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ジョセフ・ヒース「なぞなぞ:リバタリアンとペドフィリア(小児性愛者)の共通点ってなーんだ?」(2014年4月22日)

What do libertarians and pedophiles have in common?
Posted by Joseph Heath on April 22, 2014 | political philosophy

答え:インターネット登場前には、こんなに沢山いると誰も知らなった。

オーケー。このなぞなぞは、読者の注意を引くために即興で創り上げたちょっとしたジョークだ。このジョーク、今回の議論の調子を伝えるためにをやらかさせてもらった。要は、今回の議論、リバタリアニズムの批判を行うが、教義や主義そのものに言及しない感じの批判になっている。はっきり言ってしまえば、理性より感情に訴えたリバタリアニズム批判をやってみたい。もっと正確に言わせてもらうなら、信者の典型例の観察を行うことで、リバタリアニズムを間接的に批判したいわけだ。

この批判を達成するために、新しいコンセプトを紹介したい。ぶっちゃけるに、『自制心(セルフ・コントロール)貴族』と私が呼んでいる特定集団の人々について話したい。

この考えは非常にシンプルだ。一部の人は、他の人達よりも「自制心」に優れているのである。私の例を挙げてみたい。私は妻を心から愛しているのだが、時に妻は私を恐怖の存底に叩き込むことになる。数か月前のことだ。妻は、市販の統計分析ソフトに料金を支払うのが嫌になったので、代わりにオープンソースソフトウェアのを学ぶことを決心した。妻は、いくつかの無料のオンラインのコースに申し込み、それから毎日、仕事後の晩に、Rのプログラミングの細かい仕様を講師が解説するチュートリアルビデオの視聴に1時間ほど費やすようになった。妻は、多量の問題一式に取り掛かり、月末にはそれを基本的にマスターしてしまった。

私を畏怖させたもの、それは妻の「自制心」の行使量である。仕事場での長い1日を終えてから帰宅し、それから統計ソフトのプログラミングの自習に1時間費やすのである。こんなことをするのは、私には到底無理だ。端的に私には妻のような凄い自制心がないからである。ただこう言っておいて何だが、私も平均的な人よりは強い自制心を持っているはずなのだ。何せ、私は大変な労力を割いて本を書いており、完成に至るまでの何年もの忍耐力を必要としている。

なので、妻と私は共に自制心の行使に関しては、人口の上位10%帰属にある、とおそらく断言できる。この上位10%に帰属する集団のことを、私は『自制心貴族』と呼んでいる。この貴族クラブメンバーであることは、社会において巨大な便益を得ることになっている――有名な「マシュマロ・テスト1 」によっても示されている通りだ。この巨大な便益は、「自制心」が、社会の諸領域に普遍的に適応する非常に安定的な個人性質として発現することに由来している。(例えば、妻と私は、25年以上もクレジットカードを、限度額未満の金額しか使用したことがない。)我々の社会において、「自制心」は、その能力の保持者に、単に富を与える以上に、多くの実利をもたらしているだろう――自制心は、人生の非常に多くの領域(健康、教育、ダイエット、財テク、人間関係、キャリア開発、犯罪の自己抑止、等々…)で利点をもたらすからである。

博士課程を修了した大抵の人は、この自制心では最高水準にある。大学に留まり続けることは、[人生における]満足感を延期するための強い忍耐力を必要とするからだ。人文科学のようにあまり形式化されていない分野の博士号を持っている人は、確実にこの自制心を持っている。
(学部の院生が博士号取得試験2 に合格した後、私はいつも彼らに「ほの暗い下宿に今すぐに戻るのだ! そして二年後に自著を抱えて帰還したまえ!」と声掛けしている。冗談のようだが、あながち冗談ではない。哲学の博士論文執筆には基本的に総計でこのくらいはかかるのだ。もちろん、このような種類の仕事は、皆に適性があるわけではない。ただ博士課程を完遂できないとすれば、それは「知性の欠如」によるものではない、「自制心の欠如」によってのみ起こりうるのである。)

『自制心貴族』の一員であることを自覚しているが故であるが、社会における「個人の自由」に関する諸問題について考える際には、ある種の特権階級の話だと想定するとピンとくるのである。私は非常に強い「自制心」を持っているので、「個人の自由」領域の拡張によって、平均的な人よりも、非常に多くの便益を得る立場にある。なので、24時間営業の酒屋は、私にとっては素晴らしいが、他の人にとっては良し悪しがあることを、私的には認識している。また、私は新しいTFSA3 プログラムについて熱心な関心を寄せているが、その関心が一般的に共有されていないことも認識している――TFSAの主な便益は、富裕層ではなく、『自制心貴族』に流れ込むからだ。

