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ジョセフ・ヒース『ナオミ・クラインについての最終論考』(2015年9月22日)

Final thoughts on Naomi Klein
Posted by Joseph Heath on September 22, 2015 | environment, politics

このブログの読者ならお気付きと思われるが、今年、ナオミ・クラインの気候変動本『全てをかえる物語』について言及したのを皮切りに、私は少なからずの時間クラインに浪費している。読者の何人かから、直接、ないしやんわりと、クラインへの妄執が過ぎることを指摘されたのである。よって少し弁明しておきたい。まずは、過去に数年にわたっての[クラインについての言及が含まれる]言説を総括し、幾つか提供してみる。

以下に過去の論考を並べてみた。
ナオミ・クライン:『全てをかえる物語』[訳注:本サイトでの邦訳版はココ]
ナオミ・クライン、追伸1
ナオミ・クライン、追伸2

次に以下は、私の『気候変動』についての過去のエントリである。
『税を税たらしめるものとは何か? 炭素税vs.炭素価格付け』
『炭素税/価格付けにおいて、2つの懸命で無い言及対称』
『ホッブズの難解な概念』

以上に追加して最後は、私の気候変動政策についての授業のシラバスである。(シラバスは、気候変動について感心がある人は読む価値があると思われる)。

個人的に、クラインの本についてこうも長期間にわたって言及してきた理由に、端的に近年は『気候変動問題』について考えるのに時間を割いてきたからなのだ。私が読んできた本の中には、この件[気候変動]についての悪書も多く含まれていた。しかしながら、クラインの本は[悪書にも関わらず]詳細に論ずるに値する本でもある。理由の一つは、彼女が『世界の知識人』ランキングのトップ100やトップ50に定期的にリストアップされており、多くの場合はトップ10に入っていることにある。つまり、多くの人々が彼女の著作や話す内容を、とても真面目に読んでいる訳なのだ。これは、クラインが、左派でいうところのノーム・チョムスキーや、右派でいうところのアイン・ランドと同じタイプの人になってしまっている事を示す理由の一端にもなっている。クラインやチョムスキーやランドは、高校生や大学の学部生からは異様に人気があるが、より高度な教育を受けた人(特に、私のような大学教授)らからは、ほとんど無視されているような人達である。しかしながら、これらの人々を無視している人で、『なぜ』彼女らの意見を真面目に相手にしないのかを、わざわざ説明する人は滅多にいない。クラインらが学者らから無視されている事で、彼女らの著作に関心している人々は、著作や思想を、もろもろの陰謀論や、[反アカデミア的な]政治イデオロギーの源泉にしまっている。もちろん、それは端的に間違えているのだ。

学部生の頃の、私の『ノーム・チョムスキーの時代』は今でも思い出すことができる。当時チョムスキーの意見が誰からも相手にされていないことにとても戸惑ったものだ。チョムスキーの主張には、他の人が同意しかねる要素がいくつも含まれている、ということには当時の私も理解していた。しかし、彼の政治的意見がここまで完全に無視されている理由は理解できなかったし、その理由を説明してくれる人も見つけられなかった。もちろん、大学院を終える事には、私もその理由を理解できるようになっていた。そして、私も「チョムスキーの政治的意見の何が間違えているのか、わざわざ説明してくれない人々」の一員となっていた。私がわざわざ説明しないのは、チョムスキーが[政治的見解に関しては]世界に特に強大な影響力を保持していると思っていないからだ。彼の著作に影響された人がその考えを発しても、個人的にも特に困ってもいない。

アイン・ランドに関しては、チョムスキーと違って非常に有害であると考えている。事実、一般向けの自著の何箇所かで、ランドについて言及し、彼女の見解の問題点を指摘してきた。(特徴的なのは、彼女の主要な小説に通底している強固なニーチェの哲学思想だ。彼女がニーチェの哲学の影響下にある事例を挙げさせてもらうなら、[彼女の思想において]『レイプは』単に許容されているだけではなく、[既成の倫理や利他行動に縛られる俗物と、『善悪の彼岸』に達したエリート間の]両陣営を分かつ、教化体験とされている事にある)。今のクラインは、[アイン・ランドのような選別思想の]同調者では明確に無いだろう。それでも、私は、クラインは世の中に対して、本質的には悪影響を与える存在であると考えている。クラインの最大の問題は、彼女の見解が「とにかく意味をなしていない」ということ尽きる。彼女はあらゆる社会問題につきまとって、それら社会問題の『バイブル』になるような本を書いて出版しようとする。それでいて、彼女の本は、社会運動家達を不毛の地に放り出してしまうことにしか成功していない。

労働組合でクラインとルイスの[書籍を元にしたドキュメンタリー]映画『全てをかえる物語』見た後に、私がそこで主張した事がある。クラインとルイスは催涙弾を嗅ぎ回る時間を減らして、図書館での読書時間を増やすべきだ、と。以上主張は、使い古された教訓に聞こえるかもしれない。それでもこれは重要な観点なのだ。クラインが[なんらかの事象の]本を書くに際のやり方の大部分は、私と完全に真逆なのである。私は、[事象が]何であるかの『見解』の把握に、時間と労力の90%近くを使っている。私は[『見解』を得るための]時間のほとんどで、読書ないし、友人や大学の同僚と議論を行うことになる。そして『見解』が固まってから、『素材』の収集に残りの10%を使うことになる。そこで必要とされる『素材』、すなわち『データ』は、具体的な主張であったり、議論を具体化するための小話や逸話や、持論を補強するインタビューや報道記事となる。以上言及した私のやり方と、クラインのやり方は全く正反対となっている。彼女のやり方は、『素材』の収集に少なくとも90%の労力使った後、後付の『見解』が適当に付け加えられている。こういったクラインの仕事やり方が、私にクラインを理解することを困難にさせているのだ。

事例を挙げると、彼女の新著のサブタイトルは『資本主義vs環境』である。しかし、この本[を読むこと]で、『資本主義』や『環境と資本主義の関係性』に対するクラインの『見解』が何であるのかに説明するのは、非常に困難だ。この本について言及したこのブログの最初のエントリでは、私は慎重かつ好意的に、クラインの言わんとする事の謎解きを試み、彼女を理解しようとした。該当エントリは私なりの努力の記録となっている。容易ではなかったし、私以外の人もそうであったようだ。

クラインの愛読者に会った時、「あなたはクラインの様々な事案についての『見解』何だと考えているのか?」と私はいつも尋ねている。良い返答を貰えたことはいまだない。愛読者達が、彼女の著作内容が間違えていることを理解している事実に遭遇することすらある。クラインが、なんらかの常識や、実利的な見解(例えば、『炭素価格付け政策』を補強するような見解)を持っているとか、逆に何の見解も持っていないかもしれないと、想定する自体が間違えているかもしれないのである。私がしばしば遭遇してきたのが、雰囲気や気分の連想的な物である。つまり[クラインを愛読する]人々は、クラインの漠然とした関心――環境問題は切迫しており、企業は悪意を持っており、資本主義はなにがしかの責務を追うべきである――を共有しているのだ。

社会変革の飽くなき支持者であるはずのナオミ・クラインが、どのような変革をもたらすべきかということの判断や説明をすることに、なぜこれ程までに僅かな知的労力しか払っていないのか、ということに私は長い間困惑してきた。社会正義の運動家になるつもりなら、社会正義とは何であるかということについてのコンセプトを明らかにすることから始めるべきだ、と私には思えたのだ。社会正義とは何であるかを他人に説明して、その理念から現在の制度の状況がいかに外れているかを示すべきだろう。しかし、ある時点で、このアプローチには私にとっては当たり前に思えても(そもそも私は理論家なのだ)、他の人にとっては当たり前ではないのだということに思い至った。特に、このやり方は、クラインによる社会問題へのアプローチとは異なっているのである。クラインの新著の一節は、私に以上の説の理解を促すことになった。以下は、新著の中ほどになるが、彼女がギリシャに旅行に出かけて、そこでの[市民の]抗議活動を描写している一節である。

イェリッソス1 では、地元住民たちが村の出入り口にバリケードを建設しました。住人を追ってきた200人を超える重武装の凶暴な警官たちは隊を組んで街の狭い通りを練り歩き、催涙弾を全方向に発射したのです。催涙弾の一つが、学校の敷地内で破裂することになりました。結果、学校で授業中の子供たちが窒息に苦しむことになったのです。(298p)

以上一節を読んだ時、校庭に催涙弾が打ち込まれた件が極めて適当に描写されている事に、個人的には特に驚かされることになった。[クラインの本は]少なくとも気象変動についての本と私は見なしていたので、気候変動とまったく関係ない催涙ガスの描写に、非常に戸惑ったのだ。ギリシャにおける金・銅山の開発計画への地元の抵抗が槍玉に挙がっているわけだが、気候変動との関係は何も示されないままに話が進んでいる。([ここでは気候変動と鉱山開発が]関連付けれれている。鉱山開発は、[自然ないし弱者階級からの]『搾取』だとクラインは朧げに考えており、気象危機を生成している[搾取・陰謀を行っているなんらかの存在の]動機と同質のものとして仄めかされて提示されているのだ)。なんにせよ、仮にクラインが、金鉱山の開発計画と気候変動を関連付けているとしても、学校内に催涙弾が打ち込まれた観察事例を持ち出すのが、奇妙な事に変わりない。そもそも、彼女の著述内容から、何が起こったのかを理解するのが困難なのである。この箇所を読む読者は、登場する警官がどんな目的を持ってこういった行為を行っているかを知りたいと思うわけである。通りを練り歩いた『重武装』の警官たちが、左右構わずに無秩序に催涙弾をなぜ発射した理由等である。クラインは、[鉱山開発への]抗議者達がどこにいるのかに関して何も書いていないので、描写されている警官たちの行動がとりわけ意味不明なのだ。もしかしたら、抗議者達は[警官と]向かい合っていて、暴走した警官たちによって、学校内に催涙弾を投げ込こまれることになったのだろうか? クラインが何を言わんとするかを理解するのは困難である。

しかしながら、この一節を読んだ私が、最も直面させられた疑問が、クラインはこのようなルポを本に収用する必要性をなぜ見出したのだろうか、ということである。この本は566ページしかないので、特段[助長なエピソード等を含めて]引き伸ばす必要はないと思われるのだ。ギリシャの学校で子供たちが催涙ガスに直面するような事故は、ギリシャ政府が自国市民への危害意図を持っていることを意味するのかもしれない。どっちにせよ、(「誰かが、どこかで、なんらかの悪意に相対している」のような抽象的レベルの見解の遥か以前に)、具体的な話なのだが、この本は気候変動について本なのに、こんな事例が描かれているの事が非常に気にかかるのである。

クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。これは私の推測であるが、このようなエピソードは彼女の道徳的指向を示している。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(彼女にとっては、世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、と考えるわけである。要するに、このことは彼女にとって『明白な道徳』を示しているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているのだ。

要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。[体制への]抗議者は善であり、警察(または『抑圧の暴力』)は悪である、と。これが、学校の校庭に催涙ガスが着弾したという話が[気候変動と]関係があるとされている理由でもある。「警察は悪である」ということを読者が前提としていなかったり、納得していない場合に備えて、「警官は悪である」と読者に想起されるために書かれているのだ

クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が『善』であることはあり得ない。だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。

一方で、クラインの論じ方を[全てを乱雑に関連付けるものであると]認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。まず第一に、抗議運動家たちは[クラインの描く]物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には[正義の]一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。[クラインの見解に従うと]全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。ただ、具体的にその見解とは何であるかには、クラインは何も語っていない。しかし、荒っぽい目標なら彼女も自覚しているようだ。そして、著作活動を続けることで、それをいつか読者に伝えることができるかもしれない。

以上が、私のナオミ・クライン解釈学だ。少なくとも私はベストを尽しており、今も頑張っている次第である。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
訳注:本エントリはデビット・ライス氏の部分訳を元にWARE_bluefieldがライス氏の許可の元、全訳している。
※訳注:”view”は基本的に『見解』と訳している。

  1. 訳注:ギリシャ北部の都市 []

ジョセフ・ヒース『トランプ大統領の省察』(2016年11月10日)

Thoughts on President Trump
Posted by Joseph Heath on November 10, 2016 | political philosophy, United States

トランプの当選については、多くの論点が言及済みだが、まだ大きな関心が払われていない幾つかについて指摘しておきたい。

まず最初に。この結果に本当に驚いたことを表明するのを許して欲しい。数週間前から正解を予言していたアンドリュー・ポター1 には祝福を! 昨夜までは思っていたのだ、ポターは間違えていると。有権者の投票行動においては、「政党の地方支部活動」の重要性がほぼ全てだと信じていた。トランプが選挙キャンペーン組織をまとめあげられなかったことで、受けた打撃は、個人的に思っていたほどではなかった。

この[トランプの当選]結果は、政治学による評論家への偉大な勝利である事も記さねばならない。選挙時のディベートにおける立ち振舞やそこでのヘマのような事象は、大した事象ではない、と政治学は教えてくれる。政治学においては、選挙結果は、極少数の『マクロ』要因に「左右される」――この要因の最重要要素は、政権与党を変更させたいという[有権者の]要望であるとされている。2

火曜日のニューヨーク・タイムズで、トランプとロブ・フォード3 の類似性に私は言及した。トランプとフォードの2人が、選挙戦を行うのに際してとった行動は、従来のメディアの知見からみれば、行いうる限りにおいてほぼ全て間違えていた。にも関わらず彼らは勝利を収めたのだ。(ただ、トランプは総投票数では敗北し、選挙人制度においてのみ勝利を収めたことで、彼の勝利は価値を持たないことを私は示唆しておきたい)。トランプとフォードの強い類似を鑑みた時に、私が推察するのは、選挙戦におけるトランプの変遷が、フォードのそれと多くの点で似通っていた事だ。選挙の初年度、トランプは自らの意思で有権者を威圧しようとしていた。しかし時が経つにつれて、トランプは、自らの掟破りの言動の蓄積によって、自縄自縛に陥ることになっていった。

ただ、私がここで言及したいのは上記の件ではない。それよりも以下の2つの事項について省察を行いたい。

[1つ目はこの現象が]どのように起こったのかだ。

トランプの当選結果は、多くの異なる要素の集約によって出来上がっている。人種や経済的要因のような特徴的な要素を過小評価しないなら、個人的に追加言及しておきたいのが、トランプの支持者達が皆一様に表明していた一つの動機である。トランプの支持者達が希求していたのは、『腐敗した』現行政治制度への『チェンジ』だった。この点において、2人の候補者間には明らかな対照性が存在した。ヒラリー・クリントンの(自身が確実に行ってきた過去の事例に基いている)特化された専門性は、連邦政府の政治構造に居座っている様のような周知事実によっても、彼女が年期を経た政治的インサイダーであることを知らしめていた。『Citizens United(シチズンズ・ユナイテッド)4 』への不満を言うのを少し控えると、アメリカの統治形態が多様化しすぎている事に対して、ヒラリーが全く関心を持っていないことは明白だった。ヒラリーは現状在り方の推進に強く関心を持っていたのだ。正確に言うなら、彼女が主に売り込んでいた主張は、現行制度の複雑な回路を操作する能力だった。ここにヒラリーとトランプの対照性が現れている。この対照下において、トランプに投票するのは、雑貨屋に猛り狂った雄牛を送り込むような事だった。トランプは、既存の政治構造に、可能な限りにダメージを与えることが予測できたのだ。

ここで疑問が生じる。なぜこれほど多くのアメリカ人が、ここまで極端な方法でもって、自国の政治制度にダメージを与えることを欲したのだろう? 私が考える答えは、アメリカの政治制度には、極端なバクチ要素が内包されているということだ。これは、根本[制度]を改良できないという事実に起因している。以上の観点に立てば、アメリカは極めて異常な政体だ。過去数十年に遡って西洋民主主義国家を参照すれば、ほとんどの国では、顕在化した様々な[政治・社会的]問題や病理に、構造上の改良処置を立法化することによって、継続して解決策を見出してきた。(例えば、イギリスにおけるスコットランドへの自治権委譲や、上院の改定。他にはオーストラリアやニュージーランドの投票制度の変更が挙げられる)。

