換えると、連邦政府が市民からではなく中央銀行から通貨を借入するということである。債務マネタイゼーションは通常、政府が「お金を刷る」と言われるようなプロセスを意味する。債務マネタイゼーションは、他の条件が一定なら、マネーサプライを増やして深刻なインフレーションをもたらすとされている。

しかし、債務マネタイゼーションを怖れる根拠がない。そもそも政府が支出するときに通貨を持っている必要がないのだが、さらに、中央銀行には既発国債にしろ新発国債にしろ、それらを購入する選択肢がない。Part 3で紹介するつもりだが、中央銀行に目標短期金利を維持するという任務を持たせるのであれば、中央銀行は国債購入量・売却量を任意に決定することができない。中央銀行が準備預金量をコントロールできないというこの事実は、債務マネタイゼーションの不可能性を明確に示すものだ。中央銀行は、その意のままに政府有価証券を購入して政府債務をマネタイズするというようなことはできない。なぜなら、それを行うと、超過準備の発生によって、短期金利がゼロか、サポート金利のところまで低下してしまうからだ。このことについてはPart 3で逐一考察しよう。

ここまでの分析をまとめると、次のように結論できる。政府は小切手を切ることなどで銀行口座に信用を与えるか、現金を出すことで支出(経済に金融資産を導入する)を行う。この支出は収入に制約されない。自国通貨を持つ政府は、支出に関しての金融的な制約はない。ただし自ら(政治的に)課している制約は別だ。

政府支出が収入に制約されていないとなると、徴税についてもこれまでとは別の見方ができるようになる。徴税には、民間人が納税義務を果たすための必要資金を調達するために、その財やサービスを政府に提供するように仕向ける、という機能があるのだ。

徴税は、政府が支出するために必要な収入だというのがオーソドックスな理解だ。しかし真実はその反対だ。政府が支出することが、非政府部門に収入を提供し、それによって人々が納税義務を履行することを可能にしているのだ。つまり、納税負債を決済するのに必要な資金は、政府が支出することによって非政府主体へと供給されている。このことは、納税義務を課すことが非政府主体における政府貨幣の需要を創り出しており、このことによって、政府が経済的・社会的政策プログラムを運営できるようになっている、ということを意味している。

この洞察から、主流の分析が見落としている税の別の側面が見えてくる。税を支払うために非政府部門が不換貨幣を必要とするであれば、税の賦課とはまず第一に(支出のためではなく)、非政府部門の(求職者全員の)完全雇用のために作られているものなのだ。そうであれば、非政府部門の失業者・遊休資産は、実物材やサービスを非政府部門から政府部門へ移転させる政府支出を通じた需要追加により活用され得ることになる。
裏を返せば、この移転が政府の経済的・社会的政策プログラムを促進する。実物資源が財やサービスの政府購入という形で非政府部門から政府部門に移動する時に、その資源を供給する側は、納税義務を果たすために不換紙幣を獲得する必要があるということに動機づけられている。

さらに、実物資源が移転されたとしても、徴税によって政府が紙幣を発行できる余地が大きくなるわけでもない。以上のように政府部門と非政府部門の関係を概念化してみると、政府が支出することが賃金労働を供給し、同時に、租税によって作り出される失業を消滅させているということが明らかになる。

こうして、マスとしての失業がなぜ起こるのかがわかってくる。(政府による税と支出で定義される)国家貨幣を非金融経済に導入することで、非自発的失業という亡霊が現れる。会計の事実として、総産出が売れるためには、総支出と総所得が一致していなければならない(ある期間において、生産を通じて得られた所得の同額が支出されたとしても、そうでなくても常に)。非自発的失業は、現在の価格(賃金)では買い手がつかなかった遊休労働力だ。失業が発生するのは、民間部門が全体として、他の条件を一定とした場合、労働者を欲しつつも、稼得分の全部は支払わないことで貨幣を稼ごうとするからだ。その結果、モノやサービスの売り手のところに望まない在庫が蓄積し、ひいては産出と雇用の低下につながる。こうした状況では、名目賃金(あるいは実質賃金)をカットしても、そうした賃金カットが民間部門の純貯蓄需要を取り除いて支出を増加させるのでもない限り、労働市場の失業がなくならない。

このように、国家貨幣の目的は、実物財・サービスの非政府部門(主に民間)から政府領域(公共)への移動を促すことである。政府は、まず最初に税を課し政府発行貨幣への抽象的需要を作り出すことによって、こうした移転を達成する。非政府主体は、納税と純貯蓄に必要な資金を得るため、実物財・サービスを売りに出し、必要な貨幣単位と交換する。売りに出すものには当然労働力の提供も含まれる。明らかな結論として、失業とは、政府純支出が納税需要と純貯蓄需要を満たすのに少なすぎるときに生じるのである。

この分析により、政府支出の上限も定まる。納税が可能になるためには、十分な政府支出が必要だということはすでにはっきりしているが、加えて、政府純支出は民間の貯蓄需要(金融純資産の蓄積)に合わせる必要がある。前のパラグラフで明らかだが、もし政府が租税分と非政府部門の貯蓄需要を満たすのに十分な支出を行わないと、不足の兆候として失業が現れることになるだろう。ケインジアンは「需要不足失業」という言葉を用いてきた。我々の考えでは、いかなる時も民間の支出(貯蓄)決定は所与なのだから、失業の原因とは常に政府純支出の不足だ。

政府純支出の水準が不十分であっても失業が増加しない状態が持続する場合もある。ここ数年のアメリカやオーストラリアといった国にも裏付けられる通り、その場合のGDP成長は民間債務の拡張によってもたらされていることになる。問題は、民間部門の所得は決まっているので、所得に占める債務元利払いの水準が一定割合を超えたときに、民間部門が”借入余力を使い果たし”てしまうことだ。

そうなると、民間部門は不安定性回避のためにバランスシートを再構成しようとする。結果として債務の拡張に頼っていた総需要は減速し、経済全体が傾く。ここに至り、財政の歯止め(不十分な純支出水準)の問題は、失業という形で顕在化し始める。

重要なのは、税構造は所与として、人々が雇用を希望しつつ、それまでのような消費水準(もしくは、さらなる債務形成)は望まない状況でも、政府が支出を行い、財・サービスを購入すれば完全雇用を維持することが出来るということである。そうしないと失業や不況が生じることになる。不況経済では、資本側にも労働側にも多くの遊休資源があるため、財政赤字の拡張がインフレを促進するとは考え難い。

私がずっと指摘してきた話だが、連邦政府がまず最初にすべきことは、職を望む者すべてに労働機会を提供し、すべての法的資格の付与とともに最低賃金を支払うことだ。失業者は、定義によって”市場価格”がついていない。その労働力への需要がないからだ。価格のないサービスの購入は、何らインフレ促進的な行為ではない。

Part3では、「政府借入は金融市場から貨幣を搾り取るので、財政赤字は自動的に金利上昇につながる」という議論を検討しよう。そこであなたは納得することになるだろう…これもまた、政府の活動を制限するように設計されている、もう一つのネオリベラルの神話だったのだ、と。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 1」(2009年2月21日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 1, Bill Mitchell – billy blog, February 21, 2009.

Part2の邦訳Part3の邦訳


財政赤字を心配するべきではない、とか、赤字は債務でファイナンスされているとは限らない(政府が実際に債務を増やし財政赤字になっているとしても)というのはどういうことか説明してほしいというメールがたくさん来る。そこでこれから数週間にわたってこのトリッキーな問題についていくつかのエントリを書こうと思う。まず、赤字がどのように発生するか、そしてそれが経済にどのような影響を与えるかを説明しよう。まずは、特に次のような考えから自由になろう。「政府が赤字支出をすると、自動的に借入れをする必要が生じ、金融市場(そこには限られた貸出枠しかない)に圧力がかかり、金利が上がって、本来生産に向かうべき民間投資支出が絞られる。」この考えの連鎖は意味を為していないし、容易に却下することができる。だからこれは財政赤字101なのだ。次回は中央銀行が債券(政府債務)を発行する理由の詳細を書こう。

一連の議論では下の図を使う。クリックすると新しいウインドウに表示されるので、議論を読むときに印刷したものを横に置いておくことを勧める。もしこの問題についてのもっと詳しく学術的な議論に興味を持たれたら、私の一番新しい本を読むことを勧める。

Full employment abandoned: shifting sands and policy failures(with Joan Muysken) 2008.

  • 変動相場制。中央銀行は自国通貨を守るための外貨準備をする必要がない。
  • 物やサービスの交換単位に貨幣を用いる。貨幣は不換通貨、つまり交換できるのは通貨のみであり、金本位制のように政府が法的に金(gold)と交換するようなものではない。
  • 主権政府がその通貨の排他的発行権を持ち、同時に納税のために通貨を需要する。この意味で政府はその不換貨幣を独占している。
  • 不換貨幣が使用されるのは、納税その他の政府の需要への支払いとして受け入れられる唯一の単位だからだ。

この図は、政府と非政府部門の間の本質的な構造的関係を示している。まず、中央銀行の政府からの独立という論があるが、財務省と中央銀行のオペレーションを分離する実質的な意義はない。この統合された政府部門が、その経済における金融純資産のポジション(勘定単位での)を決定する。例えば、財務省のオペレーションがもたらす黒字(金融純資産の破壊)を、中央銀行のオペレーションがの赤字(同じ大きさ)打ち消すという具合だ。この両者の組み合わせが金融純資産の水準を決めている。上が正しい限り、中央銀行のオペレーションは非政府部門の金融資産を準備預金から債券に、あるいは逆に債券から準備預金へとシフトさせるのみに過ぎないので、中央銀行は実質的に金融純資産にはかかわっていない。例外として、中央銀行による外貨の売買と、自身の運営費用の支払いがある。政府内での取引に限れば、それらは統合政府部門(財務省と中央銀行)と非政府部門の垂直取引の理解にあたって重要ではない。その件は将来のエントリでもっと詳しく検討しよう。

第二に、海外部門を区別するようにモデルを拡張しても基本的な分析には何ら違いをもたらさないので、国内民間部門と海外部門を非政府部門として統合させても分析する上での損失はない。海外取引は基本的に分配の問題と言える。

この部門間取引を会計的に見ると、政府財政赤字は民間の金融純資産を(非政府部門の貯蓄を増やすことにより)増加させる、黒字は逆に働く。この点についてはさらなる説明が必要だろう。現代貨幣マクロ経済学の基本を理解するにあたって決定的に重要なことだからだ。

