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ジョセフ・ヒース「なぜ炭素税は非常に低価格なのだろう?」(2016年07月30日)

Why are carbon taxes so low?
Posted by Joseph Heath on July 30, 2016 | environment, public policy

カナダの環境大臣キャサリン・マッケンナは、国内炭素価格の予測値を年末までに決めると最近告知した。大変歓迎すべきニュースだ。炭素価格付け政策に関して、基礎の理論的根拠の衆知化に、多く時間を費やしてきた(ココココココそしてココ)私にとって、本件は想定しうる限り、ほぼ勝利に近づいたと言えるだろう。事が成る事を、そうここに願う!

炭素価格付け政策に関して過去に執筆に当ててきた時間のほとんどで、私は政策の最も基礎的な特徴について説明するのに腐心してきた。([人や政府機関等が]共同で行動する際の問題は何かであるのかとか、価格付け制度はどのように作用するのかとか、なぜ[炭素だけでない]全ての財に課税してはいけないのか、等々である。)このエントリは、まずは右派の読者、その内で特に気候変動問題に関して何もすべきでないと、なんとなく思っている人を想定させてもらっている。相対的にではあるが、左派や環境保護論者への説明――『気候変動問題』において、『価格付け』がなぜ適正な政策基準であるかといった説明――にはあまり時間を割いていない。(詳しく知りたい場合は、ココココ [訳注:本サイトでの邦訳版はココ]を参照して欲しい)。
(一般的な議論において、我々が[公共政策としてなんらかの財に]『価格付け』を扱わねばならない場合や、環境政策で「義務を課すような」アプローチを選好する場合、ずっとお勧めしているのが、ジョン・ブレイスウェイトの論文『有害な企業活動を規制する際の経済学上の限界について』である)。

炭素価格付けの政策に関しては、あまり言及されていない論点だが、非常に妥当な疑問がある。炭素価格付けを支持する主流派は、炭素1トン当たり米ドルでおおよそ30ドルの税金を課すべきとする見解を示している。(この『炭素1トン当たり』という単位基準は、あらゆる温室効果ガスを測定する時に一般的に使われる単位だ)。このことで、ガソリン価格は1リットル当たりおよそ10セント上昇する事になる。明白な疑問が生じる。たったこれだけのガソリン価格の上昇で、気候変動問題への効果的な解決策になるのだろうか、と。

この疑問を議論する際のパターンの1つに、[炭素価格等の財の]限界余地による価格変更で、[経済主体の]行動に影響を与える考えが理解できないままに議論を続けてしまう事例がある(この件は個人的にはココで議論済みである)。ひとまずこの価格の変更余地の議論に関しては脇に置いておいて、今派生している事実をだけを検討してみたい。2年前になるが、邪悪なるハーパー政権下において、ガソリン価格がリッター当たり1.2ドルに高騰した事がある。今現在、ガソリン価格はリッター当たり1ドルだ(ここオハイオ州では)。よって、リッター当たり1.1ドルにガソリン価格を上昇させるような措置は、環境にとってのユートピアに至るのだろうか? 本当に気候変動が大きな脅威であると結論付けるのなら、ガソリン価格はリッター当たり3ドルか4ドルになると考えるべきではないだろうか?

疑問をわかりやすく言い換えるなら、「炭素税は提案される場合や、ブリティッシュコロンビア州のような管轄区域で採用された時、なぜこんなに『安く』設定されているのだろう?」となる。(ここでEcofiscal Commission1 による、カナダの州ごとの炭素政策の厳密な比較を参照することができる)。

以上[リッター当たり3ドルか4ドルになるべきではないのか]は非常に重要な質問だ。やや込み入ってはいるが、1つの納得が行く答えがある。(厳密には「1つ」というより集合的な答えになるが…)。技術的だが、あまり知られていない答えは、炭素1トン当たり30ドル(正確には33ドルほど)が、『SCC:”social cost of carbon”(炭素の社会的費用)』による最適見積もり価格との結果が出たのである。SCCとは、炭素1トンの排出によって、経済にどれだけ負の効果を与えるのかを示す数値である。つまり[SCCに応じた炭素税を課すことで]、排出炭素1トン当たりを適応範囲とした炭素価格で「外部性を内部化」させることが可能になる。つまりは、化石燃料由来の民間使用のエネルギーコストを、おおよその社会的コストとして同一化させることができるのである。2

しかしながら(これは本当に大きな「しかしながら」なのだが)、この社会的コストの計算は、我々の様々な社会活動の成果を膨大な仮説・仮定した上での数値化に基いているのだ。以下にこの件での、私のいくつかの考察を、簡単に箇条書きして示させてもらった。示したのは、我々の炭素の排出の痕跡を、最大限可能な限り減少させる、私が支持する様々な手段である。
(ついでに、気候変動問題に関しては、議論が非常に複雑化してしまっていることで、様々な論者が相互理解から遠い状態でやり取りしてることに気づいたのである。なので、泥沼に陥っている議論基盤を、共通な議論が行われるように、簡単な概略図を示させてもらったつもりでもある。)

1.「将来の人類はより豊かになるのである」
環境保護論者は、経済成長がどれくらい力強く、成長によって将来世代がどのくらい利益を得る事になるのかを、見極めることにしばしば失敗している。気候変動のダメージは、幾何学関数的に正確とまでいかないまでも、数十年間かけて段階的に増加する。一方で、経済成長は、毎年、指数関数的に増加する。なので発展途上国の過去の成長率を検討し、社会や経済や政治制度の要素が適正に整備されると想定すれば、現行の予測では、10年以内に[途上国の]1人当たりのGDPが2倍になる可能性があるのだ。これは、気候変動政策に関して以下の2つの帰結を産むことになる。

1つ目に、現役世代が、気候変動の沈静化・改良コストの一部を将来世代に繰り延べる事が適正であると見出すのが可能になる。なぜなら、人類が将来においては、この問題にを向き合うためにはるか多くのリソースを持つと予測できるからだ。(さらには、今より豊かになる事で、[気候変動等の政策の]負担が、経済厚生に与える影響も少なくなるだろう。たとえ、気候変動が、年代を経るにつれ悪化したとしても、[人類]の経済状況は、(最も可能性が高い予測に基づけば)それより早く改善する。なので、いくつかの政策行動を遅らせるのは合理的なのだ。例示すると、京都議定書が交渉されていた1996年には、中国経済は今のたった1/4に過ぎなかった。京都議定書交渉時に、中国は条約義務からの免除を求めて、以下のように主張している。
「1996年の今、我々は貧しい。なのになぜ、我々はこの義務を課せられねばならないのだ? 20年後には我々は4倍豊かになっている、その時には、非常に容易に[温暖化緩和の]義務を履行することができる」。過去を振り返ると、この論拠は妥当と見なすことが可能だ。そしてもちろん、発展途上国の人達は、今も同様の主張を行う妥当性を保持している。

2つ目に、経済成長にマイナスの影響を与えるような政策を行うには、その政策の機会費用を正統化する為に、将来世代への巨大な便益が提供されている必要性を見出さねばないということである。例えば、もし中国の平均寿命や乳幼児死亡数を仮想数値化し、GDPとの相互関係を考えてみてほしい。そして、将来を見積もれば、あなたは成長率の低下を予測することができるだろう。今、大胆で徹底的な炭素排出量の減少政策(例えば、新規の火力発電所の建設停止処置等)を採用すれば、経済成長率の低下を招くかもしれない。この大胆で徹底的な炭素排出量の減少政策を実行することは、全世界での平均寿命を低下や、乳幼児死亡数の減少の鈍化を推察されることになる。なので、この[大胆な炭素削減]政策を実行することは、一定の人を「殺害する」事になるだろう。一方で、この政策を実行し、気候変動を沈静化することで、別の多数の人を「救う」事にもなる。つまりは、極端な気象変動や、穀物の不作による悪影響を減らす事になるわけである。どれだけの量の人を「救う」事で、概算で最低限どれだけの量の人を「殺害する」事になるべきかによって、気候変動に関する政策は正統化されねばならない。不幸にも、気候変動の沈静化の恩恵はそれほど大きくないのだ、発展途上国における経済成長と比較した時には。
(これはもちろん、先進国には正しくない。先進国における成長はさして違いを産まない。しかし、気候変動はグローバルな問題なので、大きな絵図を見る必要がある。)

2.「技術変化」
気候変動を巡っては、政策の「終結点」をどう想定するかでしばしば意見が異なっており、水面下での対立となっている。一部の人々は、気候変動政策を、水路への水銀廃棄のような平凡な汚染問題と同一視するような見解を保持している。以上の見解に立った場合、対処方法は、「汚染してはいけない」と謳う法案を通す事になる。すると企業は、[汚染物を廃棄する]インセンティブを抱えたままに、廃棄を止める事になる。なぜなら、[廃棄する事は]違法であり、罰金等で脅かされているからである。以上を[気候変動政策に]適応するには、「私の見解」では非現実的だ。端的な理由として、気候変動のグローバルな性質と、国際的な[法や罰則の]強制施行体制の不可能性を理由に挙げることができる。全ての化石燃料は地中に単に手付かずの状態で眠っている事実を考えてみて欲しい。さらにはこれは驚嘆すべきありえない安価なエネルギー源でもある。なので、世界中の国が化石燃料を地中に手付かずのままにすることで歩調を合わせるようになるのは、まったくもって信じられないのである。よって他の多くの人達と同じく、「負の外部性」を単純に修正し、「負の外部性」が作り出した「価格の歪み」を取り除き、それから政府と市場参加者が共に努力し、技術的な解決策を模索するように至るような政策を、「終結点」と私も考えている。この技術的解決策によって、化石燃料を燃やす事による水面下のインセンティブを取り除く事になるだろう。

以上観点に立つと、[気候変動の]基礎的な問題は、(外部性によって)化石燃料が安すぎる事にある。これはエネルギー研究への顕著な投資不足を産んでいる。緑のエネルギーは、褐色のエネルギーと競争することができていないのだ。なぜなら後者は、(気候変動を犠牲に払って)暗黙下の助成を受けているからである。20世紀の電子機器分野における、我々が経験した技術的イノベーションの発達度合いを考えてみて欲しい。そして次に、エネルギーシステムの技術的イノベーションの発達度合い(実質的にゼロである。我々は未だに19世紀に有力だった技術を使用しているのだ)と、比較検討してみて欲しい。炭素消費ゼロのエネルギー源を発見できる可能性を楽観視できるはずだ。この世界には、結局のところエネルギーが満ちているのである。常時、地球は15000テラワット以上の太陽エネルギーを受け取っている。常時の、人類使用の総エネルギーは、おおよそ17テラワットである。おまけに、人類使用のエネルギーの大部分は、人類が直接太陽から補足したものではない。それは植物によって、何百万年も前に補足され変換された太陽エネルギーなのだ。我々は、今より良い方法を行うことができるはずだ!

以上により、炭素価格付け政策の最終目標は、大量の炭素[排出]の減少を実現させることではない。価格の歪みを訂正することにあるのだ。人間の創意工夫の方向を、この問題の解決に大きく比重するように導くにある。

3.「カナダは行うべき鎮静・削減の大部分を行っていない」
持続可能なレベルでの1人当たりの炭素排出量を概算すると、炭素2トンとなる。(もちろん、全世界人口に左右される数値である)。知っての通り、カナダでは今のところは、炭素排出量は1人当たり約20トンとなっている。(しかしながら、アルバータ州とサスカチュワン州では、平均して1人当たり80トンないしそれ以上を排出しており、我が国の排出量の平均値を嵩上げすることになっている)。ともかく、カナダの排出量が現実に1人当たり2トンまで低下するシナリオは、見込みもなさそうだし、望ましくもない。我々は、北方の国であり3 、裕福な工業国でもあるので、自身で炭素を削減するより、他国と排出量の削減で取引を行う事が効果的である可能性が常にありえる。ただ、今のカナダは、排出権取引を行うには適正ではない4 。炭素価格が設定されていなくても、[炭素の]限界削減費用がゼロだったりマイナスですらある、経済分野(例えば照明分野)も存在する5 。なので、炭素税の導入意図は、低吊りの果実を摘み取るようなものなのである6

ただもちろろん、炭素税の導入は、我々の1人当たりの炭素排出量を2トンまで引き下げる事を意図した政策ではない。さらには、我々には、炭素税を導入する道徳的要求は必要とされていない。道徳的要求とは、「我々は生成する排出量の全ての費用を支払わねばならない」との見解である。理想的な政策体制下において、温暖な気候に暮らす多くの人達は、十全に炭素を排出しても[排出枠に]2トンも必要としなくなる(屋内暖房を必要としないこと等で)。一方で、我々は[理想的な政策体制下でも2トン]より多くの炭素排出が必要になる。よって、我々は温暖地の人達から[炭素排出]スペースを「買う」事ができる。7 (言い換えるなら、我々は名目上のノルマを超過した時、その影響を賠償しても良いのである)

4.『将来世代を助けるためのその他の多くの方法』
気候変動問題だけを特別視しない事は何よりも重要である。つまりは、多くの政策課題から、気候変動だけを切り離して見てしまってはならないということだ。例えば、人によっては、「気候変動の公平性」の観点から、第一義的かつ最優先されるべき再分配上の公平命題であるかのように言及している。豊かな世界が貧しい世界を傷つけているからだ、と。この手の主張において、気候変動の沈静化は、公平性の命題として提示されているわけだ――「我々は貧しい世界に何らかの借りがある」とのように。しかしながら、気候変動の緩慢さ(現行の政策の実行と、その政策の影響の享受に80年のラグがある)を考えれば、我々が採用するであろう(いかなる政策も)、公平性の命題からは、大変非効率的なものとなるだろう。例示するに、バングラディッシュが、海面上昇によって被る被害は、非常に不当であり、これを改善するために、我々は大胆で徹底的な炭素減少プログラムを採用せねばならないと、人によっては主張するかもしれない。しかしながらこれが何を意味するのを考えてみようではないか。80年後にバングラディッシュの人々に利益をもたらすために、カナダが文字通り何十億ドルもの大胆な炭素削減政策に予算を当てるとしよう。カナダの政策とは別途に、現行の成長率を考えれば、バングラディッシュの平均的市民は80年後には今の6倍豊かになっている。遠い未来の人々を助けなければいけないという思想[に基づいた政策]は、現世界が直面している公平性の命題への対応としては最善な方法と思えない場合があるのだ。バングラディッシュの人々を助ける、もっと良い方法はないだろうか?
(想定すべきは、[カナダ]連邦政府により表明されているカナダの先住民の生活環境改善のための処置である。[この政策処置]の最初の便益が得られるようになるのは、おそらく22世紀の初頭になるだろう。)
[途上国の]人々の助ける、より良い方法が存在するはずであると、単純に考える事は可能だ。今だと、純粋な再分配はどうだろう? あるいは、安全な飲料性が確実に確保できるようにするのは? この一連の文脈下で「命題」を見てみれば、すぐにでも人は、[途上国の]人々を助ける多くの異なった政策手段が存在することに気づき始めるはすだ。そして、気候変動の沈静化は、[途上国への処方箋として]特効薬でない事も自明である、と。マラリア撲滅研究への投資なんてのはどうだろう?