合衆国政府への私の見解は、長期の政治の衰退に陥っているということだ。(この見解は、他の論者も提唱している。特にフランシス・フクヤマが有力な論者だ)。ただ、だからといって、アメリカの崩壊を予言することは、無益な作業ではあるのだが…。私が発見した[アメリカの]今日の状況を突き動かしている物がある。それはアメリカが衰退に陥っている理由でもある。私が発見したのは、アメリカにおいて、現行の問題や政治的病理の進行に対処する、(広義の意味での)政治制度の自己改革能力が欠けてしまっている事だ。

カナダにおける選挙制度改革に関する近年の議論と、アメリカにおける選挙人制度を巡る状況は、非常に対照的だ。繰り返しになるが、ヒラリー・クリントンは総投票数では勝利を収める一方で、選挙人制度では敗北している。従って、アメリカの政治制度は、大統領選挙において、多数派の指名に失敗した事になる。これは、2000年のアル・ゴアとジョージ・W・ブッシュとの大統領選挙時に起こった出来事が本質的に繰り返された事になる。カナダ国民なら、多数決による選挙制度に基いている立法府において、もし政党与党が総獲得票数で過半数を下回っている事態になれば、不平を言うに違いない。しかして、カナダにおいて、国会に選任されることになった全ての議員は、選挙区での最高得票を得るルールの勝者であることが求められる。つまり(議員に選任される)いかなる老若男女も、対抗議員より多数の票を得ねばならないと問われる事実が、現として存在しているのだ。[カナダとは]対照的に、合衆国政府の大統領選出制度は、この[対抗候補より得票数で上回っていないといけないという]原則に反する事になっている。ドナルド・トランプは50%を超える投票数を得るのに失敗しただけでなく、選挙戦で最高得票数を得る競争の勝者ですらない。ヒラリー・クリントンは[当然トランプより]多くの票を獲得することになっている。

これは[アメリカの]政治制度に非常に大きな欠陥があると見なすことができる。そして、トランプの勝利後では、もはや驚くべきではないが、選挙人制度が崩壊していると公然と語られるようになってしまっている。カナダでは対照的だ、誰もここまで深刻に捕らえていない。[アメリカにおいて選挙人制度の変更に]言及することが、不可抗力的で無益であるという感覚が存在する事が、この論文で言及されているのは興味深い。この論点について尋ねられた人々は、皆一様にこう言う。「その通りだ。それは愚かで、非民主的だ。でも、それについて何とかする方法は存在しないじゃないか!」

似たような諦めの態度を他にもいくつか見つけることができる、ゲリマンダー5ロビー活動、選挙資金集めのような問題は、この問題[大統領選挙の投票制度]に比較して相対的に小さな『問題』だろうし、同じような大きな『問題』では、議会の構造や、選挙制度そのものを例示できる。実例を挙げて考えるなら、アメリカは、多数決制度の深刻な病理の酷い症状に侵されている。この病理は、(デュヴォルジェの法則によって)二大政党制の生成に向かわせ、有権者を大きく区分するという巨大な不満を産むに至っている。にもかかわらず、アメリカの投票制度の変更に関する議論は、全く存在しない。なぜだろう? この件について私が問いただしたアメリカ政治の理論家は、皆同じことを言う。「この事について話すのは不毛だ。なぜなら何も変えることができないからだ」と。一方、カナダはこのような問題(多数決による多数派専横の病理)を抱えてはいない。もちろんカナダでも、しばしば選挙制度改革についての深刻な議論に従事することがある。(ただ、私はその『カナダの選挙制度』について言及しておかねばならない。カナダでは議論が明後日の方向に行ってしまうのを心配することはないし、制度の変更が成し遂げられないかもしれないとか、制度が変更不可能かもしれないと疑う事はありえない。もちろん今のカナダでは選挙制度の変更は必要ないので、変更は起こらないと考えているが…。)

改革が不可能という答えが存在する状況では、アメリカの制度は、スティーブン・テレスが『Kludgeocracy(バグ取り主義)』と呼んでいるモノにゆっくりと巻き込まれる事になっている。改革を立法することより、アメリカ人は、ルールを捻じ曲げて解釈すような方法で、現制度への対処療法を施してきた。アメリカ人は皆、この方法がルールの変更より容易である事で受け入れてきた。(というわけで、ついでながら言っておくと、アメリカ人は皆、『権力の分立』が、自身をバカにしてるかのようなトランプ大統領を抑制することを望んでいる。ただ合衆国において『権力の分立』は、対処療法やバグ取りによる数十年にも及ぶ毀損の蓄積によって、激しく品位が低下している。)

ここまで述べたことに基づくなら、合衆国政府は、“output legitimacy(市民の公的政策結果への評価)”の圧倒的な欠乏に陥いっている。この欠乏によって、合衆国政府は、他の豊かな先進国住民なら自国政府に期待して良いであろう公共政策を行う事に、一貫して失敗している。(他の西洋民主主義国家における市民の受難とは、全く別の恐ろしい受難をアメリカ市民が抱えている事を、合衆国の統治について研究した者なら皆知ってる。)この立法部門の機能不全は、市民に満足な解決策を何も提示できない事にもなっており、アメリカ人は皆、多くの緩慢なバグ取り[対処療法的な問題解決]の蓄積に直面している。(例示しておくと、安価な医療制度や、再生可能エネルギー政策などである。)

ほとんどのアメリカの人々は、制度についてはもはや思考放棄している。彼らは政府による悪いパフォーマンスを見た時、手近の[悪いパフォーマンスを演じているように見える]役者に不満を溜める。そして、アメリカの人々は、物事を変えると約束している新しい役者を送り込む事で対応することになる。何十年もアメリカの人々はこれを続けてきた。そして、未だに何も変えることができていない。なぜだろう? それは、現法下の個人行動では変更不可能な、構造的問題であるからだ。アメリカの人々は、この変更不可能な問題に、どう対応しているのだろう? 多くの人は、硬直した[政治]状況に自身が送り込んだ役者が、懐柔されたか、十分にタフでなかったか、役割に相応しくなかった、と結論づけることになる。そして、物事をチェンジすると約束した、より過激で絶叫する人物を送り込む事になる。それでも[送り込んだ人物が]仕事を果たせずにいる[ように見える]と、さらにより過激な人物を送り込んできた。

ドナルド・トランプに投票することが、この過程の最終到達点だ。少なくとも、我々はこれが最後になることを望みたいものだ…。いずれにせよ、トランプが目立った失敗をしでかすことや、ポジティブな変化を起こせない事、そしてそれらが破滅的な悪循環の継続へと至ることは、既に予測可能だ。何よりもまず、トランプは、プロセスを積み重ねることや、組織的な観点について考えることができない。トランプは、悪い政策結果を目にした時、関係者が「愚かだ」と推定するだろう。そして代わりに「頭が良い」人物を起用すれば、良い結果を生むと考えるだろう。このやり方は、失望を生む処方箋となる。続いて、特効性のあるチェンジを(主に議会の会期中には)約束する事なり、これも単により悪い結果に至るだけだろう。一方で、彼が約束している裁判官人事は、憲法上の制約をより強化することになる。それによって、選挙資金集めの改革や、ゲリマンダーを終わらせることも不可能になるだろう。

[2つ目は]トランプの当選が意味する物である。

アメリカ人は、「トランプの当選がアメリカ人にとって何を意味するのか」という問題に夢中になっている。私はアメリカ人でないので、「トランプの当選は世界にとって何を意味するのか」という問題に興味がある。以下は過剰な心配かもしれない、しかし、昨日[のトランプの当選]は、ベルリンの壁崩壊のような世界文明の方向性が変わった瞬間の1つであるように、私には感じられた。ドナルド・トランプが合衆国大統領になった事は、西洋民主主義の信用を深く毀損する事になるだろう。この事実に沿って個人的に考えるなら、火曜の[大統領]選挙の国際的な大勝利者は、中国式の権威主義ではないだろうか。なので、ソ連の崩壊が共産主義の破滅を導いたのと同じように、トランプの当選は、自由民主主義からの世界的な離反に至るターニングポイントに相当するかもしれない。

アメリカ人がトランプについてどう考えようとも、グローバルな見地で観察する限り、最も重要な事実は、世界中の人々がトランプを無能な道化と見なしている事だ。言及せねばならないが、中国の人々は、トランプが任命された小事でもって既に祭り状態だ。中国は過去にジョージ・W・ブッシュが大統領である事で巨大なプロパガンダを貼る利益を得ている。当時の中国のプロパガンダは「我々の政治制度の方が優れている。なぜなら、我が国ならこのような無能者を国家元首にする事は許されていない」だった。トランプ大統領の任期中にも同じようなプロパガンダが貼られるだろう。(追加するに、この道化の狂った男は、ジュリアーニ、ギングリッチ、ペイリン、ボルトンのような内輪の人事を行うだろう)。中国への民主化圧力が不可能になることは確実だ。

より重要な事に、気候変動のような問題でグローバルな指導的地位に何が起こるか考えねばならない。この件でヨーロッパ諸国は、気まぐれで、自己中心的だ。その上、気候変動の件では、重要な国際的地位を占めていない。合衆国政府は、破滅的な統治の失敗を被っている。そしてその元首[トランプ]は、この問題を完全に否認している。よって[世界の]人々は、[気候変動問題で]指導的地位を探索することになる。その探索の自然なる集結地は、中国になるだろう。ざっくり考えるなら、人類の未来が中国にあるように見える出来事の始まりとなる。より憂鬱なことに、([合衆国と同じく]限定的な改良統治に従事しているにすぎない)中国の政治制度が、安定と繁栄を保証するような1つ[の政治制度の選択肢]として見え始めている。中国が地球上で最も進歩していなかった300年はだんだんと例外に見え始めており、今では伝統的な[国際社会における]支配的地位に返り咲きつつある。

自由民主主義政体の在り方は[アメリカの]他にも多数存在し、そのほとんどはアメリカより優れていることから、以上の結論は確定された見解ではない。(私が過去に何度も指摘してきたように、アメリカは、海外では自身の制度[大統領制]を再設計しようとはしていない。例えば、イラクに侵略した後、アメリカは議会制民主主義を押し付けている――議会制民主主義は大統領制より優れていることを、アメリカ人の一部は暗黙裡に認めているのだ)。にもかかわらず、合衆国政体は世界で最も名声ある民主主義政体なので、合衆国の統治の失敗は、民主主義理念の失敗として広く認識されることになる。アメリカという一国家の失敗にすぎないのだが…。

だからたとえ、トランプが『孤立主義』でなかったとしてしても(例えば、彼がTPPをぶち壊さなかったり、NATOを軽視しなかったりしても)、今回の選挙は中国にとって巨大な勝利であり、中国の政治制度を賞賛し擁護する人々にとっての巨大な景気づけにもなっているのだ。

※訳者による補足の単語等は基本は[]で括っている
※訳注:初訳時に、誤訳を指摘してくれたoptical_frog氏に強く感謝を!

  1. 訳注:ヒースと『反逆の神話』等の共著があるジャーナリスト []
  2. 訳注:ディベート等で両候補者の立ち振舞いを見て「ヒラリーの勝ち」等を断定していた評論家への、ヒースの嫌味と思われる。 []
  3. 訳注:トロント市長(2010-2014年期)。トランプと同じく奇矯な振る舞いで話題を集めた。 []
  4. 訳注:右翼団体シチズンズ・ユナイテッドによるヒラリー・クリントンを排撃する偽ドキュメンタリーと、その放映の是非を巡る最高裁での裁判。さらには該当ドキュメンタリーの放映の合法判決によって、プロパガンダ的なTV番組によるキャンペーンが可能になった現象全般を指していると思われる。リンク先で詳しい解説を日本語で読むことが可能。 []
  5. 訳注:政治家が、自身や自政党に都合が良いように選挙区の区割りを行う事。最初に問題視された政治家の名称がゲリーであったことと、区割りした地域が想像上の怪物『サラマンダー』に似ていたことで、『ゲリマンダー』と呼ばれるようになった。 []

ジョセフ・ヒース「移民政策について、アメリカがカナダから学べること」(2017年3月7日)

Joseph Heath, “What the United States could learn from Canada on immigration policy“,  In Due Course, March 7, 2017.

 

自国の移民政策を何らかの形で失敗させてしまい、周縁化された民族集団とネイティヴィストのバックラッシュとの不幸な組み合わせを作り出してしまった国々が世界には数多く存在する。そのような国では、人々の周縁化が様々な社会病理を生み出して(失業、犯罪など)、そのことがバックラッシュの背景にある移民に対する差別的な態度の多くを正当化してしまう、そのことがまた周縁化や排除を増させて社会病理を悪化させる、そのことがまた…といった悪循環が容易に生み出されしまう。カナダには数多くの問題があるとはいえ、少なくとも我々カナダ人はこのような形で移民政策を失敗させることはしなかった(ファースト・ネーション[訳注:カナダの先住民集団]との関係と比較しての話だ。ファースト・ネーションに関してはカナダも失敗してしまったし、上述したのとほとんど同じような悪循環を生み出してしまった…また別の複雑な要素もいくつか含まれているのだが)。

いずれにせよ、移民政策を失敗させてしまったどこかの国がその政策を改善するための何らかのアイデアをカナダから得ようとする時、彼らがほとんど反射的に注目するのは、移民を特定のクラスに分別するためのポイント制度をカナダが用いているということである。しかし、大半の専門家はポイント制度は実際には大した事柄ではないと考えているし、カナダの移民政策の成功における最も重要な要素でもないと考えている。だが、ポイント制度に人々に訴えかけるものが含まれていることは明らかだし、おそらく「望ましくない連中は国に入れるな」という主張を実践する制度に見えるがために、特にネイティヴィストたちにとって魅力的である。だから、先日に議会で行われたスピーチにて、ドナルド・トランプがカナダのポイント制度をアメリカにとっても望ましいモデルであると言及したことは意外でもなんでもないのだ。

アメリカの移民制度におけいては他にどれ程多くの要素が崩壊状態になっているかということをふまえれば、トランプの主張は滑稽である。しかし、残念なことに、多くのアメリカ人はこの事実を直視しないだろう。他の国に比べてアメリカの移民政策がいかに特殊であるかということを多くのアメリカ人は単に理解していないか、または、これまで行われてきた政策を当たり前のものとして受け入れてしまっているからだ。だから、一人の外国人として、アメリカが移民政策で犯してきた二つの大きな失敗であると私が見なしていることを以下で指摘しよう。

あらかじめ注意しておくが、私が行う二つの提案のどちらも、非常に右翼的な印象をアメリカの読者たちに与えるかもしれない。しかしながら、カナダでは私の提案は右翼的なものだとは見なされない。私の提案がアメリカでは右翼的だとされるのは、アメリカ人たちは移民問題を人種というレンズを介して見るために(もちろん、この場合の”人種”は実際には人種を意味しているのではなく、黒人と白人との間の関係を意味している)、別の問題として考えるべき数々の事象を曖昧にしたり混同させたりする傾向があるからだ。このため、道理に適っている移民政策の多くが、もしその政策がアフリカ系アメリカ人に向けられるとすれば非友好的であるか不当なものとされるような種類のものになるだろうという理由によって、左派から拒否されてしまっているのだ。

 

1:スペイン語を国語であるかのように扱うのを止めよう

 

カナダ人たちやカナダの全政党の間で満場一致に同意されている物事は数多くある。その一つが、移民たちには”地域の”マジョリティの言語(ケベックではフランス語、他の地域では英語)を習得することとその言語を使って働くことが期待されている、ということだ。この意見の背景には、カナダがバイリンガル国家であり公用語のうちの片方はマイノリティであって消失の危険に常に晒されている、という事実が明らかに影響している。だから、フランス語を習得しようと思っていること(少なくともそう宣言すること)がケベックへの移民の必須条件であることは圧倒的に明白なのだ。同時に、カナダに二つの言語が存在していることは国内の分断の大きな原因ともなってきた(ケベックの分離独立問題など)。このことは、フランス語に認められているようなマイノリティ言語としての地位を”アロフォン”移民[訳注:英語とフランス語以外を母語とする人]が彼らの母国語にも認められることを期待してはならないということを、カナダの英語州における移民政策の必須条件としてきた(この領域に関するウィル・キムリッカの研究の影響力、またキムリッカの定義による民族集団・民族言語とネイション集団・国語との区別の重要性は、この移民政策の原則的な正当化をもたらしている)。要するに、英語州のカナダ人は、自分たちがフランス語に対して行ったのと同レベルの妥協を中国語やヒンドゥー語やペルシャ語にも行うべきだと中国やインドやイランからの移民から要求されたとすれば、その移民を受け入れないということだ。