標準的な教科書では曖昧にしか扱われないのだが、国民所得勘定の肝はこの恒等式に尽きる – 政府の赤字(黒字)は非政府部門の黒字(赤字)に等しい。有効需要は常に国民所得と等しいので、事後的に(国民所得からの漏出の総計は他部門への投入分に等しいので)、次の部門間等式が成り立つ。

(G-T) = (S-I) – NX

ここで左辺は政府収支で、政府支出Gと税収Tの差だ。右辺は民間部門と海外部門を合わせた非政府部門の収支で、Sは貯蓄、Iは投資、NXは純輸出。統合民間部門は海外部門を含むので、トータルの民間貯蓄は必ず民間投資と財政赤字の和になる。

総体で、非政府部門の金融純資産貯蓄は政府の赤字支出の累積なしには成立しない。閉鎖経済であれば NX=0 であり、政府の赤字は一円たがわず国内民間部門の黒字となる。開放経済の場合は、非政府部門は民間部門が海外部門に分かれ、総民間貯蓄は、民間投資と財政赤字と純輸出の和になる(純輸出は非居住者の金融純資産であるので)。

ここで、非政府部門に金融純資産(純貯蓄)を供給し、民間の貯蓄(金融資産)志向に同時対応し、それによって失業を消すことができるのは、通貨を独占する政府のみだ。政府は純支出(G>T)によってこれができる。さらに、主流派のレトリックとは対照的に、むしろ逆説的に、システマティックに財政黒字(G<T)を目指すと、必然的にその黒字額ぴったりだけ非政府部門の貯蓄が減少する。国内民間セクターの貯蓄を増やすことを目指すならば、純輸出が赤字とすれば、全税収は総政府支出よりも少なくしなければならない。つまり、財政赤字(G>T)にする必要がある。

さて、財政赤字はどのように増えるのだろう? 連邦政府はどのように支出するのだろう。

政府はキャッシュを操作する口座を持っている。日々の支出(G)と、収入(T)をスムースに操作できるように。オーストラリア政府はオーストラリア中央銀行(RBA)に、”多数の銀行口座を管理するための公的口座グループを持っていて、これは the Official Public Account (OPA) Group として知られている。これらの合計が毎日の政府のキャッシュポジションを表す。” (詳細はこちら)。

政府が支出を実行するとき、それは上記口座の借方に、民間銀行システムの中のさまざまな銀行口座の貸方にそれぞれ記帳される。こうして支出の結果として民間銀行の口座に預金が現れる。政府は小切手を切って民間部門の誰かに送り、受け取った人はその小切手を銀行に預けるだろう。このプロセスが電子的に行われても効果は同じだ。

連邦の支出はすべてこのように行われる。まとめると

  • 政府は「紙幣を刷る」ことで支出をするのではない。民間銀行システムの中に預金を作ることで支出している。間違いなく、いくらかの通貨は流通の中で「印刷」されてはいるだろうが、それは日々の支出や徴税の流れとは別のプロセスだ。
  • ここまで最初の債権と債務がどこから来るのかについて言及がない。簡単に答えれば、どこからでもないところから来るのだが、これを完全に理解するためには間もなく書かれるエントリを待つ必要がある。 ここでは連邦政府は唯一の通貨発行主体なので収入に制約されないとだけ言えば十分だ。つまり家計と異なり政府は支出の原資を調達する必要がないということだ。不換貨幣を使うのだ。そして
  • 政府が同時に債務(債権)を発行しているとしても、政府支出の「調達」とは何の関係もない。 – このことについても別エントリで説明されるだろう。

これらの商業銀行は、スムースな運営のためRBAの口座に準備預金を維持している。これら為替決済勘定とか準備預金と呼ばれるものは、一日の終わりの時点ではプラスの残高を維持していなければならない。日中は資金の流れによってある銀行の残高がマイナスになっていることもある。
個々の銀行がいつも一定の残高になるように運営していると考える必要はまったくないのだ。

この準備預金の金利だが、RBAはサポート金利を定め民間銀行の準備預金に対してこれを支払っている。多くの国々(オーストラリア、カナダ、ユーロ圏等)は準備預金のプラス残高に対して、オーバーナイト金利より2.5ベーシスポイント下と低くなると定めた金利を支払っている。準備預金に金利を支払わない国々もある。永続的な過剰流動性を持たせることで短期金利をゼロに近づけようというものだ(2006年半ばまでの日本)。ただし国債の発行や増税がない場合だ。このサポートレートが経済における金利の下限となる。この点は別のエントリで説明しよう。

結局のところ財務省による国の支出は、以下のようなことだ。つまり、財務省が持つ口座のどれか一つに借方記帳することであり(百万ドルとか)、これはすなわちRBAにある政府の準備預金がその額減少するということだ。このことによって、小切手の受領者が民間銀行に持っている預金に100万ドルが生じ、民間銀行の準備預金もその額だけ増えている。

これと文字通り逆なのが徴税だ。民間の口座の借方に記帳され(民間の準備預金が減少)、政府の口座の貸方に記帳されて政府の準備預金は増加する。以上のことはすべて会計処理だけで終わる話だ。徴税はどこかへ行ってしまったりはしない!知らないどこかに保管されるわけではなく、ましてや消費を”ファイナンスする”ためのものではない。政府があらかじめ支出しておいてくれないと民間部門は納税することができないのだ! こんな風に税を考えてみると良い練習になるだろう。それは単に、民間から支払い能力を奪いたいという政府の意向を反映して、非政府部門から流動性を枯渇させるだけのものなのだ、と。

単純な例示で論点を明確にできるだろう。二人だけで構成される経済で、一人が政府部門でもう一人が民間(非政府)部門だ。この政府が収支を均衡させていたら(100ドル支出し100ドル徴税する)、民間側に累積する通貨(貯蓄)はゼロで、その期の民間の収支は政府と同様に均衡している。

では政府が120支出し、税は100のままとした場合であれば、民間は収支を均衡させたまま20ドルの金融資産をためることができる。政府は追加費用の支払いのために20ドルの紙幣を印刷していたとしよう。政府は貯蓄を奨励するために、金利付きの債券を発行するという状況も考えられる。政府の赤字20は民間の黒字20とちょうど等しい。

では、もし政府がこれを続けるとすると、民間の貯蓄は政府の累積赤字は等しいということなる。しかしここで、政府が黒字にしなければならないと決心したとする。たとえば支出は80、徴税を100としよう。すると民間部門は20の支払いをするために何かを政府に売り戻さなければならない。つまり、政府は過去に自分が売った債券をいくらか買い戻すということだ。非政府部門全体の資金調達需要は、金利を通じた政府の適切な反応を自動的に引き出すことになる。

どちらにしても、政府が黒字の時、民間貯蓄はその額だけ減少することになる。政府部門の黒字は民間部門に次の二つの悪影響をもたらす。

  • – 民間部門が保持していた金融資産(貨幣と債券)の蓄えを下落させる。金融資産はすなわち富であるにも関わらず。
  • – 民間の可処分所得も税の黒字分と同じだけ下落する。こういう反論はあるかも知れない。政府の債券購入が民間にキャッシュをもたらすのではないかと。それはそうなのだが、債券の処分は、税の需要が収入をオーバーすることによる資金不足によって余儀なくされたものなのだ。債券を売って得たキャッシュで政府に税を支払う。民間での所得創出や銀行部門を入れて考えたとしても以上の結果は完全に同じになる。

上記の例から、少し考えれば「紙幣+準備預金(マネタリーベース)+民間が持つ国債」が非政府部門の金融純資産となるとわかる。非政府部門は、自身の純貯蓄形成のための資金と政府に対する納税のための資金の双方の供給を政府に依存している、というのが会計的な事実である。

次回は、財政赤字が銀行準備に与える影響を調べ、借入および金利についての神話(借入が金利を上昇させる)を解消しよう。

ビル・ミッチェル「MMTが論ずるのは『現実が何か』であって、『現実がどうあるべきか』ではない」(2017年4月20日)

Bill Mitchell, MMT is what is, not what might be, Bill Mitchell-billy blog, April 20, 2017

 

これまで定番のように書いてきたことの一つに、「MMTで世界は変わる」症候群とでもいうべき、読者や第二世代MMTブロガーが犯しがちな誤りがある。

あるいは「世の中を良くするために、原則をMMTに変える必要がある」症候群とも言えるだろうか。

MMTがレジームチェンジを求めているという考えは間違いで、そういう考え方ではMMTの核の問題意識から乖離してしまうことになる。

このブログ記事では、そういった症候群やMMTの考えの発展の様々な側面を俎上に上げているが、この作業によって、MMTの核の(初期の)研究者たち(Mosler, Bell/Kelton, Wray, Mitchell, Tcherneva, Fullwiler)が1990年代前半にマクロ経済学のより良い方法を構築に着手したときに抱いていた鮮明なアイデアを、読者たちに提供するのに役立ちたいと思っている。

ポイントは、

「MMTは、学問の世界における経済学の思考法のレジームチェンジではあるが、実際の金融システムの運用法のレジームチェンジというわけではない」

というところである。

『MMTが論ずるのは「現実が何か」ということであって、「現実がどうあるべきか」ではない』という事実を受け入れるためには、MMTの学術的研究によって明らかとなった政策運用上の原則と、MMTの思想的価値観をきちんと区別する必要がある。

私は最近、2001年に有名な進化生物学者エルンスト・マイヤーが書いた”What Evolution Is”という本を読んだ。マイヤーは彼の研究分野の創始者であり、現代における生物多様性の考え方に確実に大きな影響をもたらした。

彼は進化の世俗的な説明の強調に影響を及ぼした。1 1999年のインタビューで、彼はこう質問された。

 

EDGE(オンラインマガジン)のインタビュアー: 科学者のコミュニティの多数の人々の持つダーウィニズムの影響にも拘わらず、あまりに多くの人々が神を畏怖し、”8日間の創造”を信じているというこの国の現実を、あなたはどう説明しますか?