ただここで、ビヨン・ロンボルグの路線、「気候変動と闘う代わりに、我々は他の多くの政策課題に取り組まねばならない」のような主張を取らない事は明示しておきたい。私が単に言いたいのは、政策空間には、多くの競合する選択肢があり、どれを行うのが最適なのかには不確実性が存在するとのことである。しかしながら、我々が確信を持てる事の1つが「正しい炭素価格はゼロでない」という事実だ。化石燃料の消費(その他の極少数の[人為的]減少)に起因する、空気・大気への外部性が存在する限り、我々はそれを内部化しないといけないのだ。そしてその時に見出される炭素価格は、SCCによる最新の推定値に基づいたものになる。以上事実により、我々は、[温暖化沈静化政策に]なんらかのチップを置くことができるのだ。将来世代を最善化するようななんらかの政策を具体的に決定せずとも。8

5.「現役世代への適正な優遇」
最後に、最も賛否両論ある問題がある。我々は、将来世代よりも、今日生きている人々をどの程度まで優遇するのを表明する事が許されているのだろうか、ということである。[世代間の利益配分問題に関して]、我々が実行可能で、せねばならない事を検討した、長い論文を書いた事がある。(論文収録雑誌はココ、論文だけだとココ)。私が考えるに、我々が最適に現役世代への『優遇』を実行できないのは、人々を魅了するいくつかの種類の見解があり、それらは高い道徳的見解に見えるからなのだ。しかしながら、[高い道徳的見解を]考え過ぎることは、総合的にクレイジーな結論に至ることになる。今を生きる人や現役世代と、将来世代に、平等な道徳性を負荷してしまう事の大きな問題は、将来世代は、現役世代より遥かに人口が多いことにあるのだ。今存在している人々(ないし、今を生きる人)に対して、なんらかの「優遇」を表面するのを拒否する事は、あらゆる種類の不条理なシナリオの生成をも可能にしてしまう。こうした[過度の道徳的見解を]想定をしてしまうと、今存在する人々以上に、存在していない[将来の]人々への優遇が常時継続して続く事になる。(なぜなら将来世代は非常に多勢だからなのだ)。このことは、結果的に、採用された政策の便益を、現役世代でない人達が得続ける不条理に至ることになる。

なので、炭素税が低価格である理由の大部分は、SCCの計算によって、適正な割引率9 が適応され――そのことで、他の全ての公的投資や支出プログラムは割引率に応じた実際上の行動に至り――これによって、現役世代への「適正な優遇」の測定結果も表明されることになるのである。

結論:「なぜ炭素価格は非常に低価格なんだろうか?」
理由は、気候変動に関するコスト―それは何を行っても、何も行わなわなくとも―は、少なくとも200年間に渡って拡散する。なので、我々は、今すぐこれら負担を穏健な[政策]割当以上に引き受ける義務はないという、複数の理由からなのである。

※訳注:以下は、本エントリのコメント欄で行われた、気候変動の専門家と思われるサム・テイラー氏とヒースとのやり取りである。

サム・テイラー:2016年07月31日の投稿

私は、全面的に『炭素価格付け政策』に賛成してますし、さらに[現行の]与えられた条件下では、[この問題で]正しい方向へ向かう唯一の方法であると考えています。ただ、このエントリは、いくつかの件で若干のどっち付かずの要素がありますし、議論のいくつかには大きな欠陥があるように思えます。

まず最初に。特定の炭素価格を決定する際に、重要視し可能とあなたが導出している『割引率』に不信感があります。実際、被害要素の数値化の仮定において、[あなたの導出した]『割引率』は、炭素価格を設定する際に、単一の決定要因に顕著に依存しています。『割引率』には異なる試算があり、一般的には『スターン価格』と、『ノードハウス価格』の違いとして説明されています。この2つの価格は、大きく異なった数値仮定となっています。さらには、ノードハウスの率は、ネイティブアメリカンがマンハッタン島を24ドルで[オランダ人に]売却した事実を彷彿させます。つまり島を売った部族にとっては、その時点では「良い取引」だったのです。特定の『割引率』を支持するには、強い説得力がある論拠が必要になります。しかし、深く納得できるような見解の表明をほぼ見ることができていません。

また、あなたは「[経済及びエネルギー]消費の最大化」を争点化し主たる論拠として表明しているようですが、[この問題に取り組む]他の人によっては「リスクマネジメント/保険買い取り」として争点化する事をより重要視しているかもしれません。あなたは、経済と気候をスムーズな変動システムとして扱っており(このあなたの仮定や数値入力に依存する限り)成長を通じて人を豊かにするために、炭素は排出しても、最終的には理にかなうことになるでしょう。このあなたの見解は、気候システムが強い非線形的なシステムであり、極めて急速に状態変化を起こしてしまうという強固な地質学的な証拠を無視しているように思えます。現状、我々は、極端なまでに限定された温度領域においてでしか、大規模な集約的農業(一つの事例です)が行えない、との確定事実しか持っていないのです。だから、想定できる甚大な状況を避けるに、我々は、誇大なまでのリスクプレミアムを支払わねばならないかもしれません。例えば、気温3-4℃の上昇はなんらかの[甚大な]危険性を産む可能性があります。気候変動による被害要素[の設定]は”fat tail(太った尻尾)”10 になっている可能性があります。[気候変動による被害要素の設定によっては]あなたが想定しているリスク因子を相当大幅に改定してしまう可能性です。気候変動がシリアの崩壊の要因となったかもしれないと、いくつかの分析は示しています。この事実は、少なくとも、物事を慎重に考えねばならないことになるでしょう。

エネルギーに関して、[地球の常時受取太陽エネルギーと、使用化石燃料の比率である]15000対15の比率は、表層的な楽観主義として喧伝されているだけであり、精査に耐える事実ではありません。[地球が常時受け取っている太陽エネルギーの数値]から、海面、山間部、農業エリア、雲による反射を差し引く事を始めてみれば、あっという間に桁が減り、比率が圧縮されていくでしょう。それこそが緻密な比率です。現実的な数字を適用すると、必要な太陽光発電パネルの面積は、非常に巨大な国々のサイズに等しくなってしまいますから、この引き算は簡単な作業ではないでしょう。追記するに、電力に由来する炭素排出量はおおよその20%にすぎません。他の工業過程(鉄鋼の生成や、ハーバー・ボッシュ法)はおそらく簡単に代用できません。土地利用変化や農業からの炭素排出は言うまでもないでしょう。物理学をバックグラウンドに持ち、エネルギー分野で働くことに少なからず時間を費やしている我が身から見れば、たしかにこの分野には多くの希望的観測があります。ご指摘の通り、太陽エネルギーは膨大です。そして我々は吹き荒れる風を存分に浴びて生きています。しかしながら、これらは、本質的に低品質のエネルギー源なのです。これらは、断続的で、拡散しやすく、低い温度状態にあります。対照的に、石炭や石油や天然ガスは、ずば抜けて優秀なエネルギー運搬手段なのです。容易に保存でき、エネルギー密度が高く、要求に応じて利用可能です。現役世代の再生可能エネルギーと貯蔵技術は、[化石燃料からは]はるかに後方にあります。なので、すぐに追いつけるとの自明性を見出すのは、非常に困難です。さらに、再生核融合研究は数十年に渡って金銭を浪費しており、現役世代の核エネルギーは狂気じみて高価で不人気なものとなっています。なので、これら[核エネルギー]をグローバルに[現役]世代で大規模に共有するのも、非現実的に思えます。

他にも沢山の未解決な問題があります。中国は今も急速に石炭生産量を増やしています。中国が石炭を使用する際の、石炭火力発電所を半分にする方法を想定するのは非常に困難です。イギリスは、天然ガスの採掘をさらに増やすようにジワジワと近接しています。なぜなら我々英国はライトが消える前に何かする必要にかられているからです11 。そして、アメリカ合衆国はすぐにでも大量の老朽化している発電所を建て替えねばなりません。その上、これら老朽資産は完全に減価償却されるようです。低炭素代替社会を目指す説得力がある変更処置のシグナルがなければ、様々な国が炭素集約型インフラの建設に持続的に数十年間も従事する危険性を孕むことになるでしょう。

ジョセフ・ヒース:2016年07月31日の投稿

思慮深いコメントに感謝します、サム。

あなたの最初の指摘ポイントに関して。私のエントリの「理由」の1~5のうち、1と5が、あなたの指摘している社会的『割引率』を決定する際の理由となっており、特に1が最重要です。なので、私は『割引率』の一義的な特徴を提示しただけです。私は、このことだけ[を根拠にする事]で『割引率』を導出したのではありません。

あなたの2つ目の指摘ポイントに関して。気候変動問題に、外部性の社会コストを計算するよりも、『保険』観点のアプローチを優先させても、得るべきものは何もありません。『保険』は、似たようなリスクに直面している多くの人々による、リソース/基金のプール作成の同意に基づいた『協定』です。この『協定』によって、損失を被った人は、『補償』が利用可能になります。これは、気候[変動]の件には適応できません。なぜなら、[地球は]惑星単位では1つだけしか存在しないからです。なので、誰であれ何であれ「プールする領域」は存在しません。よって、炭素削減に伴う費用を、保険買い取り政策と類似して考えるアイデアは、私には適正に思えません。我々が現に行う事は、炭素削減に取り組んでいる時に、有害な気候変動の可能性を減らす事にあるのです。具現化している確実な大惨事シナリオの可能性を減らす事です。(保険とは異なり、今不確実に起こっている事態からの損失に保険をかけても[大惨事の]可能性を減少させることはできないのです)。ここにおいて問題になっているのが、最適なリスク削減の一種です。例えば、今確実に起っている大惨事の可能性を減らす為に、どこまで政策を拡張すれば、どのくらい道理にかなっているのか、といったことになります。私が考える限り、以上を包括した計算数値は、SCCの決定に基づいたコスト・ベネフィット計算数値と同じとなるでしょう。なので、2つのアプローチ(最適な[エネルギー]消費と保険を比べる事)にどのような違いがあるのかは、私には意味がないと思うのです。

サム・テイラー:2016年8月1日の投稿

ジョー。

あなたの『割引率』の導出方法に関しては、理解していましたよ。私が単に考えているのは、炭素価格においてなんらかの『率』を選択する際に、巨大な過敏性が見出される事を、非常に深刻に考慮する必要があるという事です。なぜなら、[過敏性を考慮の入れない方法では]、あなたが好むように、炭素価格の計算は簡単になってしまいます。特に『率』は、様々なパラメータに応じる極僅かな仮定によっても、影響を受ける事が見出されています。我々がなんらかの『率』を決める際の「不確実性」や、『計算式』を決める際の確率分布的な形における「不確実性」は共に巨大な影響を持ちます。つまりは「太った尻尾」の支配が始まるのです12 。これは、安い炭素価格を導いていた仮定群などを帳消しにしかねません。低い炭素価格が必然的に簡単である、との考えは、私には非現実的に思えます。

ハッキリさせましょう。ゼロの『割引率』は、なんらかの異常な状況に導く可能性がある事に、完全に同意します。この件で、私が支持する最近の事例はこのリンク先にあります。

上記に従って、将来において皆が豊かになる(おそらく正しい)であろう論拠に関して。自然が生み出す気候変動による多量のダメージの蓄積という別の事実も存在します。この多量のダメージのうちの一部は、生態系の安定性への影響として、我々には感じられる事になるでしょう。[このダメージの]一部は、生物多様性の減少としても我々には感じられるかもしれません。私の知る限り、以上の[生態系への影響]事象のどれも、炭素価格の数値化においては、必要な考慮事項として補足されていないのです。これらによって、どんな仮定であったとしても、意味の有る価格付けとなっていないと思われます。可能な限り経済的に中立な方法を取ったしても、多くの[生態系]が失われる事になると、私にはまだ思われるのです。自然資本アプローチのようなものがあるとも認識していますが、これらは未発達であり、生態系の多くが非線形で急速な状態変化受けることを考慮すると、炭素価格付け制度は、この[自然の非線形な]挙動を補足するには不十分なメカニズムではないでしょうか?

[前回の投稿で]私が保険と消費を対立させた論拠を提示したのは、あなたとのコンセプトの違いを強調することを試みたのです。しかしながら、議論構築においてベストな方法ではなかったかもしれません。私が理解する限り、我々は最適な炭素価格を算出するのに、様々な平均的な予測に基づいた価格を使用する傾向にあります。しかしながら、人は保険を購入する際、その動機として、早すぎる死亡、家屋の火災のような、人生の生活結果において可能性が最も低い最悪の出来事を改善するのを優先しています。人は、これらリスクに保険をかける際、予測以上の損失を支払う事に明らかに満足しています。(保険産業が存在しない場合は、誰も利益を上げる事はありません)。一般的に人は、最悪の結果を避ける為に、顕著なまでの保険料を支払う用意があるように思えるのです。なので、[行うべき]政策は、予想価格の最大化ではなく、最悪の結果を避ける事に焦点を絞るべきなのだ、という論拠がおそらく導かれるでしょう。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:カナダの環境に関する調査を行っているNPO法人 []
  2. 訳注:SCCに関しては、ココで日本語での詳しい解説を読むことが可能。 []
  3. 訳注:寒冷地は暖房等で一般的に炭素排出量が地球上の他地域より多くなる事が多いため、排出量が世界平均より多くなることが認められている事が多い。 []
  4. 訳注:今のカナダは炭素税の導入等で、自国内で炭素排出量を削減する余地があるとヒースは考えている為、排出権取引を行う状況にないと考えての文章と思われる。 []
  5. 訳注:照明をLEDに切り替える事等は、炭素排出量を減らしつつ、経済的にも利得がある事を指していると思われる。 []
  6. 訳注:炭素税は簡単に導入でき、簡単に小規模の排出削減の蓄積を実現できる、を意味する文章と思われる。 []
  7. 訳注:排出権取引のこと []
  8. 訳注:炭素価格や炭素税を設定すれば、具体的な温暖化対策を想定せずとも、経済主体は半ば自動的に炭素削減の為の行動を取り始めることを可能となる。つまり政策内容いかんに関わらず、炭素削減を目的にした政策に踏み出すことが可能となる(つまりチップを置くことができる)、との意味の言い回しと思われる。 []
  9. 訳注:炭素価格を設定する際の、世代間の負担割合や経済成長を根拠にした「率・レート」のこと。日本語ではココ等で解説を読むことが可能。 []
  10. 訳注:統計グラフ等が太った尾のように横に広がっている状態、つまり正規分布とは違い、不確実性が多く予見が困難な状態。 []
  11. 訳注:イギリスは、規格電圧が高く、照明インフラが高コストになっている事実への言及と思われる。 []
  12. 訳注:上でも説明したが『太った尻尾』とは、統計グラフが左右に大きく分布してしまう現象を指しており、不確実性が大きくなり初期リスクを大きく見積もる可能性が高くなることである。 []

ジョセフ・ヒース「一線を越えたカナダ保守党」(2015年10月5日)

Conservative Party Moves Beyond the Pale” by Joseph Heath

現代民主主義政治にとって最も重要な概念のひとつは「妥当な不一致」である。我々のほとんどがある程度まで賛同する道義や価値観でも、それらがぶつかり合うような場合どちらを優先すべきなのかはっきりしないものが多くある。公共の利益は個人の自由より優先されるべきか。社会的平等を進めるためには公益の損失はどこまでなら許容されるのか。これらは現代政治の妥当な不一致の範囲にあると定義される論点の類だ。政党が左右のスペクトルのどこに位置するかが決まる主要な特徴は、これらの問題に異なる解決策を提示するところである。右派は個人の自由を、左派は平等を強調し、中道派は厚生の最大化を焦点にしている。これはそのまま社会における政府の役割についての異なる複数の見解につながっている。

基本的な原則は大まかに同意されているのだから、ここでいう不一致は「妥当」である。実際、自由民主主義社会ではそれが土台になっており、不一致のほうがより強調されている。例えば、個人の自由は重要だと思う。私も自由は大好きだ。ただ、一部の人々が主張するほど重要だと私は考えていない。だから、例えばアメリカで個人の武器所有の権利を守るために、あんなにも大勢のアメリカ人が銃による大量殺人事件に耐えているのを、不思議に思う。私から見れば、武器所有の自由を行使することで厚生が犠牲になるというのなら、その自由には価値がない。同時に、銃所有の合法性を否定したくはないし、受け入れられないとして社会から排外したくもない。武器所有の自由は(政治哲学でいうところの)リベラルと認識できる見解だ。ただ、個人の自由の名のもとに快く受け入れられるトレードオフの幅を考えると、どちらかというと極端な見解だ。だから私は銃所有の自由に反対する立場で議論するし、カナダで反対派が多数を占めることを喜ぶが、人々が賛成の立場を取って議論するのを悪い行いだとは考えないし、賛成派支持者を賛成の立場を取っているからといって悪人だとも考えない。

しかしながら、妥当な不一致の範疇から外れる政治的立場というものがある。基本的なリベラルの原則または価値観と矛盾するという意味で、これは「一線を越える」行為である。例えば、自分が平等の重要性を軽視し、大きな格差にも耐えるつもりがあるからといって、市民の基本的な法的平等を認めないような人々は全く受け入れられない。これはいわば交渉余地のない原則だ。だからこそ社会的平等にすべての政党や政治参加している人々が同意している。そして政治家がその境界を越えたとき、例えば男性と女性は完全には平等ではないというようなことを発言したとき、人々はいつもよりひどく狼狽するのだ。

カナダ人はかなり穏健な人々だから、政治家も完全に一線を越えるようなことはそんなにしない。だからこそ3日前にクリス・アレクサンダー氏とケリー・レイッチ氏が、他にもいくつか議題はあったとはいえ、「野蛮な文化習慣」を王立カナダ騎馬警察1 に通報できる新しいホットラインについて発表するために記者会見を開いたとき、私は驚き、ぞっとし、仰天したのだ。カナダ連邦政治でこれほど軽蔑に値するものを今まで私は見たことがない。これはカナダ的価値観に対する正面からの攻撃なのか、見せ掛けのカナダ的価値観の「防衛」なのか。どちらがより酷いかわからないが。

この「ホットライン」がどれほど酷いことか本当にわからないひとのために、説明させてもらいたい。法的にも実用としても、これは二度手間だ。アレクサンダー氏が例としてあげたのは、名誉殺人、強制結婚(若すぎる少女の婚姻を含む)、女性器の切除、複婚だ。これらはカナダでは既に犯罪になっており(それどころか「Zero Tolerance for Barbaric Cultural Practices Act(野蛮な文化習慣に対して非寛容に対処することを宣言した法律)」2 によって犯罪と再定義される前から犯罪だった)、カナダにはクライムストッパー3 もいるし、犯罪を疑われる行為を匿名で通報するホットラインも既に存在する。なのになぜ「野蛮な文化習慣」専用ホットラインが必要なのだろうか?

もし法的または実用的な目的がないとしたら、何のためだろう?なぜそんなホットラインを作る必要が?