したがって、カナダへの移民に対して示される言語に関する”取り引き”は実に明白なものである。…あなたはこの国に来た、あなたはこの国のマジョリティの言語を話すことを習得する、もし自分自身はあまり上手く言語を身に付けられなかったとしても自分の子供たちが言語を習得できることを確かにする。そして、カナダ政府がこの”取り引き”を移民に伝える方法の一つは、各地域の民族グループと協力しながら、英語教育(ケベックの場合にはフランス語教育)への大規模な支援と資金を提供することである。なので、例えばロシアから移民がカナダに到着したとすれば彼らは地域のロシア系自治会に取り計られるのであり、その自治会がまず行うのは移民たちを英語学習のコースに通わせることなのである。

カナダ政府とは対照的に、基本的にはアメリカ政府は移民たちの英語学習に対するサポートを全く提供しない。そして、いつものごとく、アメリカ人たちは自分たちが望んだ通りの代償を支払うことになる…マジョリティ言語の習得という関して、アメリカへの移民たちは他の国の移民よりも成績がかなり悪いのだ。実質的には、スペイン語しか喋れない多数の人々をアメリカは国内に抱え込むことになる。移民について賛成的な人たちなら、移民たちのための英語学習にもっと多くのリソースを注ぐことがこの事態に対する当たり前の反応であるはずだ、と思うことだろう。しかしながら、実際には、アメリカのリベラルたちは自国の移民政策の失敗を美徳であるかのように扱ってきたのであり、(訳注:カナダにおけるフランス語のように)英語に与えられている全ての権利が与えられているマイノリティ国語としてスペイン語を扱いはじめたのである。これは酷いことであるし、カナダ人から見れば全くもって不当なことであるのだ。

たとえば、先述したドナルド・トランプのスピーチの後に、民主党が英語とスペイン語との二つの言語でトランプに対する返答を発表したことについて考えてみよう。なぜスペイン語なのか?アメリカでは、スペイン語には何の公的な地位も与えられていないというのに。カナダで議会開会の式辞が行われた後には、ある政党が式辞への公的な応答を英語とフランス語の両方で発表することはあるかもしれない。だが、その政党が標準中国語でも公的な応答を行うことを決定した場合について想像してみればいい。特定の有権者たちに焦点を定めて発表を行うことにはそれはそれで意味があるが、そのことで公用語の地位に関する混乱が生み出されないようにすることは大切だ(同様に、地下鉄や建物などのトロント中の様々な場所に中国語で書かれた標識や広告があらわれだしたとすれば、その場合にもカナダ人たちはひどく怯えてしまうことだろう…しかし、アメリカ人たちはスペイン語の標識や広告を何十年も見続けてきているのだ。実際、スペイン語があれ程までにそこら中にあるということが、私がアメリカに暮らしていた時に最も驚かされたことのうちの一つだ。もちろん、現実問題として情報を伝えることの必要性が他の問題を上回るために他言語の標識がある方が良い、という状況は多く存在するだろう。だが、同時に、ある国の公用語と移民たちの様々な言語との間の区別を曖昧にしないことは、原則問題として重要なのである)。

カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコなどの州全体やワイオミング、カンザス、コロラドなどの州の一部はいずれもメキシコから軍事的に奪った土地であるということをふまえれば、スペイン語話者はアメリカ国内のナショナルなマイノリティ集団であるのだから、カナダでフランス語に与えられているのと同等の権利がスペイン語にも与えられるべきである…そう主張することはできるかもしれない。だが、仮にそうだとしても、それは法律によって認められるべきなのだ。言語に関するアメリカの法律に限って見れば、全ての法律は英語を唯一の公用語として見なす方向にしか書かれていない。この文脈をふまえれば、スペイン語を準-公用語として扱うことは多大な問題を生じさせてしまう。移民に対する重度の反感を生み出していることは言うに及ばないだろう。

 

2:移民たちにアファーマティブ・アクションの恩恵を受けさせるのを止めよう

 

昨年には、アーリー・ホックシールドの著書『自分たちの国の中の異邦人:右派アメリカ人たちの怒りと嘆き(Strangers in Their Own Land: Anger and Mourning on the American Right )』が話題になった。この本は、”赤い州”について数多く存在するエスノグラフィーのうちの一つだ。『自分たちの国の中の異邦人』の中で、ホックシールドは白人の憤りの根底にある”根深い物語”と彼女が呼んでいるものを以下のように表現している。

 

地平線にまで向かって伸びる長い行列の真ん中で、あなたは辛抱強く立っている。その行列の先にはアメリカン・ドリームが待っている。しかし、あなたが行列で待機していると、あなたより先に割り込んでくる人々の姿が見えてくる。割り込んでいる人々の多くはアファーマティブ・アクションや福祉の恩恵を受けている黒人たちだ。一部は、それまでには決して機会がなかったような仕事でキャリアを得ている女性たちだ。そしてあなたは移民たちを目にする。メキシコ人、ソマリ人、まだ到着していないシリア難民たち。ぴたりとも進まないこの行列に待機しているあなたは、彼らのこと全員を可哀想だと感じるように求められる。

 

この物語は真実ではない、とホックシールドは示唆している。「この根深い物語は事実であるかのように感じられる物語であって、人々の意見や投票の背景にある感情を反映したものであり、事実や判断は取り除かれているのだ」。しかし、移民に関して言えば、この物語にもある種の事実が少しは含まれている。アメリカの移民政策の最も厄介な特徴の一つは、国内の人々が直面する問題に対処するために意図されていることが明らかであるアファーマティブ・アクションの政策を利用することを、特定の移民たち…特定のマイノリティ人種に属している人や、「ヒスパニック」という無茶苦茶な人種カテゴリに属している人…に許してしまっていることである。

例えば、大学の入学に関するアファーマティブ・アクションについて考えてみよう。この政策の目的がアフリカ系アメリカ人に対して行われた特定の歴史的不正義の問題を是正することに向けられているのは明らかだ。過去の差別の遺産や現在行われている差別はアフリカ系アメリカ人が学業を達成することへの障壁となっているのであり、その障壁はアファーマティブ・アクションによってしか取り除くことができない、という事情に基づいた政策なのである。この政策は多大な困難を生じさせてきたし、政策の目的通りに適用される場合についてでさえも非常な議論の的となり続けている。とはいえ、アフリカ系アメリカ人に対して適用するという特定の場合においては、アファーマティブ・アクションを支持する議論を行うことは可能であるように私には思える。だが、政策の中心的な対象である集団から離れて、ヒスパニックもアファーマティブ・アクションの恩恵を受けることを認める議論についてはどうだろうか?なぜ、アメリカの大学にメキシコ系の移民(例えば、白人やアジア人の移民に比べてSATのスコアが低い人)を優先的に入学させるべきであり、アルゼンチンやコロンビアからのエリートには優先措置を与えるべきでない(ただし、ブラジルはまた別!)、というのだろうか?

より一般的なことを言えば、なぜクワメ・アンソニー・アッピアのようなイギリスからの移民が、ハーバード大学のアフロ-アメリカンスタディーズと哲学のチャールズ・H・カースウェル教授として任命されているのだろうか?例えてみれば、ファースト・ネーション・スタディーズの学科長を任命しようとしているカナダの大学が、その人材を国内に求めるのではなく、オーストラリアのアボリジニやポリネシアの島民を任命するようなものだ。人々は憤慨する筈だ。外国から人々を持ち込んできて、それは大学の”多様性”を増させることだとみなすのがどれ程奇妙なことなのか、進歩的なアメリカ人の多くはわかっていないのだろう。確かに外国からの教職員たちは移民が多様性を増させるのと同じように多様性を増させるが、アファーマティブ・アクションや教職員多様性イニシアチブなどの政策が意図しているような多様性を増させる訳ではないのだ。

いずれにせよ、肝心なのは、行列の割り込み問題に対して人々は極めて敏感であるということだ。移民が行列に割り込んだという非難の中には事実に基づかない虚偽のものも充分に存在しているのだからこそ、社会は移民が完全に均等に扱われることに保証しようとするべきであるし、移民たちが実際に行列を飛ばすことは一切認められないようにするべきなのだ。だが、こんな単純な忠告にもアメリカは従わない。多くの社会には、過去に起こった特定の種類の不正義や争いに対する解決策として生み出された、マイノリティ集団のための”特別な取り決め”とでも言えるものがいくつも存在している。例えば、ケベックには英語とフランス語との両方の言語の学校が存在していることは、長くて複雑な歴史を持つ争いの結果として、州内のマイノリティである英語話者への譲歩としてもたらされたものである。ケベックに表れだした移民たちが英語学校に入学し始めたことに対して、それは本来移民たちには認められていない社会的取り決めを不当に利用しようとすることだ、とマジョリティであるフランス語話者たちはまことにもっともな認識を抱いた。そして、移民たちは自分の子供をフランス語学校に通わせなければならない、という法律をフランス語話者たちは通過させたのだ。彼らにはそうする権利があった、と私は思う。同様に、アメリカにおけるアファーマティブ・アクションは奴隷制やジム・クロウ法による分離政策の遺産に対処することを意図した特別な取り決めであることは明らかなのであり、そのアファーマティブ・アクションを移民たちが利用することを認めない権利がアメリカ人たちにもあるだろう。

もちろん、アファーマティブ・アクションについて純粋に結果志向的に考えてみて、大学内における “多様性”を特定の水準にまで達成するための試みとして捉えてみれば、その目標を達成するためにアメリカの大学が多数の外国人学生や外国人教員たちを招き入れることは問題にならないかもしれない。しかしながら、ここで論じてきた政策について考える一貫した方法をこの種類の帰結主義が提供できるとは、私は思わない。自分たちが達成しようとしている目標を見てみれば、それは大抵の場合にはアメリカ国内の人口を “反映”しているということがわかるはずだ。そのことは、それらの政策の本当の目標は差別に対抗して機会への平等なアクセスを確保することであるということを示している。そして、それが本当の目標だとすれば、その目標に関係している種類の差別の被害に遭ってきたと判断できる人々だけに政策の対象を限定することは、全くもって筋が通っているのだ。

ジョセフ・ヒース『何が人を陰謀論者にするのか?』(2016年12月5日)

What makes someone a conspiracy theorist?
Posted by Joseph Heath on December 5, 2016 | politics, United States

多くの人が、ドナルド・トランプに指摘している事の1つに、トランプが顕著なまでに陰謀論にハマりやすいように見える事がある。陰謀論について議論される時、「『陰謀論』とは正確に何であるのか」とか、「どのような精神的特徴が、人を『陰謀論者』に陥らせてしまうのか」、といった問題点が明確にされることは滅多にない。私は、自著『啓蒙思想2.0』で、陰謀論の説明を試みている。よって、この自著から、一部抜粋して再掲載するのが、タイムリーかもしれないと考えた次第である。

基本的に、一般的な陰謀論者は、『確証バイアス』の罠にハマっている。どんな男女であれ人は、まず外界にパターンを見る。そして、そのパターンに原因を見出してしまう習性を持っている。ただ一方で、原因を否定する数々の証拠に対しては、はなっから検討しようとしないので、物事を体系だって考えることを失敗してしまうのだ。[反証の検討に]代わって、人は、自身の見たパターンに沿う、より多くの事例が単に目に入るようになってしまう。そして、[目に入った]おのおのの事例を(誤信して)、見出した原因の証拠と扱う事になってしまう。

陰謀論者達は、キース・スタノヴィッチ1 が『合理性障害(dysrationalia)』と呼ぶ現象の最適の事例として見ることができるだろう。陰謀論者達は、おおむね平均以上の知能の持ち主だ。この高い知能によって、彼らは、外界にパターンを発見し、そのパターンに対応する原因、すなわち『理論』を見出してしまう。陰謀論者が欠いているのは、合理的な『反証能力』、すなわち、もしかしたらの矛盾した証拠を意図的に考える能力である。(因みに、陰謀論者達の幾人かは、熟考する質である。その具体的理由を挙げるなら、非常に多くがエンジニアであるからなのだ。彼らは、技術的な教育を受けている故に、非常に複雑な理論を理解し、生成する能力を得ている。そして、それでいながら、「反証事例の重視」といった科学的な思考方法の教育を欠いてもいるのだ)。

『確証バイアス』という現象の詳細に関して、個人的に強く推奨したいのが、レイモンド・ニッカーソンの『確証バイアス:一知半解の積み重ねによる普遍的現象』(“Review of General Psychology (1998)”掲載)である。
という事で、以下が『啓蒙思想2.0』からの一部抜粋(助長な部分は削った編集版)となっている。
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哲学者であることの否定的側面の一つを、私は日々見知ることになっている。それは、カルトの信者からの望まないメールを、大量に受け取る事にある。カルトの信者達は、自身の「哲学」についての、私との議論を望んでいるのだ。最近の、私のメール受信箱には、法輪大法(法輪功)からのメールがやたら並んでいる。法輪功は、ほとんど無害な組織であるにも関わらず、([教団が]組織化された事で)、中国政府を脅かす失態を行ってしまい、それによって、まがうことなき弾圧を被っている。この中国政府による弾圧は法輪功を、結果的に本来よりも有名にしてしまっている。法輪功のコア思想は、伝統仏教の瞑想の実践に、精緻な宇宙人のマインドコントロール理論を融合したものだ。創始者・李洪志によれば、科学とテクノロジーの発展は、宇宙人の策略であるとのことらしい。策略とは、人類間に戦争と破壊を扇動することであり、それによって宇宙人は、我々の身体を奪い、地球人に成り代わろうとしているそうな。こうして詳細を見てみれば、まさしく文字どおりトンデモだ。しかし全てのカルトがそうであるように、問題とすべきは、何千もの(あるいはこの場合は何百万もの)トンデモでない常人がこのようなカルトを、どのようにして信じるようになるか、ということである。

法輪功に関して驚嘆させられる事の1つが、まったくもって平凡であることだ。あらゆる面からみてもそうなのだ。世界のどこの誰が見てもすぐにわかるくらい平凡なのである。中国的な特徴を持ったトンデモさもまったくない。精神感染における平凡な風邪に例えても良いであろう昔ながらの特徴の無いトンデモさなのである。彼らの文章を読むと、カルトをどのように創設するのかといった、世界共通の指示マニュアルに従っているのではないのか、との錯覚に捕らわれる。信者をどうやって魅了するのか? 選択肢の1番手は、奇跡的なヒーリングの小話だ! 個人的には十全に予測していたが、以下のような推薦文が含まれたメールを、私は法輪功の信者から受け取ることになった。

「法輪大法は良きことなり」と演唱することで現前した多数の奇跡を、私は見聞してきました。リュウ女史は唐山市の村に住む69歳の女性です。去年、リュウ女史は大腸癌と診断されました。医師からは「あなたは、高齢で血圧が低すぎます。安静にするしかないでしょう。自宅に帰って、好きなものを食べましょう」と言われました。彼女3つ目の妹は、法輪大法の実践者でした。妹はリュウ女史を訪問して、「法輪大法は良きことなり」と演唱する法輪大法の実践を教えました。すると10日後には、リュウ女史は完治し、末期癌は消え去っていました。何よりの奇跡的事実に、リュウ女史は若い女性のような見かけとなり、とても美しくなったのです。これこそが、法輪功の神聖なる力なのです。李大師はイエス・キリストより圧倒的に優れているのです! 法輪功は人々を救っています。法輪功はすべてを解決するのです。