マイヤー: その質問に対して”上品”な回答は出来ないということはおわかりでしょう。

インタビュアー: この場では、上品でない回答、配慮のない回答を歓迎しますよ。

マイヤー: 彼らは最近の女学生の集団をテストしただろうか? 彼らは「メキシコがどこにあるか」を質問しただろうか? あなたはほとんどの子供たちが「メキシコがどこにあるのか」を知らないということをご存知だろうか? 私はただ事実を描出するためにそう言っている……こういう発言をするのをお許し願いたいのだが、平均的なアメリカ人は、あらゆることに対して驚くほどに無知です。もし彼らがもっと情報を得たなら、どうして進化論を否定することができるでしょう? もし進化論を受け入れないなら、生物学上の事実のほとんどは意味不明になる。私は国全体がなぜここまで無知なのかは説明できませんが、事実として無知はそこにあるのです。

 

こうした洞察は私がマクロ経済学に対して抱いている考えとほとんど一緒だ。この論点には後にすぐに立ち戻る。

 

進化に関する彼の説明は興味深く、他のアイデアの発展の経路についても応用が利く。それには経済学のアイデアも含む。

ある意味, マイヤーの仕事は彼の分野において既存の権威ある学者たちからの反抗の後に「レジームチェンジ」を成し遂げたと言える。言い換えると、彼の進化に関する議論それ自体が、アイデアが発生して、「受容されない状態」から「広範に受容される状態」へと移行する経路そのものを辿ったと言えるのである。

マイヤーの研究に従えば、進化とは、新奇性のことであり、新種への変化である。そして、変化は蓄積するものだ。

我々の理解は、経時的プロセスにおいて、我々を袋小路に追いやったり、新しいアイデアが現実に対して試されたときに生まれる脱出路を覆い隠してしまったりする。

しかし、これらの認識上の「失敗」は重要だ。なぜなら、そうした間違った認識が関心事についての現実を理解するのに役に立たないとき、より優れた考え方で物事を観察できるようになるのに役立つ他の情報を供給してくれるからである。

経済学においては、私は主流派理論の大部分を「偽物の知識」を呼ぶようにしている。この点についてより詳しい議論を知りたい方は、The failure of economics-reality and language- という私の記事を読んでほしい。

主流派理論は、金融システムの運用方法を理解するのに役に立たない。主流派の説明やキャラクタリゼーションはただ明確に誤りである。そして体系的に一つの”神話”はリンクしていき、他の部分を「論理的だが無価値な一連の体系」へと補強・強化していくことになる。

しかし、正しく評価すればどうやっても「ただ明確に誤っている」と評するしかない主流派が、なぜ今日のような立場を得ているのだろうか?という疑問を持ったならば、その疑問への探求は洞察に満ちている。なぜならイデオロギー、そしてその思想が果たしている既存のパワーエリートを強化する役割についての世界に入っていくからである。

「自由市場」というコンセプトの採用が、エリートにとって実物資源と所得が得られるポジションの維持に役立っているのは明らかだ。

この話に関連して、The Nationに最近(March 6. 2017)載った興味深い記事…Our political economy is designed to create poverty and inequality がある。

故に、いかに主流派経済学が戯言めいているとしても、その”役割”を理解することは重要で、それによって、なぜ”より優れた”考えが 「思想競争」において優位性を獲得することに奮闘しなくてはならないことになっているのかが理解できるようになる。

そのような「思想競争」の例はたくさんある。

私は以前、アメリカ人生物学者のJoseph Altmanの奮闘について記述したことがある。

この点についてより深い議論を知りたいなら、私のブログのWhatever – its either employment or unemployment buffer stocks という記事をお読みいただきたい。

彼は神経生物学の専門家で、1960年代に成人のニューロン新生を発見した。彼は成人の脳が新しいニューロンを創造することを示したが、その考えはその当時強く拒絶された。

かの研究領域のパワーエリートたちは、新しいアイデアからの挑戦を受けた。

他の科学者(Elizabeth Gould, 1999年)がこれを”再発見”したことで、ようやく流行することになったのだ。ニューロン新生はいまや神経科学の最重要領域の一つとなっている。

なぜAltmanの発見は約30年もの間無視されてしまったのか?

2008年にExperimental Brain Researchに掲載されたThree before their time: neuroscientists whose ideas were ignored by their contemporaries という記事で、Charles Grossはこう書いている。

「…”ニューロン新生はない”というドグマは広範に保持され、当時最も有力で指導的な立場であった霊長類発達解剖学たちによって精力的に防衛された。」

既存主流派の支配権が脅威にさらされるとき、パラダイムは変化を拒否するのである。

以前、私はJacques Cinq-Marsについて調べたことがある。彼はフランス系カナダ人の考古学者で、”ユーコン川岸と岩陰遺跡における氷河期時代の狩猟者の痕跡”の調査のためのフィールドワークを行った人物だ。

彼は、1977年から1987年に北西カナダのBluefish Cavesで行った調査と、その後の分析により、2万4千年前からその地域に人類が生活していたことを立証した。

その発見は、当時の主流見解に挑戦するものであった。Clovis-First theoryと呼ばれる見解では人類が”アメリカ”に到達したのは1万3千年前ということになっていた。

Heather Pringleの最近(2017年3月7日)の記事 From Vilified to Vindicated: the Story of Jacques Cinq-Mars は、この論争についての分かりやすい紹介をしてくれている。

2013年の3月、Natureの社説 Yong Americansは、Cinq-Marsが彼の発見を公表し、”あらゆる科学の中で最も辛辣で、そして非生産的な論争の一つ”の導火線に火をつけたとき、何が起きたかについて描写している。Cinq-Marsは:

「論争相手たちからの酷い批判に耐えなくてはならなかった。彼らは彼の言うことや彼の証拠を公平に聞こうとはしなかった。Clovis以前の史跡の報告に対抗してClovis-first modelを支援した科学者たちは、学識不足の見本のようだった。」

Cinq-Marsが研究による発見を公表したときに、彼が学術界から受けた批判と圧力を、Heather Pringleが次のように描写している。

「Cinq-Marsの受けた仕打ちはスペイン異端審問になぞらえられるひどいものだった。カンファレンスでは、聴衆たちはCinq-Marsのプレゼンにほとんど耳を貸さず、提示した証拠はぞんざいな扱いを受けた。他の研究者は礼儀正しく耳を傾け、その上でCinq-Marsの能力について疑問を呈した。結果はいつも同じだった…Canadian Museum of Historyの自分のオフィスで、Cinq-Marsは心を閉ざして苛立った。彼のBluefish Caves調査の資金は尽きていき、結局彼のフィールドワークはだんだん失速し、絶えてしまった。」

現在の研究は「人類はClovis文明よりずっと前にアメリカに到達した」という彼の最初の主張を裏付けている。しかし、真実かどうかは問題ではなかった。それがこの研究分野の支配的見解に対する挑戦だったことが重要だった。

Pringleが書いているように、「今日、数十年後になって、Clovis first modelは瓦解した」。それは完全に偽物の知識だったのだが、実績と影響力を築き上げたのである。

最初のアメリカ人に関する主張の結果として輝かしい実績を上げ、強力な社会的地位を築き上げた高給取りの教授たちは、突如白眼視されるようになった。偽物の知識を喧伝していたのだから。

その抵抗のインパクトは、いまだになくなってはいない。

Pringleはこう書いている。

『この重要な問題について、主流の考古学者たちは反対意見を蔑ろにしたのだろうか? もしそうしたなら、それは北アメリカの考古学にどんなインパクトを齎しただろうか? Clovis以前の史跡に対する強烈な批判は、ぞっとするような影響を生じ、新しいアイデアを抑制し、より早期の史跡の研究を妨げたのだろうか? テネシーのヴァンダービルト大学の考古学者で、チリの史跡であるMonte Verdeの主任研究員であるTom Dillehayが考える回答は明白だ。Dillehayはこう回想している。科学界の雰囲気は「明らかに有害で、科学を妨害したのだ」と。』

同様に、政策担当者が主流派経済学が提示する偽物の知識を信奉することで、多くの人々が不必要な失業や貧困に苦しむはめになっているのであろうか? その答えは明確にyesだということになる。

元の話題に戻る前の最後の例えは、ごく身近なものだ。ヘリコバクター・ピロリについての話だ。もし私が何について書こうとしているのかを知らないなら、びっくりする話だろう。偽物の知識の維持によって利権を確立した人々による新しい知見への抵抗の具体例として。

このケースは、巨大な製薬会社は、疑いもしない患者に不必要な薬を強要し、患者が信頼する医師たちを圧力下に置き、患者を無知なままにし続けることによって巨大な利益を得ることができるということを示している。

当時の主流の研究者たちは、潰瘍が”精神的混乱”によって生ずると考えていた。(下のNew Yorkerのリンクを見てほしい)

このNew Yorkerの記事(2003年3月3日)Marshall’s Hunchは、かの論争における興味深い洞察を与えてくれる。

その記事は、1983年にMarshallが彼の研究を最初に発表したときの様子を詳しく書いている。

「…ブリュッセルの感染症のエキスパートたちの集まりの中で発表された。聴衆は軒並み重鎮ばかりだった…Marshallが話すのを終えたとき…科学者たちはくすくす笑い、ひそひそと話し、首を横に振り、デビューが大失敗に終わった年若い同僚に対して少し当惑した……」

一人の科学者は、Marshallの理論は「これまで聞いた中で一番バカげたもので、この男は気が狂っているのかと思った」と言った。

Marshallにとって不幸だったのは、製薬会社の大物であるGlaxo(SmithKline)が、医師たちが胃潰瘍と診断した人々にZantacを売りつけて莫大な利益を得ているという点だった。その薬はあくまで緩和剤で、症状(痛み)を和らげるだけのものだった。

医師は定期的に高価な大腸内視鏡検査2 を潰瘍があるかどうかを’見る’だけの検診を行い、痛みをコントロールする場合はZantacその他を処方する、という単純なルーチンに当時の患者たちは乗せられていた。

これらすべては不必要であるとMarshallは示してしまった。

現在、Marshallの発見は医療セクターでの常識となっているが、この発見を抑圧して自身の市場を守ろうとする巨大な製薬会社の影響下にあった一般開業医たちにそのメッセージが届くまでには長い時間がかかった。

これらの話(及び私が書ききれないもっと多くの話)はレジームチェンジと関係している。新しいアイデアや説明が広く認知されている主流派と真っ向対立すると、事実が新しいアイデアを支持していることが自明となるまで中傷に晒されるという事が示されている。

(神経生物学、考古学、経済学といった)学問分野は、既に構築された’パラダイム’の中で動いている。’パラダイム’は哲学者のThomas Kuhnの1962年の本 The Structure of Scientific Revolutions(邦題:科学革命の構造)の中で、”当座の間、専門家のコミュニティに対して定型問題とその解決法を提供する広範に認知された科学的業績”と定義されている。