もっと具体的に言うと、隣人に複数の配偶者がいると疑われるとしよう(我々のように再婚を繰り返す人々とは違って)。クライムストッパーに電話すべきだろうか?それとも「野蛮な文化習慣」ホットラインに?或いは、隣で家庭内暴力が起こっていて妻が夫に殺されそうだと疑ったとしよう。これは「名誉殺人」に相当するだろうか?それとも普通の殺人?何をもとにそう決めるのだろうか?答えはみんな知っていると思う。「野蛮な文化習慣」ホットラインは有色人種を監視し通報するものであって、通常のクライムストッパーの番号は白人用になるのだ。

もしかしたら私は間違っているかもしれない。もしかしたらカナダ人はモルモン教徒をよく見張り始めて、「野蛮な文化習慣」と疑われる行為が見つかり次第「野蛮な文化習慣」ホットラインに通報するようになるかもしれない。私はそうは思わないが。ブリティッシュコロンビア州政府はバウンティフルにいる複婚のモルモン教徒4 を捜査すると決断するまでに23年も無駄にした。この話題にはたいした緊急性はないと思う、一夫多妻制を許可しているパキスタン、イラク、アフガニスタンなどのイスラム教国から大勢の移民や難民がカナダに来るようになるまでは。

さらに、「外出して酒を飲み酔っ払って帰宅して妻を殴る」(あるいは、飲酒による興奮状態であったことを刑事罰の減刑理由として叙情酌量を狙う)ことは「文化習慣」とは見なされないことを我々は誰でも知っている。しかし飲酒もせずアルコールの摂取を許容しない文化を持つイスラム教徒にとっては、そのように映るかもしれない。ここでいう「文化」とはもちろん、「古株」のカナダ人のものではなく、特定の少数派の文化のことを意味する。

結果的に、この政策の唯一可能な帰結というのは、カナダ人が民族や宗教をもとにお互いを差別するようになるということだ。このホットライン案を他にどのように解釈すればいいのか私にはわからない。加えて、同じ犯罪を犯したとしても、他の人々(例えばキリスト教徒やモルモン教徒)よりも特定の民族と宗教の人々(何よりもまずイスラム教徒)を監視するために追加的な投資が必要だと事実上提案されるのだ。これは主に選挙に有利になるために行われる。反対する者は誰でも野蛮な文化習慣に寛容であると笑われ、現在のケベックの不安定な空気を考えればそれはカナダ保守党を難しい立場に追いやることになるからだ。

私が考える限りでは、これは一線を越えている。本当に、「Zero Tolerance 法」においても今回の法案においても、カナダ保守党がやっていることはエルービルの市議会がやったこと5 と大差ない。そしてその陰湿さにおいてもっと酷い。これは政府が難民に酷い対応をしているということだけでなく、政府が普通のカナダ人にお互いに酷い仕打ちをし合うことを推奨していることになる。移民を疑い差別するように積極的に推進する政策に、国民から徴税した税金を使うと提案しているのだ。さらに悪いことに、この案は自滅的だ。なぜなら、少数派に汚名を着せることは彼らをカナダに溶け込ませるのをもっと難しくするし、カナダ的価値観をより受け入れにくくさせる。

個人的なメモだが、ケリー・レイッチ氏がこの酷い見世物に参加したのを、私は大変失望して見ていたといわざると得ない。私はいつも彼女の仕事を若干の関心を持って追っていた。彼女がクイーンズ大学で学部生をしていたときやトロント大学で研修医をしていた頃を知っている共通の友人がかなりいる。共通の友人のすべてが彼女を本質的には感じのいいまともなひとだと言った。たぶん彼女の唯一の大きな欠点は強烈な党派性の光としての存在だろうと付け加えて。彼女は私の選挙区の国会議員でもある。彼女が全国的舞台でこんな風に自分を不名誉に陥れるような行いをするのを見るのは ― 特にイスラム教徒恐怖症の弱みに付け込むのは、推測するに党本部がそうすることが票につながるといったのだろうが ― 恐ろしく悲しいし不快なものだった。

このブログの読者は、私が通常は人々の動機に対して寛大な解釈におもむく傾向があるのをよく知っていると思う。そして保守派に対して寛大であろうと多大なる努力をしている。それは保守派に同意できない点が本当にたくさんあるので、寛大ではない方向に行きやすいというバイアスが私にはあるからだ。だからこそ、「合理的」政治理念の範疇から外れているという理由でカナダ保守党はまったく価値がないと決め付ける ― 多くの私の同僚たちがそうだが ― 傾向と激しく闘っている。また、私は私の出来ることで中道右派のカナダ保守党員を、カナダの右派に見られる極端なイデオロギーに流れ込むのを抑えるために、もっと声を上げるよう促している。しかしながら現時点で私は悩んでいる。現状に対する私の持てる最も寛大な解釈は、基本的に反イスラムカードを切れと言っている保守党が連れてきたオーストラリア人戦略家6 のせいだというものだ。なぜなら彼はこの国に住む必要がないのだから、この国がどうなろうと知ったことじゃない(まさか自分がジェニ・バーンズ氏7 を恋しく思うとは!)。これでもまだ疑いが晴れない。合理的な政治的立場の代表ではなくただの国家の癌としてのフランス政党国民戦線と同じ部類に、カナダ保守党を心の中で位置づけるべきではないかと心理的に思えてきさえする。今のところはカナダ人がまともであるという信頼を失わずにまだ抵抗しているが、ことの進展の仕方によっては考え直す必要が出てくるかもしれない。

しかし私には言えることがひとつだけある。金曜日の記者会見の後、カナダ保守政党は投票するには誰にとっても倫理的に許されない政党になったと私は見なしたということだ一週間前だったら、合理的な人々の間でもどこに投票するか一致しないことがありえると、まだ自分を納得させることができただろう。しかしもう無理だ。

追伸。おまけとして、幾分か学問的な思考でことの均衡を取ってみよう。ある種の攻撃を「ヘイトクライム」と分類することを支持する人々は、たぶん少し立ち止まって該当法令の批判者が何を言っているか考えてみるべきだろう。それはこうだ、犯罪を定義したり罰したりする際に犯意を超えた動機まで考慮に入れようとするのは良い考えではないと。

  1. 王立カナダ騎馬警察(Royal Canadian Mounted Police、略称RCMP)はカナダ連邦政府の警察である。 []
  2. 2015年に制定されたカナダ連邦法。複婚、強制結婚、16歳以下の婚姻などを禁止している。 []
  3. 多くはコミュニティやNGOが運営する組織で、犯罪行為を匿名で通報することができる。利点としては警察の犯罪捜査に直接的に関与しなくてよいこと、匿名性を維持できることなど。 []
  4. ふたりのモルモン教原理主義者が作った町である。2005年に一夫多妻制と性的虐待の疑いが持ち上がり、2007年に犯罪捜査が行われたが十分な証拠がないとして起訴するには至らなかった。 []
  5. 2007年、ケベック州エルービルの市議会は移民を対象とした行動規範を制定したが、これは移民に対する差別と偏見を生むとして国内外で批判を浴びた。 []
  6. リントン・コスビー。オーストラリア人選挙戦略家。オーストラリア連邦選挙でオーストラリア自由党を4度勝利に導いた。その後、英国、カナダ、ニュージーランド、スリランカなどで選挙戦略アドバイザーを歴任している。 []
  7. カナダ保守党政権下で広報部長や首相副補佐官などを勤め、オタワで最も影響力のある女性と呼ばれていた。 []

ジョセフ・ヒース「講義『気候変動問題』のシラバス」(2015年6月23日)

Climate change syllabus
Posted by Joseph Heath on June 23, 2015 | Uncategorized

今秋学期開始のこの講義では、環境倫理学を教える予定です。特に「気候変動問題」に焦点を当てています。本コースは3学年向けのものであり、2学年時の一般環境倫理学を既に履修していることを前提にしています。なので、このコースで基本分野を扱うことは義務付けられておらず、扱うことは少なくなる予定です。エリック・ポズナー (Eric A. Posner) とディヴィッド・ワイスバッハ (David Weisbach)1の本”Climate Change Justice“『気候変動対策の公平性』を基本の教科書として使用し、授業の進行に応じて副読本を追加する予定です。指定資料が全てではありません。私が賛成しそうなものや、議論を呼ぶような資料も追加する必要があるでしょう。ついでに、[本講義は]純粋な環境「倫理」というより、環境における「公平性」や「政策」を重視した内容となっています。

いずれにせよ、どんな追加書籍・論文であろうと、[学生からの]提案を歓迎します。ヘンリー・シュー (Henry Shue)2 、ステファン・ガーディナー (Stephen Gardiner)3 、カレン・マッキノン (Karen McKinnon)4 、ダレル・メレンドルフ (Darrel Moellendorf)5 、その他らは、お馴染みかもしれませんが、私もまだ一部しか読んでいませんので、見逃している良い事例があれば、お知らせください。あと、私はポズナーとワイスバッハの本の内容に従って講義の項目を作成しており(彼らのこの問題への体系化は非常に優れていると考えています)、この本を読んでいない場合、このシラバスは無意味なものとなるでしょう。

PHL373F:環境倫理の諸問題6
気候変動への対処:この講義では、人由来の気候変動問題に対処するための効果的な政策手段を立案するときに直面する、規範的な難問のいくつかを、学生に説明する予定です。
まず、問題の制度的な側面と主な政策手段を説明するところから始めます。そこでは、[人や政府機関等が]共同で行動する際の問題の分析、『炭素価格付け』の理論的根拠、炭素排出の削減を達成する為の主要な制度的メカニズム、等が含まれています。私たちは、そこで具現化した2つの規範的論題に焦点を合わせることになるでしょう。「環境保全はどの程度までなされるべきなのか?」と「『便益』と『負担』をどのように配分するのか?」と言った論題です。
対処するには非常に難しい問題群もあります。それは「現役世代と将来世代との、利益の調整をどのように決定すればよいのか?」とか「将来世代の排出権を決定する際に、『過去の排出量』や現時点での経済的な不平等が果たす役割をどう位置づければよいのだろう?」といったものになります。

1.総括的導入

2.コモンズの悲劇
ギャレット・ハーディンThe Tragedy of the Commons,” 『コモンズの悲劇』 Science 192号(1968年)
トーマス・シェリングミクロ動機とマクロ行動』”Micromotives and Macrobehavior”(1978年)第7章

3.規制についての理論
アフメド・フッセン (Ahmed Hussen)7Principles of Environmental Economics”『環境経済学の原則』(London: Routledge, 2000) 第5章
ロナルド・コース  “The Problem of Social Cost,”『社会的費用の問題8 Journal of Law and Economics, 3 (1960): 1-44.

4.気候危機についての序論
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第1章
ジョン・ブルーム (John Broome)9Climate Matters”『気候の諸問題』(New York: W. W. Norton, 2012),第2章

5.政策手段
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第2章

6.義務論的アプローチ
サイモン・キャニー (Simon Caney)10Climate Change, Human Rights and Moral Thresholds,”『気候変動、人権と道徳による限界』in Stephen Gardiner et. al. (eds.) Climate Ethics (Oxford: Oxford University Press, 2010), pp. 122-145.
キャス・サンスティーン恐怖の法則 予防原則を超えて』“Beyond the Precautionary Principle,” University of Pennsylvania Law Review, 151 (2003): 1003-1058.

7.実質よりもスタイルが大事
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第3章
エリノア・オストロムA Polycentric Approach for Coping With Climate Change,”『気候変動に対処するための多面的アプローチ』 World Bank Policy Research Working Paper 5095 (2009)

8.気候変動と再分配の公平性
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第4章

9.悪事を成敗する
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第5章
ウォルター・シノット・アームストロング (Walter Sinnott-Armstrong)11   “It’s Not My Fault,”『それは私の責任じゃない』in Stephen Gardiner et. al. (eds.) Climate Ethics (Oxford: Oxford University Press, 2010), pp. 332-346.

10.1人あたりの排出権
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第5章
サイモン・キャニー“Justice and the Distribution of Greenhouse Gas Emissions,”『温室効果ガス排出における公平性と再分配』Journal of Global Ethics, 5 (2009): 125-146.

11.将来世代
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第7章
デイヴィッド・ピアース (David Pearce)12  、ベン・グルーム (Ben Groom) 、キャメロン・ヘプバーン (Cameron Hepburn) 、フィービー・クローンドリィ (Phoebe Koundouri) “Valuing the Future,”『将来世代を評価する』World Economics, 4 (2003): 121-141.

12.結論と総括
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第8章

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:”Justice”は「公平性」と訳している。
※訳注:指定書籍・論文で、邦訳があるものは、邦訳タイトルをまず記載した後に、原題を記載している。邦訳がないものは、原題の記載後に、暫定の邦題を『』で囲った上で続けて記載している。指定の書籍・論文で、ウェブ上で確認できたものにはリンクを貼っている。
※訳注:挙がっている人名で、邦訳された人名がある場合はその記載に従っている。人名が日本で一般的で無い場合は、暫定の邦訳人名を記載した後に、アルファベット表記の人名を続けて記載している。
※訳注:書籍・論文の著者で日本語版のウィキペディアに項目がある人物は、ウィキペディアにリンクを張ることで説明を割愛している。

  1. 訳注:共にシカゴ大学ロースクールの教授。エリック・ポズナーは、「法と経済学」で有名なリチャード・ポズナーの息子である。 []
  2. 訳注:オックスフォード大学教授。政治学が専門 []
  3. 訳注:ワシントン大学教授。哲学者 []
  4. 訳注:レディング大学教授。公共政策と気候変動の研究が専門 []
  5. 訳注:ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン教授。政治倫理学が専門 []
  6. 訳注:PHL373Fは講義の管理コード []
  7. 訳注:経済学者。カラマズー大学経済学部教授。環境問題が専門。同名の政治家との混合に注意。 []
  8. 訳注:有名な『コースの定理』が始めて提唱された論文。邦訳書籍『企業・市場・法』の第5章に収録 []
  9. 訳注:オックスフォード大学教授。哲学および経済が専門 []
  10. 訳注:オックスフォード大学教授。政治理論が専門 []
  11. 訳注:デューク大学教授。哲学者 []
  12. 訳注:経済学者。元ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン教授 []

ジョセフ・ヒース 「規範的な社会学(normative sociology)」の問題について (2015年6月16日)

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先週のエントリでは、昨今のアカデミアで見られる複合的な振る舞いについてジャーナリストたちが「ポリティカル・コレクトネス」という意味未分化な単語で描写しがちであることへの不満を述べました。「古典的な」ポリティカル・コレクトネス-たとえば言葉狩り-の問題はすっかり廃れているのですが、それとは別の困った傾向が潮流として存在することを述べたのです。今週はその続きとして、私たち(物事を分類するのが大好きなのです)が「規範的な社会学(normative sociology)」と呼んでいる、やはり少々問題がある慣習について書こうと思います。

この「規範的な社会学」というコンセプトの由来は、ロバート・ノージックが「アナーキー・国家・ユートピア」の中で軽い調子で書いたジョークです。「規範的社会学、つまり『何が問題を引き起こしている”べき”なのか』、の学問がわれわれ全員を魅了する」。これはカジュアルな発言ながら鋭い観察です。社会問題の研究にはほとんど抗い難い誘惑があります。それは自分がその問題の原因であってほしいものを研究してしまい(その理由は何であれ)、本当の原因を無視してしまうことです。これを修正しないまま続けていくと、さまざまな社会問題についての「”政治的に正しい”説明現象」が起こります。つまり、AがBを引き起こしているかどうかに関してしっかりした証拠はないのに、どういう訳か、AはBの原因であるべきだと考えてしまうという現象です。さらに、AがBを引き起こすという関係を否定することは道徳的な非難を受けるという状況に至り、この関係は証拠を調べることによってではなく、「そうあるべきだと思うから」という理由で支持されるようになります。

話を進めるために一例を挙げましょう。「人種差別」に関して、証拠が示すところをはるかに超えた強い因果関係の主張がなされているのをしばしば耳にします。その中には正しい主張もあるでしょうけれど、そこには聖なる道徳の印が刻まれており疑わしい因果関係が仮定されています。これは倒錯です。何が何を引き起こしているかという問題は純粋に実証的であるべきだからです。

その因果のつながりを問うことはしかし「人種差別を小さく見積もる」方向になりがちです。(実際、上の二つのセンテンスを読んで「オーマイガッ、この筆者は人種差別を小さく見積もろうとしているな」と思いはじめる人がほとんどでしょう)。また、人種差別はとても悪しき事であるがゆえに、それが他の多くの悪しき事をも引き起こしているに違いない、という感覚もあるようです。しかしこの直感は道徳的なものであり、非論理的です。一般に、(本質的に)極端に悪い事象なり、非常に一般的な事象であっても、因果の論理という面では特段重要ではないということなど幾らでもあり得ます。

この種の道徳と因果関係の間の倒錯はしばしば起こっていると感じます。さらに言えば、この問題は「定性的な」社会科学の領域で特に大きな悪さをしていると考えます(私はこの分野に強い共感を抱くものではありますが)。実は、社会科学の定量的アプローチの大きな利点の一つは、規範的な社会学をすることだけで済ますことを不可能にするところにあります。

なお「規範的な社会学」に左翼バイアスがあるというわけではなく、保守側の事例も多くあります(例えば離婚率の上昇は同性愛の受容が関係している、とか、婚外児の出産は福祉制度によって引き起こされている、など)。ただ、左の人々は社会問題を解決することに熱心であることが多く、それゆえ具体的な関心がより強いため判断に強いバイアスがかかりがちなのです。これは非常に苛立たしい状況です。原因を攻めることによって社会問題を解決しようとするためには因果関係を正しく把握しなければなりません。さもなくば介入が役に立たないどころか、逆効果になりさえします。