この種の話を、お馴染みで聞きなれていると感じたら、それはいたるところで見聞きするからだ。人に誤った信念を持たせる、世界共通の実践マニュアルのようなものが存在する。パスカル・ボイヤーが明らかにしたことによると、いくつかの非現実的な創作話の中には、他の創作に比べて、人が信じやすいものがあるそうな。人間の推論能力には、特殊な先入観バイアスがいくつか備わっている。何かを信じてしまうような信念システムは、こういったいくつかの先入観バイアス利用しながら[信念を]拡張していき、そしてさらに信念を自己増殖・強化することになっていく。この増殖・強化プロセスによって、カルトに信念を持たせるようなシステムは働いている。カルトの『教義』は、こういったシステムを作動するような普遍性を持っているのだ。我々をうんざりさせるほどお馴染みの『教義』ではあるが…。これら[陰謀論やカルトを信じてしまうような信念システム]は皆、生態学的ニッチ(隙間ポジション)と同じようなものだ。非合理的な信念の中には、普通の人間が実行可能な警戒心のほとんどから、逃れていることに成功しているものがある。生物の免疫システムによる探査から逃れているウィルスのようなものである。

唐山市のリュウ女史の話に戻ろう。このメールには多くのツッコミどころがあるが、最も目立った特徴は、心理学者が『確証バイアス』と名付けている現象を利用していることである。人間は仮説を立てる時、仮説に適合する肯定的な証拠だけを目にする一方で、仮説に不適合な証拠を確認することは見逃してしまう性質を持っている。人間は「否定的な事について考える」のに失敗してしまうのだ。リュウ女史の回復と法輪大法の神聖なる力を関連付けるには、[このメールだけで判断するには]2つの情報が欠けている。まず1つ目は、女史が「法輪大法は良きことなり」を演唱していなかったら、どうなっていたのだろう? という事である。例えば、ガンが単に誤診であった可能性である。あるいは、女史が本当にガンにかかっていたとしても、自然治癒したり、端的に長期間生存した可能性もある。2つ目は、末期ガンにかかっている患者で、「法輪大法は良きことなり」と演唱したどのくらいの人が回復しなかったのだろう? ということである。多くの人がこういった疑問を尋ねないものである。単に思いつかないだけの事もあれば、この話だけでは必要な情報を欠いており仮説を補強するのがまったくもって不可能なので、気づかない事もある。これらの事象を正しく認識することに失敗してしまうのは、『迷信』を信じてしまう特質の一つでもあるのだ…。

こういった認知バイアスについて見知ると、他人が愚かであることを説明していると、考えたい誘惑にかられる。愚かであるかどうかの自己診断を行うのは、非常な困難を伴う。ダニエル・カーネマン2 は、この件を「心理学を教えることの無益さ」と説明している。[カーネマンが教えた]学生たちは、致命的なエラーやバイアスを証明している実験について、ほぼ全て事前に見知っていた。それでいて、学生達は、[実験で指摘されてもいる]バイアスに自身がハマっているという当然の帰結には、疑うことなく「自身を例外化した」とのことである。このようなことになってしまう理由の1つは、内省を行うことでバイアスに気付くことができ(そして、バイアスについて知っているという事実だけで、影響から免疫を得られる)との誤った信念を保持しているからなのだ。もう1つの理由は、ほとんどの人が、生活におけるほぼ全領域で、自身を過大評価してしまうという、別の有名な認知バイアス故である。[自身だけは]バイアスから逃れることができるという思い込みは、この偏在している過大評価バイアスの一例だ。心理学者達は、[自身を例外化してしまう]このバイアスを『バイアスの盲点』と指摘している。中国の農民達の迷信深さを嘆くのは簡単なことだ。しかし、自分自身については、それはそれ、これはこれと考え、あっさりと別の話にしてしまう。

私を俎上に載せると、大学教授で、哲学科で教鞭を取っている。現キャリアを達するのに、論理学、議論分析学、確率論を学び、教えてきた。気質の一端は合理主義だとは自覚している。小学校の3年頃には、同級生たちに『ミスター・スポック3 』と呼ばれ始めた。以後、チェスクラブに入った後、コンピュータープログラムを行い、最終的には論理学と哲学にたどり着いた。『認知バイアス』についての心理学の文献を幅広く読んできてもいる。『確証バイアス』とは何であるのかとか、『確証バイアス』がどのようにして特徴的に具現化するのか、といった事例は十分に見知っているつもりだった。もっとも、何年か前のある日、『確証バイアス』について調べるテストを受けたことで、自身も最も初歩的な罠にハマっている事に気づいてしまったのだ。以下は、人間の合理的能力を混乱させるようなテスト問題を生み出す天才、ピーター・ウェイソンによって創られたテストである。

試験官:これから、連続した3つの数字を示します。数字を生成したルールを推測してみてください。答えを決める前に、あなたは3度、私に質問することが可能です。質問は以下に限定することとします。あなたは3つの数字を示して、私はその示した数字が、ルールに合っているかどうか返答します。

私:了解した。面白そうだ。すっごく得意だったマスターマインド4 にちょっと似てるね。

試験官:では、組み合わせは2、4、6です。

私:わぉ、簡単そうじゃん。ウォーミングアップってことかな。ってことで、6、8、10はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:うーむ、了解。22、24、26はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:了解。バカバカしい。もう最後の質問は必要なさそうだが、一応、100、102、104は?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:よっしゃ! ルールは「3つの偶数数字の昇り順並び」だね。

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:聞き間違い? もう一度言ってくれ!

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:いったい何が正しいルールなんだ?

試験官:ルールは「昇り順のあらゆる3つの数字」です。

私:3、5、7でも、ルールを満たすと言いたいのか?

試験官:はい。

私:2、67、428でもルールを満たしている?

試験官:はい。

私:オーマイガー! 俺ってバカじゃん。

以上によって、私は『確証バイアス』を真剣に捉えねばならないと教訓を得ることになった。仮説を立て、それを定量化することを求められた時、私は、最初に見出したパターンに即座に飛びつき、自説を補強するような証拠ばかり目に付くようになった。一方で、反証の試みを完全に失念していたのだ。一度でも『偶数の並び』が脳裏に定着してしまうと、『奇数の並び』を、[試験官に]提示して「いいえ」の答えを引き出す事[で自説の『偶数並び』を補強する事]を、まったく思い付かなくなってしまったのだ。「否定事実を考える」ことに完全に失敗した次第である。事実、3度目の質問を問う前に、一瞬戸惑ったのをハッキリ覚えている。「聞かねばならない別の質問があるのでは?」ではなく、「有用な全質問」をもう使い切ってしまった、と考えて戸惑ってしまったのだ。私を少なからずの困惑に陥れたのは、たった1、2回で十分なのに、なぜ質問の機会を3度与えられのだろう、と考えてしまった事だった。

確証バイアスを調べるこのテストにおいて、特徴的要素として見出されているのが、単に「人は願望に沿って考えてしまう」といった事実以上の、人の認知過程である。人は、自身のお気に入りの考えを補強する証拠だけを見出してしまうとか、信じたいものだけを見てしまう、といった話はお馴染みだ。しかし、以上実験が示しているケースは、私が最初の仮説を発見するのに、いっさいの先入観を必要としなかった事にある。我々の合理的思考には、単純にして巨大な盲点が存在するのだ。私の「6、8、10」というルール推測の提示に、試験官は「はい」と回答している。この回答は、私が提示した仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を補強することになっている。ここで問題になるのは、「試験官の『はい』」は、[私が提示しなかった]別の多くの仮説も補強しているのだ。私の仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を確定させるには、「別の多くの仮説」がルールに不適合であることを示さねばならない。そして、私は失敗に至った。酷い、呆れ返るような失敗を犯している。これは、人々が、リュウ女史の奇跡的な回復を、法輪功の神聖な力によるものと信じてしまう問題ととまったく同じである。

この事を考えると、我々の直感的判断がなぜ事象の正確な認識に失敗してしまうのかが、容易に分かるだろう。人の瞬間的な認知が、特に得意にしているものの一つが、パターンの再認識能力だ。チェスのグランドマスターや、経験豊富な医師や、ベテランの消防士を際立たせているものが、このパターンの再認識能力である。彼らは凡人には見ることができない過去に見たパターンを即座に再発見することができる。不幸なことに人間の脳は、過去に見たパターンの再発見を行うように非常に活性化されている。脳は、何も存在しない様な状況でも、そこにパターンを見てしまう傾向を持っているのだ。この傾向が病的な領域にまで至れば、『アポフェニア5 』と呼ばれることになる。しかし人間の水面下を統べる思考の傾向としては、この傾向はいたるところに存在しているのだ。たとえば、ほとんどの人は、ランダムなコイン投げやサイコロ転がしを見せられた時、「これはランダムでない――なぜなら非常に多くの『連続』が含まれているからだ」と強く主張することになる。アップルは、アイポッドの『シャフル機能』について、「『ランダムな順番』であるべきなのに特定のアーティストをえこひいきしている」と主張するユーザーによる、偏執的な不満を大量に受けることになった。

人は一般的に『ランダム』について、直感的な理解を欠いているので、ありそうにない『偶然の一致』に遭遇することで、常々驚かされることになる。心理学者達の何人かが示唆しているのが、自然環境において純粋なランダム事象の発生はあまり一般的でないため、人間はこの『ランダム事象』を見出す能力を得る利益を特に必要としなかった、故にこの能力は発達しなかった、という説である。よりありえる端的な説明が、『間違えた肯定(存在しない事実を、存在すると考えてしまうパターン)』は、『間違えた否定(存在する事実を、存在しないと考えてしまうパターン)』より、進化的コストが格段に低い可能性である。そうつまり、自然選択は、[過去に見た]パターンへ非常に高い感受性を発揮する一方で、[見たことがないパターンの発見へは]とりわけ低く特化することになる認識システムを、選好してきたことになる。[サバンナ地方等でサーバルのような]捕食動物に襲われ[「た、たべないでくださいー」と逃げ]る可能性がある環境においては、草木がガサガサ動くような事ですら潜在的脅威として扱う[進化的な]対価を支払うようになる。何もないのに、『おびえて』逃げ出すようになる[進化的]コストは、なにがしかの明らかな[危険的]徴候を無視して八つ裂きにされることより、非常に安価なのだ。なので、我々は、なんらかのパターンを見ると、非常な興奮状態に陥る傾向にある。「自分は間違えているかもしれない」と考えるのは、自然に浮かぶ思考ではない。それは、自動制御的な認識システムを、理性によって解除し手動制御に強制移行する行為なのだ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:カナダの心理学者。邦訳に『心は遺伝子の論理で決まるのか』等がある []
  2. 訳注:行動心理学者。2002年にノーベル経済学賞を受賞している。 []
  3. 訳注:SFテレビドラマ『スタートレック』に登場する、合理的思考が特徴の戦艦の副長。「船長、それは非論理的です」が口癖。 []
  4. 訳注:出題者によって隠されたピンの色を推理によって当てるボードゲーム、 []
  5. 訳注:無作為や無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出してしまう知覚作用を指す、心理学用語。 []

ジョセフ・ヒース 「『じぶん学』の問題」(2015年5月30日)

The problem of “me” studies

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大学での「ポリティカル・コレクトネス」の問題についていろいろ言うジャーナリストがたくさんいるのだが、言っていることはたいてい古臭いか、どこか的外れに思われるものばかりだ。私が自分が見るところ、ポリティカル・コレクトネスの盛り上がりは90年代初頭に最高水位に達したが、そのあとはずっと凋落傾向にある(少なくとも教員の間での話で学生については別の問題だ)。この認知相違の一因は、不正確な語法にありそうだ。大学外の人々はポリティカル・コレクトネスという言葉の下にたくさんの別のものをまとめてしまうのだが、大学ではそれぞれ別の言葉が使われている。今日ここで書きたいのは、しばしばポリティカル・コレクトネスとされてしまうがる、正確には「“じぶん”学」の問題として知られている、ある困った状況、傾向についてだ。

まず、ポリティカル・コレクトネスが凋落傾向にあるとはどういうことのが説明が要るだろう。ジャーナリストがこれを口にするときにたいてい思い描いているのは、あの古臭い「言葉狩り」だ。もちろん、いまだに大学でこれが発生していることは認めざるを得ない。先日も大学のある人が、私が出した本のカバーに書かれた「この二十年で、西側諸国の政治システムはますます分断されつつある。右と左にではなく、気違いと非気違いに」という文に異議を挟んできた。「気違い」という言葉を使うことを非難するのだ。明らかにこれは「差別」だから。

つまり、そういうことは今もある。ただ、それはもはや深刻な問題とは受け取られていないのだ。この種の言葉狩りは大学ではバカバカしいネタで、誰もがそれをどうやればいいか知っていて、しかも、学部を終える頃までには卒業するものだ。いろいろな人がいる集団の中でこのような言葉を使えば周囲は呆れて目を回す。そんなことをすれば「お仲間」以外の人たちからは話をまともに扱ってはもらえなくなる、ということに普通はなっている。。

他方、もっと深い問題がしっかり残っている。「“じぶん”学」と呼ばれる現象だ。学生に対し私たちはしょっちゅうこう言う。「長い目で成功するためには、自分が深い興味を持つことができ真に情熱を持てるテーマを選ぶことだ。」当然ながら一番情熱と関心を持てるテーマとは・・・まさに自分自身、となる。この瞬間に地上で起こってい事柄の中で自分の生活こそが最も興味を惹かれるものだと考えるのは圧倒的で当たり前の傾向だ。人生は自分のためのものなのだから!

というわけで「自分の情熱に従いなさい」という助言に従い、本質的に自分自身についてのテーマからの招待に応じる人々がいる。一例として、モントリオールで人類学を学んでいた私の古い友人の修士論文なのだが、タイトルを正確には思い出せないが、確か「モントリオールのプラト―地区におけるケベック人-ユダヤ人カップルの違いの埋め方」というようなものだった。彼女は当時ユダヤ人若者と一緒に、ご想像通り、プラトー地区に住んでいた。そう、彼女の修士論文のテーマは自分の関係性に関する問題だった。この例は、クラシックな 「“じぶん”学」。

今の例は、害はないが、少し歪んだものではある。なぜなら、基本的に人文学の広い意味での目的を転倒させている。人文学の本来の目的は、歴史的また文化的にすさまじいまでに多様な形をとる人間経験というものについての理解を深めることだ。基本的に、異なる人々は異なるやり方で世界を理解し評価しているということを深く理解するためだ。それゆえ自分自身を研究することに時間をかけることは、ある意味専門知識としては良くないということになる。もちろん全ての人がよい専門知識を持たなければならないということでもない。

ただ「“じぶん”学」は、「自分自身そのもの」ではなく「自分が抑圧されているもの」を学ぼうとする場合に、問題をはらむものになりやすい。もちろん抑圧自体は完全に正当な探求テーマであり、形態も多様がある。実際、20世紀を通して私たちが消し去ろうとした様々な社会的不公平は、その努力もむなしく、非常に御しがたいものだとわかっただけに過ぎない。

なにしろ、不公平の除去がどうしてこんななのかを理由を示すことだけでも驚異的にチャレンジングな冒険だ。(一例として、男女の給与格差を挙げる。この格差がどうして生まれるのかは全くわかっていないし、これまでに明らかになっている諸理論も問題全体の断片に過ぎないということは少し論文に当たるだけでわかるだろう。解決が待たれる社会科学上の重要問題が居座っている。)

それにしても、多様な形をとる抑圧というものを学ぶのに最もふさわしいのはどのような人だろうか。立ち止まって考えてみるとこの問題の扱いはむつかしい。いちばんふさわしい位置にいるのは実際に抑圧されているに人だろうか、それともそうでない人だろうか。どちらも理想的とは言えない。理論構築のどこかの水準で自己利益か自己弁護のどちらかのバイアスがかかるだろうからだ。

これに対しては、たくさんの人が同じ問題を研究しロバストなディベートを積み重ねればバイアスは修正されていくだろう、という議論がある。しかし残念ながら、実際にはなかなかそうはならないのだ。抑圧についてはの学問は、その抑圧に関連する苦しみを負った人ばかりを過剰なまでに惹きつけてしまう面がある。 そもそも「“じぶん”学」は個人的な野心や不満に訴えかけるものであるから、そういう人はそこに強い関心を持っている。このことは、べつだんこの抑圧を受けていない人たちを締め出す力学を生み出す。

学問の質という面で、これでは悲惨なことになる。「批判研究」といったものを専門にしている人が、批判的な思索からは驚くほど遠い人だったという経験をしたことがこれまで何回あったかわからない。彼らには、批判的な思索にとって最重要なスキルであるところの「自己批判」、自分の見方に疑問を持ったり自分のバイアスを修正したりする技術が欠落している。彼らがそうなるのは、自分の見方を深刻に揺るがす挑戦を受けた経験がないからだ。(最初から自己批判に長けた人はいない。上達のためのたった一つの方法とは、自分に賛成しない他人からの挑戦を受けることだ。)