ここまでの話が、リバタリアニズムとどう関係するかだって? (漫然かつ暗黙裡に、個人の自由を他の政治的権利より優先するような教義に基づいている)リバタリアニズムの学問的支持者達全ては、『自制心貴族』の一員であることが、重要な論点なのだ。現に、この手のリバタリアニズムの支持者が推奨している政治概念は、他者よりも、自身に非常に広範に便益をもたらすものとなっている。それでいながら、ほとんどの事例で、彼らは自身がエリートであり社会の支配的なグループの一員であることで[自身の推奨政策から]偏って利益を得る立場にあることを認識していない。なので、彼らは非常に無邪気に自身の政治概念を推奨している。リバタリアン想定だと、「自由」は、全ての人に平等に便益を与えるものとなっている。(もしくは、リバタリアン想定では、「自由」の拡張が一部の人に便益を与えない場合は、その人が、十分な自制心の行使に失敗したことになっている。つまり完全なる自己責任である。)

経済学を背景に持つたぐいのリバタリアンは、この観点では最悪の傾向を示している。経済学者が方法論的仮定として導出している「合理的エージェント」モデルは、絶対的完全な自制心を保持しているエージェントの明示化に寄っているからだ。(例えば、ミルトン・フリードマンの恒常所得仮説。この仮説では、銀行の貯蓄残高とか、信用限度がどのくらいなのかというような事象は、影響を与えないはずだと明示されている。そうだったらいいののだけどねぇ!)

結果的に、経済学の薫陶を受けた人がなんらかの政策問題について考えると、誰もが完全な自制心を持つことを前提条件にした概要分析をよく挙げることになる。このような観点だと、生活保護給付が月単位になっているような制度は、不思議に思えるかもしれない。なぜ生活保護給付を税制度に組み込むことで一元化しないのだろうか? とか、単に年度始めに一度だけ総額を高額給付しないのだろうか? とか不思議に思えるようである。
(現実世界に住んでいる人なら誰でも、この質問には容易に答えられるでしょう? しかしながら、確実にある種の経済学者――「合理的エージェント」入り毒々ジュースを常時ラッパ飲みしている人――にとっては、答えは正真正銘の謎に思えるようである。)

生活保護の給付を単年度の一括支払いに変更することを、真剣に検討してる人はさすがにいない。しかしながら、確定給付型年金制度を、拠出ベースの年金制度や定期貯蓄に置き換えるような事案は、人によっては検討している。そしてこういった事案の検討時に、(完全な自制心を前提条件に置いている)経済学者のバイアスは、深刻なまでに議論を歪めているように見える。

自制心の不平等な分配に注意を向けることを始めると、すぐにリバタリアニズムのある特徴が見いだされる。私は長年に渡って、リバタリアン達の、国家権力による単一ないし複合的な規範の押しつけへの批判や、個人の自由余地のさらなる拡大を目的とした国家権力の抑圧を縮小する要求を聞くことに、少なからず時間を浪費してきた。しかしながら、彼らの批判を聞いてきた長い年月全てにおいて、この手の[国家による規範や権力の]縮小によって自身が便益を得るのを想定していない事案を要求するリバタリアンにはついぞ出会ったことがない。

例えば、銃の所有権を擁護する類のリバタリアンは、銃を所有していたり、銃の所有を欲するような類の人である傾向がある。本物の原理主義的リバタリアンであるなら、銃所有の要求如何によらず所有権を擁護するだろうし、ことによると銃犯罪の犠牲者になる可能性が平均以上になろうとも所有権を擁護するはずだ。本物の原理主義的リバタリアンであることは、自己利益の促進のために単なる修辞的なカモフラージュとして「自由」という言葉を使用することにあるのではない。純粋な価値として「自由」を掲げることを意味しなければならないはずだ。

毎度の経済に関してだと、リバタリアンの議論は常に同じ趣をまとっている。例えば、公的保険制度を嫌うリバタリアンは、自前の民間健康保険制度を自由に選択できるように望んでいる。しかしながら、この手の議論を行う類のリバタリアンは、常に民間の健康保険を既に購入してる類の人である。この手の事例は枚挙にいとまがない。

ここまでの見解を適切に表している優れた風刺がある(どこで見たまではちょっと思い出せないが、たしかニューヨーカーに掲載されていた風刺漫画だったはずだ)。風刺漫画ではマンハッタン在住の富裕層の女性が、貧しい人に対して不平を述べていた。

富裕層の女性曰く:
「貧乏な人がお金がないことについてしょっちゅう文句を言ってるのが、私には不思議なのよね。私なんて、まったくお金を使わないで何日も過ごすことがしょっちゅうあるのよ」
ここで、彼女の夫が突っ込んで言う:
「マイハニー。それはね、君の運転手が全て支払っているからだよ」