これは「反逆の神話」の中で消費主義について書いたときに考えていたことです。この本でアンドリューと私が示したかったことの一つは次のようなことです。左翼は「過剰生産による恐慌は資本主義の宿命である」というマルクスの古い思想を基本的に受け入れて、何が消費主義を引き起こしたかの理論を打ち立てそれに固執しました。そして、消費主義に関連するさまざまな現象(公告、計画的な陳腐化、不足感を煽り続けること)は、過剰生産の問題を何とかする試みであるとして説明しようとしたのです。こうして時間をかけ、精巧な建造物がこのたった一つの根拠の薄い主張の上に構築されて行きました。この主張は実証的に検証されることもなく、しかも少し詳細に分析すれば意味すらなさないものだったのにもかかわらずです。資本主義には「矛盾」がビルトインされていると信じたかったのです。かくして、活動家たちは本来解決しようとしていた問題とは関係のないものを変えようとし、とりわけ消費主義の問題ではむしろ事態を悪化させる「解決策」を推し進めようとし、結果として膨大なエネルギーを浪費することになりました。

私はそのように考えていたので、ロバート・フランクの著書「Choosing the Right Pond」の次の箇所には感銘を受けました。以下の箇所で彼は上に書いた左翼の傾向について不満を正確に述べています。

左の批評家たちは歪んだレンズを通して市場を見ている。彼らはまず、市場の中に強者が弱者を搾取するシステムを見る。市場支配力がある企業は、機会が限られている労働者たちよりも不当に有利な立場にあると。左の批評家たちはさらに、市場は社会のニーズのない製品を売ることを促しており、市場はこれに立脚してすらいると見る。彼らは巧みな広告を見て、環境は汚染され、子供たちの読むべき良い本がない状況なのにもかかわらず、引っ込み式のヘッドライトを備えた燃費の悪い車に所得を吐き出させるように人々を誘惑するものだと捉える。そして最終的には、市場システムにおける報酬は、必要性にもまたメリットにさえも比例しないとする。ほんの少し才能や能力が違うだけで、しばしば収入が劇的に変わるというわけだ。報酬は行われた仕事の社会的価値とほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

ここまではお馴染みの話ですが、ここからもっと面白くなります。

ほとんどの人は当然ながら、政治的スペクトルの両極端に位置しているわけではない。市場システムについて両端の勢力が主張している見方の中間のどこかを真実と見ているだろう。本章において、一番実りの多い解釈は市場が両端の主張の中間地点に領域にあると安易に捉えることではないということを述べる。ここで描写される市場は、擁護者が主張している肯定的な諸価値と、批判されている欠陥を網羅したものになるだろう。但し、左翼が市場がうまくいっていない理由として指摘しているものはほとんど例外なく間違いであることについても述べよう。(162-3)ほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

この章の締めくくりは控えめな勝利宣言です。

左翼は、実際の問題を特定しながらそれを間違った原因に帰着させてしまったため、政策としての解決策を提示することが難しいということになったのだ。(177)

このような意見表明を聞くことは滅多にありませんので読んで驚いたものです。左翼は常に正しく問題を捉え、しかし説明を間違え(そして間違いと判明してからも長い間それに執着し)、そのため何ら実効性のあることができていません。

「規範的な社会学」はいろいろな意味でこのことと関係していると思います。また、ざっくり見たところ(社会問題を批評する人の言うことを何百時間も聞いてきた経験から)次のような四種類があります。

1.政策手段を求めて

そもそも未解決の社会問題が未解決になっているのは、その問題が直ちに法的な判断が下せる領域の外で起こっているからです。それは私的領域での問題だったり(たとえば家族内でのジェンダーの分業)、個人の自主性の行使と関係するものだったりします(たとえば高校からの落ちこぼれ)。従って問題を簡単に解決できる明確な政策手段は存在しません。国は単純にこれらの分野に直接介入する権威(あるいは権力)を持っていないのです。

よって、それらの問題の解決を望んで問題分析に取り組む人にとっては、何か別の政府が政策手段を確かに持っている領域が、対象と因果関係を持つと考えたくなるという、非常に強い誘惑が存在するわけです。この傾向がいちばん明確に表れているのは不平等からの因果関係を過大視する傾向だと思います。なるほど富の再配分は政府がコントロールすることができます。なのでもし「厄介な社会問題A」が「集団Bの貧困」によって引き起こされているということを示すことができれば、政府に問題Aの解決手段が与えられることになります。集団Bに富を再配分することは常に可能なのですから。

具体的な例として、昨今よく耳にする「社会的健康勾配(social health gradient)」というものがあります。健康状態とSES(socio-economic status: 社会経済的地位)の間には驚くほどの強い相関があります。対して医療リソースの分布は比較的公平なのです。SESは、富と社会的地位の不平等を統合して表すようにデザインされた複合概念です。当然のことですが、国からすれば富は容易に再分配することができるものである一方、社会的地位の方の扱いはかなり難しく、そのヒエラルキーに介入したり、ましてや改良したりする力は国にもほとんどありません(富の再分配よって間接的に介入することはあり得るでしょう。しかし、その受益者は給付を受けるという正にそのことよって社会的地位を失ってしまうという、意図と逆の結果に終わることが多いのです)。このように地位の不平等に関連する社会的健康勾配に対しては、国にできることが事実上何もないのです。公衆衛生に関してのこんなプレゼンテーションは、これまで幾つ聴いて来たかわかりません。SESの話から始まるのですが、富の不平等の話に微妙にずれて行き、何らかの所得再分配を推奨して終わるというような。

2.「被害者を非難してしまう」心配

この道徳と因果関係との間のいちばん良くある錯誤は、人々が「責任」を考え始めるときに発生します。X氏がAを引き起こした時に、Aの責任はX氏が負うと考える傾向はものすごく強いものがあります。そのため、あなたがAの責任X氏に負わせることを望まない時には、 X氏の選択ないし行為がAを引き起こしたことを示唆するものすべてに抵抗したくなる強い誘因を覚えることになるわけです。これはもちろん錯誤です。なぜなら、X氏がAを引き起こしたのかどうかは単に事実の問題であって、責任の問題を判定するものではないからです。ところが、学者がある社会問題の原因について単に実証的な結論を述べた際に、「被害者を非難するのか?」と攻撃される話をしばしば耳にするわけです。道徳が無関係なところに侵入しているのです。この種の推論に従ってしまうと、私たちは「本当の原因そのもの」についてではなく、「本当の原因であってほしいもの」について語ることにのみ終始するようになります。

もう少し説明しましょう。ある結果に対する責任を誰かに割り当てるとき、原因(因果関係)はその目的のための必要条件ですが、十分条件ではない場合もむしろ多くあります。「『多すぎる原因』現象」と呼ばれるものがあるのです。たとえば私がビール瓶を窓から戸外に放り投げたとして、下の通行人がケガをしたら、ケガを引き起こしたのは私であることは明白です。ただ、他にもその人がその瞬間に私の家の前を散歩しようと思い立ったこともまたケガを引き起こしています。同様に、その場所での散歩が禁じられていないということや、酒屋が私にビールを売ったことなど、寄与していたことはいくらでもあるのです。このように「誰の責任であるか」は因果とは別の問題です。「何が何を引き起こしたという話」と「誰の責任なのかという問題」とは完全に切り離されるべきなのです。もちろんたいていの場合前者は後者のための議論ですが、前者の議論に後者への関心を持ち込むことは厳に避けられるべきです。

この問題がはっきり出ている例を一つ挙げましょう。貧しい国々の開発が遅れている原因として地域事情があることを認めることに対する非常に強い抵抗です。貧困は金持ち国によってもたらされている害悪であるとか、あるいは金持ち国の過去の罪のせい(たとえば植民地主義の遺産)であるとして取り扱うための圧力が存在します。そうなってしまうのは、説得力のあるメカニズムを想定することによって、と言うより、「被害者を非難」したり貧しい国々の人々自身の状況のせいにすることを避けるために、という方がむしろ適切です。

3.相関の片側を強調

これは微妙な問題です。統計分析ではよく二つの事柄間の相関関係を明らかにするのですが、誰もが知っているように相関関係は因果関係を意味しません。AがBと相関する場合には次の可能性があります。1)AがBを引き起こしているか、2)BがAを引き起こしているか、3)互いに補強し合っているか、4)別のCがAとBの両方を引き起こしているか。にもかかわらず統計的相関が因果関係として報道されることなどしょっちゅうです。(例えば、医療報道でも大きな問題です。私の母は大人になっても、アルツハイマー病患者の脳にアルミニウムが存在していたという研究の報道に影響され、アルミニウム鍋での調理や抗発汗剤の使用を恐れていました。しかしこの研究が正しいとしても、アルミニウムへの暴露がアルツハイマー病を引き起こしているとする理由はなく、話しは逆で病気がアルミニウムの蓄積を引き起こした可能性もあります。)このような思考の転倒はいつでも起こり得るもので、AがBを引き起こしていると考えたい人が、相関関係の証拠に過ぎないものを自分の見解を立証するものと見なしてしまうのは自然なことです。

上記三つの傾向を全部含んだ格好の例を提供してくれるのが、所謂「貧困の文化(culture of poverty)」についての議論です。貧困には、自己弱体化とでも言うべきさまざまな行動(十代の妊娠、家族崩壊、麻薬中毒、ドメスティックバイオレンスなど)が伴うということが(統計的に)はっきりしています。これを踏まえてステレオタイプの保守派はこう言います。「彼らが貧しいのも無理はない。彼らが自身が間違った選択をしたのだから。」同じものを見てステレオタイプのリベラルはこう言います。「彼らが悪い選択をしてしまったのは無理もない。彼らはとても貧しいのだから。」実際には両方が相互に補強し合っているとするのが妥当な場合が多いのですが、因果関係の片方向を抽出し、そちらだけに集中するというのが、むしろよく見られるイデオロギー的反応です。

リベラルのこの振る舞いは上記の「政策手段を求めて」とみなすこともできます。「貧困の文化」と説明はされますが、誰もそれを変えるアイデアを持っていません – 聖職者の説法を聴けば少しは良くなるというものでもないでしょう。ところがお金の再配分なら実行可能です。また同じく上記の「犠牲者を非難する」のを避けようとする欲望も明らかに発動しています。悪い文化的傾向を「前提と考える」のは、何らかの形で個々に責任を負わせていると見られることになってしまいます。しかしお金を配れば良いとするならばその心配がありません。)

4.道徳的畏敬

先にも少し書いたのですが、ある種の行動やエピソードについては道徳的畏敬(the moral awfulness)により重大な帰結が要請されている、ということがしばしばあります。そこからは容易に、この帰結を認めない者はある意味で道徳的畏敬を軽視しているという認識が導かれます。(誰もが道徳的な帰結主義者であるならばこの問題はありません。道徳的畏敬が純粋に効果にだけ向けられるのであれば、効果が小さければ畏敬もわずかで済みます。しかしほとんどの人は帰結主義者ではないのです。)

近年の議論におけるこの一つの良い例は、不平等の広がりに対する態度です。ほとんどの人は不平等はとても悪しき事と考えています。そして、とても悪しき事はさらに多くの別の悪いことを引き起こしているに違いないと考えたくなります(リチャード・ウィルキンソン とケイト・ピケットによる「平等社会」やジョセフ・スティグリッツの「世界の99%を貧困にする経済」がこの傾向のよい例です)。また、政情不安や革命は貧困と不平等によって引き起こされると考える欲望にも根強いものがあります。しかし証拠からは、むしろ不平等は「原因になっていない」ことが示唆されています(実は重要なのは「期待の高まり」なのです)。こうして不平等からのそのような連鎖を認めない人であっても、その言い訳をしようとしがちになります。(ここではクルーグマンがスティグリッツの文章に対して興味深いコメントをしているのですが、わざわざ自分が不平等を批判するものであることを強調していることに注目しましょう)

追記:アレックスさん、貴重なご指摘どうもありがとう。二点。第一に、社会学者の一部はこの問題に敏感になりつつあります。誤解を招かないように言いますが、この話は実際の社会学についてのものではありません。次のジョークの中で”社会学”という単語が使われているということです。「社会学者は社会の問題(たとえば、何だか変な風習)の原因を研究する人々です。規範的社会学者は何が原因であるべきかを研究する人々です(よほど変!)。」私自身は、実際の社会学者に対してではなく、第一に哲学および政治理論畑の人々に適用するものとしてこの言葉を使います。第二に、「お前こそ主張をサポートする証拠を示していないではないか」との指摘に対しては「ええと、これはブログエントリなのですが」と。もしあなたが規範的社会学がなされるのを一度も見たことがないとおっしゃるなら、ご同慶の至りです。あなたは私が参加してきた会議よりもまともな会議に出て来られたのでしょう。

ジョセフ・ヒース『ナオミ・クラインについての最終論考』(2015年9月22日)

Final thoughts on Naomi Klein
Posted by Joseph Heath on September 22, 2015 | environment, politics

このブログの読者ならお気付きと思われるが、今年、ナオミ・クラインの気候変動本『全てをかえる物語』について言及したのを皮切りに、私は少なからずの時間クラインに浪費している。読者の何人かから、直接、ないしやんわりと、クラインへの妄執が過ぎることを指摘されたのである。よって少し弁明しておきたい。まずは、過去に数年にわたっての[クラインについての言及が含まれる]言説を総括し、幾つか提供してみる。

以下に過去の論考を並べてみた。
ナオミ・クライン:『全てをかえる物語』[訳注:本サイトでの邦訳版はココ]
ナオミ・クライン、追伸1
ナオミ・クライン、追伸2

次に以下は、私の『気候変動』についての過去のエントリである。
『税を税たらしめるものとは何か? 炭素税vs.炭素価格付け』
『炭素税/価格付けにおいて、2つの賢明で無い論点』
『ホッブズの難解な概念』

以上に追加して最後は、私の気候変動政策についての授業のシラバス[訳注:本サイトでの邦訳版はココ]である。(シラバスは、気候変動について感心がある人は読む価値があると思われる)。

個人的に、クラインの本についてこうも長期間にわたって言及してきた理由に、端的に近年は『気候変動問題』について考えるのに時間を割いてきたからなのだ。私が読んできた本の中には、この件[気候変動]についての悪書も多く含まれていた。しかしながら、クラインの本は詳細に論ずるに値する本でもある。理由の一つは、彼女が『世界の知識人』ランキングのトップ100やトップ50に定期的にリストアップされており、多くの場合はトップ10に入っていることにある。つまり、多くの人々が彼女の著作や話す内容を、とても真面目に読んでいる訳なのだ。これは、クラインが、左派でいうところのノーム・チョムスキーや、右派でいうところのアイン・ランドと同じタイプの人になってしまっている事を示す理由の一端にもなっている。クラインやチョムスキーやランドは、高校生や大学の学部生からは異様に人気があるが、より高度な教育を受けた人(特に、私のような大学教授)らからは、ほとんど無視されているような人達である。しかしながら、これらの人々を無視している人で、『なぜ』彼女らの意見を真面目に相手にしないのかを、わざわざ説明する人は滅多にいない。クラインらが学者らから無視されている事で、彼女らの著作に関心している人々は、著作や思想を、もろもろの陰謀論や、[反アカデミア的な]政治イデオロギーの源泉にしてしまっている。もちろん、それは端的に間違えているのだ。

学部生の頃の、私の『ノーム・チョムスキーの時代』は今でも思い出すことができる。当時チョムスキーの意見が誰からも相手にされていないことにとても戸惑ったものだ。チョムスキーの主張には、他の人が同意しかねる要素がいくつも含まれている、ということには当時の私も理解していた。しかし、彼の政治的意見がここまで完全に無視されている理由は理解できなかったし、その理由を説明してくれる人も見つけられなかった。もちろん、大学院を終える事には、私もその理由を理解できるようになっていた。そして、私も「チョムスキーの政治的意見の何が間違えているのか、わざわざ説明してくれない人々」の一員となっていた。私がわざわざ説明しないのは、チョムスキーが[政治的見解に関しては]世界に特に強大な影響力を保持していると思っていないからだ。彼の著作に影響された人がその考えを発しても、個人的にも特に困ってもいない。

アイン・ランドに関しては、チョムスキーと違って非常に有害であると考えている。事実、一般向けの自著の何箇所かで、ランドについて言及し、彼女の見解の問題点を指摘してきた。(特徴的なのは、彼女の主要な小説に通底している強固なニーチェの哲学思想だ。彼女がニーチェの哲学の影響下にある事例を挙げさせてもらうなら、[彼女の思想において]『レイプ』は単に許容されているだけではなく、[既成の倫理や利他行動に縛られる俗物と、『善悪の彼岸』に達したエリート間の]両陣営を分かつ教化体験とされている事にある)。今のクラインは、[アイン・ランドのような選別思想の]同調者では明確に無いだろう。それでも、私は、クラインは世の中に対して、本質的には悪影響を与える存在であると考えている。クラインの最大の問題は、彼女の見解が「とにかく意味をなしていない」ということ尽きる。彼女はあらゆる社会問題につきまとって、それら社会問題の『バイブル』になるような本を書いて出版しようとする。それでいて、彼女の本は、社会運動家達を不毛の地に放り出してしまうことにしか成功していない。