ある研究対象が研究者自身のかかわる抑圧で、同時にその研究者が抑圧される側に属していることがはっきりわかっているようなとき、同情はするけれど意見には賛成しない人たちは挑戦してこない。そういう問題だ。挑戦することにより、同情していないかのように見えてしまうことを避けるからだ。そして特にあなたに同情しない多くの人々もまた、何も言わないだろう。彼らだって同情していないことをわざわざ示そうとは思わない。かくして、聞こえてくる意見は次の二種類の人々からだけということになっていく。一つはあなたに同情し、かつ、あなた以上にラジカルなスタンスな人たち。もう一つは非同情的で、同時に、どういうわけか他人にどう思われるかを気にしない人たちだ。

これについて私は下のようなイメージを持っている。まず、人をその抑圧を悪いと考える人とそうでない人のグループに分ける。不公平かもしれないが人間性というものに敬意を表して、前者の方が多いとしよう。さらに、同情的かどうかと、その抑圧に対してどのような態度を採るかの基準を考えよう。まず、ラジカルで極端な見方を持つ人がいるだろう(例えば、この問題を改善するために社会秩序のすべてをひっくり返せば良いと考える)。中庸の人もいて、保守的な人(改善策はほとんどないし、改善の試みがかえって状況を悪くしかねないと考える)もいるだろう。

無題J

あなたのポジションは「中庸」と「ラディカル」の間の位置だとして、自分の見解についてプレゼンするとする。挑戦してくるのは誰だろうか。それは基本的にあなたよりよりもラディカルな見方をする左側の人たちと、はるか遠くの右端にいる人たちだろう。前者は、発言があなたに同情的ではないと受け取られられてしまうという心配がないゆえに自説を主張する。後者は、まさに同情的ではないゆえに、また、周囲にそう受け取られることも気にしないがゆえに。

実際、プレゼンの質問時間が次のようになったのにを何回立ち会わされたからわからない。プレゼンで発表者が大多数の人々の考えは間違った方向を向いているという見方を示していた。次のようなことは誰も言おうと思わない。「その指摘に意味があるとは思えない」、「その主張の根拠を言っていないようだが」、「その政治的提言は利己的すぎる」、というような。他方、出てくる質問は次のような二種類の質問だけだ。「その分析はで、本当に社会的開放の実践に繋がっていくのかが心配だ」(つまり「あなたは左翼として甘い」)というタイプ。もう一つ、「あなたたちはいつだって自分の問題の不平をいう」(つまり「自分は無神経な “jerk” だ」)というタイプ。

そして、多くの人はプレゼンの後、会場の外で本当はどう考えるかを語る。さまざまな形の理性的な批評は全部ここでなされるだろう。もしプレゼン者が彼らと交流していたら真に有意義なものになったであろうような指摘がなされるだろう。というわけで、「“じぶん”学」の実践者は基本的に両極端の人々からだけしか真摯なフィードバックを得られないので、研究の質の向上という意味において、初めから巨大なハンディキャップがある。

さらに悪いことに、上のシナリオと同じ出来事が繰り返されることにより、議論はますますねじ曲がっていく。何故か。プレゼンターの右側に位置する人のうち大声で発言しようとするのが、言ってみれば、プレゼンターから見て道義的に間違っている見方をする人々のみだ。するとプレゼンターは「自分に賛成しない人たちは全員が道徳的に怪しい」と感じるようになりがちになる。つまり 「“じぶん”学」の実践者から見て、「自分に賛成しない人々」と「道徳的に非難されるべき見方をしている人たち」とが強く相関しているように感じられる。こうして、理性的な不同意が存在する可能性を簡単に見失ってしまう。ここで理性的な不同意とは、道徳的信念をおおむね共有しつつも、すべきことは何か、また改善のために必要な正義は何かという点では賛成でなかったり、その問題は道徳とは関係ないプラクティカルなものだと考えていたりすることだ。

以上のメカニズムは、どうしてあれほど多くの「“じぶん”学」実践者たちが、リアクションに対しあれほどまでに応報的に対応するようになったかをかなり説明できているだろう。彼らは、自分の見解に対する「すべての」批評が、道徳的に疑問がある動機からなされていると考え始める。これはポリティカル・コレクトネスと呼ばれているところの、はっきり言えば、全ての反論を教化しようとする傾向となり、知的な批判にも知的には対応せず、ただ応戦するようになる。

こうして全ては悪循環になる。どんな批評に対しても激怒するものだから、同情的な批評はますます得られなくなってしまい、 コメントはとうとう”jerk” か極端な左翼からのものだけになる。こうして反論への応戦という対応を生み出した認知がさらに強化されるというわけだ。そうなると救いようがなくなる。

学問の世界にいて30年、この力学の具体例を数ダースは挙げることができる。問題に嵌ってしまった人たち。ちょくちょく話題になるようにはなったが、誰も大衆に問いかけようとは思わないような変な考え方。この特殊世界の人々は、私に対しても怒りを向けるようになる。これに対し私はいつも黙るだけだ。私が何を考えているかを知りたいならば質問すれば良い。彼らから質問されたことは一度もないけれども。

ジョセフ・ヒース『私の考えを一変させるに至った10冊』(2015年7月5日)

10 books that blew my mind
Posted by Joseph Heath on July 5, 2015 | education

今現在、個人的には完全に真夏モードに入っているので、しばらくブログのエントリは軽い内容が増える予定だ。この機会に、過去に幾人かから寄せられてきた質問への返答を投稿しておこう。ということで、このエントリ、私の物事への見方に強い影響力を与えた(あるいは、私の思考を根源レベルで変更するに至ったり、私の卑小な考えを一変させたような)書籍10冊を挙げさせてもらっている。10冊からは古典を除いているので、全て第二次世界大戦終結以後に出版された書籍となっている。

1.ユルゲン・ハーバーマス晩期資本主義における正統化の諸問題』1973年

2.ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論』1978年

3.タルコット・パーソンズ社会体系論』1951年

4.デイヴィド・ゴティエ合意による道徳』1986年

5.ジョン・ローマー “A General Theory of Exploitation and Class”『搾取および階級の一般理論』1982年 ※未訳

6.ロバート・ブランダム “Making it Explicit”『事象を明示化する』1994年 ※未訳

7.ロバート・ボイド&ピーター・リチャーソン1  “Culture and the Evolutionary Process”『文化と進化の過程』1985年 ※未訳

8.フランソワ・エワルド2  “L’etat providence”『福祉国家』1986年 ※未訳

9.トーマス・フランク3  “The Conquest of Cool”『クールの征服』1996年 ※未訳

10.ジョージ・エインズリー4誘惑される意志』1992年

以上リストは、私が読んだ時系列順である。私の哲学的見解は、これらの書籍の内容の総和によって形成されていると常々感じている。なので、この10冊を読めば、私が強く抱いている関心と、それについて言わんとすることを推察できるようになるはずだ。今のところ、世界中を見渡しても、ここで挙げた10冊を全て読み込んでる人はいないようなので、これ幸いなことに、独自性を打ち出すことにも成功しているかもしれない。

因みに、この10冊、どれも『簡単』に読める本ではないので、夏休みの読書リストにするのはお勧めはしかねる。これらのうち何冊かは、私個人も文字通り何年もかけて読んだ(一部は理解に副読本を要するような)書籍となっている。なので、私個人としては、これらを全て、ないし何冊かを読むことを強く推奨したい。一方で、ノンアカデミシャンには理解が非常に難しい本でもあるので、世間様にお見せするのには、適切でないリストになっているかもしれない。

(最後に、もし古典をリストに追加して良い場合は、カントの『純粋理性批判』『実践理性批判』、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』、ホッブズの『リヴァイアサン』である。)

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:邦訳がない書籍は、原題の直後に訳者による便宜上の邦題を追加している。
※訳注:タイトル直下の年代は、原書の出版年である。
※訳注:日本語版のウィキペディアに項目がある著者は、ウィキペディアへのリンクを貼ることで書籍の著者の紹介を割愛している。

  1. 訳注:ボイド(1948-)は進化人類学者。リチャーソン(1943-)は集団生物学者。共著を多く出している。人間社会は、遺伝子淘汰と、文化等のミームによる淘汰の相互作用によって形成されているとの『二重相続理論』と呼ばれる理論の代表的な提唱者 []
  2. 訳注:1946年生まれのフランスの歴史学者であり哲学者。福祉政策と国家の関係についての研究で有名。1976-1984年までミシェル・フーコーのアシスタントを努め、フーコーの著作の編集等を行っている。フーコーの正統な後継者と看做されるいる。 []
  3. 訳注:1965年生まれのジャーナリスト。主にハーパーズ・マガジンで、政治や主流文化の分析記事を執筆している。 []
  4. 訳注:行動心理学者。テンプル大学教授。『双曲割引』の研究で有名。 []

ジョセフ・ヒース「ナオミ・クラインの気候問題論」(2015年3月6日)

Joseph Heath, “Naomi Klein: This Changes Everything“,  In Due Course, March 6, 2015.

(…前略…)

私のブログの読者であれば知っているかもしれないが、アンドリュー・ポッターとの共著『反逆の神話』を出版して以来の10年以上にわたって、私はナオミ・クラインに対して実に一方的な議論を行ってきた(ただし、『反逆の神話』ではクラインを批判するのに5ページかそこらしか割いていない。その批判は、『ブランドなんか、いらない』への”返答”であると多くの人から思われた)。クラインが書くような本をカナダの他の人々が書いてしまうことを阻止しようとするために、人生のうちのかなりの年数を費やしてしまったことは自分でも認めざるをえない。クラインの新刊『すべてを変える物語』がベストセラーになっているという事実は、結果として、私の人生の中でも重要なプロジェクトの一つが失敗してしまったということを本質的に表しているだろう。このため、『すべてを変える物語』を分析するうえで私情を挟まないようにするのは私にとってはかなり難しいことになる。

また、この10年で何か発見したことがあるとすれば、それはナオミ・クラインを批判することはJ・K・ローリングを批判するのと同じようなことであるという事実だ。たとえあなたが正かったとしても、あなたが言うことは何一つ世界の軌道を変えない。 …すべての物事は、あなたが存在していなかったり何も書かなかったりした場合とまったく同じように展開し続けるのだ。

では、本筋を見失わないために焦点をきわめて狭く定めて、『すべてを変える物語』で提起された問題のなかでも中心的な主張に密接に関連した一つの問題だけを取り上げることにしたい。残念なことに、『すべてを変える物語』の主張を正確に見極めることは、本の副題(「資本主義 vs 気候問題」)が示唆しているほど簡単にはいかない。彼女が以前から用いているレトリックと同じように、この副題は、資本主義的な経済システムを維持しつつ気候変動の問題を解決する方法は存在しないとクラインは論じるつもりであるかのように思わせる。つまり、ジョエル・コヴェルが2007年の著書『エコ社会主義とは何か(自然の敵:資本主義の終焉か、世界の終焉か?)』で行ったのと同じような主張をクラインも行おうとしているのだとこの副題は思わせるのだ。しかしながら、実際にはクラインはそれを主張していない。彼女は市場を撤廃したいと思っていないし、利益追求的な企業を撤廃したいとすら思っていないのだ(本の中のある箇所では、彼女は「無炭素経済においても利益を挙げられる余地は充分に存在している」[252]と言い切っている)。

さらに、クラインが「資本主義 vs 気候問題」の争いを描写する時、彼女は「気候問題」に対して厳密に「資本主義」を対立させることを決してしない。クラインはこんなことを言う:「今こそ、この現状を引っ繰り返すべき時である。それは可能なのか?全くもって可能だ。だが、規制の無い資本主義の根本的な論理に対して挑戦せずにそれを行うことは可能なのか?その場合には全く望みは無い」[24]。あるいは、「束縛の無い資本主義に対抗するための最も強力な議論を、気候科学は彼らにもたらしたこと」[157]を理解していない「大半の左派やリベラル」を彼女は批判する。しかし、言うまでもなく、「規制の無い資本主義」や「束縛の無い資本主義」や「自由市場原理主義」は、資本主義そのものと同一ではない。そして、市場に対する何らかの規制を実施しなくても気候変動の問題を解決することはできる、と考えている左派やリベラルや環境主義者を見つけ出すのは相当難しいだろう。残念なことに、気候危機を解決するためには市場に対する制限が求められるという実に明白で議論の余地がない主張と気候を救うためには資本主義の撤廃が求められるという全くもって明白でなくかなりの議論を呼ぶであろう主張との混同が、『すべてを変える物語』全編を通じて莫大な数で存在しているのだ。

では、クラインは何を論じているのか?彼女はどのような肯定的な主張を行っているかは見極めるのが難しい一方で、クラインは一つの否定的な主張を明確に行っている。標準的な方策は資本主義システムの枠内で気候問題を解決しようとするがそれは機能しないのであり、そのため、問題を解決するためには私たちの経済的組織のパターンの根本的な構造変革を熟考しなければならない、と彼女は論じているのだ。したがって、気候変動は「社会主義者の陰謀」だと主張したり左派に対する「宇宙からの贈り物」だと主張する極右の方が主流派の左派よりも気候問題に関して正しい理解を抱いているのだ[43]、とクラインは繰り返し論じる。…なので、以下で私が行う議論では、資本主義を超えた次の世界はどのようなものになるであろうかということについてのクラインの見積りには焦点を当てずに、なぜ彼女は資本主義経済の枠内で気候危機を解決しようとする標準的な方策を否定するのか、ということについて焦点を当てることにする。特に、クラインはなぜ炭素価格付けを否定するのか、ということを取り上げよう(彼女が炭素価格付けを否定したことは、一部の人々に不愉快な驚きを与えたものだ)。

比較的狭い範囲に議論の焦点を当てるということもあり、『すべてを変える物語』の中でも最も議論の的となる箇所である第一部について主に論じることにしよう(第二部以降には、この本は基本的には気候変動版『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』になってしまう。つまり、『すべてを変える物語』の後半250ページかそこらの内の大半はレポタージュであり、彼女は世界を飛び回って、近年に抵抗運動が行われた場所を訪れて、抗議運動家たちの英雄性や警察の横暴や企業の不誠実さを読者に報告する。この種の文章はクラインが最も得意とするものであるし、彼女が本の後半部分で示していることの大半は、議論の的にもならなければ大した驚きもないことである。経営者のリーチャド・ブランソンは信用に値しない人物であり、遺伝子工学は危険であり、農家の人々は自分たちの土地の下をパイプラインが通ることを好まない、などなどのことを読者は知らされる。後半部分の文章には議論は大して含まれていないし、その大半は、価値のある目標に向けて行動するように人々を奮い立たせたり既に行動を開始している人をさらに励ますという目的のために書かれているように思える)。

後半に比べて議論の的となる第一部について論じるうえで、『すべてを変える物語』が参入しているのは既に多くの人々が議論を行っている分野である、ということは記しておくべきだろう。『すべてを変える物語』は、本質的には政策に関する議論への貢献を行おうとしているのであり、広い意味では科学的事実を所与の前提として扱い、「私たちは何をするべきであるか?」という問題に対して答えを出そうとしている本なのだ。気候変動の問題は20年以上にわたって論じれられてきたので、この分野の議論は既に成熟している。主張し得る主要な立場はすべて主張されてきたし、全ての立場の人々は相手側の立場の人々が行う議論についてもかなり精通している。つまり、環境主義者たちの間の”主流派”な見解は既に登場しているのであり、仮にその見解は気候政策に関する合意を反映していないとしても、少なくとも多数派の意見は反映されているのだ。この見解は、炭素価格付けの適切なシステムが必要である、と主張している。そして、これこそがクラインの否定する見解であるのだ(実際、彼女は本の中の様々な箇所でこの主流派の見解を積極的に貶している。たとえば、「最小限の炭素税を求めて闘うことは、たとえば最低限所得保証を求めるための同盟を結成することなどに比べて、ずっと少ない成果しかもたらさないだろう」[461])。

主流派の環境主義的見解に挑戦する議論は『すべてを変える物語』以前にも行われてきた。たとえば、以前には標準的な見解では炭素税はCO2排出1トン当たり30ドル前後であるべきだとされていた。(英国のブレア政権に委嘱された)気候変動の経済学に関するスターン報告がやがて発表されたが、その報告は炭素税は1トン当たり30ドル前後ではなく300ドルに近付けるべきだと論じていた。そして、スターン報告は明らかに多くの人々の注目を集めた。従来の見解を支持していた人は、「何が違うんだ?スターンの議論の基となっている事実は他の全ての議論の基となっている事実と同じはずなのに、どのようにして彼はここまで過激に異なる結論に辿り着いたんだ?」という疑問に集中しながら700ページもの報告書に目を通した。スターンが主流派の見解とこれ程までに異なる結論に辿り着いたからには、彼の分析には他の人々の分析とは異なる何かが含まれているはずだった…予測のシステムが異なるか、経済成長のモデルが異なるか、また別の何かがことなるのか。やがて、核心的な違いがあることが明らかになった。スターンは、現在のコストと将来のコストとの間にバランスを付ける(将来のコストを割り引く)という標準的なアプローチを拒否していたのだった。このことが、標準的な見解とスターンの見解との違いを説明するものだった。結果として、問題に対する正しいアプローチとは何であるかということについてのとても生産的な議論をスターン報告はもたらしたのであった。

さて、私には『すべてを変える物語』にも同様のアプローチがされるべきであるように思える。大半の人々は現状を見て「炭素価格付けが必要だ」と言う。クラインは現状を見て「すべてを変えることが必要だ」と言う(または「資本主義を劇的に再構築する必要がある」とかそんなことを言う)。では、クラインはどのようにしてその結論に辿り着いたのか?彼女が物事について分析する方法と他の人々が分析する方法との間のどんな違いが、これ程までに異なる政策方針を説明することができるのだろうか?