この話の教訓。それは人は一度十分なお金を所有してしまえば、それは見えなくなってしまうことにある。つまり、人は一度富裕になると、お金で困っている人の視点で世界を見る能力を失ってしまうのだ。「自制心」に関しても同じだ。『自制心貴族』のメンバーは、自身が「自制心」を多量に保持しているのを当然視している。その結果、彼らは「自制心」を欠いている人の視点で世界を見るのが非常に困難になっている。故に、彼らは多くの事例で、自身帰属の狭い社会階層だけに便益をもたらすであろう政治的概念の推奨に日々費やすことになる。しかしながら、それが自身帰属の狭い社会階層だけに便益をもたらすものであることには、決して気が付かないのだ。

※訳者による補足・注釈文章は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:子供時代の「自制心」の強さが、将来の成功の多くの要素に強い相関があることが示された研究。当初の実験では、子供にマシュマロを見せた上で、一定時間食べるを我慢させて「自制心」の強さを計測したことから、このような名称が付いている。 []
  2. 訳注:英米の大学等で博士課程を経た後に受ける試験。試験に合格すると授業に出席せずに博士論文を書く権利がもらえる。 []
  3. 訳注:カナダにおける個人の金融投資収益の税免除制度のこと。日本のNISAとほぼ同じ制度である。 []

ジョセフ・ヒース「ナオミ・クライン、追記その1」(2015年4月4日)

Naomi Klein postscript no. 1
Posted by Joseph Heath on April 4, 2015 | economy, environment, public policy

ナオミ・クラインの新書『これが全てを変える』を読んでいた際、書籍内の多くの言説に驚かされた。ただそれらの内のいくつかは、主な批評対象から若干逸脱していたので、2週間前に書いた書評からは割愛させてもらった。しかし、それら割愛箇所は言及する価値のあるものでもある。特にこの新著と過去著作(『ショック・ドクトリン』『ブランドなんかいらない』を含む)との論理的整合性についてだ。(我々アカデミアの住人が好むかなり面倒なやり方の1つがある。それは研究対象該当者の著作を全て読み込み、「全著作がどのように関連しているのか?」という疑問にしつこく煩悶するのだ。「ノンアカデミシャンの著作を扱う際には、そのやり方はアンフェアだ」と何人かの人に指摘された。しかし我慢できないのでやってしまおうかと思う。

『これが全てを変える』について、クラインのファンの多くが最初に気付くのが、前著『ショック・ドクトリン』との間に存在する、巨大な対立的矛盾だろう。実際、一般読者には、クラインは過去の自著で語っている内容のほとんどを前言撤回しているように見えるかもしれない。この問題点はハッキリ明白になってしまっているので、実際クラインは、正反対の立場を表明してしまっていることに、「私は矛盾していない」と言い訳を試みて疑いを晴らそうと、序章のかなり部分を浪費している。ただ驚くまでもないが、私が見る限り、この弁明部分は説得力ゼロである。

ともかく、まずは『ショック・ドクトリン』に話題を戻してみよう。『ショック・ドクトリン』の発売時、私はこの本について何も言及していない。大まかな理由を挙げるなら、書籍は困惑させるようなものでしかなかったからだ。実のところ、私は、この本の修辞表現の構造[著者が執筆・文章化することで意図等を適切表現すること]がどのように混乱してるのかまでは把握することができなったのである――私が見ることができたのは、クラインが何かを試みてていることであり――クラインの立ち位置が混乱していることだけは端的に見いだすことはできた。基本的に、クラインは右派批判を行っている。右派は(ハリケーン、インフレーション、金融危機のような)様々な危機を悪用し、通常の状況下にある人々には受け入れがたい社会への急進的な変革を強要した、との理由からである。今から見れば、彼女が批判する「ショック・ドクトリン(ショック療法)」には2つの要素がある。まず最初の要素は、「戦略」だ。「戦略」とは以下のようなものである。ショック・ドクターは、まず前もって「青写真」を策定する。それから人々を脆弱化させたり、呆然とさせたり、パニックにさせるような様々な危機の到来まで待つ。この時点で抵抗者達は最も弱体化しているので、ショック・ドクターは、自らのプランを強要する機会として悪用するわけである。2つ目の要素は、右派が推進していた特殊な「アジェンダ」だ。財減税、貿易自由化、公共サービスの民営化、市場インセンティブ導入による非市場部門の再編成、等々である。

この「ショック・ドクトリン」実施の最適事例として挙げられているのが、ハリケーン・カトリーナ後のニューオリンズの学校制度の再編成である。ニューオリンズの学校群は多くの近隣住民の支援と共存していたが、ハリケーンで破壊されることになった。なので、ほぼ全ての制度が再編成の必要性に迫られ、急進的な変革を行う機会が立ち上がることになっている。この機会は、チャーター・スクールの支持者によって好機として捉えられ、多くの伝統的な学校を撤去するやり方で制度の再編成が実地されることになった。