典型的には、パラダイムと定義される知識体系は”初歩的及び発展的な科学の教科書で…詳説される”(Kuhn, 1996: 10)。

Kuhnは、”科学的”活動が直線的なプロセス…「研究者が新しい実証的証拠を基礎的知識に追加し、以前まで受け入られらていた考えを置き換えるというようなプロセスである」という考えに挑んだ。

そうではなく、支配的な観点は、受け入れがたい例外に直面し、革命(パラダイムシフト)が起こるまでは強固に残るのだとKuhnは主張した。新しいパラダイムは、古い理論が受け入れられないものであることを暴き、新しい概念を導入し、新しい疑問を立て、新しい言語や説明的な比喩を用いて新しい考え方を学生たちに提供するのである。

一度転換が起きれば、古い理論はもはや確立された知識とはみなされない。Kuhnはまた、支配的なパラダイムの中の専門家たちによる衆愚政治のようなものが存在することと、彼らが論理的ないし実証的な例外に直面しても自身らの見解に熱烈に固執するということを記している。

支配的な集団は、Irving JanisがGroupthinkと呼ぶものに嵌りこんでしまい、新しい考え方を提案する人に対し、まず最初に中傷を仕掛けてしまう。

Joseph Altman, Jacques Cinq-Mars, Barry Marshal及び様々な研究領域における数えきれないほど多くの人々の仕事が、パラダイムシフトが起こり得ること、そしてその変化が不可避になるまで大衆たちから反発を受けたことを示している。

全ての新奇なアイデアがこの類の煉瓦壁に直面するわけではない。しかし、専門家たちがGroupthinkに嵌ってしまったり、とりわけ、地位やお金の危機(特に、商業的な危機)があったりするとき、抵抗は強烈で、かつ長引くものになる。

さて、どう考えても、上で論じた着想はそれぞれの分野のレジームチェンジにつながったと言えるだろう。

いくつかのケースでは、対決を受けたレジームは新しい知識の一部に割り当てられた(たとえばClovis社会の年代)が、それ以外では、古い知識に関係する多くの主張が「宙に浮く」こととなった。

また他のケースでは、知識が一から十まで偽物であるのに、その学問分野の支配が維持される。メディアや、専門的地位や昇進、学術基金へのアクセス、そしてその他外部者を真実から遠ざけるために築かれたさまざまなカムフラージュをコントロールすることによって。

主流派経済学は後者のカテゴリーに合致するケースだ。それは偽物の知識であり、元からずっとそうだった。しかし、研究職のGroupthinkはとても強固で、強制力が強い。その地位に対抗したことのある人なら、私の言いたいことが分かるだろう。

私は一度、ある権威あるカンファレンスで私のマクロ経済学観についての招待講演を行ったことがある。(発表者のバランスを取るために、私はケインジアン枠扱いで呼ばれたそうだ。ケインジアンではないのに!)

まあとにかく、私が発表を終えると、参加者の一人が(客寄せ口上のような耳障りな声で)”みなさん、今日は火星からの発表者のお出で頂いたようですね!”とコメントした。彼はそのあとほとんど何も言わず、ただ聴衆の笑いを取ろうとしただけだった。それが真剣な専門家たちの意見交換会の中で起きたことである。

いじめ以外の何物でもない。私の労力は大いに笑われた。しかし私はすでに上級教授で、このタイプの無視は長年経験していた。アヒルの背中に水をかけるような無意味な行いだ。私はこういったことに慣れていたのである。

私が研究を始めた頃、私の初期の雑誌投稿に対する査読報告は、一文ほどのものだった。(どれだけ長くても数ページ程度) それらは大抵こう書かれていた。「著者は明らかにLipseyの教科書の第一章を読んでいないか、理解していない。」 Lipseyの教科書は当時の有名な主流の教科書で、主流派マクロに進むための下らないことが書かれていたのだが。

それは間違っていなかった。私は論文の内容が非常に厳密であることを確実にするためには長い時間をかけていたし、その結果は正しかった。私はこれは挑戦なのだと考えていた。

しかし多くのより繊細な若い研究志望者たちは、そうした批判によって潰されていただろう。自信を打ち砕かれ、研究意欲が棄損されることによって。

経済学の専門家たちは乱暴だから、急所攻撃を食らっても生き残るため分厚い皮を持っておく必要がある。

Modern Monetary Theory(MMT)はこうした意味でのレジームチェンジを目指している。MMTは、支配的な経済学理論の嘘や欺瞞に直接的に対抗し、システマティックで首尾一貫した代替的な理論を提供している。

当初、我々は無視された――我々(上述した小さいグループで行った)の研究の少なくとも最初の10年の間はそうだった。

最初は、経済学の中でも先進的な分野(ポストケインジアン)が我々を批判しはじめた。――その主な理由は、彼らが類似のカンファレンスに参加していたからだ。MMTはポストケインジアンが未だ受け入れていた新自由主義のいくつかのコンセプトに挑戦するものなので、ポストケインジアンは我々に対して敵対的だった。

そしてメッセージがより広範に伝わるようになるにつれて、’第二世代’MMTerがより発言力を持つようになり、数も増え、現在は主流派経済学者からの攻撃を受けるようになっている。

最近の攻撃については When mainstream economists jump the shark and lose it completely という記事で書いておいた。

これらの攻撃はより広範囲に広がっているが、それは我々の一連の考えが発展の次のステージに達していることを示している。

専門家たちの中の新自由主義的なGroupthinkerたちは現在、世界金融危機への対処の大いなる失敗の結果として、主流派経済学の価値観によりいっそう多くの人々が忌避感を抱き始めており、それによって彼らの地位が弱まっていることに気づき始めている。

しかし主流派経済学の失敗が明らかになると、衆愚政治的な動きが彼らのレジームを守るためのあらゆる防御策を講じ始めた。メディアでMMTにマウンティング攻撃するのもこれだ。

尤も、私が今まで話してきたそうしたレジームシフトは、ブロゴスフィアで主張されている’MMTが採用されれば世の中が良くなる’といった主張とは異なるものだ。

そういった類の所感は、十分な数の政治家を説得できれば’MMTレジーム’へのシフトが出来るという意味になってしまう。

理解すべきポイントは、MMTは、不換紙幣(fiat currency)金融システムがどのように運営されるかという仕組みへの理解、および現代金融経済において政府が行うことが出来る中心的な役割への理解に役立つ思索の体系であるということである。

現代金融経済は、貨幣(money)を財とサービスに対する支払いの計算単位として利用している。重要なのは、その貨幣が不換紙幣であり、交換できるのはそれ自体だけ(訳注:古い紙幣を持ち込んだら新しい紙幣に替えてもらえる、くらいの意味かと)で、政府には(例えば金本位制、ないし後期金本位制のように)金(gold)に交換する法的義務はないというところである。

主流派経済学の論評ではたいてい無視されるのが、1971年8月におけるブレトンウッズ体制の崩壊である。ブレトンウッズ体制は、1944年7月に有名なブレトンウッズ会議で合意された金融システムで、参加国の中央銀行にUSドルに対する固定為替相場の維持を要求するものだった。

そのシステムは機能しないことが証明され、ニクソン大統領がUSドルの金への互換性を破棄し、ほとんどの国は不換紙幣システムへと移行した。

不換紙幣システムの中では、政府は特定の不換紙幣を発行する独占的な権利を持つ。

その上、不換紙幣は、税の支払いおよび政府の要求する他の財政的請求に受け入れられる唯一の単位であり、このことが政府の政策手段の範囲を決める。

我々は、政府がただの’大きな家計’ではないことを知っている。家計は、通貨(currency)の利用者であり、支出に際して事前に通貨を調達しなくてはならない。翻って政府は、通貨の発行者であるので、もし(増税を)望むとしても、まず支出(民間銀行の銀行口座に貸方記帳)があり、このことにより借方記帳するということになっている。

はっきり言えることは、不換紙幣発行者である政府は、いかなるときも発行通貨(currency of issue)による支払い能力を持つという事である。

MMTはさらに、国定貨幣(State Money)(不換紙幣)の目的が、実物的な財・サービスを非政府主体(大部分は民間)から政府(公的)主体へとスムーズに移行することであることも教えてくれる。

この移行のために政府はまず徴税する。徴税により発行通貨の需要が発生する。非政府主体は、納税及び全体での純貯蓄に必要な資金を獲得するため、実物財・サービスを売りに出して、必要な通貨と交換しようとする。これはもちろん、非雇用者たちが労働を売ろうとするようになることをも含む。明白な結論として、失業は、全体での政府純支出が、納税の必要性と全体純貯蓄の欲求を満たすには少なすぎるときに起こるということが言える。

この分析は、政府の支出の限界 3 も設定する。政府支出が納税可能になる分だけ十分になされなくてはならないということは明らかだ。それに加えて、民間の貯蓄意欲に合わせる必要がある。

もし政府が納税と非政府部門の貯蓄欲求をカバーするのに十分な支出を行わなかったなら、その不足分は失業として現れるだろう。

この問題の根本は常に、政府純支出がその時の民間支出(貯蓄)決定に対して適切ではないことにあるのだ。

それぞれの国(あるいは複数の国によるブロック)では不換紙幣による支出能力をそれぞれ違う方法で構築・利用している。ユーロ圏メンバーの国は、フランクフルトに支出能力を自主的に委譲し、純支出に関して厳しいルールを自国自身に課している。

他の国々は違う形で発展している。

しかしポイントは、いつの時代も、どの国においても、金融システムはMMTが描写し説明している形で運用されているということである。

MMTは現実と非常に強い関係を持っている。一方で、主流派経済学は、現実の大部分を扱えない。

したがってMMTへと移行すること自体がより良い世界であると考えるのは、現実への誤解に基づいている。すべての形態及び規模の金融システムは、既にMMTに準じて運用されているのである。

よって、”もしMMTが導入されれば”とか、”MMT政策の下では”とか、”MMTが規範になるとき”という風に、『MMTは、もし社会がより啓発されれば、移行することのできるレジームであり、真に進歩的な政府に新しい範囲の政策手段を開拓するものである』と暗に意味しているかのようなコメントを読むと、この点が誤解されているということがわかるのである。

こうした誤解は、他のコメントにもある。特に、Job Guarateeに関するコメントだ。そうしたコメントではMMTとは進歩的な教義であるとか、あるいは経済政策決定における左派的なアプローチであるということになっている。あるいは、MMTがなかなか紹介されないのは、既成秩序を維持しようとする右派の陰謀だ、とされている。