労働組合でクラインとルイス1 の[書籍を元にしたドキュメンタリー]映画『全てをかえる物語』見た後に、私がそこで主張した事がある。クラインとルイスは催涙弾を嗅ぎ回る時間を減らして、図書館での読書時間を増やすべきだ、と。以上主張は、使い古された教訓に聞こえるかもしれない。それでもこれは重要な観点なのだ。クラインが[なんらかの事象の]本を書く際のやり方の大部分は、私と完全に真逆なのである。私は、[事象が]何であるかの『見解』の把握に、時間と労力の90%近くを使っている。私は[『見解』を得るための]時間のほとんどで、読書ないし、友人や大学の同僚と議論を行うことになる。そして『見解』が固まってから、『素材』の収集に残りの10%を使うことになる。そこで必要とされる『素材』、すなわち『データ』は、具体的な主張であったり、議論を具体化するための小話や逸話や、持論を補強するインタビューや報道記事となる。以上言及した私のやり方と、クラインのやり方は全く正反対となっている。彼女のやり方は、『素材』の収集に少なくとも90%の労力使った後、後付の『見解』が適当に付け加えられている。こういったクラインの仕事やり方が、私にクラインを理解することを困難にさせているのだ。

事例を挙げると、彼女の新著のサブタイトルは『資本主義vs環境』である。しかし、この本[を読むこと]で、『資本主義』や『環境と資本主義の関係性』に対するクラインの『見解』が何であるのかに説明するのは、非常に困難だ。この本について言及したこのブログの最初のエントリでは、私は慎重かつ好意的に、クラインの言わんとする事の謎解きを試み、彼女を理解しようとした。該当エントリは私なりの努力の記録となっている。容易ではなかったし、私以外の人もそうであったようだ。

クラインの愛読者に会った時、「クラインは、様々な事案についての何か具体的な『見解』を持っているのか?」と私はいつも尋ねている。良い返答を貰えたことはいまだない。愛読者達が、彼女の著作内容が間違えていることを理解している事実に遭遇することすらある。クラインが、なんらかの常識や、実用的な見解(例えば、『炭素価格付け政策』を補強するような見解)を持っているとか、逆に何の見解も持っていないかもしれないと、想定する自体が間違えているかもしれないのである。私がしばしば遭遇してきたのが、雰囲気や気分の連想的な物である。つまり[クラインを愛読する]人々は、クラインの漠然とした関心――環境問題は切迫しており、企業は悪意を持っており、資本主義はなにがしかの責務を追うべきである――を共有しているのだ。

社会変革の飽くなき支持者であるはずのナオミ・クラインが、どのような変革をもたらすべきかということの判断や説明をすることに、なぜこれ程までに僅かな知的労力しか払っていないのか、ということに私は長い間困惑してきた。社会正義の運動家になるつもりなら、社会正義とは何であるかということについてのコンセプトを明らかにすることから始めるべきだ、と私には思えたのだ。社会正義とは何であるかを他人に説明して、その理念から現在の制度の状況がいかに外れているかを示すべきだろう。しかし、ある時点で、このアプローチには私にとっては当たり前に思えても(そもそも私は理論家なのだ)、他の人にとっては当たり前ではないのだということに思い至った。特に、このやり方は、クラインによる社会問題へのアプローチとは異なっているのである。クラインの新著の一節は、私に以上の説の理解を促すことになった。以下は、新著の中ほどになるが、彼女がギリシャに旅行に出かけて、そこでの[市民の]抗議活動を描写している一節である。

イェリッソス2 では、地元住民たちが村の出入り口にバリケードを建設しました。住人を追ってきた200人を超える重武装の凶暴な警官たちは隊を組んで街の狭い通りを練り歩き、催涙弾を全方向に発射したのです。催涙弾の一つが、学校の敷地内で破裂することになりました。結果、学校で授業中の子供たちが窒息に苦しむことになったのです。(298p)

以上一節を読んだ時、校庭に催涙弾が打ち込まれたという些細な事実に、個人的には驚かされることになった。具体的に言うと、[クラインの本は]少なくとも気象変動についての本と私は見なしていたので、気候変動とまったく関係ない催涙ガスの描写に、非常に戸惑ったのだ。ギリシャにおける金・銅山の開発計画への地元の抵抗が取り上げられているわけだが、気候変動との関係は何も示されないままに話が進んでいる。(鉱山開発は、[自然ないし弱者階級からの]『搾取』だとクラインは朧げに考えており、気象危機を生成している[搾取・陰謀を行っているなんらかの存在の動機と]同質のものとして仄めかされて、提示されているのだ)。なんにせよ、クラインが、金鉱山の開発計画と気候変動を関連付けているとしても、学校内に催涙弾が打ち込まれた観察事例を持ち出すのが、奇妙な事に変わりない。そもそも、彼女の著述内容から、何が起こったのかを理解するのが困難なのである。この箇所を読む読者は、登場する警官がどんな目的を持ってこういった行為を行っているかを知りたいと思うわけである。通りを練り歩いた『重武装』の警官たちが、左右構わずに無秩序に催涙弾を発射した理由等である。クラインは、[鉱山開発への]抗議者達がどこにいるのかに関して何も書いていないので、描写されている警官たちの行動がとりわけ意味不明なのだ。もしかしたら、抗議者達は[警官と]向かい合っていて、暴走した警官たちによって、学校内に催涙弾の一つが投げ込こまれることになったのだろうか? クラインが何を言わんとするかを理解するのは困難である。

しかしながら、この一節を読んだ私が最も直面させられた疑問は、クラインはこのようなルポを本に収用する必要性をなぜ見出したのだろうか、ということである。この本は566ページの大著なので、特段[助長なエピソード等を含めて]引き伸ばす必要はないと思われるのだ。ギリシャの学校で子供たちが催涙ガスに直面するような事故は、ギリシャ政府が自国市民への危害意図を持っていることを意味するのかもしれない。どっちにせよ、(「誰かが、どこかで、なんらかの悪意に相対している」のような抽象的レベルの見解の遥か以前に)、具体的なレベルで、この本は気候変動について本であるのに、こんな事例が描かれているの事が気にかかるのである。

クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。これは私の推測であるが、このようなエピソードは彼女の道徳的指向を示している。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(彼女にとっては、世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、と考えるわけである。要するに、このことは彼女にとって『明白な道徳』を示しているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているのだ。

要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。[体制への]抗議者は善であり、警察(または『抑圧の暴力』)は悪である、と。これが、学校の校庭に催涙ガスが着弾したという話が[気候変動と]関係があるとされている理由でもある。「警察は悪である」ということを読者が前提としていなかったり、納得していない場合に備えて、「警官は悪である」と読者に想起されるために書かれているのだ

クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が『善』であることはあり得ない。だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。

一方で、クラインの論じ方を[全てを乱雑に関連付けるものであると]認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。まず第一に、抗議運動家たちは[クラインの描く]物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には[正義の]一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。[クラインの見解に従うと]全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。[愛読者から見れば]クラインは具体的なビジョンを何も語っていないように見える。しかし、なんらかのビジョンに至る大まかな目標を知っているかのようにも見える。なのでクラインの著作活動を追いかければいつか『見解』を示してくれるかもしれない…。

以上が、私のナオミ・クライン解釈学だ。私の思いつく全てであり、これで終了だ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:本エントリはデビット・ライス氏の部分訳を元にWARE_bluefieldがライス氏の許可の元、全訳している。
※訳注:”view”は基本的に『見解』と訳している。

  1. 訳注:アヴィ・ルイス。映像ジャーナリスト。クラインの公私におけるパートナー。 []
  2. 訳注:ギリシャ北部の都市 []

ジョセフ・ヒース『トランプ大統領の省察』(2016年11月10日)

Thoughts on President Trump
Posted by Joseph Heath on November 10, 2016 | political philosophy, United States

トランプの当選については、多くの論点が言及済みだが、まだ大きな関心が払われていない幾つかについて指摘しておきたい。

まず最初に。この結果に本当に驚いたことを表明するのを許して欲しい。数週間前から正解を予言していたアンドリュー・ポター1 には祝福を! 昨夜までは思っていたのだ、ポターは間違えていると。有権者の投票行動においては、「政党の地方支部活動」の重要性がほぼ全てだと信じていた。トランプが選挙キャンペーン組織をまとめあげられなかったことで、受けた打撃は、個人的に思っていたほどではなかった。

この[トランプの当選]結果は、政治学による評論家への偉大な勝利である事も記さねばならない。選挙時のディベートにおける立ち振舞やそこでのヘマのような事象は、大した事象ではない、と政治学は教えてくれる。政治学においては、選挙結果は、極少数の『マクロ』要因に「左右される」――この要因の最重要要素は、政権与党を変更させたいという[有権者の]要望であるとされている。2

火曜日のニューヨーク・タイムズで、トランプとロブ・フォード3 の類似性に私は言及した。トランプとフォードの2人が、選挙戦を行うのに際してとった行動は、従来のメディアの知見からみれば、行いうる限りにおいてほぼ全て間違えていた。にも関わらず彼らは勝利を収めたのだ。(ただ、トランプは総投票数では敗北し、選挙人制度においてのみ勝利を収めたことで、彼の勝利は価値を持たないことを私は示唆しておきたい)。トランプとフォードの強い類似を鑑みた時に、私が推察するのは、選挙戦におけるトランプの変遷が、フォードのそれと多くの点で似通っていた事だ。選挙の初年度、トランプは自らの意思で有権者を威圧しようとしていた。しかし時が経つにつれて、トランプは、自らの掟破りの言動の蓄積によって、自縄自縛に陥ることになっていった。

ただ、私がここで言及したいのは上記の件ではない。それよりも以下の2つの事項について省察を行いたい。

[1つ目はこの現象が]どのように起こったのかだ。

トランプの当選結果は、多くの異なる要素の集約によって出来上がっている。人種や経済的要因のような特徴的な要素を過小評価しないなら、個人的に追加言及しておきたいのが、トランプの支持者達が皆一様に表明していた一つの動機である。トランプの支持者達が希求していたのは、『腐敗した』現行政治制度への『チェンジ』だった。この点において、2人の候補者間には明らかな対照性が存在した。ヒラリー・クリントンの(自身が確実に行ってきた過去の事例に基いている)特化された専門性は、連邦政府の政治構造に居座っている様のような周知事実によっても、彼女が年期を経た政治的インサイダーであることを知らしめていた。『Citizens United(シチズンズ・ユナイテッド)4 』への不満を言うのを少し控えると、アメリカの統治形態が多様化しすぎている事に対して、ヒラリーが全く関心を持っていないことは明白だった。ヒラリーは現状在り方の推進に強く関心を持っていたのだ。正確に言うなら、彼女が主に売り込んでいた主張は、現行制度の複雑な回路を操作する能力だった。ここにヒラリーとトランプの対照性が現れている。この対照下において、トランプに投票するのは、雑貨屋に猛り狂った雄牛を送り込むような事だった。トランプは、既存の政治構造に、可能な限りにダメージを与えることが予測できたのだ。

ここで疑問が生じる。なぜこれほど多くのアメリカ人が、ここまで極端な方法でもって、自国の政治制度にダメージを与えることを欲したのだろう? 私が考える答えは、アメリカの政治制度には、極端なバクチ要素が内包されているということだ。これは、根本[制度]を改良できないという事実に起因している。以上の観点に立てば、アメリカは極めて異常な政体だ。過去数十年に遡って西洋民主主義国家を参照すれば、ほとんどの国では、顕在化した様々な[政治・社会的]問題や病理に、構造上の改良処置を立法化することによって、継続して解決策を見出してきた。(例えば、イギリスにおけるスコットランドへの自治権委譲や、上院の改定。他にはオーストラリアやニュージーランドの投票制度の変更が挙げられる)。

合衆国政府への私の見解は、長期の政治の衰退に陥っているということだ。(この見解は、他の論者も提唱している。特にフランシス・フクヤマが有力な論者だ)。ただ、だからといって、アメリカの崩壊を予言することは、無益な作業ではあるのだが…。私が発見した[アメリカの]今日の状況を突き動かしている物がある。それはアメリカが衰退に陥っている理由でもある。私が発見したのは、アメリカにおいて、現行の問題や政治的病理の進行に対処する、(広義の意味での)政治制度の自己改革能力が欠けてしまっている事だ。

カナダにおける選挙制度改革に関する近年の議論と、アメリカにおける選挙人制度を巡る状況は、非常に対照的だ。繰り返しになるが、ヒラリー・クリントンは総投票数では勝利を収める一方で、選挙人制度では敗北している。従って、アメリカの政治制度は、大統領選挙において、多数派の指名に失敗した事になる。これは、2000年のアル・ゴアとジョージ・W・ブッシュとの大統領選挙時に起こった出来事が本質的に繰り返された事になる。カナダ国民なら、多数決による選挙制度に基いている立法府において、もし政党与党が総獲得票数で過半数を下回っている事態になれば、不平を言うに違いない。しかして、カナダにおいて、国会に選任されることになった全ての議員は、選挙区での最高得票を得るルールの勝者であることが求められる。つまり(議員に選任される)いかなる老若男女も、対抗議員より多数の票を得ねばならないと問われる事実が、現として存在しているのだ。[カナダとは]対照的に、合衆国政府の大統領選出制度は、この[対抗候補より得票数で上回っていないといけないという]原則に反する事になっている。ドナルド・トランプは50%を超える投票数を得るのに失敗しただけでなく、選挙戦で最高得票数を得る競争の勝者ですらない。ヒラリー・クリントンは[当然トランプより]多くの票を獲得することになっている。

これは[アメリカの]政治制度に非常に大きな欠陥があると見なすことができる。そして、トランプの勝利後では、もはや驚くべきではないが、選挙人制度が崩壊していると公然と語られるようになってしまっている。カナダでは対照的だ、誰もここまで深刻に捕らえていない。[アメリカにおいて選挙人制度の変更に]言及することが、不可抗力的で無益であるという感覚が存在する事が、この論文で言及されているのは興味深い。この論点について尋ねられた人々は、皆一様にこう言う。「その通りだ。それは愚かで、非民主的だ。でも、それについて何とかする方法は存在しないじゃないか!」

似たような諦めの態度を他にもいくつか見つけることができる、ゲリマンダー5ロビー活動、選挙資金集めのような問題は、この問題[大統領選挙の投票制度]に比較して相対的に小さな『問題』だろうし、同じような大きな『問題』では、議会の構造や、選挙制度そのものを例示できる。実例を挙げて考えるなら、アメリカは、多数決制度の深刻な病理の酷い症状に侵されている。この病理は、(デュヴォルジェの法則によって)二大政党制の生成に向かわせ、有権者を大きく区分するという巨大な不満を産むに至っている。にもかかわらず、アメリカの投票制度の変更に関する議論は、全く存在しない。なぜだろう? この件について私が問いただしたアメリカ政治の理論家は、皆同じことを言う。「この事について話すのは不毛だ。なぜなら何も変えることができないからだ」と。一方、カナダはこのような問題(多数決による多数派専横の病理)を抱えてはいない。もちろんカナダでも、しばしば選挙制度改革についての深刻な議論に従事することがある。(ただ、私はその『カナダの選挙制度』について言及しておかねばならない。カナダでは議論が明後日の方向に行ってしまうのを心配することはないし、制度の変更が成し遂げられないかもしれないとか、制度が変更不可能かもしれないと疑う事はありえない。もちろん今のカナダでは選挙制度の変更は必要ないので、変更は起こらないと考えているが…。)

改革が不可能という答えが存在する状況では、アメリカの制度は、スティーブン・テレスが『Kludgeocracy(バグ取り主義)』と呼んでいるモノにゆっくりと巻き込まれる事になっている。改革を立法することより、アメリカ人は、ルールを捻じ曲げて解釈すような方法で、現制度への対処療法を施してきた。アメリカ人は皆、この方法がルールの変更より容易である事で受け入れてきた。(というわけで、ついでながら言っておくと、アメリカ人は皆、『権力の分立』が、自身をバカにしてるかのようなトランプ大統領を抑制することを望んでいる。ただ合衆国において『権力の分立』は、対処療法やバグ取りによる数十年にも及ぶ毀損の蓄積によって、激しく品位が低下している。)

ここまで述べたことに基づくなら、合衆国政府は、“output legitimacy(市民の公的政策結果への評価)”の圧倒的な欠乏に陥いっている。この欠乏によって、合衆国政府は、他の豊かな先進国住民なら自国政府に期待して良いであろう公共政策を行う事に、一貫して失敗している。(他の西洋民主主義国家における市民の受難とは、全く別の恐ろしい受難をアメリカ市民が抱えている事を、合衆国の統治について研究した者なら皆知ってる。)この立法部門の機能不全は、市民に満足な解決策を何も提示できない事にもなっており、アメリカ人は皆、多くの緩慢なバグ取り[対処療法的な問題解決]の蓄積に直面している。(例示しておくと、安価な医療制度や、再生可能エネルギー政策などである。)

ほとんどのアメリカの人々は、制度についてはもはや思考放棄している。彼らは政府による悪いパフォーマンスを見た時、手近の[悪いパフォーマンスを演じているように見える]役者に不満を溜める。そして、アメリカの人々は、物事を変えると約束している新しい役者を送り込む事で対応することになる。何十年もアメリカの人々はこれを続けてきた。そして、未だに何も変えることができていない。なぜだろう? それは、現法下の個人行動では変更不可能な、構造的問題であるからだ。アメリカの人々は、この変更不可能な問題に、どう対応しているのだろう? 多くの人は、硬直した[政治]状況に自身が送り込んだ役者が、懐柔されたか、十分にタフでなかったか、役割に相応しくなかった、と結論づけることになる。そして、物事をチェンジすると約束した、より過激で絶叫する人物を送り込む事になる。それでも[送り込んだ人物が]仕事を果たせずにいる[ように見える]と、さらにより過激な人物を送り込んできた。