告白すれば、当初は「どうせクラインの議論には違いなんて存在しないだろう」という疑いを私は抱いていた。単に、クラインはかつてラリー・サマーズが「現在はこれまで以上に…」主義と呼んだケースの中でも強烈なものに捉われているだけだと思っていたのだ。

「現在はこれまで以上に…」主義は以下のようにはたらく:

1・あなたには、どんな時にでもどんな状況であっても支持するお気に入りの一連の政策が存在している。減税、規制撤廃、石油をどんどん掘る、などなど。

2・あなたは、解決される必要のある何らかの問題を発見する(経済停滞など)。

3・あなたは「現在はこれまで以上に私のお気に入りの政策が実行される必要がある」と言う。

クラインが主張していることのいくつかは、「現在はこれまで以上に…」主義の印象を強くさせる。気候変動の問題についてこれまでよりも真剣に捉えて深くその問題について考え始めるようになってからも、そのことは彼女の意見に何も変化を起こさなかった、ということはクライン自身が認めている。むしろ、気候変動の問題はそれ以前から彼女が常に抱いていた信念をさらに強くさせたのであった[7]。「私は気候変動の問題についてより深く関わることへと邁進していった。その理由の一部は、気候変動の問題に関わることは私が常々信じてきた種類の社会正義や経済正義を刺激付けることになるという可能性を発見したからだ」[59]。本の中で彼女が主張している物事はそれ以前から彼女が主張し続けていた物事と全く同じであるという主張は、『すべてを変える物語』の陰謀論的な特徴を表してもいるだろう。

さて、これは物事を考える方法として望ましいものではないということは明らかであるし、彼女の主張の全ては確証バイアスを巨大に延長したものに過ぎないのではないかという疑いも生じる(私自身が辿ってきた経験はクラインのそれとはかなり異なるものだ。たとえば、費用対効果分析に基づいて政策を決定することについて、私はかなり辛辣に批判していた。しかし、気候変動の問題について真剣に考えることは、自分の主張を和らげてやがては渋々ながらも費用対効果分析を擁護することへと私を導いた要素のうちの一つだ。私の意見の詳細はこちら)。ともかく、『すべてを変える物語』は知的なインテリアや政治的ご都合主義ではないということにしておいて、この本の中で書かれていることについて見てみよう。具体的な変革ということについては、自分が望んでいることはGDPに占める公的支出の割合が拡大すること[92]、または彼女が言うところの「ケア的な経済が発展して、ケア的でない経済が縮小すること」[93]であると、クラインははっきり書いている。具体的には以下の通りだ。

 

低炭素な選択を行うことを誰にとっても簡単で手軽なものとする包括的な政策とプログラムが必要とされるだろう…。それは、安価な公共交通手段やクリーンな路面電車に誰もがアクセスできるようにすることを意味する。また、手頃な価格でありエネルギー効率が高い住宅が線路沿いに建てられることや、人口密度の高い生活に適するように計画された都市や、自転車で通っている人たちが仕事に行くたびに生命の危険を冒さなくても済むようにするための自転車専用車線や、無計画な農業の拡大を防いでローカルで低エネルギーな農業を推奨するための土地マネジメントや、交通ルートに沿っており歩行者フレンドリーでもあるエリアに学校や医療といった必要不可欠なサービスを集める都市デザインや、自分たちが電気を無駄にすることについて自身で責任を負うことを製造業者たちに要請するプログラムや、そして既存の状態に含まれている余剰や老朽化などを劇的に削減することなどを意味するのだ。[91]

 

要するに、クラインはカナダがもっとオランダのようになることを望んでいるのだ。それは構わないが、しかしオランダはかなり資本主義的な経済の国であるし、GDPにおいて政府支出が占める割合もカナダに比べて5%ほどしか高くない。では、なぜオランダの都市環境や交通システムはこれ程までにカナダと違っているのだろうか?その理由の大部分は、オランダでは燃料とエネルギーの値段が高いことにある(ガソリンと電気の両方の値段が、カナダのそれの約二倍であるのだ)。ガソンリの値段が高いことは人々が車を運転することを抑制させて、交通機関や自転車専用車線や歩行者フレンドリーなエリアへの需要を生み出したのだ。同じように、電気料金の値段の高さは電気効率が良い住宅への需要を作り出した。エネルギーの価格こそが、現在のオランダで主流となっている都市計画を生み出したのだ(あなたは都市環境について好き勝手に"計画"することはできるが、あなたが建ててている人口密度の高い住宅地に住みたいと思う人々が実際にいない限りは、その住宅地は空き家のままだ。そのような住宅地がオランダ人たちにとって魅力的に思えるのは、他の選択肢が魅力的でないからである。その理由の大部分はコストに由来している)。

経済を通じて価格が人々の行動に与える影響をふまえれば、価格をコントロールすることは政府が実施できる中でも最も強力な政策手段であることは明白だ。したがって、クラインがお気に入りリストに挙げているような環境を実現するためには、政府は化石燃料の消費によって発生する炭素の外部性に対してキャップ・アンド・トレード制度か炭素税かによって価格を付け始めるべきである、という結論が自然に導かれるはずだろう。しかし、それはクラインが支持している手段ではない。驚く程に強力なこの政治手段に我々が手を付けないことを彼女は望んでいるのであり、その代わりに、トップダウンな計画とコントロールだけによって目標を達成しようと試みることをクラインは望んでいるのだ(テクノロジーに任せることなど)。政府は価格を調整することではなく「計画と禁止」を行うことに力を入れるべきだ、と彼女は考えているのである。

クラインが辿り着いた立場は私からするとかなり奇妙なものであるように思えるし、率直に言えばあまりよく考えられていないものであるように思える。たとえば、天然ガスはそれ以上に炭素集約型の化石燃料から離れるための「架け橋」として機能するかもしれないという発想に含まれる問題の一つは、天然ガスは比較的安価であるために、それは石油や石炭だけでなく太陽光や風力などの再生可能エネルギーまで締め出してしまうことである…と彼女は論じている[128-129]。そして、このような事態が発生することを防ぐための複雑な規制構造計画を彼女は描いてみせる[129]。だが、言うまでもなく、天然ガスが化石燃料と再生可能エネルギーの両方を追いやってしまうのは炭素に対する価格付けが不在であるからだ。大規模な炭素税が実施されることは、石炭と石油のコストを劇的に増加させる一方で再生可能エネルギーの相対的なコストを低減させる。天然ガスは化石燃料と再生可能エネルギーとの間のどこかに収まるだろうし、再生可能エネルギーを締め出すこともない。エネルギーの価格の安さはそのエネルギーのクリーンさを反映することになるからだ。つまり、クラインが(少なくとも言外に)描いている世界とは、現在と同じように石油製品や石炭由来の電気が異常に安いままであるが、それらを使用することは禁止されているか規制によって厳密にコントロールされているという世界である。ここで生じる最大の疑問は「なぜだ?」という単縦なものだ。「そんなに非合理的なことを実行するための理由がまさか存在するというのだろうか?」。

考えられる説明の一つは、クラインは経済的インセンティブが持つ力を信じていないということであり、炭素の価格に対して人々は適切な反応をしないだろうと彼女が考えているということである。(実に奇妙なことだが、このような議論が真剣に主張されたのを私が聞いたことのある唯一の機会は、カナダのエネルギー企業であるサンコー・エナジーの代表者からこの議論を聞かされた時だ。炭素税の問題とはそれが機能しないことであり、「ガスの値段が上がったからといって、人々は車を運転する量を変えやしない」と彼は私に言ったのだ。もしそれが真実であれば資本主義そのものが機能していないだろう、と私は彼に伝えた。私はそれを彼の主張に対する反証として示したのだが、しかし、資本主義は機能していないはずだというのはまさにクラインの意見の特徴であるので、このことも彼女にとっては大した反証にならないのだろう)。

クラインの主張に対するこの解釈は、炭素税は『すべてを変える物語』全体を通じて二度しか言及されておらず、どちらの場合にも炭素税は化石燃料の消費を抑制させる手段ではなく国の歳入を発生させるメカニズムとして書かれている(114,400)という事実によって補強されている。このことは、税がもたらすであろうインセンティブ効果をクラインが軽視しているという可能性を示唆する(「パイプラインに対する一度きりの投資」とは違って炭素税は歳入を毎年上げ続けるだろう[400]と彼女が論じているのを見ると、疑惑はさらに深まる。炭素税のポイントは炭素の消費を抑制させることにあるのだから、歳入は上がるのではなくむしろ急激に下がり続けることが予測されるのであり、彼女はかなり妙なことを主張しているのだ)。また、クラインは「控えめな炭素価格付け」(87)や「穏やかな」経済的インセンティブの非効率性に関する軽蔑を様々に示しているが、そこでは彼女は炭素税はきわめて低い税率に設定されるであろうと(なんの証拠も示さずに)決めかかっている。だが、スターン報告が示したように、政策についての近年の議論には大規模な炭素税の実施を主張している数多くのとても真剣な人たちが参加しているのだ。クラインが主張しているような大規模な変革を実施できる程の権力と権限を持っている政府であれば炭素税も好きなように設定できるはずであるのだから、大規模な炭素税を実施することは政治的に不可能であると主張することも彼女には許されていない。

オンタリオ州が再生可能エネルギーへの投資を促進するために固定価格買取制度を実施したこと…一般的にはこの制度はかなり問題含みの制度であると認識されているのだが…についてはクラインは肯定的な言及を何度か行っているが、ブリティッシュ・コロンビア州の非常に成功した炭素税については彼女は一言も言及していないという事実は、クラインの主張に含まれる謎を解きほぐす。ブリティッシュ・コロンビア州のサンシャイン・コーストにある彼女のカントリーハウスの近くで行われる鮭の母川回帰については数ページかけて描写しているというのに、当の州が気候変動に対峙するために最も重要な政策のイニシアチブを握っていることについて、クラインは何も書いていない。…カナダが全国レベルで実行すべき計画のテンプレートとして多くの支持を集めていることが明らかな政策について触れていないのは、かなり異常なことであるだろう。

炭素税についてと比べれば、炭素取り引きについてはクラインにも言いたいことが多少はあるようだ。とはいえ、欧州の排出量取引制度に対する標準的な批判を彼女も繰り返しているだけなのだが。この制度に対してクラインが行っている批判で「エコノミスト」誌に載っていないものはない。充分に構築されていない取引制度は二酸化炭素削減を実現できずに失敗してしまう、ということには誰もが同意している。実際、欧州の排出量取引制度が失敗したことは、キャップ・アンド・トレード制度よりも炭素税を支持する人がこれ程までに多くなったことの主な理由のうちの一つであるのだ。いずれにせよ、彼女は排出量取引制度についても充分に論じていないので、このトピックについてクラインがどんな考えを抱いているのかということを読者が確認することは不可能である。しかしながら、驚くべきことに、二酸化硫黄を削減するためにアメリカにて実施されたキャップ・アンド・トレード制度について本の後半で論じる際には、このアプローチは「機能した」[208]と彼女ははっきり認めているのだ。だが、そのことは即座に疑問を生じさせる。キャップ・アンド・トレード制度が二酸化硫黄に対しては機能したのなら、同じ制度が二酸化炭素に対しても機能するはずではないだろうか?

ということで、私たちは根本的な謎に立ち戻らされ続けることになる。適切にデザインされて適切に実施される炭素価格付けシステムの一体何が問題だというのか?

私が最終的に辿り着いた答えは、価格付けシステムは大半の人々が持っている道徳的直感に反するということであり、そしてクラインはその道徳的直感を物事に対して徹底的に当てはめているということだ。彼女は「汚染者支払い」の原則を熱心に支持しているのにもかかわらず、実際にはその原則が論理的に導き出す結論の一つを拒否している。つまり、もしあなたが支払うことを嫌だと思わなければ、あなたは汚染をしてもいいということだ。この結論は、ある行為が非道徳的であるとすれば非道徳的であることそれ自体がその行為を行なわないための充分な理由となる、という道徳的直感と相反する。あなたは非道徳的な行為を止めるためのインセンティブを他人に要求することはできないのであり、それどころか、非道徳的な行為を止めない場合にはあなたを処罰する権利を他の人たちは持っている…これが、私たちの道徳的直感が教えるところだ。たとえば、市場において奴隷に価格を付けたり税金を課しても奴隷という存在を無くすことはできなかったのであり[462-463]、奴隷制そのものを撤廃することしか方法はなかったのだ、とクラインは指摘する。環境規制についても彼女は同じ考えを抱いている。たとえば、彼女は以下のようなレトリック的な質問を読者に行っている。「なぜ私たちは自分たちの未来を危険に晒すなと企業に命じているのではなく、企業に賄賂を贈ったり甘い言葉で丸め込んだりしようとしているのだろうか?」[225]。つまり、根本的にはクラインが炭素価格付けに反対しているのは単に価格付けという考えそのものが道徳的に不愉快であるからだ、と私は推測する。彼女にとっては、それは子供を取り返すために誘拐犯に身代金を払うのと同じようなことに思えるのだ。

この点については彼女のみならず多くの人々が同じ直感から思考を始めている。しかし、その直感を解体する議論は広く知られたものであるし、それは環境経済学にとって最も基本的なことですらある。"撤廃主義"的なアプローチは、対象とする物質や習慣を完全に禁止することが可能でありまたそれらが完全に禁止されなければならない時にしか機能しない…それこそ、奴隷制のように。だが、二酸化炭素やメタンガスを放出することはそれ自体が本質的に有害なことではないのであり、ゼロになるまでそれらを削減したいと望んでいる人もいない。そして、完全に禁止することが可能であるものがある一方で(たとえば、石炭採鉱を禁止することは想像しやすいだろう)、そうではないものも数多く存在するのだ。コンクリートは世界における二酸化炭素排出の5%に責任があるから(コンクリートが硬化する際に起こる化学反応の副産物として二酸化炭素が発生するのだ)、このことについて検討してみよう。コンクリートを禁止したいと思っている人がいないことは明らかだ。…クラインですらコンクリートを禁止したいとは思っていないはずだ。何故なら、彼女は「ストローベール建築(訳注:わら俵などを用いた建築)」について情熱的に語っているのであり、そして一般的なストローベール建築には積み重ねた俵をセメントで固める工程が含まれているからだ。しかし泥はコンクリートと違って大気への外部性を生じさせないのだから、コンクリートの価格を上げて新しく建てるストローベール建築の住宅の壁にセメントを使うか泥を中心とした素材を使うかで迷っている人が後者を選択するように促すことこそが、私たちが行わなければならないことなのである。