こうした発言は善意からのものであるし、MMTがその理論の進む先に提案している政策手段のいくつかに、人々が純粋に魅了されているということは分かっている。

けれどもそのような理解は、私が「Job Guaranteeのような提案への教条的で不合理な抵抗」と考えていることと同類なのだ。

つまり、「進歩的政策によって資本家の搾取の軛から自由になれるMMT的世界へ我々は移行すべきである」というような考えは、完全に間違っている。

事実として、我々は既にMMT的世界に生きているのである。我々はいつだってMMT世界の中で関わりあっているのだ。アメリカでも、オーストラリアでも、ユーロ圏のどの国でも、金融システムはMMT的体系の中で運用されている。

だから、MMT的世界と一般に呼ばれているような新しい理想郷へ向かうなんていうことはあり得ない――我々は既に、MMT的世界に居るのだから。

MMTが与えてくれるのは、我々が住んでいる世界を見るための新しいレンズであり、我々の日常生活の中で重要な金融システム運用についてである。

この新しいレンズは、日常の基礎で経済に何が起きているかについての新しい洞察を広げる。MMT的世界は、移行すべき何かなのではなく、既にそこに存在するものなのだ。

新しい強力なレンズとしてのMMTは、新自由主義の物語では不明瞭になっている点についても明らかにしてくれる。

というのは、政策決定と非政府部門の意思決定の因果と結果の理解から我々の注意をそらすために、保守派が推進した一連の連結された神話を暴く、という意味である。

保守派の政治家や企業家たちが、「政府はお金を使い切っており、そのため失業者に対してこれまでと同レベルの給付支援をする余裕はない」と主張しているとき、MMTはそれが嘘であり、それとは別の指針が存在するに違いないということを気づかせてくれる。

MMTはこのように、現実への理解について学ぼうとしたり、それまで問おうと思うことも出来ず、それどころか無関係であった疑問への問い方を学ぼうとしたりする人々に、その力を与えてくれる。

以前は、政治家が「政府はお金を使い果たした」とか「政府はクレジットカード満額まで使い切った」と発言すれば、情報の無い人々はそうした発言を尤もだと捉えてしまっていただろう。

しかしMMTのフレームワークを理解すれば、そのレンズによって人々は”お金を使い果たす”という錯乱を却下し、逆に、政府が特定の政策手段を用いたがらない理由を知ろうと欲するようになるだろう。

これまで、政治家とそのアドバイザーは、(彼らが操作対象としている)一般市民が適切に知らない・理解していない偽物の経済学的議論を用いて新しい政策手段や政策方針を即座に却下してきたが、MMTは、そうして却下されてきた政策手段・政策方針の実現可能性を政策論議に導入する。

MMTはかのように、我々が生きている世界の金融システムがどのように運用されているかということと、通貨発行主体(curreny-issuing)であり、我々の幸福を志向すべき政府が、どのような潜在能力や政策手段を持っているか、ということを理解するためのフレームワークなのである。

MMTは、政府の通貨発行能力(currency-issuing status)(為替操作能力や中央銀行による金利設定能力を含む)を実際の統治体から分離したらどんな結果を齎し得るかということを理解するのにも役に立つ。

後者に関して我々は、MMTのレンズによって、ユーロ圏が構成国に非常に悪い結果を齎す形で失敗した理由をクリアに理解することができる。

また、MMTは左派でも右派でもない。

MMTの理論的・描写的側面と、その上に付加されているMMT提唱者の価値観を混同してしまうという錯乱的な嘘が存在している。

私が左派の立場から解説してしまうせいで、MMTは左派だと思われているかもしれない。しかし、それは間違った推論だ。

どんな立場からであれ、思想的信念というのは、価値観と、その価値観から進展して提示される政策的処方箋によって明らかになるものだろう。

MMTが出来るのは、ある人が特定の政策提案を推進するときに、その思想的信念をより明瞭にすることである。

例えば、失業率上昇に直面している政治家が「政府にはこれほど多い失業を解決するほど職を提供するだけの財政的余地はない」と発言しているとき、MMTのレンズを通じてそのコメントを考察すると、「政府には、必要以上に失業率を高く維持したい理由がなにかあるに違いない」ということが即座にわかるだろう。

我々はそこに’隠された’指針があるということがわかる。なぜなら、我々の理解では、政府には通貨発行能力(currency-issuing capacity)があるために、その財政的余地というのは利用可能な実物資源で決定するからである。もし大量の失業があるなら、そこには利用可能な実物資源が存在するということがわかる。

では、なぜ政府は彼らを雇って生産的用途に利用しないのだろうか?

そのとき焦点は「その理由が何か」というところに移り、その疑問は、例えば、政府が完全雇用維持のために通貨発行能力を利用するのを拒否することによって随伴的に生じるであろう影響への考察に繋がるだろう。

逆に、MMTに感化された右派の政治家が、賃金を抑圧し、利益(右派政治家はこれを労働者の尊厳etcより価値が高いと考えている)を高めるために、大量の失業の予備を確保するという欲望を実現しようとするとき、彼らは財政赤字の削減を提案するだろう。なぜなら、MMTの知的訓練によって、それが彼らの目標を達成する手段であると分かるからである。

MMTは、我々の価値観を政策選択を通じて社会へ適用した結果どうなるかについてしか教えてくれない。そうした価値観は、どんな政治的ないし思想的性質でもありえるのである。

私はこの議論がこのタイプの問題について論争している人々の助けになることを望んでいる。

来週、私は”メランションが大統領になった場合のフランスの最初の100日間”を予測するブログを書くつもりだ。

右派の経済学者は、まるで日々の稽古のように、既に偽物の知識を交換している。実に滑稽だ。私は彼らよりもう少し真面目にやるつもりだ。

今日はこれでおしまい!

  1. ここでいう「世俗的な説明」は、「神話的な説明」(神が万物を創造したという神話に基づく説明)に対する対義語である []
  2. 上部消化管内視鏡の間違い? []
  3. 文中では下限がフォーカスされているが、「それ以上支出すればインフレになる」という意味での上限も存在する []

ビル・ミッチェル「MMT(現代金融理論)の論じ方」(2013年11月5日)

いわゆるMMT(Modern Monetary Theory)を主導する一人 Bill Mitchell のブログ Bill Mitchell – billy blog の翻訳許可を得ました! 第一弾は、5年前のこちらです。
How to discuss Modern Monetary Theory (November 5, 2013)


今日は出張しなくてはならないところが沢山あり(6時間近く早く出発する)、エントリを書く時間があまりない。現在私が取り組んでいるペーパーは、経済学におけるメタファーの利用と、公共精神の貫徹を妨害する明白な(基礎的)偏見を克服するために現代金融理論(MMT)の枠組みがどう役立つかについてのものだ。ここではそのテーマに関するいくらかのメモを書いておく。この記事はあくまでラフスケッチで、後々に洗練した記事を書くつもりだ。この記事の最後には、読者の理解を明らかにするために、フィードバックを促すセクションを書いてある。

フレーミング(枠組み)

マクロ経済学は議論がつきものだ。国にとって非常に重要とされる学問でありながら、マクロ経済の働きには理解が難しい概念が含まれている。

たとえば、物価とは何か? 財政赤字や財政黒字はどう理解すればいいだろう? 財政赤字は常に同じものなのか?

これらのマクロ経済的概念は日々メディア上で議論されている。実質GDP成長率、物価上昇率、失業率、財政赤字、金利などがそれだ。

国の財政に関するマスコミの報道を見ると、ここ30年、マクロ経済学の用語がますます頻繁に用いられるようになっているが、その言葉や概念についての教育水準が相応に高まっているわけではない。

さらにソーシャルメディアの出現によって誰もがマクロ経済の評論家になることができるようになった。所謂ブロゴスフィアは自己流マクロ経済学の専門家であふれている。彼らの多くは国の財政についても「常識」的な論理に立脚して議論を展開している。

問題なのは、現実を把握するうえで常識に頼るのはむしろ危険な場合があるということと、公共の議論においてすべての意見が平等に扱われるように見えてしまうことだ。個人的な体験を一般化してしまう私たちの性質、つまり、あたかも経験が一般的知識を構築するかのように考えてしまう性質が公共の議論を支配している。マクロ経済の領域はこの種の誤った推論の主要な舞台の一つだ。

マクロ経済問題への公共の関心の高まりは、経済学を支配している新古典派パラダイムに従わされてきたと言える。

その結果、人々の理解はオーソドックスな概念や結論に拘束されたものになっている。しかし、それはそれ自体間違っているばかりでなく、繁栄を棄損し公共の福祉を破壊するような政策を導いてすらいるのだ。

その症例の一つが、1980年代に起こった完全雇用の放棄、巨大な失業を許容しようという考えだ。

世界金融危機は、マクロ経済学の支配的パラダイムが推進してきた労働市場と金融の規制緩和の帰結と言えるが、危機を予測することができないどころか「大いなる安定の時代に入った」と宣言すらしていた。

ラカトシュが1970年に提案した分類に従えば、主流マクロ経済学は実証的な内容を欠いており、新しい事実(世界金融危機)を予見できなかったことから、疑似科学であり、後退的なリサーチプログラムだということになる。

しかし、その時生まれた「今回の危機が主流派経済学の役割に対する大いなる試練となった」という認識や、教育カリキュラムや望ましい研究事項を変更する動きも、短命に終わってしまった。

主流経済学者はその反政府的また自由市場的なバイアスを働かせることにより、もともと民間の債務危機だったものを、国家の債務危機だったということに上手に再構築させていった。 この危機を生み出した力学(規制緩和、金融監督の縮小)は今も解決策として主流派によって提唱され続けている。

公共の言論空間は、財政緊縮だけが実行可能な回復への道だというような主張に占領されているし、IMFやOECDのような主要な国際機関も財政緊縮が経済成長を妨げるということを認めようとしない。

メディアの評論家も同じこのビューをそのまま受け取っている。帰結としてIMFは、自身の計算が誤りだという事を認めざるを得なくなり(IMF apology article)、その記事が指し示す事実は驚くべきものだったのだが、こうした告白は支配的な論説にほとんど影響を齎さなかった。

現代金融理論(MMT)は首尾一貫しており、内的整合性のある成熟したマクロ経済学的枠組みであり、金融資本主義の運用上の現実に基礎づけられている。

MMTがここ20年(世界金融危機とその余波を含む)に起きた主な出来事を説明してきたという実績は、新奇な事実を予測する能力を持ち、その予測が事後に生じた出来事によって確証されたという意味で、(ラカトシュ的な考えに基づけば)MMTが先進的な研究プログラムであるということを示している。