ドナルド・トランプに投票することが、この過程の最終到達点だ。少なくとも、我々はこれが最後になることを望みたいものだ…。いずれにせよ、トランプが目立った失敗をしでかすことや、ポジティブな変化を起こせない事、そしてそれらが破滅的な悪循環の継続へと至ることは、既に予測可能だ。何よりもまず、トランプは、プロセスを積み重ねることや、組織的な観点について考えることができない。トランプは、悪い政策結果を目にした時、関係者が「愚かだ」と推定するだろう。そして代わりに「頭が良い」人物を起用すれば、良い結果を生むと考えるだろう。このやり方は、失望を生む処方箋となる。続いて、特効性のあるチェンジを(主に議会の会期中には)約束する事なり、これも単により悪い結果に至るだけだろう。一方で、彼が約束している裁判官人事は、憲法上の制約をより強化することになる。それによって、選挙資金集めの改革や、ゲリマンダーを終わらせることも不可能になるだろう。

[2つ目は]トランプの当選が意味する物である。

アメリカ人は、「トランプの当選がアメリカ人にとって何を意味するのか」という問題に夢中になっている。私はアメリカ人でないので、「トランプの当選は世界にとって何を意味するのか」という問題に興味がある。以下は過剰な心配かもしれない、しかし、昨日[のトランプの当選]は、ベルリンの壁崩壊のような世界文明の方向性が変わった瞬間の1つであるように、私には感じられた。ドナルド・トランプが合衆国大統領になった事は、西洋民主主義の信用を深く毀損する事になるだろう。この事実に沿って個人的に考えるなら、火曜の[大統領]選挙の国際的な大勝利者は、中国式の権威主義ではないだろうか。なので、ソ連の崩壊が共産主義の破滅を導いたのと同じように、トランプの当選は、自由民主主義からの世界的な離反に至るターニングポイントに相当するかもしれない。

アメリカ人がトランプについてどう考えようとも、グローバルな見地で観察する限り、最も重要な事実は、世界中の人々がトランプを無能な道化と見なしている事だ。言及せねばならないが、中国の人々は、トランプが任命された小事でもって既に祭り状態だ。中国は過去にジョージ・W・ブッシュが大統領である事で巨大なプロパガンダを貼る利益を得ている。当時の中国のプロパガンダは「我々の政治制度の方が優れている。なぜなら、我が国ならこのような無能者を国家元首にする事は許されていない」だった。トランプ大統領の任期中にも同じようなプロパガンダが貼られるだろう。(追加するに、この道化の狂った男は、ジュリアーニ、ギングリッチ、ペイリン、ボルトンのような内輪の人事を行うだろう)。中国への民主化圧力が不可能になることは確実だ。

より重要な事に、気候変動のような問題でグローバルな指導的地位に何が起こるか考えねばならない。この件でヨーロッパ諸国は、気まぐれで、自己中心的だ。その上、気候変動の件では、重要な国際的地位を占めていない。合衆国政府は、破滅的な統治の失敗を被っている。そしてその元首[トランプ]は、この問題を完全に否認している。よって[世界の]人々は、[気候変動問題で]指導的地位を探索することになる。その探索の自然なる集結地は、中国になるだろう。ざっくり考えるなら、人類の未来が中国にあるように見える出来事の始まりとなる。より憂鬱なことに、([合衆国と同じく]限定的な改良統治に従事しているにすぎない)中国の政治制度が、安定と繁栄を保証するような1つ[の政治制度の選択肢]として見え始めている。中国が地球上で最も進歩していなかった300年はだんだんと例外に見え始めており、今では伝統的な[国際社会における]支配的地位に返り咲きつつある。

自由民主主義政体の在り方は[アメリカの]他にも多数存在し、そのほとんどはアメリカより優れていることから、以上の結論は確定された見解ではない。(私が過去に何度も指摘してきたように、アメリカは、海外では自身の制度[大統領制]を再設計しようとはしていない。例えば、イラクに侵略した後、アメリカは議会制民主主義を押し付けている――議会制民主主義は大統領制より優れていることを、アメリカ人の一部は暗黙裡に認めているのだ)。にもかかわらず、合衆国政体は世界で最も名声ある民主主義政体なので、合衆国の統治の失敗は、民主主義理念の失敗として広く認識されることになる。アメリカという一国家の失敗にすぎないのだが…。

だからたとえ、トランプが『孤立主義』でなかったとしてしても(例えば、彼がTPPをぶち壊さなかったり、NATOを軽視しなかったりしても)、今回の選挙は中国にとって巨大な勝利であり、中国の政治制度を賞賛し擁護する人々にとっての巨大な景気づけにもなっているのだ。

※訳者による補足の単語等は基本は[]で括っている
※訳注:初訳時に、誤訳を指摘してくれたoptical_frog氏に強く感謝を!

  1. 訳注:ヒースと『反逆の神話』等の共著があるジャーナリスト []
  2. 訳注:ディベート等で両候補者の立ち振舞いを見て「ヒラリーの勝ち」等を断定していた評論家への、ヒースの嫌味と思われる。 []
  3. 訳注:トロント市長(2010-2014年期)。トランプと同じく奇矯な振る舞いで話題を集めた。 []
  4. 訳注:右翼団体シチズンズ・ユナイテッドによるヒラリー・クリントンを排撃する偽ドキュメンタリーと、その放映の是非を巡る最高裁での裁判。さらには該当ドキュメンタリーの放映の合法判決によって、プロパガンダ的なTV番組によるキャンペーンが可能になった現象全般を指していると思われる。リンク先で詳しい解説を日本語で読むことが可能。 []
  5. 訳注:政治家が、自身や自政党に都合が良いように選挙区の区割りを行う事。最初に問題視された政治家の名称がゲリーであったことと、区割りした地域が想像上の怪物『サラマンダー』に似ていたことで、『ゲリマンダー』と呼ばれるようになった。 []

ジョセフ・ヒース「移民政策について、アメリカがカナダから学べること」(2017年3月7日)

Joseph Heath, “What the United States could learn from Canada on immigration policy“,  In Due Course, March 7, 2017.

 

自国の移民政策を何らかの形で失敗させてしまい、周縁化された民族集団とネイティヴィストのバックラッシュとの不幸な組み合わせを作り出してしまった国々が世界には数多く存在する。そのような国では、人々の周縁化が様々な社会病理を生み出して(失業、犯罪など)、そのことがバックラッシュの背景にある移民に対する差別的な態度の多くを正当化してしまう、そのことがまた周縁化や排除を増させて社会病理を悪化させる、そのことがまた…といった悪循環が容易に生み出されしまう。カナダには数多くの問題があるとはいえ、少なくとも我々カナダ人はこのような形で移民政策を失敗させることはしなかった(ファースト・ネーション[訳注:カナダの先住民集団]との関係と比較しての話だ。ファースト・ネーションに関してはカナダも失敗してしまったし、上述したのとほとんど同じような悪循環を生み出してしまった…また別の複雑な要素もいくつか含まれているのだが)。

いずれにせよ、移民政策を失敗させてしまったどこかの国がその政策を改善するための何らかのアイデアをカナダから得ようとする時、彼らがほとんど反射的に注目するのは、移民を特定のクラスに分別するためのポイント制度をカナダが用いているということである。しかし、大半の専門家はポイント制度は実際には大した事柄ではないと考えているし、カナダの移民政策の成功における最も重要な要素でもないと考えている。だが、ポイント制度に人々に訴えかけるものが含まれていることは明らかだし、おそらく「望ましくない連中は国に入れるな」という主張を実践する制度に見えるがために、特にネイティヴィストたちにとって魅力的である。だから、先日に議会で行われたスピーチにて、ドナルド・トランプがカナダのポイント制度をアメリカにとっても望ましいモデルであると言及したことは意外でもなんでもないのだ。

アメリカの移民制度におけいては他にどれ程多くの要素が崩壊状態になっているかということをふまえれば、トランプの主張は滑稽である。しかし、残念なことに、多くのアメリカ人はこの事実を直視しないだろう。他の国に比べてアメリカの移民政策がいかに特殊であるかということを多くのアメリカ人は単に理解していないか、または、これまで行われてきた政策を当たり前のものとして受け入れてしまっているからだ。だから、一人の外国人として、アメリカが移民政策で犯してきた二つの大きな失敗であると私が見なしていることを以下で指摘しよう。

あらかじめ注意しておくが、私が行う二つの提案のどちらも、非常に右翼的な印象をアメリカの読者たちに与えるかもしれない。しかしながら、カナダでは私の提案は右翼的なものだとは見なされない。私の提案がアメリカでは右翼的だとされるのは、アメリカ人たちは移民問題を人種というレンズを介して見るために(もちろん、この場合の”人種”は実際には人種を意味しているのではなく、黒人と白人との間の関係を意味している)、別の問題として考えるべき数々の事象を曖昧にしたり混同させたりする傾向があるからだ。このため、道理に適っている移民政策の多くが、もしその政策がアフリカ系アメリカ人に向けられるとすれば非友好的であるか不当なものとされるような種類のものになるだろうという理由によって、左派から拒否されてしまっているのだ。

 

1:スペイン語を国語であるかのように扱うのを止めよう

 

カナダ人たちやカナダの全政党の間で満場一致に同意されている物事は数多くある。その一つが、移民たちには”地域の”マジョリティの言語(ケベックではフランス語、他の地域では英語)を習得することとその言語を使って働くことが期待されている、ということだ。この意見の背景には、カナダがバイリンガル国家であり公用語のうちの片方はマイノリティであって消失の危険に常に晒されている、という事実が明らかに影響している。だから、フランス語を習得しようと思っていること(少なくともそう宣言すること)がケベックへの移民の必須条件であることは圧倒的に明白なのだ。同時に、カナダに二つの言語が存在していることは国内の分断の大きな原因ともなってきた(ケベックの分離独立問題など)。このことは、フランス語に認められているようなマイノリティ言語としての地位を”アロフォン”移民[訳注:英語とフランス語以外を母語とする人]が彼らの母国語にも認められることを期待してはならないということを、カナダの英語州における移民政策の必須条件としてきた(この領域に関するウィル・キムリッカの研究の影響力、またキムリッカの定義による民族集団・民族言語とネイション集団・国語との区別の重要性は、この移民政策の原則的な正当化をもたらしている)。要するに、英語州のカナダ人は、自分たちがフランス語に対して行ったのと同レベルの妥協を中国語やヒンドゥー語やペルシャ語にも行うべきだと中国やインドやイランからの移民から要求されたとすれば、その移民を受け入れないということだ。

したがって、カナダへの移民に対して示される言語に関する”取り引き”は実に明白なものである。…あなたはこの国に来た、あなたはこの国のマジョリティの言語を話すことを習得する、もし自分自身はあまり上手く言語を身に付けられなかったとしても自分の子供たちが言語を習得できることを確かにする。そして、カナダ政府がこの”取り引き”を移民に伝える方法の一つは、各地域の民族グループと協力しながら、英語教育(ケベックの場合にはフランス語教育)への大規模な支援と資金を提供することである。なので、例えばロシアから移民がカナダに到着したとすれば彼らは地域のロシア系自治会に取り計られるのであり、その自治会がまず行うのは移民たちを英語学習のコースに通わせることなのである。

カナダ政府とは対照的に、基本的にはアメリカ政府は移民たちの英語学習に対するサポートを全く提供しない。そして、いつものごとく、アメリカ人たちは自分たちが望んだ通りの代償を支払うことになる…マジョリティ言語の習得という関して、アメリカへの移民たちは他の国の移民よりも成績がかなり悪いのだ。実質的には、スペイン語しか喋れない多数の人々をアメリカは国内に抱え込むことになる。移民について賛成的な人たちなら、移民たちのための英語学習にもっと多くのリソースを注ぐことがこの事態に対する当たり前の反応であるはずだ、と思うことだろう。しかしながら、実際には、アメリカのリベラルたちは自国の移民政策の失敗を美徳であるかのように扱ってきたのであり、(訳注:カナダにおけるフランス語のように)英語に与えられている全ての権利が与えられているマイノリティ国語としてスペイン語を扱いはじめたのである。これは酷いことであるし、カナダ人から見れば全くもって不当なことであるのだ。

たとえば、先述したドナルド・トランプのスピーチの後に、民主党が英語とスペイン語との二つの言語でトランプに対する返答を発表したことについて考えてみよう。なぜスペイン語なのか?アメリカでは、スペイン語には何の公的な地位も与えられていないというのに。カナダで議会開会の式辞が行われた後には、ある政党が式辞への公的な応答を英語とフランス語の両方で発表することはあるかもしれない。だが、その政党が標準中国語でも公的な応答を行うことを決定した場合について想像してみればいい。特定の有権者たちに焦点を定めて発表を行うことにはそれはそれで意味があるが、そのことで公用語の地位に関する混乱が生み出されないようにすることは大切だ(同様に、地下鉄や建物などのトロント中の様々な場所に中国語で書かれた標識や広告があらわれだしたとすれば、その場合にもカナダ人たちはひどく怯えてしまうことだろう…しかし、アメリカ人たちはスペイン語の標識や広告を何十年も見続けてきているのだ。実際、スペイン語があれ程までにそこら中にあるということが、私がアメリカに暮らしていた時に最も驚かされたことのうちの一つだ。もちろん、現実問題として情報を伝えることの必要性が他の問題を上回るために他言語の標識がある方が良い、という状況は多く存在するだろう。だが、同時に、ある国の公用語と移民たちの様々な言語との間の区別を曖昧にしないことは、原則問題として重要なのである)。

カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコなどの州全体やワイオミング、カンザス、コロラドなどの州の一部はいずれもメキシコから軍事的に奪った土地であるということをふまえれば、スペイン語話者はアメリカ国内のナショナルなマイノリティ集団であるのだから、カナダでフランス語に与えられているのと同等の権利がスペイン語にも与えられるべきである…そう主張することはできるかもしれない。だが、仮にそうだとしても、それは法律によって認められるべきなのだ。言語に関するアメリカの法律に限って見れば、全ての法律は英語を唯一の公用語として見なす方向にしか書かれていない。この文脈をふまえれば、スペイン語を準-公用語として扱うことは多大な問題を生じさせてしまう。移民に対する重度の反感を生み出していることは言うに及ばないだろう。

 

2:移民たちにアファーマティブ・アクションの恩恵を受けさせるのを止めよう

 

昨年には、アーリー・ホックシールドの著書『自分たちの国の中の異邦人:右派アメリカ人たちの怒りと嘆き(Strangers in Their Own Land: Anger and Mourning on the American Right )』が話題になった。この本は、”赤い州”について数多く存在するエスノグラフィーのうちの一つだ。『自分たちの国の中の異邦人』の中で、ホックシールドは白人の憤りの根底にある”根深い物語”と彼女が呼んでいるものを以下のように表現している。

 

地平線にまで向かって伸びる長い行列の真ん中で、あなたは辛抱強く立っている。その行列の先にはアメリカン・ドリームが待っている。しかし、あなたが行列で待機していると、あなたより先に割り込んでくる人々の姿が見えてくる。割り込んでいる人々の多くはアファーマティブ・アクションや福祉の恩恵を受けている黒人たちだ。一部は、それまでには決して機会がなかったような仕事でキャリアを得ている女性たちだ。そしてあなたは移民たちを目にする。メキシコ人、ソマリ人、まだ到着していないシリア難民たち。ぴたりとも進まないこの行列に待機しているあなたは、彼らのこと全員を可哀想だと感じるように求められる。

 

この物語は真実ではない、とホックシールドは示唆している。「この根深い物語は事実であるかのように感じられる物語であって、人々の意見や投票の背景にある感情を反映したものであり、事実や判断は取り除かれているのだ」。しかし、移民に関して言えば、この物語にもある種の事実が少しは含まれている。アメリカの移民政策の最も厄介な特徴の一つは、国内の人々が直面する問題に対処するために意図されていることが明らかであるアファーマティブ・アクションの政策を利用することを、特定の移民たち…特定のマイノリティ人種に属している人や、「ヒスパニック」という無茶苦茶な人種カテゴリに属している人…に許してしまっていることである。

例えば、大学の入学に関するアファーマティブ・アクションについて考えてみよう。この政策の目的がアフリカ系アメリカ人に対して行われた特定の歴史的不正義の問題を是正することに向けられているのは明らかだ。過去の差別の遺産や現在行われている差別はアフリカ系アメリカ人が学業を達成することへの障壁となっているのであり、その障壁はアファーマティブ・アクションによってしか取り除くことができない、という事情に基づいた政策なのである。この政策は多大な困難を生じさせてきたし、政策の目的通りに適用される場合についてでさえも非常な議論の的となり続けている。とはいえ、アフリカ系アメリカ人に対して適用するという特定の場合においては、アファーマティブ・アクションを支持する議論を行うことは可能であるように私には思える。だが、政策の中心的な対象である集団から離れて、ヒスパニックもアファーマティブ・アクションの恩恵を受けることを認める議論についてはどうだろうか?なぜ、アメリカの大学にメキシコ系の移民(例えば、白人やアジア人の移民に比べてSATのスコアが低い人)を優先的に入学させるべきであり、アルゼンチンやコロンビアからのエリートには優先措置を与えるべきでない(ただし、ブラジルはまた別!)、というのだろうか?