別の言葉で言えば、温室効果ガスの排出に対して私たちが行うべきなのはそれを禁止することではなく、排出を抑制させること、それも強く抑制させることである。したがって、温室効果ガスに価格を付けたり既に付けられている価格を更に上げることこそが適切な政策であるのだ。このことは、こうやってわざわざ書くのが恥ずかしいくらいに基本的なことである。しかし、クラインはこんな基本的なことも理解していないと想定することが、私が彼女の主張を最終的に理解することのできる唯一の方法なのだ(汚染はどのような時に"禁止"されるべきでありどのような時に"価格付け"されるべきであるか、という問題について真剣に興味を抱いている読者たちには、ジョン・ブレイスウェイトの記事 “The Limits of Economism in Controlling Harmful Corporate Conduct” を読むことをお勧めする。私の授業でこの問題についてのディスカッションを行う時にいつも学生たちに宿題として読ませる記事でもある)。

さて、この記事もちょっと長くなり過ぎた(しかし、『すべてを変える物語』はとても分厚い本なのだ!)。まとめとして2点だけ書いておこう。

第一に、クラインと同様に私も気候危機は非常に深刻な問題であると考えているし、現状の様々な物事に対して変化を強いる問題であるとも考えている。気候危機は「自由市場至上主義」の説得力を過去最弱にしている。しかし、同時に、気候危機は「反市場-至上主義」の説得力も弱めたのだ。特に、企業の行動を変える手段として価格付けメカニズムを用いることを極端に嫌っていた左派の人々の多くが、考えを変えて価格メカニズムに対する嫌悪感を払拭せざるを得なくなった。価格付けメカニズムに反対する議論は道徳的なものだけであるとすれば…つまり、価格付けには問題を解決する可能性があるとしても、私たちの道徳的純粋さの基準を満たすような形では解決しないということであれば…それは問題の解決方法に対する反対意見としてはかなり弱いものだ。気候危機は充分に深刻な問題なのであり、大半の人々は解決方法の形に関わらずとにかく解決されることを望んでいるだろう、と私は推測する。いくつかの大企業が正しくない動機から正しい行為を行うことを容認するための取り決めを結ぶ、などの解決方法であったとしてもだ。

第二に、そして最後に、『すべてを変える物語』は一から十まで問題の"つながり"について書かれた本である。様々な種類の闘争のそれぞれに参加しているそれぞれの人々に対して、自分たちはみんな実は一つの同じ目的のために戦っているのである、と説得させるための本なのだ。そのこと自体には何も問題はない。それに、多くの場合には、様々な要求を記したリストを提示することには(そのリストが短いものではなく長いものであったとしても)何の問題もない。しかし、政策としての価値も疑わしく実際問題として実行不可能な政策の名の下に、実行可能であり有効な政策に対してあなたが反対をし始めるとすれば、それは、巨大な害を支持するものであるとあなた自身が批判している物事を実際にはあなた自身の手で引き起こすことになってしまうのだ。『ブランドなんか、いらない』にまで遡るクラインの一連の著作に対して私が批判を行い続けているのは、彼女が間違った方向にへと読者を活気付けて動かしていることにある。風車に向かって対決したドンキホーテのような一人相撲を自分が取っているという可能性についてクラインはもっと時間を割いて考えるべきだと私は常々思ってきたし、『すべてを変える物語』にもクラインに対する私の評価を変えるようなことは何も含まれていなかった。

 

 

訳注:『すべてを変える物語』の原題は This Changes Everything: Capitalism vs. The Climate。この本はまだ邦訳されていないが、本の内容に基づいたドキュメンタリーは日本語字幕付きで公開されている。このドキュメンタリーの邦題に従い、今回の翻訳記事内でも著作の邦題を『すべてを変える物語』にした。

ジョセフ・ヒース『パンクは死んでいない』(2016年3月21日)

Punk’s not dead…
Posted by Joseph Heath on March 21, 2016 | culture

反逆の神話」を書いたおかげで、音楽や文化についての意見を今でも求められることがあります。いつもは断りますが、イギリスの音楽ライターであるジェミリー・アレンが持ってきたアイデアに興味を引かれたので、この記事1 に対するインタビューを受けることにしました。

しかし、メールによるインタビューだったので、返事に大変な時間が掛かったうえに、恥ずかしながら大部分が没になりました。そこで、興味のある人向けにブログで全インタビューを掲載します。

問:『反逆の神話』の中で、カウンターカルチャーはシステムに対して脅威ではないと、あなたは主張しました。芸術は何も変えないのでしょうか?

共著者のアンドリュー・ポターと私がその本で議論したのは、60年代に発生しパンクの時代にも強烈な影響を持っていた政治的思想についてです。しかし、それは前世代の共産主義者が資本主義に反対したような革命的な力を持つには至りませんでした。資本主義は、教育システムや軍産複合体、教会、家族など、社会の全様相に影響を与えている、巨大な問題の顕著な特徴の1つと考えられています。

本当に革命的であるには、もっと社会の全体に対して反抗を行う必要がありました。さらに[カウンターカルチャーによって想定された既存の社会システムの]中心的な特徴は、秩序と規律の固定化にあると考えられていました。もし[既存の社会システムにおける]全体的な文化が、[社会の構成員に対して]抑圧的であるならば、無秩序かつアナーキーを称揚するカウンターカルチャーを形成することによってのみ『解放』が可能になると、当時は考えられていました。

この考えは左派にかなり大きな影響を与えました。その現象を私たちは本のなかで以下の様に書きました。「ジャズクラブで待ちぼうけをくらっているヒッピーが、投票者を得るように努めている公民権活動家や、憲法改正を訴えるフェミニストの政治家よりも、深遠な現代社会の批評家に見えるようになるのだ」と。

カウンターカルチャーによる社会分析は、残念ながら間違っていたことが分かりました。他に言いようがありません。カウンターカルチャーによる社会分析に従った考え方とは、ある種の規律を破壊できたなら――例えば、もし人々が性的抑圧を克服し自由恋愛を楽しむようになったり、単調で画一化された郊外の生活を拒絶し始めたならば、自由と個性による新時代の幕が開き、ひいては、人々は搾取的な組み立てラインで働いたり、帝国主義と闘うための徴兵を拒否するようになるかもしれない、といったものでした。言い換えれば、カウンターカルチャーは本当に『システム』を撹乱し破壊すると無邪気に信じられていたのです。しかしながら、[社会を構成している]『システム』は実際には順応性や性的抑圧を必要とはしていなかったのです。さらに、そのような思想に基づいた全ての『反逆』は、新しい資本主義の消費対象になりました。例えば、性革命はポルノ産業の黎明を促し、服飾会社はフランネルのスーツと同じように反抗の象徴とされる皮ジャケットを楽しげに売り出しています。カウンターカルチャーによる反逆は、自身が反対すると考えられていたシステムの一部になってしまったのです。

芸術は物事を変えないと言いたいのではありません。しかし、芸術は広告社会の基本的な性質を変えることはできないのです。芸術家はブルジョワ社会とその価値観を100年以上も非難してきました。けれども結果として、反ブルジョワ社会にとっての市場が、どれくらい深くて流動的な力を持っていたかを証明することにしかならなかったのです。

問:パンクは過大評価されていたのでしょうか?

私はパンクの美学について大した見識は持っていません。しかし、パンクムーブメントに巻き込まれた私たちは、自身がしていることの政治的な重要性を大きく見積もりすぎていました。60年代のカウンターカルチャーの失敗から学ばなかったことが問題です。

私たちは皆、ヒッピーを嫌っていました。私たちは基本的に彼らが変革に失敗し、消え去ったと考えていました。ヒッピーの反逆概念は、軟弱で甘ったるいものだった、つまりヒッピーカルチャーには尖った部分は全くないことが原因だと考えました。なので、私たちの解決策は、政治と音楽の両方におけるあらゆる面で、よりハードコアかつ妥協しないようにすることでした。

問題はカウンターカルチャーに対して、私たちが[ヒッピーと]同じアイデアを投入したことです。そのアイデアとはシステムを破壊するために、単に非順応的に振舞えばよいというものです。言い換えれば、パンクはヒッピーと同じ革命理論を持っていたのです。つまり、ヒッピーは上手くやれなかったが、私たちはもっと上手くやれば良いと、考えていたのです。

残念ながら、これはまるっきり見当違いでした。ある意味で、ヒッピーについて、そして60年代についても、十分に批判しきれていなかったのです。ヒッピーの反乱は単に失敗に終わったというだけでなく、ヒッピーの反乱に指針を与えていた思想の分析そのものからして、完全に間違っていたんです。

問:あなたはパンク自体のファンですか? 例えばどのようなバンドを、もしくはどのような音楽を好んでいますか? あなたを熱狂させるのはどんな音楽ですか?

私は若いときにかなりパンクに熱中していました。私は1967年に生まれたので、70年代の音楽に接するには少し若すぎました。しかし、80年代のパンクムーブメントに、どっぷりと熱中しました。カナダの西部で育ちましたが、カリフォルニアのバンドであるDead KennedysやThe Cramps、Circle Jerks、X、The Gun Clubなどに大変に興味を持ちました。1985年にはケベックに引越しましが、そこでは当時、Berurier Noirが巨大な存在感を持っていました。

私の嗜好は進化しましたが、望んだほどではなかったかもしれません。ただ商品を良く評価する方法は確かに学んだと言えます。しかし先日、ホワイト・ゾンビとメタリカ2 を車で流していたところ、娘に「年寄りの音楽」を切ってと頼まれました。私は今、自分が聴いている音楽は「年寄りの音楽」だと悟ったのです。

問:パンクに由来する態度が残っている可能性を認めないのですか? セックス・ピストルズがビル・グランディ事件3 で誓いを立てた場面を見た子供たちがそれ以来、真似をして、さらにその子供たちの子供たちが引き継いできました……。

パンクは『注目を集めるための公式』を完全に確立しました。その公式は今日のアーティストに巧みに引き継がれています。例えば、[メインストリームとされているものに対して]何か下品なことをし、[その下品な行為への]怒りの反応を待ってから、[我々は]保守勢力により迫害される政治的殉教者であると主張したり……と。この公式がいまだに有効であることに少し驚きます。

エミネム4 の曲である“My Dad’s Gone Crazy”と“Sing for the Moment”の歌詞を比べてみましょう。それらの全ての歌詞が本当に『政治的である』ことで論争する価値があるか、自分自身に問うてみましょう? エミネムはアイデンティティ効果を存分に使い、基本的にセックス・ピストルズによる詐欺行為とまったく同じ効果を狙った真似事を行いました。[今においても]彼が正面切ってそのようなことが実行できるという事実に驚かされます。つまり、彼の事例は唯一のものではなく、一種の公式のようなものになったことを示しているのです。ただ公式化したことで、大衆を驚かせることは、ますます難しくなっています。

問:あなたはカナダ出身です。パンクはイギリスのように『発生』しましたか? そしてカナダはアメリカに近く、あなたはアメリカ文化に興味があったそうですが、パンクはいつアメリカに影響を与えましたか? 90年代では大きかったと思いますが、グランジ5 のサブジャンルのようになったように見えましたが……。

確かに、西海岸のDOAやアルバータのSNFUがありました。より大きな計画を持っていたk.d.lang はそのシーンから出てきました。SCUMとAsexualsはモントリオールにおり、Skinny PuppyとVoivodのようなパンクに影響を受けたバンドもありました。バンクーバーのDIYシーン6 出身でNettwerk Recordsから世に出て、最も商業的にインパクトを持ち、世界に進出したのは、サラ・マクラクラン7 です。

問 当時大衆的な音楽だったボニーM8 やデビッド・ソウル9 が世界で聴かれているときに、歴史修正主義者はパンクはイギリスで77年に爆発的に発生したと言います。なぜこのように修正された話を疑問を持つことなしに、私たちは受け入れてしまうのでしょうか?

『オルタナティブ』や『アンダーグランド』と呼ばれる音楽の全体概念は、80年代での実際体験と一致させて理解しなければいけません。過去を振り返って考えると、それらの音楽は、ベビーブーマー世代の後に続いた世代の行動結果と、人口動態に従って音楽産業がどのように働いたのかという現象の相乗効果でした。一般的に人は20代前半で最も音楽を購入します。そして、[視聴年齢と]同年齢前後の人達によってポピュラー音楽は作られ、聞かれるのが通常の状態です。なので、今ならジャスティン・ビーバーやテイラー・スウィフト10 などのような若い世代によって[作られ、同世代に聴かれる事で]ポップの意味合いが定義付けられます。

私たちのようなジェネレーションX11 の場合は不思議な時代でした。私たちが10~20代のころはベビーブーマー世代の人口がとても多かったのです。なので[当時の音楽産業では私たち]若い人々に向けての売上より、ベビーブーマー世代に対する売上のほうが勝っていました。結果として、ラジオやレコードレーベル、レコード店には私達の両親に関わるような音楽、つまり主にスタジアムロックのようなもので占められていました。

[当時の]若者が同世代に向けて音楽を始める時、文字通り自分のレコードレーベルを開設し、独自の流通ネットワークを構築しなければなりませんでした。音楽産業は人口動態に従って、当時の若い世代には完全に興味がなかったからです。当時、アルバムを手に入れることさえも、貴重なツテが必要でした。もし大都市に住んでいなかったら、若者向けの商品は禁制品のように感じたはずです。

記憶の歪みがあります。それを私が初めて感じたのは、ジョン・キューザック12 (彼は私と同い年です)が演じる主人公が高校の同窓会に出席する映画、『ポイント・ブランク(原題は”Grosse Point Blank”)』を観たときです。私が80年代に聴いていたヴァイオレント・ファムズ13 のようなバンドの楽曲が、その映画では主要なサウンドトラックとして使用されていました。私は感銘を受けましたが、その映画は全体的に修正されていたのです。

80年代に実際にさかのぼると、学校のダンス現場は、レッド・ツェッペリンやイーグルス14 などで占有されていました。つまり、ヴァイオレント・ファムズは当時の高校では、私を含めて2~3人しか聴いてないような深刻なまでの『アンダーグランド』な音楽だったのです。クラッシュ15 でさえも異端な趣味でした。

しかしながら、ジェネレーションXの当世代よって作られた音楽だったので、ヴァイオレント・ファムズやクラッシュは時代を定義するような音楽になりました。ほとんどの人々が実際に若いときに聴いていなかったような音楽が、私たち世代を代表する音楽になるという奇妙な状況に至っています。

あなたの質問に答えると、[当時の私たち世代の]人々はボニーMをやはり聴いていたのでしょう、あなたの界隈ではブラック・サバス16 かもしれませんが。しかしながら当時を振り返ると、アンダーグランドなミュージック・シーンはやはりアンダーグランドでしかありませんでした。ラジオやレコード店では全く存在感がなかったのです。

このことはもちろん、本当に破壊的で革命的なものに関与しているという感情を、私たちに引き起こさせました。音楽業界がパンクのレコードを売りたくないという事実と、ラジオ局がパンクを流さないという事実は、私たちが社会システムに対する、なんらかの脅威である違いないと、感じさせたのです。今では、それはただの幻想だったことが分かってます。実際には音楽産業による経済活動の結果に過ぎなかったのです。

ひとたび人口動態が変わったことで、音楽産業は若者に向けて音楽を再び販売し始めるのを、あなたも見ましたよね。それはあなたが『グランジ』と呼ばれる現象に遭遇した時です。その音楽は新しいものではありませんでした。グランジの音自体は、子供たちが10年以上も聴いてきたものでした。ちなみに私たちはそれを『ハードコア』と呼んでいました。突然、その市場が大きくなったので、メジャーレーベルが関心を持ち始めただけですが。

問:ジョニー・ロットン17 のパンク哲学はかなり実存的でした。パンクとは全てに疑問を投げかけるということだ、と彼は言いました。これが、他のどのセックス・ピストルズの模倣よりも、彼にパブリック・イメージ・リミテッドを続けさせている理由ではないでしょうか。ほとんどの人々にとってのパンクとは、同じ服を着て、人々を挑発しつつスリーコードを早く演奏することに順応する事なのでしょうか?