しかし問題なのは、支配的なマクロ経済学のパラダイムがマクロ経済学論議の「枠組み」になっていることだ。上述の通り新興MMTのアプローチはより優れたものであるにも関わらず広まっていない。

フレーミング(枠組)とは、ある議論がどのような形で人々の議論に乗っており推進されているかということだ。認知言語学者がこれまで明らかにしてきたように、我々は複雑な問題を理解する際、メタファーを経由している。新古典派マクロ経済学は、そのイデオロギー的な権益を推進するにあたって、共有されやすいメタファーを用いることで大成功を収めてきた。(ジョージ・レイコフの研究が著名である)

私たちが何を信じどの政策を支持することになっているかが、そもそも議論の提示のされ方に規定されていて、本来の私たちの利益が隠されてしまっている。言い換えれば、私たちは嘘を真実と受け止めているし、支配的なイデオロギーが「証拠」を隠している。

最新の心理学研究では、既存のバイアスが簡単な統計データを含めた現実の情報の解釈にどれだけ影響を与えているかが強調されるようになっている。
この問題は、公共政策設計に関する研究成果を研究者たちが公共に伝える際にも表れる。とりわけ経済的緊縮や気候変動のように、発見が反直観的だったり支配的な論説に対して挑戦的であったりするケースだ。

私が今書いている論文――および以下に記すメモ――の目的だが、次のことを示したい。MMTの進化とは、現実的で一貫性のある代替理論の提示であると考えていることを。さらに、重要なマクロ経済学的概念に関するコミュニケーションにおいて、進歩主義者も保守主義者も共通に用いている言語が、MMTからの洞察に基づいたコミュニケーションの成功を阻害していると認識しているということを。

そして、いかに言葉が重要かということを理解する概念的基礎を与え(この問題に詳しい共著者の貢献だ)、オーソドックスな経済学の誤ったメッセージを強化するのに用いられたいくつかの重要なメタファーを吟味し、同時に現代金融理論のキーとなる考えを吟味しつつそれらを表現する効果的な方法を提案することを狙いとする。

MMTの研究者仲間のランディ・レイたちは、マクロ経済的な動きや結果を記述するのにあたって、しばしば用いられている語法を支えているメタファーについて探求している。

しかし、メタファー的語法と価値観との関連や、ある価値観や価値観群を抑制したり阻害したりする過程についての研究はあまりない。これが我々の今回の研究目的である。

「経済」とは「我々」だ(The economy is Us)

人々が経済を作り出す。そこに自然なものはない。「自然利子率」のような概念の背後には、経済はあたかも生態システムのように、自身の均衡に向かう力によって自然状態に到達するのに任せるべきものであるという考えがある。

しかし、自然というような言葉を使うときに我々は問うべきなのだ ― 何に対して自然なのか? 主流派は「自然」という単語が隠すイデオロギー的な基準を説明せず、ただこの問いを回避する。

現実とは人の相互作用や選択であり、もともとは単純で局所的なものだ。それが次第に合わさり、とてつもなく複雑になり、空間的に分散し(グローバル化)、私たちが経済と呼ぶものになる。それは私たちが動かしているものなのだ。

どこかの段階で、私たちは自分自身では簡単にはできないか、不可能であるような事柄をするための代理人が必要だと悟った。こうして政府を組織した。私たちはまた私たちが創出したもの ―経済― は、我々の代理人によって監督制御されていれば、公共の諸目的にのみに仕えるものになるだろうと考えた。

かつての私たちは間違ったビューの下で経済を運営していた。私たちの自発的な相互作用は私たちにとって好ましいように完結するはずなのだから、政府の役割は絶対に必要というわけではないと考えた。しかしそうではなかった。この失敗の帰結は ― 大恐慌の中で― 余りにも明らかになったので、金融資本主義システムが機能することを確かなものにするための基盤としての代理人の役割を認めるようになった。

私たちは、資本主義が賃金労働の大きなシステムに進化していて、その基本には労働と資本の緊張関係があるのだということを学んだ。私たちはまた、いわゆる「市場」シグナル(需要と供給が決める価格)は、その仕事のための労働に見合うような雇用の帰結を反映しているわけではないということをも学んだ。

私たちは、このシステムは容易に大量の失業が存在する状態(それ以上の力学を持たない状態)に均衡し得るのだということを学んだ。

大恐慌が私たちに教えたのは、私たちの代理人(政府)はシステムがそのような均衡に陥らないことを確実にすることができるということだった。なぜなら、政府は経済の中に職を求めるすべての人を雇うのに十分な産出を生み出すだけの支出を行う能力を持っているからだ。

大恐慌の時代から得られた単純な理解は、経済とは、よりよい生活水準 ―つまり住居、教育、健康など― といった望ましい帰結を創出するために私たちがコントロールできるような構築物だということだった。

その帰結として要請されているのは、民間企業-労働者間の協力を公的部門が媒介することで結実する実物資源である。

第二次世界大戦後のコンセンサスに抵抗する強力な保守分子も存在したが、社会的利益のみならず民間利益ももたらすシステムを確実化するために、政府は階級闘争を仲裁した。

私たちは学んだ。雇用が悪化するのは十分な需要がないのが原因だ、そして経済は私たち自身だからだ。何をすべきかはもう知っている―もっと支出を。問題はそれをどうやって達成するか、だ。

経済学者は、民間支出が停滞しうることを確実に知っている。その時、失業者は間違いなくモノやサービスを需要しているのだが、その願いは抽象的なシグナルとして企業に発せられるだけだ。

民間市場は、有効な需要と供給のシグナルに対してのみ働く。つまり、現金に裏付けられた需要意向だ。失業者は仕事を失っているために現金を持っていない。支出を裏付ける収入を提供するのは雇用なのだから。

このようなことを経済学者たちが話すときの手法は、(ジャーゴンetcに満ちた)学問に裏付けられていたが、その概念は広く人々に理解された。また私たちは、政府負債が必要なのだと知った。政府が十分に支出を行い、私たち(非政府部門)すべての収入を支出に回さなくてもいいようにする(つまり、貯蓄する)ためには。

自惚れネオリベラルの時代

1980年代とそれ以降、主流派による過去への再解釈が勢いづいた。
Weber(1997: 71)は”新しい経済学”の勃興を以下のように特徴づけている:
『…生産におけるグローバリゼーション、金融の変化、雇用の性質、政策、新しい市場、そして情報技術が…景気循環の抑制を齎すようになった。』
[Reference: Weber, S. (1997) ‘The End of the Business Cycle?’, Foreign Affairs, 76(4), 65–82]

これらの「特徴」がスムースな成長をもたらしてきたし、現在の供給ショックは:
『…ショックに対して一層容易に順応するフレキシブルかつ適応的な経済においては、あまり重要なものではなくなり、新しい景気循環に火を付けるような性質は弱まるだろう』
Weberはまた、労働組合の弱体化、よりフレキシブルな労働市場、及び金融部門の急速な成長が、景気循環を終わらせるのに貢献すると主張した。

彼は、デリバティブ取引の”莫大な成長”が有益なものだと論じた。なぜなら”これらの新しい金融商品はリスクを拡散・多角化する”し、新しいタイプのファンドマネージャーは、”そうした新しいツールを用いて金融フローを安定化させ、自身をショックから守るのに一層長けている”からだ(1997: 74)。金融部門は、国際資本市場を円滑に”よりいっそう効率的”にし、”経済変動を和らげる衝撃吸収装置”の配置を作り上げたと見做されていた。

彼らはまたこうも言っている(1997: 80)。『中央銀行らのインフレについての現在の合意は政府の財政政策を制約』し、『政府支出の本質的な循環的性質は、景気循環の平準化につれて弱まるだろう』。
Weber(1997: 75)は、『最後の審判』的議論、つまり、『複雑な市場は、相乗効果を生じ、斉一的に崩壊するという議論は、説得的な理論や、経験上の証拠には全く支持されない』と結論付けた。こうした考えは、新世紀が近づくにつれ、主流派経済学者に大いに共有されるようになった。

2002年、ハーバード大学の経済学者James StockとMark Watsonはこうした所感を捉え、アメリカの経済は、”過去20年を越える景気循環の安定、及びGDP成長率のボラティリテの全般的低下を反映した””静止状態”になったと論じた(Stock and Watson, 2002)。彼らはこうした傾向を”大いなる安定”と名付けた(2002: 162)。[Reference: Stock, J.H. and Watson, M.W. (2002) ‘Has the Business Cycle Changed and Why?, in Gertler, M. and Rogoff, K. (eds.), NBER Macroeconomics Annual 2002, Volume 17, MIT Press, 159-218]

2004年2月20日、現在のFRB議長であるベン・S・バーナンキはワシントンで”大いなる安定”というタイトルの論文(Bernanke, 2004)のプレゼンを行った。その論文では、経済学者の大多数による「景気循環は滅びた!」という見解が要約されていた。

主流派経済学者によるこうしたお祝い気分の、独善的な確信は、ロバート・ルーカスJrによるアメリカ経済学会の会長講演(2003: 1)に最もよく要約されている:
『マクロ経済学は、今とは全く異なる状況であった1940年代に、大恐慌への知的反応の一部として生まれた。この言葉は、かのような経済的破局の再発を防ぐことを望んだ知識や専門性の体系を指すものだった。このレクチャーにおける私の主張は、オリジナルの意味におけるマクロ経済学は成功裏に終わったというものだ:その中心的な問題意識である不況防止は解決され、実際のところ、何十年もの間、その問題は解消していた。より良い財政政策による繁栄を通じた利得の重要性も残ってはいるが、私は「より良い支出のファインチューニングではなく、人々がより働き、貯蓄するような一層優れたインセンティブを与えることによる利得が存在する」ということを論ずる。過去50年のアメリカの経済パフォーマンスをベンチマークとすると、より良い長期的サプライサイド政策によって得られる繁栄のポテンシャルは、短期的総需要管理の一層の向上のポテンシャルよりもはるかに優れているのである。』

このメッセージはシンプルだ。経済を過剰規制し、民間企業のインセンティブを阻害し、労働組合を過剰に強化し、福祉支出だけを熱望する怠惰でやる気のない世代を育成してきた介入主義者たちに対し、主流派経済学者たちが打ち勝ったということである。

この勝利は、政策レベルでは、安定化政策としての金融政策の優位として現れ、政策の第一目標はインフレーションの安定となった。財政政策は受動的で劣位の政策となり、政府は完全雇用を維持するという責任を放棄した。