より一般的なことを言えば、なぜクワメ・アンソニー・アッピアのようなイギリスからの移民が、ハーバード大学のアフロ-アメリカンスタディーズと哲学のチャールズ・H・カースウェル教授として任命されているのだろうか?例えてみれば、ファースト・ネーション・スタディーズの学科長を任命しようとしているカナダの大学が、その人材を国内に求めるのではなく、オーストラリアのアボリジニやポリネシアの島民を任命するようなものだ。人々は憤慨する筈だ。外国から人々を持ち込んできて、それは大学の”多様性”を増させることだとみなすのがどれ程奇妙なことなのか、進歩的なアメリカ人の多くはわかっていないのだろう。確かに外国からの教職員たちは移民が多様性を増させるのと同じように多様性を増させるが、アファーマティブ・アクションや教職員多様性イニシアチブなどの政策が意図しているような多様性を増させる訳ではないのだ。

いずれにせよ、肝心なのは、行列の割り込み問題に対して人々は極めて敏感であるということだ。移民が行列に割り込んだという非難の中には事実に基づかない虚偽のものも充分に存在しているのだからこそ、社会は移民が完全に均等に扱われることに保証しようとするべきであるし、移民たちが実際に行列を飛ばすことは一切認められないようにするべきなのだ。だが、こんな単純な忠告にもアメリカは従わない。多くの社会には、過去に起こった特定の種類の不正義や争いに対する解決策として生み出された、マイノリティ集団のための”特別な取り決め”とでも言えるものがいくつも存在している。例えば、ケベックには英語とフランス語との両方の言語の学校が存在していることは、長くて複雑な歴史を持つ争いの結果として、州内のマイノリティである英語話者への譲歩としてもたらされたものである。ケベックに表れだした移民たちが英語学校に入学し始めたことに対して、それは本来移民たちには認められていない社会的取り決めを不当に利用しようとすることだ、とマジョリティであるフランス語話者たちはまことにもっともな認識を抱いた。そして、移民たちは自分の子供をフランス語学校に通わせなければならない、という法律をフランス語話者たちは通過させたのだ。彼らにはそうする権利があった、と私は思う。同様に、アメリカにおけるアファーマティブ・アクションは奴隷制やジム・クロウ法による分離政策の遺産に対処することを意図した特別な取り決めであることは明らかなのであり、そのアファーマティブ・アクションを移民たちが利用することを認めない権利がアメリカ人たちにもあるだろう。

もちろん、アファーマティブ・アクションについて純粋に結果志向的に考えてみて、大学内における “多様性”を特定の水準にまで達成するための試みとして捉えてみれば、その目標を達成するためにアメリカの大学が多数の外国人学生や外国人教員たちを招き入れることは問題にならないかもしれない。しかしながら、ここで論じてきた政策について考える一貫した方法をこの種類の帰結主義が提供できるとは、私は思わない。自分たちが達成しようとしている目標を見てみれば、それは大抵の場合にはアメリカ国内の人口を “反映”しているということがわかるはずだ。そのことは、それらの政策の本当の目標は差別に対抗して機会への平等なアクセスを確保することであるということを示している。そして、それが本当の目標だとすれば、その目標に関係している種類の差別の被害に遭ってきたと判断できる人々だけに政策の対象を限定することは、全くもって筋が通っているのだ。

ジョセフ・ヒース『何が人を陰謀論者にするのか?』(2016年12月5日)

What makes someone a conspiracy theorist?
Posted by Joseph Heath on December 5, 2016 | politics, United States

多くの人が、ドナルド・トランプに指摘している事の1つに、トランプが顕著なまでに陰謀論にハマりやすいように見える事がある。陰謀論について議論される時、「『陰謀論』とは正確に何であるのか」とか、「どのような精神的特徴が、人を『陰謀論者』に陥らせてしまうのか」、といった問題点が明確にされることは滅多にない。私は、自著『啓蒙思想2.0』で、陰謀論の説明を試みている。よって、この自著から、一部抜粋して再掲載するのが、タイムリーかもしれないと考えた次第である。

基本的に、一般的な陰謀論者は、『確証バイアス』の罠にハマっている。どんな男女であれ人は、まず外界にパターンを見る。そして、そのパターンに原因を見出してしまう習性を持っている。ただ一方で、原因を否定する数々の証拠に対しては、はなっから検討しようとしないので、物事を体系だって考えることを失敗してしまうのだ。[反証の検討に]代わって、人は、自身の見たパターンに沿う、より多くの事例が単に目に入るようになってしまう。そして、[目に入った]おのおのの事例を(誤信して)、見出した原因の証拠と扱う事になってしまう。

陰謀論者達は、キース・スタノヴィッチ1 が『合理性障害(dysrationalia)』と呼ぶ現象の最適の事例として見ることができるだろう。陰謀論者達は、おおむね平均以上の知能の持ち主だ。この高い知能によって、彼らは、外界にパターンを発見し、そのパターンに対応する原因、すなわち『理論』を見出してしまう。陰謀論者が欠いているのは、合理的な『反証能力』、つまりはもしかしたらの矛盾した証拠を意図的に考える能力である。(因みに、陰謀論者達の幾人かは、熟考する質である。その具体的理由を挙げるなら、非常に多くがエンジニアであるからなのだ。彼らは、技術的な教育を受けている故に、非常に複雑な理論を理解し、生成する能力を得ている。そして、それでいながら、「反証事例の重視」といった科学的な思考方法の教育を欠いてもいるのだ)。

『確証バイアス』という現象の詳細に関して、個人的に強く推奨したいのが、レイモンド・ニッカーソンの『確証バイアス:一知半解の積み重ねによる普遍的現象』(“Review of General Psychology (1998)”掲載)である。
という事で、以下が『啓蒙思想2.0』からの一部抜粋(助長な部分は削った編集版)となっている。
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哲学者であることの否定的側面の一つを、私は日々見知ることになっている。それは、カルトの信者からの望まないメールを、大量に受け取る事にある。カルトの信者達は、自身の「哲学」についての、私との議論を望んでいるのだ。最近の、私のメール受信箱には、法輪大法(法輪功)からのメールがやたら並んでいる。法輪功は、ほとんど無害な組織であるにも関わらず、([教団が]組織化された事で)、中国政府を脅かす失態を行ってしまい、それによって、まがうことなき弾圧を被っている。この中国政府による弾圧は法輪功を、結果的に本来よりも有名にしてしまっている。法輪功のコア思想は、伝統仏教の瞑想の実践に、精緻な宇宙人のマインドコントロール理論を融合したものだ。創始者・李洪志によれば、科学とテクノロジーの発展は、宇宙人の策略であるとのことらしい。策略とは、人類間に戦争と破壊を扇動することであり、それによって宇宙人は、我々の身体を奪い、地球人に成り代わろうとしているそうな。こうして詳細を見てみれば、まさしく文字どおりトンデモだ。しかし全てのカルトがそうであるように、問題とすべきは、何千もの(あるいはこの場合は何百万もの)トンデモでない常人がこのようなカルトを、どのようにして信じるようになるか、ということである。

法輪功に関して驚嘆させられる事の1つが、まったくもって平凡であることだ。あらゆる面からみてもそうなのだ。世界のどこの誰が見てもすぐにわかるくらい平凡なのである。中国的な特徴を持ったトンデモさもまったくない。精神感染における平凡な風邪に例えても良いであろう昔ながらの特徴の無いトンデモさなのである。彼らの文章を読むと、カルトをどのように創設するのかといった、世界共通の指示マニュアルに従っているのではないのか、との錯覚に捕らわれる。信者をどうやって魅了するのか? 選択肢の1番手は、奇跡的なヒーリングの小話だ! 個人的には十全に予測していたが、以下のような推薦文が含まれたメールを、私は法輪功の信者から受け取ることになった。

「法輪大法は良きことなり」と演唱することで現前した多数の奇跡を、私は見聞してきました。リュウ女史は唐山市の村に住む69歳の女性です。去年、リュウ女史は大腸癌と診断されました。医師からは「あなたは、高齢で血圧が低すぎます。安静にするしかないでしょう。自宅に帰って、好きなものを食べましょう」と言われました。彼女3つ目の妹は、法輪大法の実践者でした。妹はリュウ女史を訪問して、「法輪大法は良きことなり」と演唱する法輪大法の実践を教えました。すると10日後には、リュウ女史は完治し、末期癌は消え去っていました。何よりの奇跡的事実に、リュウ女史は若い女性のような見かけとなり、とても美しくなったのです。これこそが、法輪功の神聖なる力なのです。李大師はイエス・キリストより圧倒的に優れているのです! 法輪功は人々を救っています。法輪功はすべてを解決するのです。

この種の話を、お馴染みで聞きなれていると感じたら、それはいたるところで見聞きするからだ。人に誤った信念を持たせる、世界共通の実践マニュアルのようなものが存在する。パスカル・ボイヤーが明らかにしたことによると、いくつかの非現実的な創作話の中には、他の創作に比べて、人が信じやすいものがあるそうな。人間の推論能力には、特殊な先入観バイアスがいくつか備わっている。何かを信じてしまうような信念システムは、こういったいくつかの先入観バイアス利用しながら[信念を]拡張していき、そしてさらに信念を自己増殖・強化することになっていく。この増殖・強化プロセスによって、カルトに信念を持たせるようなシステムは働いている。カルトの『教義』は、こういったシステムを作動するような普遍性を持っているのだ。我々をうんざりさせるほどお馴染みの『教義』ではあるが…。これら[陰謀論やカルトを信じてしまうような信念システム]は皆、生態学的ニッチ(隙間ポジション)と同じようなものだ。非合理的な信念の中には、普通の人間が実行可能な警戒心のほとんどから、逃れていることに成功しているものがある。生物の免疫システムによる探査から逃れているウィルスのようなものである。

唐山市のリュウ女史の話に戻ろう。このメールには多くのツッコミどころがあるが、最も目立った特徴は、心理学者が『確証バイアス』と名付けている現象を利用していることである。人間は仮説を立てる時、仮説に適合する肯定的な証拠だけを目にする一方で、仮説に不適合な証拠を確認することは見逃してしまう性質を持っている。人間は「否定的な事について考える」のに失敗してしまうのだ。リュウ女史の回復と法輪大法の神聖なる力を関連付けるには、[このメールだけで判断するには]2つの情報が欠けている。まず1つ目は、女史が「法輪大法は良きことなり」を演唱していなかったら、どうなっていたのだろう? という事である。例えば、ガンが単に誤診であった可能性である。あるいは、女史が本当にガンにかかっていたとしても、自然治癒したり、端的に長期間生存した可能性もある。2つ目は、末期ガンにかかっている患者で、「法輪大法は良きことなり」と演唱したどのくらいの人が回復しなかったのだろう? ということである。多くの人がこういった疑問を尋ねないものである。単に思いつかないだけの事もあれば、この話だけでは必要な情報を欠いており仮説を補強するのがまったくもって不可能なので、気づかない事もある。これらの事象を正しく認識することに失敗してしまうのは、『迷信』を信じてしまう特質の一つでもあるのだ…。

こういった認知バイアスについて見知ると、他人が愚かであることを説明していると、考えたい誘惑にかられる。愚かであるかどうかの自己診断を行うのは、非常な困難を伴う。ダニエル・カーネマン2 は、この件を「心理学を教えることの無益さ」と説明している。[カーネマンが教えた]学生たちは、致命的なエラーやバイアスを証明している実験について、ほぼ全て事前に見知っていた。それでいて、学生達は、[実験で指摘されてもいる]バイアスに自身がハマっているという当然の帰結には、疑うことなく「自身を例外化した」とのことである。このようなことになってしまう理由の1つは、内省を行うことでバイアスに気付くことができ(そして、バイアスについて知っているという事実だけで、影響から免疫を得られる)との誤った信念を保持しているからなのだ。もう1つの理由は、ほとんどの人が、生活におけるほぼ全領域で、自身を過大評価してしまうという、別の有名な認知バイアス故である。[自身だけは]バイアスから逃れることができるという思い込みは、この偏在している過大評価バイアスの一例だ。心理学者達は、[自身を例外化してしまう]このバイアスを『バイアスの盲点』と指摘している。中国の農民達の迷信深さを嘆くのは簡単なことだ。しかし、自分自身については、それはそれ、これはこれと考え、あっさりと別の話にしてしまう。

私を俎上に載せると、大学教授で、哲学科で教鞭を取っている。現キャリアを達するのに、論理学、議論分析学、確率論を学び、教えてきた。気質の一端は合理主義だとは自覚している。小学校の3年頃には、同級生たちに『ミスター・スポック3 』と呼ばれ始めた。以後、チェスクラブに入った後、コンピュータープログラムを行い、最終的には論理学と哲学にたどり着いた。『認知バイアス』についての心理学の文献を幅広く読んできてもいる。『確証バイアス』とは何であるのかとか、『確証バイアス』がどのようにして特徴的に具現化するのか、といった事例は十分に見知っているつもりだった。もっとも、何年か前のある日、『確証バイアス』について調べるテストを受けたことで、自身も最も初歩的な罠にハマっている事に気づいてしまったのだ。以下は、人間の合理的能力を混乱させるようなテスト問題を生み出す天才、ピーター・ウェイソンによって創られたテストである。

試験官:これから、連続した3つの数字を示します。数字を生成したルールを推測してみてください。答えを決める前に、あなたは3度、私に質問することが可能です。質問は以下に限定することとします。あなたは3つの数字を示して、私はその示した数字が、ルールに合っているかどうか返答します。

私:了解した。面白そうだ。すっごく得意だったマスターマインド4 にちょっと似てるね。

試験官:では、組み合わせは2、4、6です。

私:わぉ、簡単そうじゃん。ウォーミングアップってことかな。ってことで、6、8、10はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:うーむ、了解。22、24、26はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:了解。バカバカしい。もう最後の質問は必要なさそうだが、一応、100、102、104は?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:よっしゃ! ルールは「3つの偶数数字の昇り順並び」だね。

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:聞き間違い? もう一度言ってくれ!

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:いったい何が正しいルールなんだ?

試験官:ルールは「昇り順のあらゆる3つの数字」です。

私:3、5、7でも、ルールを満たすと言いたいのか?

試験官:はい。

私:2、67、428でもルールを満たしている?

試験官:はい。

私:オーマイガー! 俺ってバカじゃん。

以上によって、私は『確証バイアス』を真剣に捉えねばならないと教訓を得ることになった。仮説を立て、それを定量化することを求められた時、私は、最初に見出したパターンに即座に飛びつき、自説を補強するような証拠ばかり目に付くようになった。一方で、反証の試みを完全に失念していたのだ。一度でも『偶数の並び』が脳裏に定着してしまうと、『奇数の並び』を、[試験官に]提示して「いいえ」の答えを引き出す事[で自説の『偶数並び』を補強する事]を、まったく思い付かなくなってしまったのだ。「否定事実を考える」ことに完全に失敗した次第である。事実、3度目の質問を問う前に、一瞬戸惑ったのをハッキリ覚えている。「聞かねばならない別の質問があるのでは?」ではなく、「有用な全質問」をもう使い切ってしまった、と考えて戸惑ってしまったのだ。私を少なからずの困惑に陥れたのは、たった1、2回で十分なのに、なぜ質問の機会を3度与えられのだろう、と考えてしまった事だった。

確証バイアスを調べるこのテストにおいて、特徴的要素として見出されているのが、単に「人は願望に沿って考えてしまう」といった事実以上の、人の認知過程である。人は、自身のお気に入りの考えを補強する証拠だけを見出してしまうとか、信じたいものだけを見てしまう、といった話はお馴染みだ。しかし、以上実験が示しているケースは、私が最初の仮説を発見するのに、いっさいの先入観を必要としなかった事にある。我々の合理的思考には、単純にして巨大な盲点が存在するのだ。私の「6、8、10」というルール推測の提示に、試験官は「はい」と回答している。この回答は、私が提示した仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を補強することになっている。ここで問題になるのは、「試験官の『はい』」は、[私が提示しなかった]別の多くの仮説も補強しているのだ。私の仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を確定させるには、「別の多くの仮説」がルールに不適合であることを示さねばならない。そして、私は失敗に至った。酷い、呆れ返るような失敗を犯している。これは、人々が、リュウ女史の奇跡的な回復を、法輪功の神聖な力によるものと信じてしまう問題とまったく同じである。

この事を考えると、我々の直感的判断がなぜ事象の正確な認識に失敗してしまうのかが、容易に分かるだろう。人の瞬間的な認知が、特に得意にしているものの一つが、パターンの再認識能力だ。チェスのグランドマスターや、経験豊富な医師や、ベテランの消防士を際立たせているものが、このパターンの再認識能力である。彼らは凡人には見ることができない過去に見たパターンを即座に再発見することができる。不幸なことに人間の脳は、過去に見たパターンの再発見を行うように非常に活性化されている。脳は、何も存在しない様な状況でも、そこにパターンを見てしまう傾向を持っているのだ。この傾向が病的な領域にまで至れば、『アポフェニア5 』と呼ばれることになる。しかし人間の水面下を統べる思考の傾向としては、いたるところに存在しているのだ。たとえば、ほとんどの人は、ランダムなコイン投げやサイコロ転がしを見せられた時、「これはランダムでない――なぜなら非常に多くの『連続』が含まれているからだ」と強く主張することになる。アップルは、アイポッドの『シャフル機能』について、「『ランダムな順番』であるべきなのに特定のアーティストをえこひいきしている」と主張するユーザーによる、偏執的な不満を大量に受けることになった。