パンクは明確に反乱であり、[当初はなんらかのスタイルへの]順応ではありませんでした。『反逆の神話』で、私たちが示そうとしたことがあります。それは、反乱の発生が競争・示威状態を生み出し、その競争・示威状態の間接的な結果が、どのような順応性に至ったのか、ということです。反乱に関わることはとても格好良く、反乱者に社会的な地位を与えます。結果として、反乱はたくさんの模倣者を惹きつける事になりました。

インストリームの社会に対して、カウンターカルチャーによる分析を行えば、基本的に大衆は洗脳された羊の群れということになります。誰もがそんな群れのなかに留まりたいとは思わないでしょう? あなたは、洗脳された群れの一頭ではないことを、どうやって自己表現しますかね? あなたは自分が他者と違うことを顕示するために、反乱を起こさねばならないでしょう。不幸なことに、皆が反乱に走ると、揃っての自滅に至ります。

つまり、本当の反乱を実践するには、常に変わり続け、常に他人からは安易に定義されない新しい道を探さなければなりません。なぜなら『エッジ』と呼ばれているものは、すぐ『見慣れた』とか『主流な』とか言われるようになるからです。これこそ、反抗的なサブカルチャーが常に創造性を持ち、たくさんの洗練された発見を産み出してきた理由の一つでもあります。クールであり続けたい、皆より抜きん出ていたいという、競争・示威状態に駆り立てる姿勢への熱情を、人は持っているからなのです。

話を戻すと、私たちは、この競争・示威状態を求める姿勢を、調和・包括的な意思を拒絶する悪意のある『考え方・姿勢』の源泉だと考えてしまっています。私たちはこういった『考え方・姿勢』に全く関係していないと思っていますが、私たち自身は皆、これを行っているのです。

問:DIY音楽18 の平等性の原則は大変に素晴らしいものです。[DIY音楽による]ちょっとした工夫や改良の積み重ねが、平凡なものを上回る素晴らしい芸術に昇華すると思いませんか?

DIYとは『自営業』の単なる言い換えに過ぎませんよ。楽器の演奏方法を学ぶためのDIYは良い方法ではないでしょう。しかし、作曲し配信する方法については非常に良い方法なのかもしれません。

問:私の意見では、今やDIY音楽はインターネット上で光よりも速く生み出されています。インターネットは恒常的に社会制度や人的資本を変えるのでしょうか?

いいえ、ネットは[社会への]不順応性や文化的反乱を起こすことによって、人的資本を変える力を持っていないのは明白です。ネットにおいて、本物の『オルタナティブ』や『アンダーグランド』なミュージックシーンを維持することは、基本的に難しいのです。なぜなら、誰かがビデオをYoutubeに投稿したり、音楽をSoundcloudに投稿したりすることは、全世界に受容される事を可能にしています。それは結果として、『オルタナティブ』と『メインストリーム』との間にリアルな緊張感作り出し、それを幻想として保つことを不可能にしてしまっているのです。言い換えるなら、『オルタナティブ』が『メインストリーム』に取って代わるかもしれない、というような種類の脅威の醸成ができなくなっていることになります。

私が若いときには、本当に覇権的な大衆文化を担っていたテレビはたった3つの局しかなく、ラジオは5つくらいの局しかなかったのです。これらの事実から、『システム』がなんらかの社会秩序の命令によって動いている、と思い込むのはクレイジーではありませんでした。なのでテレビやラジオを断つことによって、何か破壊的なことをしているようにも感じたでしょう。

今日の若者にとって、『システム』が、覇権的な大衆文化や順応性を要求していないことは明らかです。今日の市場を経験している人々は、何一つとして順応性を強要されていません。ヘンリー・フォード19 の時代、彼は「どんな色の車でさえも手に入る、黒色でさえ」という言葉を残しましたが、技術の発展によってその言葉すら時代遅れになっているのです。若者は、個人に向けて特化し希少化されたものとして市場を扱うことに慣れきっています。[システムへの]不順応性によって資本主義を破壊できるかもしれない、という考え方は、無意味なものとして棄却されているでしょう。30年前にはそう見えたかも知れませんが……

問:パンクは今や、単なる遺物産業、つまり過去の栄光の卑屈なシュミラークル20 のリサイクルになっているのでしょうか?

もし、Sum 41やグリーン・デイ21 を指しているのならば、その種のパンクはジャンル音楽です。しかし、彼らは特に貶めるべき存在であるようには見えませんね。

問:ヒップホップは新しいパンクだと言えますか?

いくつかの点ではそうです。ヒップホップの『リアルであり続ける(”keepin’ in real”)』という概念や『ギャングスタ』は、パンクに見られるような反乱を連想させます。一方で、ヒップホップは熱狂的に資本主義や消費主義を、常に受け入れてきました。政治的文脈では、アフリカ系アメリカ人(彼らを同一視している国際的な層も含めて)の不満に極端に焦点をあてています。なので単なるパンクの繰り返しではありません。ひるがって、パンクの実態は、私たちが60年代に見たもの[ヒッピーカルチャーの事]と同じものの、別バージョンでしかありませんでした…。

問:パンクはジェネレーションXの遺産ですか? あくまで世代の事であり、バンドの事ではないですが…。

『オルタナティブ』音楽の全体的な概念はジェネレーションXの遺産です。私が90年代にトロントに引っ越したとき、『オルタナティブ』音楽のラジオ局がありました。もちろん、それは語義矛盾です。なぜなら、『オルタナティブ』の包括的な概念とは、ラジオでは流されない音楽というものでしたから。もっとも、そんな概念は、80年代以降に生まれ、自身の世代によって作られた音楽に常に接する世代にとっては無意味な概念でしょう。

私の世代は本当に奇妙な時期に育ったことを理解することが重要なのです。ベビーブーマー世代の人口動態はかなり極端でした。そうたしかに、パンクは明らかにジェネレーションXの遺産です。しかし、こうとも言えます。その世代による経験から引き出される独特な特徴を表現する音楽でもある……と。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:本エントリは、氏が全訳し、WARE_bluefieldが代理で投稿している。なお、☆氏の許可の元、書体等の一部文章を訂正している。バンド名等、ポップカルチャーの訳注もほぼ全面的に☆氏によるものである。☆氏によると「本文中において重要性の低いバンドの注は省略している」とのことである。
※訳注:「問:」に続く斜めフォントの文章は、ヒースにインタビューしたジェミリー・アレンの問いである。
※訳注:”nonconformity”には『不順応』『不順応性』と訳語を当てている。体制等に対する、『不適合』や『不服従』を意味するカウンターカルチャーで一般的に使われる単語である。対義語の”conformity”は『順応』と訳している。
※訳注:”Rebel”、”Rebellion”には、文脈に応じて『反逆』『反抗』『反乱』を使い分けている。

  1. 訳注:音楽ライターのジェミリー・アレンによる「パンクはゴミだ。パンクは何も変えなかった」という記事を指す。 []
  2. 訳注:共にアメリカの有名なヘヴィメタルバンドで、80~90年代に活躍。 []
  3. 訳注:1976年にイギリスの家庭向けテレビ番組に、クイーンの代役として出演したセックス・ピストルズが、司会者に向かって暴言を吐いた事件。Youtubeで当時の動画を見ることが可能。 []
  4. 訳注:アメリカの有名な白人ラッパーで、主に2000年代に活躍。 []
  5. 訳注:アメリカで90年代に発生した音楽、代表的なバンドにニルヴァーナなど。 []
  6. 訳注:DIYは、”Do It Yourself”「自分でやる」の略で、一般的に日曜大工のような専門業者に頼らないで個人で行うモノ作りを意味する。この意味から転じて、インディーズ等の自主制作音楽全般を『DIY音楽』と呼ぶ事がある []
  7. 訳注:カナダのシンガーソングライターで、4000万枚アルバムセールスを誇る。 []
  8. 訳注:70~80年代に活躍したドイツのディスコバンド。 []
  9. 訳注:1943年アメリカ生まれの俳優兼ポップソングの歌手。 []
  10. 訳注:カナダやアメリカのポピュラー音楽の歌手で、2010年代に活躍している。 []
  11. 訳注:カナダの現代文学作家クープランドによる造語で、60~70年代に生まれた世代を指す。日本で言うところの新人類。 []
  12. 訳注:1966年生まれのアメリカの俳優。『セイ・エニシング』『ハイ・フィデリティ』のような音楽を題材にした青春映画への出演が多い。 []
  13. 訳注:主に80年代に活動したアメリカのフォークパンク・バンド。 []
  14. 訳注:共に有名な欧米のロックバンドで、主に60~70年代に活躍。 []
  15. 訳注:76-86年に活動したイギリスのパンクロック・バンド。80年代には北米でも大規模に受容されている。 []
  16. 訳注:68年から活動するイギリスのハードロック・バンド。 []
  17. 訳注:セックス・ピストルズのボーカルで、後にパブリック・イメージ・リミテッドを結成した。 []
  18. 訳注:上でも説明したが、宅録や自主制作等の音楽活動の事 []
  19. 訳注:自動車会社であるフォード・モーターの創業者。車のベルトコンベア式の大量生産技術を確立したことで有名。 []
  20. 訳注:フランス語で『模造品』のこと []
  21. 訳注:共に欧米で90年代から活躍しているハードロック・バンド。 []

ジョセフ・ヒース『反リベラリズムの解剖学』(2017年02月19日)

The anatomy of anti-liberalism
Posted by Joseph Heath on February 19, 2017 | Canada, multiculturalism

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金曜日(17日)、カナダ市民は、醜悪な見世物に直面させられた。トロントにあるモスクのすぐ外で、ムスリム系移民の停止と、カナダにおけるイスラム教の禁止を訴える抗議活動が行われたのだ。報道によると、抗議活動の参加者は、総計でわずか15人だったようだ。なので、わざわざ騒ぎ立てることではない。しかしながら、この件が、103号動議1 に関してウソを付き続けている、あるいは馬鹿騒ぎを続けている、カナダ保守党の構成員全員に、自制を促す事にはなるべきだろう。

この件にこれ以上言及する必要は感じないが、CBCラジオによる、抗議活動の参加者の1人である、女性へのインタビュー(オンラインでは聞けないようだ2 )は、グレートですよこいつはァ、という感じであった。多くの人が、党派性に縛られないリベラル3 な社会認識を共用している、との今日の一般的見解がある。この見解は、まったく実情にそぐわない事を、私は多くの事例から知っている。ただそれにしても、反リベラル的見解が、ここまで簡潔で要を得て意思表示されているのを、見聞きできることは滅多にない。インタビュアーが、女性に「あなた方の抗議活動と、シナゴーグ4 前で反ユダヤ主義の抗議活動を行っている人との、違いは何ですか?」と根源的な問いを行っている。女性の返答は、おおよそになるが「ユダヤ主義は邪悪じゃないが、イスラムは邪悪」だった。

完璧な返答だ。彼女らはもはや信教の自由すら認めていない。単純に宗教をひとつづつ見比べた後に、『善』と『邪悪』を判別し、『善』だけを認めよう、というわけである。誰か、ケリー・レイッチ5 に教えてやるべきだ。 移民を『選別』する、よりよい方法として『善』なる人と『邪悪』なる人を単純に分けた上で、『善』なる人だけを残すのである。邪悪に仕える人を除けば、この選別政策に反対する人なんていないだろう?

この件は、人は本当に『リベラリズム』をどの程度受け入れているか、どの程度自分のものにしているかどうか、を測定する良いテストとして出題されている。[反イスラームの]抗議者達の主張を聞いた時の、あなたの率直な反応が「馬鹿馬鹿しい。イスラム教は邪悪じゃない」のようなパターンだったら、あなたはインタビューに答えていた女性とだいたい同じくらいリベラルだ。もし反応が「馬鹿馬鹿しい。個人の自由に関する問題群が、『善悪』かどうかだけの皮相的な判定に収まるわけがないだろう」のようなパターンだったら、主流派エリートの見解へようこそ!

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:去年のカナダでのモスク襲撃事件を受けて与党・自由党の議員によって提出された、人種・宗教差別を批判する国会動議。カナダ保守党は、言論の自由の見地等を理由にこの動議に反対している。このブログ記事で詳しい日本語による解説を読むことができる。 []
  2. 訳注:現時点では、CBCの報道記事でインタビュー動画を見ることが可能。 []
  3. 訳注:ここでのリベラルは、「他者への寛容」といった意味で使われていると思われる。 []
  4. 訳注:ユダヤ教の教会。正式には『会堂』と呼ばれる []
  5. 訳注:「『反カナダ的価値観』を持った移民を排斥すべきである」と唱えている、去年、ヒースが批判した、カナダ保守党の政治家。 []

ジョセフ・ヒース『Brexitに見る、イギリス断絶の諸相』(2016年06月24日)

Intergenerational dimension of Brexit
Posted by Joseph Heath on June 24, 2016 | elections, political philosophy

昨日、イギリスは、国民投票で、EUからの離脱を決定した。この投票の際立った特徴の1つが、決定的なまでの世代間の断絶である。若い人達は、EUへの残留に強く賛成していた。(ここの図表で、投票の内訳を見ることができる。図表によると、55歳以上の年齢層のみがEUからの離脱に賛成票を多く投じている。一方で、別の世論調査によると、18~24歳では75%が、EU残留に票を投じている)。年齢によってこの件への関心の示し方が、明快に断絶している。イギリスは、EUからの移民を受け入れる代償として、自国市民が、他のEU加盟国で、居住し、働く権利を得ている。この権利による便益は、年配の人より、若い人に大きいメリットとなっているだろう。([Brexit後の]事実として、[イギリスの]年金を受給している年配の人は、ヨーロッパの住みたい場所ならどこであれ、住み続けることができる。[年金受給の]カナダ人が、フロリダで生活するのと同じように。一方で、若い人は、[EU加盟国で自由に]働けなくなることで、移動が制限されていると、感じるようになるだろう)。

公平さにおける重要な議論が起こっていると、人によっては感じているかもしれない。年配のイギリス人は、自身の若い頃のイングランドを維持する為に、結果的にであるが、投票を行ってきた。この年配者の投票行動は、イングランドで生活せねばならない将来世代への、無関心さを事実上表明してしまっている。([この年配者の投票行動は]イングランド(とウェールズ)が、強く意思表示を示してきたことと同義でもある。Brexitは結果的に、スコットランドの独立と、アイルランドの統合及び北アイルランドの[英連邦からの]分離を強く促す事にもなる1 )。もうすぐいなくなる高齢者が、結果的であれ、[投票で]強い存在感を示しているように感じられる事は、[投票による]発言権の平等の在り方として正しいのだろうか?

フィリップ・ヴァン・パレースによる、論文『高齢者の投票権剥奪、及び世代間の公平性確保への代替の諸提案』は非常に価値がある論文だ。この件[高齢者の強くなりすぎた投票による権力行使]に関して、彼は問題提起を行っている。彼が喚起している論点は、深刻に捉えられるべきであるのに、あまり関心を払われていないように、私には感じられる。もちろん、高齢者の投票権剥奪のアイデアを、そのまま検討するのは、あまりに非現実的だ。しかしながら、高齢者の投票による権力行使を減じさせる方法は、いくつか存在する。このいくつかの方法を取ることで、投票権剥奪を行わずに、[高齢者の強くなりすぎた投票による権力行使]を止めることが可能だ。ヴァン・パレースが検討している中で、一つの魅力的な提案が、子供も含む全年齢への選挙権の付与である。もちろん、[選挙権を与えられた]未成年者は、18歳になるまでは、両親や保護者が代理で投票権を行使することになるだろう。この提案が実現すると、幼い子供を持つ親は、1票以上の投票数を得ることになる。

この提案を政策として実施するのは、私には実現可能なものに思えるし、政策理念への反論は今のところ見聞きしていない。イギリスにおいて選挙制度の改革について論じるのなら、この提案を検討してみてはどうだろうか?

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:イングランドの全投票者に占めるイングランドとウェールズの割合は非常に大きく、これら2地域はEU離脱への賛成票が多かった。逆に、スコットランドと北アイルランドはEUへの残留を望む投票結果を示している。スコットランドと北アイルランドの主要産業である農業はEUとの経済的繋がりが、非常に強い。 []