こうした議論については、私たちは2008年の本 Full Employment abandoned  で詳しく考察した。

ルーカスが表明した所感は、いわゆるミクロ経済学的改革へ向かう主要な政策シフトに寄り添っているものだった。こうして広範囲に及ぶ金融市場改革及び労働市場改革が遂行された。世界金融危機が生じる前提条件は、この時期に定着した。

生産性成長に対して実質賃金の上昇は遅れをとるようになった。これは労働組合への攻撃と、職業の不安定性の上昇(非正規雇用の増加と就職難の悪化)の結果であり、それによって労働者たちが十分な報酬を希求するための能力を毀損したのだ。

消費成長を維持する枠が小さくなった分を、金融部門の急成長が補った。金融部門は、民間債務の大規模な増加を背景に急速に成長した。民間債務は多くの新しい借手に提供され、複雑なデリバティブにパッケージされて次なるカモに売りつけられた。

公の物語はルーカスの話した通りのものだった――景気循環はほぼ滅びた。

熱烈な政治的キャンペーンがそのような世界観を後押しした。政府を縛っていてた「国民の総意」などという概念を捨て、経済とは個々の貢献に応じてそれぞれに果実を齎す自然なシステムであるという見方を推し進めた。

彼らは、経済とは自己制御的システムであると喧伝していた。

Anat Shankar-Osorioは、彼女の本 Don’t Buy Itで、二つの経済モデルを提示した。一つ目のモデルは、以下に示す図で描写されており、彼女はこのモデルが保守的な見方を示すと考えている(実際には進歩的な見方もこのカテゴリーの範疇だが)。

それによれば、現在のイメージは「人と自然は、一義的には経済に貢献するために存在している」(Location 439)。経済は我々から分離され、我々の努力を認識し、その努力に応じて報酬を与える道義的裁定者ということになっている。働かない者や、”経済”の犠牲になった者からは、報酬は奪われることになる。

さらに、もし”政府”がこうした競争的プロセスに介入し、報酬を受けるに値しない態度(怠惰etc)でも報酬を受け取れるような抜け道をもたらしたなら、そのときシステムは機能停止し、”不健康”(経済を生き物と見做すメタファー)に陥るだろう。その解決方法は、経済の自然なプロセスを修復することになるだろう(つまり、最低賃金、雇用保護、所得補償etcといった政府介入を取り除くということ)。

したがって、”自治的かつ自然的”というのが我々の受け取るメッセージということになり、このメッセージに従えば、”政府の’でしゃばり’は良いどころかむしろ有害で、現在の経済的苦難はただただ受容しなければならない”という結論が明確に導かれる。(Location 386)

 

このため、我々の成功は、経済の成功とはある意味独立したものになる。実質GDP成長が強いことが成功している国の品質証明だ。 ”それが大気環境、休暇、平均余命、あるいは幸せといったものを犠牲にして成り立っているかどうか” は無関係だ――”…そうしたものすべては二次的なものになる”。

もし貧困率が上昇しているとしても、それは経済の失敗というより、その人が経済のための活動を十分に行っていないからであって、現在の経済運営で我々にとって十分なことがなされているということになる。

我々が、我々自身の失敗を責められるのだ。貧困率上昇が生じるのは、我々が十分に貢献していないからだということになる。成功している経済に対して標準以下の成功しかしていないなら、どうして報酬を期待することができよう?

進歩的見解もこうした論説に取り込まれており、例えば、緊縮財政論議などにおいても、”より公平な”代替案を提示しようとする。先進国で現在行われている議論を見てみるといい。

どの主要な(進歩的)政党も、緊縮財政ドグマには挑戦しようとしない。あなたは進歩的評論家が以下のようなことを書いているのをたびたび読むことになるだろう… ”我々は、財政赤字が問題で、政府債務は減らさなければならないということは知っているが、もう少し漸進的に行うべきだと思う”。

この点において、両陣営ともに事実上似たり寄ったりの主張をしており、公共的思慮が煙と消えている。その基礎的にある命題が根から枝まで間違っているにもかかわらず、解決策は明瞭だと思われており、価値観体系(保守側にせよ進歩側にせよ)は維持したままに程度問題の議論となっている。

代替理論を目指して

1990年代前半、新自由主義下の信用が高まり始めていた頃、今では現代金融理論(MMT)として広く知られる理論の初期の提唱者たち――それは小さいグループ(Bell/Kelton, Fullwiler, Mitchell, Mosler, Wray)だった――は、過去の異端理論(機能的財政論etc)を利用しつつ、それらに金融システムに特有の運営上の知見を付加し――金融資本主義の運営法についての代替的な論説を発展させようとした。

彼らはそうした論説を通じ、当時目の前にあった「自己制御的市場が万人に対して最大限の富を齎す」という主流派の信条が助長した経済動態が、実は持続不可能であることを明らかにした。

民間負債が積み上がる初期の段階においてさえ、無思慮な金融慣行が生じており、重大な危機が近づいているのは明らかだった。

しかし、他の進歩的経済学者たちは、そうした問題に関心を抱いていなかった。彼らは概してジェンダーやセクシュアリティ、方法論といった問題に注力しており、主流派経済学の論説に対しては、断片的で、容易に退けられるような批判しかしていなかった。

MMTの提唱者によって生み出された言説が進歩的な陣営での地位を上げていくことについての敵意すらあった。

大いなる安定は世界金融危機によって完全な停滞に陥った。世界金融危機は、最初に2007年8月にフランスの銀行であるBNPパリバが、サブプライムローン証券の履行可能性に対する不安の増加による3つの投資銀行からの撤退を凍結したときに始まった。(訳注:要するに、サブプライム証券不安を受けて、投資銀行からの資金引き上げの動きが生じ始めていたときに、BNPパリバが(自行傘下の)投資銀行からの資金引き上げを一方的に凍結した、ということです。)同月の後半に、イギリスのノーザンロック銀行で取り付け騒ぎが発生した。

住宅価格と株価の急落に伴い、大いなる安定の中で積み上げられた富が幻であることが証明され始めた頃に、危機はエスカレートした。2008年9月、リーマンが破綻した。

このとき、自己制御的市場という考えが神話であることが暴かれ、主流派経済学理論の体系全体が信用性を失うことになった――大学で教えられ、研究論文で学術的に用いられる支配的なニューケインジアンモデルは、どれもこの危機を予測できるようにはできていなかったし、危機に対する実行可能な解決法を提示できるものでもなかった。

最終的に、王様は裸だということが明らかになったのだ。

主流派経済学者は当初、とんでもない想定外事象がいくつも生じたにも拘わらず危機に対して沈黙を守った。

危機がエスカレートしてきていた2008年10月23日、前FRB議長(訳注:アラン・グリーンスパンのこと)が米下院の監視・政府改革委員会に姿を現した。当委員会は”金融危機と連邦監督機関の役割”について調査していた。

下院議長のHenry Waxmanはグリーンスパンに対し、後で後悔することになったいくつもの決断を後押ししていたのは自由市場イデオロギーだったのではないかと尋ねた。彼は以下のように答えた:(US House of Representatives, 2008, page 36-37)

グリーンスパン: あー、思い出していただきたいのですが、何にせよ、イデオロギーというのは、人間が現実を扱うための概念上の枠組みなのです。すべての人が持っている。あなたも必ず持っている。生きる上で、あなたがたはイデオロギーを必要としている。問題なのは、持っているイデオロギーが適切か、そうでないかです。私が言いたいのは、そうですね、私の考えに欠陥を見つけたという事です。それがどれくらい重大で、永続的なのかわかりませんが、その事実に私は大変苦悩しておりまして…

Waxman議長:欠陥を見つけたと?

グリーンスパン:どのように世界が機能しているかを定義づける決定的に重要な機能構造だと認識していたモデルに、欠陥を見つけたという事です。言うなれば。

Waxman議長:言い換えれば、あなたの世界観、イデオロギーが、正しくなかったということ、機能しなかったということに気付いたと。

グリーンスパン:その通りです。それがまさに私がショックを受けた理由です。なぜなら、私は40年以上、そのモデルが非常に良く機能しているという相当な根拠を目にしてきたのですから。

しかし、「今回の危機が主流派経済学の役割に対する大いなる試練となった」という認識や、教育カリキュラムや望ましい研究事項を変更する動きも、短命に終わってしまった。

主流派の専門家は、民間の債務危機だったものを国家の債務危機に再構築し始めた。彼らの反政府・自由市場バイアスに適合するように。

危機を醸成させた動態(規制緩和や監督縮小)が解決策であると提唱された。公的な議論は「緊縮財政が唯一の道だ」という主張に溢れ、IMFやOECDのような主導的な国際組織も「大幅な財政緊縮は経済成長を毀損する」という考えを否定する熱烈な予測を立てた。

その後、IMFは自身の計算が間違っていることを認めざるを得なくなった(IMF apology ARTICLE)。
このように、MMTの論説は高度な予測上の価値を持っていたのだが、公共的議論への影響力はゼロに限りなく近かった。

Shenker-Osorio(2012)は経済について以下のような代替的概念を提案している。この概念は、経済が我々の構築物であり、我々から切り離せるものではないという考え方と整合的だ。彼女は以下のように書いている。(Location 1037)

このイメージは、本当に大事なのは、自然環境と密接に関係し依存している我々である概念を描写しています。経済は我々とともに機能するべきなのです。いま政策の是非判断は、それがどれだけ経済のサイズを大きくするかで考えられていますが、これからはその政策がどれだけ我々の幸福に資するかで考えられるべきです。

さらに我々としては「その政策がどれだけ財政赤字や政府債務を増やすか」をも政策の是非の判断材料に加えたい。

彼女の提案は機能的財政論の原則に正しく即している――そこでは経済は”構築物”と見做される――、政策介入は、それらが我々の広範な目標に対してどれだけ機能するかという尺度においてのみ評価されるべきだ、とされている。

だから私たちは、自分たちが何を目標として何を成し遂げたいのかをもっと幅広く正確に定める必要がある。ある一時点の財政赤字というのは無意味な目標だ。

財政バランスは――我々の目標や、政府純支出と目標の間の機能的関係に従って――いかようにもなり得るものだ。

政府は道徳を強化する存在ではないし、経済は道徳活動ではない。

 

 

メタファーと価値観

進歩的な文献(例えば、The Common Values Handbook)(訳注:The Common Cause Handbookの間違い? とりあえずそれらしきもの発見できず)では、”我々の態度や行動”に影響を与える”我々の基本規範”となる価値観を明示しようとしている。広範な研究によって、”一貫して生ずる人間的価値観が大量に特定された”。(Common Values Handbook, 2012:8)

この研究を大まかにまとめると、Schwartzの研究と彼の価値観を中心に展開するものだといえる。彼は我々の思考の枠組みとなっている基本で普遍的な10個の人間的価値観を特定した。

我々のビュー―このペーパーで詳説するもの―においては、こうした議論はある種付加的なものだ。そうした価値観は一般的であるため、どんな考えとも整合的なのである。

我々としては、それにいくつかの原則を付け加えることに集中し、その原則を支持する語法を確立していきたい。

諸原則と語法

その諸原則は以下のようなものだ:

1. 政府とは我々だ!