人は一般的に『ランダム』について、直感的な理解を欠いているので、ありそうにない『偶然の一致』に遭遇することで、常々驚かされることになる。心理学者達の何人かが示唆しているのが、自然環境において純粋なランダム事象の発生はあまり一般的でないため、人間はこの『ランダム事象』を見出す能力を得る利益を特に必要としなかった、故にこの能力は発達しなかった、という説である。よりありえる端的な説明が、『間違えた肯定(存在しない事実を、存在すると考えてしまうパターン)』は、『間違えた否定(存在する事実を、存在しないと考えてしまうパターン)』より、進化的コストが格段に低い可能性である。そうつまり、自然選択は、[過去に見た]パターンへ非常に高い感受性を発揮する一方で、[見たことがないパターンの発見へは]とりわけ低く特化することになる認識システムを、選好してきたことになる。[サバンナ地方等でサーバルのような]捕食動物に襲われ[「た、たべないでくださいー」と逃げ]る可能性がある環境においては、草木がガサガサ動くような事ですら潜在的脅威として扱う[進化的な]対価を支払うようになる。何もないのに、『おびえて』逃げ出すようになる[進化的]コストは、なにがしかの明らかな[危険的]徴候を無視して八つ裂きにされることより、非常に安価なのだ。なので、我々は、なんらかのパターンを見ると、非常な興奮状態に陥る傾向にある。「自分は間違えているかもしれない」と考えるのは、自然に浮かぶ思考ではない。それは、自動制御的な認識システムを、理性によって解除し手動制御に強制移行する行為なのだ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:カナダの心理学者。邦訳に『心は遺伝子の論理で決まるのか』等がある []
  2. 訳注:行動心理学者。2002年にノーベル経済学賞を受賞している。 []
  3. 訳注:SFテレビドラマ『スタートレック』に登場する、合理的思考が特徴の戦艦の副長。「船長、それは非論理的です」が口癖。 []
  4. 訳注:出題者によって隠されたピンの色を推理によって当てるボードゲーム、 []
  5. 訳注:無作為や無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出してしまう知覚作用を指す、心理学用語。 []

ジョセフ・ヒース 「『じぶん学』の問題」(2015年5月30日)

The problem of “me” studies

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大学での「ポリティカル・コレクトネス」の問題についていろいろ言うジャーナリストがたくさんいるのだが、言っていることはたいてい古臭いか、どこか的外れに思われるものばかりだ。私が自分が見るところ、ポリティカル・コレクトネスの盛り上がりは90年代初頭に最高水位に達したが、そのあとはずっと凋落傾向にある(少なくとも教員の間での話で学生については別の問題だ)。この認知相違の一因は、不正確な語法にありそうだ。大学外の人々はポリティカル・コレクトネスという言葉の下にたくさんの別のものをまとめてしまうのだが、大学ではそれぞれ別の言葉が使われている。今日ここで書きたいのは、しばしばポリティカル・コレクトネスとされてしまうが、正確には「“じぶん”学」の問題として知られている、ある困った状況、傾向についてだ。

まず、ポリティカル・コレクトネスが凋落傾向にあるとはどういうことのが説明が要るだろう。ジャーナリストがこれを口にするときにたいてい思い描いているのは、あの古臭い「言葉狩り」だ。もちろん、いまだに大学でこれが発生していることは認めざるを得ない。先日も大学のある人が、私が出した本のカバーに書かれた「この二十年で、西側諸国の政治システムはますます分断されつつある。右と左にではなく、気違いと非気違いに」という文に異議を挟んできた。「気違い」という言葉を使うことを非難するのだ。明らかにこれは「差別」だから。

つまり、そういうことは今もある。ただ、それはもはや深刻な問題とは受け取られていないのだ。この種の言葉狩りは大学ではバカバカしいネタで、誰もがそれをどうやればいいか知っていて、しかも、学部を終える頃までには卒業するものだ。いろいろな人がいる集団の中でこのような言葉を使えば周囲は呆れて目を回す。そんなことをすれば「お仲間」以外の人たちからは話をまともに扱ってはもらえなくなる、ということに普通はなっている。。

他方、もっと深い問題がしっかり残っている。「“じぶん”学」と呼ばれる現象だ。学生に対し私たちはしょっちゅうこう言う。「長い目で成功するためには、自分が深い興味を持つことができ真に情熱を持てるテーマを選ぶことだ。」当然ながら一番情熱と関心を持てるテーマとは・・・まさに自分自身、となる。この瞬間に地上で起こってい事柄の中で自分の生活こそが最も興味を惹かれるものだと考えるのは圧倒的で当たり前の傾向だ。人生は自分のためのものなのだから!

というわけで「自分の情熱に従いなさい」という助言に従い、本質的に自分自身についてのテーマからの招待に応じる人々がいる。一例として、モントリオールで人類学を学んでいた私の古い友人の修士論文なのだが、タイトルを正確には思い出せないが、確か「モントリオールのプラト―地区におけるケベック人-ユダヤ人カップルの違いの埋め方」というようなものだった。彼女は当時ユダヤ人若者と一緒に、ご想像通り、プラトー地区に住んでいた。そう、彼女の修士論文のテーマは自分の関係性に関する問題だった。この例は、クラシックな 「“じぶん”学」。

今の例は、害はないが、少し歪んだものではある。なぜなら、基本的に人文学の広い意味での目的を転倒させている。人文学の本来の目的は、歴史的また文化的にすさまじいまでに多様な形をとる人間経験というものについての理解を深めることだ。基本的に、異なる人々は異なるやり方で世界を理解し評価しているということを深く理解するためだ。それゆえ自分自身を研究することに時間をかけることは、ある意味専門知識としては良くないということになる。もちろん全ての人がよい専門知識を持たなければならないということでもない。

ただ「“じぶん”学」は、「自分自身そのもの」ではなく「自分が抑圧されているもの」を学ぼうとする場合に、問題をはらむものになりやすい。もちろん抑圧自体は完全に正当な探求テーマであり、形態も多様がある。実際、20世紀を通して私たちが消し去ろうとした様々な社会的不公平は、その努力もむなしく、非常に御しがたいものだとわかっただけに過ぎない。

なにしろ、不公平の除去がどうしてこんななのかを理由を示すことだけでも驚異的にチャレンジングな冒険だ。(一例として、男女の給与格差を挙げる。この格差がどうして生まれるのかは全くわかっていないし、これまでに明らかになっている諸理論も問題全体の断片に過ぎないということは少し論文に当たるだけでわかるだろう。解決が待たれる社会科学上の重要問題が居座っている。)

それにしても、多様な形をとる抑圧というものを学ぶのに最もふさわしいのはどのような人だろうか。立ち止まって考えてみるとこの問題の扱いはむつかしい。いちばんふさわしい位置にいるのは実際に抑圧されているに人だろうか、それともそうでない人だろうか。どちらも理想的とは言えない。理論構築のどこかの水準で自己利益か自己弁護のどちらかのバイアスがかかるだろうからだ。

これに対しては、たくさんの人が同じ問題を研究しロバストなディベートを積み重ねればバイアスは修正されていくだろう、という議論がある。しかし残念ながら、実際にはなかなかそうはならないのだ。抑圧についてはの学問は、その抑圧に関連する苦しみを負った人ばかりを過剰なまでに惹きつけてしまう面がある。 そもそも「“じぶん”学」は個人的な野心や不満に訴えかけるものであるから、そういう人はそこに強い関心を持っている。このことは、べつだんこの抑圧を受けていない人たちを締め出す力学を生み出す。

学問の質という面で、これでは悲惨なことになる。「批判研究」といったものを専門にしている人が、批判的な思索からは驚くほど遠い人だったという経験をしたことがこれまで何回あったかわからない。彼らには、批判的な思索にとって最重要なスキルであるところの「自己批判」、自分の見方に疑問を持ったり自分のバイアスを修正したりする技術が欠落している。彼らがそうなるのは、自分の見方を深刻に揺るがす挑戦を受けた経験がないからだ。(最初から自己批判に長けた人はいない。上達のためのたった一つの方法とは、自分に賛成しない他人からの挑戦を受けることだ。)

ある研究対象が研究者自身のかかわる抑圧で、同時にその研究者が抑圧される側に属していることがはっきりわかっているようなとき、同情はするけれど意見には賛成しない人たちは挑戦してこない。そういう問題だ。挑戦することにより、同情していないかのように見えてしまうことを避けるからだ。そして特にあなたに同情しない多くの人々もまた、何も言わないだろう。彼らだって同情していないことをわざわざ示そうとは思わない。かくして、聞こえてくる意見は次の二種類の人々からだけということになっていく。一つはあなたに同情し、かつ、あなた以上にラジカルなスタンスな人たち。もう一つは非同情的で、同時に、どういうわけか他人にどう思われるかを気にしない人たちだ。

これについて私は下のようなイメージを持っている。まず、人をその抑圧を悪いと考える人とそうでない人のグループに分ける。不公平かもしれないが人間性というものに敬意を表して、前者の方が多いとしよう。さらに、同情的かどうかと、その抑圧に対してどのような態度を採るかの基準を考えよう。まず、ラジカルで極端な見方を持つ人がいるだろう(例えば、この問題を改善するために社会秩序のすべてをひっくり返せば良いと考える)。中庸の人もいて、保守的な人(改善策はほとんどないし、改善の試みがかえって状況を悪くしかねないと考える)もいるだろう。

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あなたのポジションは「中庸」と「ラディカル」の間の位置だとして、自分の見解についてプレゼンするとする。挑戦してくるのは誰だろうか。それは基本的にあなたよりよりもラディカルな見方をする左側の人たちと、はるか遠くの右端にいる人たちだろう。前者は、発言があなたに同情的ではないと受け取られられてしまうという心配がないゆえに自説を主張する。後者は、まさに同情的ではないゆえに、また、周囲にそう受け取られることも気にしないがゆえに。

実際、プレゼンの質問時間が次のようになったのにを何回立ち会わされたからわからない。プレゼンで発表者が大多数の人々の考えは間違った方向を向いているという見方を示していた。次のようなことは誰も言おうと思わない。「その指摘に意味があるとは思えない」、「その主張の根拠を言っていないようだが」、「その政治的提言は利己的すぎる」、というような。他方、出てくる質問は次のような二種類の質問だけだ。「その分析はで、本当に社会的開放の実践に繋がっていくのかが心配だ」(つまり「あなたは左翼として甘い」)というタイプ。もう一つ、「あなたたちはいつだって自分の問題の不平をいう」(つまり「自分は無神経な “jerk” だ」)というタイプ。

そして、多くの人はプレゼンの後、会場の外で本当はどう考えるかを語る。さまざまな形の理性的な批評は全部ここでなされるだろう。もしプレゼン者が彼らと交流していたら真に有意義なものになったであろうような指摘がなされるだろう。というわけで、「“じぶん”学」の実践者は基本的に両極端の人々からだけしか真摯なフィードバックを得られないので、研究の質の向上という意味において、初めから巨大なハンディキャップがある。

さらに悪いことに、上のシナリオと同じ出来事が繰り返されることにより、議論はますますねじ曲がっていく。何故か。プレゼンターの右側に位置する人のうち大声で発言しようとするのが、言ってみれば、プレゼンターから見て道義的に間違っている見方をする人々のみだ。するとプレゼンターは「自分に賛成しない人たちは全員が道徳的に怪しい」と感じるようになりがちになる。つまり 「“じぶん”学」の実践者から見て、「自分に賛成しない人々」と「道徳的に非難されるべき見方をしている人たち」とが強く相関しているように感じられる。こうして、理性的な不同意が存在する可能性を簡単に見失ってしまう。ここで理性的な不同意とは、道徳的信念をおおむね共有しつつも、すべきことは何か、また改善のために必要な正義は何かという点では賛成でなかったり、その問題は道徳とは関係ないプラクティカルなものだと考えていたりすることだ。

以上のメカニズムは、どうしてあれほど多くの「“じぶん”学」実践者たちが、リアクションに対しあれほどまでに応報的に対応するようになったかをかなり説明できているだろう。彼らは、自分の見解に対する「すべての」批評が、道徳的に疑問がある動機からなされていると考え始める。これはポリティカル・コレクトネスと呼ばれているところの、はっきり言えば、全ての反論を教化しようとする傾向となり、知的な批判にも知的には対応せず、ただ応戦するようになる。

こうして全ては悪循環になる。どんな批評に対しても激怒するものだから、同情的な批評はますます得られなくなってしまい、 コメントはとうとう”jerk” か極端な左翼からのものだけになる。こうして反論への応戦という対応を生み出した認知がさらに強化されるというわけだ。そうなると救いようがなくなる。

学問の世界にいて30年、この力学の具体例を数ダースは挙げることができる。問題に嵌ってしまった人たち。ちょくちょく話題になるようにはなったが、誰も大衆に問いかけようとは思わないような変な考え方。この特殊世界の人々は、私に対しても怒りを向けるようになる。これに対し私はいつも黙るだけだ。私が何を考えているかを知りたいならば質問すれば良い。彼らから質問されたことは一度もないけれども。

ジョセフ・ヒース『私の考えを一変させるに至った10冊』(2015年7月5日)

10 books that blew my mind
Posted by Joseph Heath on July 5, 2015 | education

今現在、個人的には完全に真夏モードに入っているので、しばらくブログのエントリは軽い内容が増える予定だ。この機会に、過去に幾人かから寄せられてきた質問への返答を投稿しておこう。ということで、このエントリ、私の物事への見方に強い影響力を与えた(あるいは、私の思考を根源レベルで変更するに至ったり、私の卑小な考えを一変させたような)書籍10冊を挙げさせてもらっている。10冊からは古典を除いているので、全て第二次世界大戦終結以後に出版された書籍となっている。

1.ユルゲン・ハーバーマス晩期資本主義における正統化の諸問題』1973年

2.ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論』1978年

3.タルコット・パーソンズ社会体系論』1951年

4.デイヴィド・ゴティエ合意による道徳』1986年

5.ジョン・ローマー “A General Theory of Exploitation and Class”『搾取および階級の一般理論』1982年 ※未訳

6.ロバート・ブランダム “Making it Explicit”『事象を明示化する』1994年 ※未訳

7.ロバート・ボイド&ピーター・リチャーソン1  “Culture and the Evolutionary Process”『文化と進化の過程』1985年 ※未訳

8.フランソワ・エワルド2  “L’etat providence”『福祉国家』1986年 ※未訳

9.トーマス・フランク3  “The Conquest of Cool”『クールの征服』1996年 ※未訳

10.ジョージ・エインズリー4誘惑される意志』1992年

以上リストは、私が読んだ時系列順である。私の哲学的見解は、これらの書籍の内容の総和によって形成されていると常々感じている。なので、この10冊を読めば、私が強く抱いている関心と、それについて言わんとすることを推察できるようになるはずだ。今のところ、世界中を見渡しても、ここで挙げた10冊を全て読み込んでる人はいないようなので、これ幸いなことに、独自性を打ち出すことにも成功しているかもしれない。

因みに、この10冊、どれも『簡単』に読める本ではないので、夏休みの読書リストにするのはお勧めはしかねる。これらのうち何冊かは、私個人も文字通り何年もかけて読んだ(一部は理解に副読本を要するような)書籍となっている。なので、私個人としては、これらを全て、ないし何冊かを読むことを強く推奨したい。一方で、ノンアカデミシャンには理解が非常に難しい本でもあるので、世間様にお見せするのには、適切でないリストになっているかもしれない。

(最後に、もし古典をリストに追加して良い場合は、カントの『純粋理性批判』『実践理性批判』、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』、ホッブズの『リヴァイアサン』である。)

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:邦訳がない書籍は、原題の直後に訳者による便宜上の邦題を追加している。
※訳注:タイトル直下の年代は、原書の出版年である。
※訳注:日本語版のウィキペディアに項目がある著者は、ウィキペディアへのリンクを貼ることで書籍の著者の紹介を割愛している。

  1. 訳注:ボイド(1948-)は進化人類学者。リチャーソン(1943-)は集団生物学者。共著を多く出している。人間社会は、遺伝子淘汰と、文化等のミームによる淘汰の相互作用によって形成されているとの『二重相続理論』と呼ばれる理論の代表的な提唱者 []
  2. 訳注:1946年生まれのフランスの歴史学者であり哲学者。福祉政策と国家の関係についての研究で有名。1976-1984年までミシェル・フーコーのアシスタントを努め、フーコーの著作の編集等を行っている。フーコーの正統な後継者と看做されるいる。 []
  3. 訳注:1965年生まれのジャーナリスト。主にハーパーズ・マガジンで、政治や主流文化の分析記事を執筆している。 []
  4. 訳注:行動心理学者。テンプル大学教授。『双曲割引』の研究で有名。 []