2. 政府は我々の代理人であり、あらゆる代理人と同様、我々が政府に対して資源と裁量を割譲する。なぜなら、我々は各々個人では達成不可能な便益を政府が創造することが出来ると信頼するからである。我々は規模というものを理解している。

3. 政府は、必要不可欠なサービスを提供することにより我々現役の世代の幸福に資する。収益は不必要。

4. 政府は、数十年に渡ってサービスを提供する生産的なインフラの建設を通じて、将来世代の幸福に資する。

5.私たちは政府にこのユニークな権限を与えることによって、制約に直面することなしに関心を追求できるようにしている。

6. 我々にとっての赤字は、その原資を見つけなければならないものだと理解されている。ところが、我々の代理人である通貨発行権付き政府にとっての赤字は、私たちの消費・貯蓄選択の原資となるものなのである。

7.政府の赤字が私たちの自由を強化する。所得を増やし選択肢を増やすからだ。

対決!主流とMMT

下の表は、経済学者や評論家が財政支出、財政赤字、公的債務、及び最も不利な状況にある労働者たちへの所得補償制度などを攻撃する際にしばしば用いている命題だ。

今回の論文では、これらの例が主流パラダイムが推進しようとする中核的な価値の強化につながっているということを示したい。例えば自己規律、独立性、野心、富、そして犠牲だ。

これらのそれぞれの偽命題の背後には、神話に偽装したメタファーの連鎖がある。二列目に書かれているのが、それらに対してMMTが提示する現実の動きだ。

主流経済学Modern Monetary Theory
財政赤字は悪財政赤字自体は善でも悪でもないが、非政府部門の消費意欲が現存する生産資源を十分かつ確実に利用するほど十分でないときには必要。
財政黒字は善財政黒字自体は善でも悪でもないが、資源に余力があり黒字が成長の足を引っ張る状況においては有害である。
財政黒字が国の貯蓄を産み出す自国通貨をもつ政府がその貨幣を貯蓄するという考えが無意味。貯蓄とは将来の支出を確実にするための支出行動で、金銭的制約を持つ政府ではない存在に適用されるもの。政府は支出のための資金をあらかじめ用意しておく必要がないので”貯蓄”の必要性は全くない。
景気循環を通じて予算は収支均衡させるべき予算は非政府部門の消費動向に応じて完全雇用を達成し維持するのに必要なだけの総支出水準に、景気循環とは無関係に調整されるべき。
財政赤字は金利を上げる。民間貯蓄との競合になるから。民間の貯蓄は収入次第で決められない。常に支出によって貯蓄が決まる。なぜなら貯蓄は収入の上下変動とともに変化し、支出の動きと直接関係しているので。
政府の資金調達費用は債券市場で決まる中央銀行が金利を定めており、イールドカーブの任意の箇所にコントロールすることができる。政府支出の費用は公共政策に利用可能な実物資源である。
財政赤字は将来の税負担財政赤字を返済する必要は全くない。各世代は自由に課税水準を選択することができる。
政府の財政余地がなくなるかもしれない財政余地はより正確には通貨で購入できる実質の財やサービスと定義される。通貨を発行する政府は、通貨で売られているものを常に購入することができる。政府にとって通貨での支払いができなくなるということはあり得ない。
財政赤字は大きな政府と同義だ財政赤字は大きな政府でも小さな政府でも生じ得るだろう。小さな政府でさえ、もし非政府部門が全体での貯蓄願望を持ち、かつ政策目標として国民所得を完全雇用水準に維持しようとするなら、継続的な赤字を計上する必要がある。
政府支出はインフレ促進的である全ての支出(民間あるいは政府)がインフレーションリスクを持つ。遊休資源(例えば失業)などがある間は、政府支出はインフレ促進的ではない。もし経済の実物キャパシティが吸収できる範囲を超えて名目総需要を加速させるなら、あらゆる支出がインフレ促進的となる。
民間部門に対して債券を発行すると、財政赤字によるインフレーションリスクが抑制されるある特定の政府純支出の水準に伴うインフレーションリスクは、赤字分と同額の債券を発行した場合と発行しなかった場合を比較しても違いはない。インフレーションリスクは、支出に関する金融的取り決めではなく、支出自体によって決定する。
将来世代の負担は、返済しなければならない債務という形態の財政赤字の継承にリンクしている将来世代の負担は、実物資源の利用可能性にリンクしている。例えば、ある世代が再生不可能な資源を使い果たせば、将来世代へ負担を課すことになる。将来世代は実物資源を過去へとタイムトラベルさせることはできない。
インフレ率のコントロールのために失業を用いるインフレ率のコントロールのために雇用を用いる
通貨発行権のある政府にデフォルトリスクがある通貨発行権のある政府にはデフォルトリスクは全くない。通貨発行者は、当該通貨建てで負った負債はどんなものであれ返済可能だからだ。
納税者のお金公共貨幣。納税者は何の資金供給も行ってはいない。租税は実物資源を解放する装置であり、それによって、我々の代理人である政府は、我々の共同体的利益のために、社会経済プログラムを推進することが出来る。
人は個々の関心に従い合理的に態度を決める人間は複雑かつ予測困難であり、理性と感情は不可分である。

下の図は、主流の新古典派経済学が用いるメタファーの例で、これらは上図左列にまとめた誤った命題を強化するために用いられてきたものだ。

攻撃目標メタファー目的
政府支出分相応の

国のクレジットカードの枠がいっぱい

酔った水夫のような浪費
余剰と犠牲が必要
急いで削減を
破産する
無責任な支出
無責任なふるまい
財政均衡財政ブラックホール
国の財政が悪化する

巨大化する財政赤字
国が破産する、壊れる

膨れ上がる赤字と負債
大質量の星の崩壊(天文学)の比喩
健康の比喩。病気、緊急事態
TINA - 外科手術
制御不能
国の財政は家計のようなもの - 経済は私たちに似ている

制御不能
国の負債アメリカは破産状態だ
債務の山
我々の孫たちへの負担
将来への借金
国は経営状態の悪い破産企業だ
莫大、重大
子供たちを弱らせる
将来を台無しにする
所得補償福祉依存
失業手当をもらったまま働かない人、ずる休みしている人
勤労者世帯
薬物中毒
怠惰、無価値

模範

語法

MMTが避けなければならない誤解を招きやすい表現がある。二つ例を挙げる。

ステートメント 1: 大量の失業は財政赤字が少なすぎることの兆候だ

結論としては正しい。

財政赤字という言葉には二つ問題がある。第一に、この言葉がネガティブな印象を与える。赤字とは不足を意味するからだ。

会計的な意味では赤字は支出に対しての収入不足だ。

第二に、財政収支の変動ではあいまいで、詳細かつ技術的な検討なしに量的な判断はできない。

結果としての財政収支が赤字なのが「良い」場合はある。民間部門の支出消費動向に基づいて完全雇用を維持しようという政府の裁量的な財政政策の結果として赤字が増えていた場合だ。「悪い」ケースとしては、民間の消費が落ち込み、自動安定化装置が税収を引き下げ失業が増加しているような場合がある。

またこの見方は、政府は財政収支をコントロールするのだという結論に行きがちだ。

現実において財政収支の結果とは、非政府部門の消費や貯蓄の動向と政府の裁量的な決定を反映する。

というわけでこの用語は問題があるし、実際ややこしいのだ。

国の収支に関しては「赤字」「黒字」という言葉を使うのをやめようと言う人もいるが、そのような提案が出てくる。

そのような、別の効果的な言葉が必要だという賛成ではあるのだが、教育によってコミュニケーションを効果的にできないかを考えている。

たとえば「赤字」のような言葉に代わる新語を作ったとるすると、その言葉が表しているストーリーそのものを完全に失ってしまいかねず、そうだとすればコミュニケーション上でほとんど意味がないことになると思う。

この種の問題は、新しい言語を開発するよりも、教育を改善したり理解を助けるツールを提供するほうが良いと考えるというわけだ。

ステートメント 2: 政府支出は非政府部門の金融資産を増やす

これも結論としては正しい。

マスコミはいつもありふれたメタファー ―― 政府は港で酔っぱらった船乗りのようにカネを使っている―― というのを使い人々の不安を煽っている。

失業を増やし実質所得を減らす財政緊縮を正当化するため、イデオロギー的に政府の介入に反対する人を利してしまう。

真実を隠す議論によって私たちの生活を悪化させる政策に手を貸してしまう。

支出、という語は何かが浪費されたりどこかへ行ってしまうような先入観を招いてしまうという事実がある。

政府支出とは実際には、非政府部門への資金(金融純資産)の供給であり、私たちの所得と貯蓄を増やし、雇用を増やし、非政府部門に将来のリスクを管理する手段をもたらす(貯蓄の蓄積によって)。

この場合は意味を変えずに言葉を変えられそうだ。

ここでは「政府の資本支出」ではなく、「政府の消費支出のための回帰的な投資」、「長期の投資」という語を使うべきだ。

しかしここでもまた、投資という語は混乱を招くかもしれない。なぜなら投資には二つの意味がある。:

(a)経済学者は生産力の増強と言う意味でこれを使うし、(b)普通の人々は金融資産の購入と言う意味で使う。

しかし「投資」にはポジティブな含意があるので有意義かもしれない。

まとめ

作業はまだ途中だ。
我々は、あなた方が用語が重要だと考えているかどうか、及び次のようなコンセプトについてどのような代替用語が適切と考えているかについて関心がある:

1. 財政バランス
2. 財政赤字
3. 財政黒字
4. 国債
5. 政府支出
6. 政府租税
7. 国民所得
8. 所得保障支出
9. 完全雇用

こうした取り組みを始動するべきだろう…
今日はここまで!