このハリケーン後の学校の再編成や他のショック・ドクトリンの事例に、クラインは「アジェンダ」と「戦略」の双方をもってして不可としていたのは、今や明白であろう。ところが、クラインは、「ショック・ドクトリン」を批判するのに際し、ほとんでアジェンダ批判よりも、戦略批判に費やしているのである。ショック・ドクターの戦略を、特筆すべき悪行であり、公明でなく、邪悪であるかのように批判している。しかし、このように考えると奇妙な事になってしまう。それはこの手の戦略は、本来政治的価値を持ちえないはずであり――左派がこのような戦略を行わない、と夢想してしまうのはありえないだろう。それどころか、この手の戦略は、左派によって発明されており――それは「ボルシェヴィズム」と呼ばれ、共産主義政党が20世紀を通じて行ったきたものだ。青写真を作成し、それからなんらかの危機がやって来るまで潜んで(あるいは「機が熟す」まで)待ち、権力奪取のための大義名分を用意しておく。これが共産主義政党の戦略の本質だったわけだ。同様の戦略は、穏健左派によって、大恐慌への対応として、現代福祉国家の土台を作る際にも「非常に効果的」に実施されている。いずれの場合も、市民が以前は受け入れる用意があるもの以上のラディカルな変革が、危機が利用されることで成立している。

『ショック・ドクトリン』について驚くべきことがある。それは、(私の見た限り)クラインは、左派がこの戦略を効果的――ないし悪用してきてことを、まったく認識していないことにある。クラインによって描かれているエピソードは、おそらく全て左派によって生み出された戦略であり、それらを右派が採用して使用するのを学んだ事例群なのである。しかし彼女はこの事を認識していない。いやそれどころか、クラインは、これらを右派によって独自に企まれ実行された戦略であるかのように提示すらしているのだ。これは顕著な自明的誤りとして私を驚かさせ、この本への関心を霧散させることになったのである。思うに、クラインは右派のアジェンダに関して不平を述べたいなら、戦略批判に数百ページも費やすよりも、単にアジェンダに不平を言うだけにすべきだったのだ。私が見る限り、[こういった戦略は]左右どちらのイデオロギー側によっても普遍的に使用されているのだから。

ともかく、こういった見解に基づいて、気候変動に関するクラインの取り組みが示されている。彼女の中心的な主張は、「気候変動は巨大で、急を要し、惑星的危機である。そして、それに効果的に対応する為に、我々は、通常時には肯定できないような、根元的な社会変革を広範囲に渡って行わなければならない」そうである。オーケイ。[危機の鳴らし方が過去のクラインのものと]お馴染みでしょう? ただクラインの名誉のために言っておくと、彼女は現在の推奨事項と以前酷評していた「ショック・ドクトリン」との類似性には気づいているのだ。実際、彼女は自身が行おうとしているものを「逆向きのショック・ドクトリン」の一種であるとさえ主張している。

気候変動に対処する活動家達はまた、人民による逆向きショック・ドクトリンのようなものの従事者でもあります。活動家達は、災害(特に気候に関する災害)の直後は、新たな経済を構築する最適機会の一つであることを既に学んでいるのです。何千万もの死者を出し何十億ドルもの被害をもたらした『ハリケーン・サンディ』や台風『海燕』のような大災害が繰り返されることは、私たちの今日のシステムへの甚大なコストにかかわることとなり、公衆への劇的な教訓と至らしめるのです。そして、公衆を、気候変動危機への単なる対処療法ではなく、根本に立ち向かうラディカルな変革へと駆り立てることになります。(p.405-6)

「良き危機」には誰であれ抵抗できないようじゃないか! クラインは、深刻な危機を巧みに利用し、ラディカルな変革を達成する能力は、「革新派はどのように使用すれば良いか馴染んでいたのに…」と嘆いてさえいるのである。

大規模な危機のさなかに、社会・経済的正義に関して大きな成果を勝ち取ってきた民衆運動の豊富な歴史があるのです。そのなかでも最も目を引くものに、1929年の市場崩壊後のニューディール政策と、第二次世界大戦後の数え切れない社会政策を挙げることができるでしょう。(中略) 私は確信しているのです、気候変動は、これらより大きな規模の歴史的機会として再び具現化することに。(中略) ショック・ドクトリンの究極的発現([搾取層による]新資源の強奪と抑圧の狂乱)などとは違う、「人民によるショック」、つまりは下層からの吹き上げを、気候変動は可能とするのです。(p.10)

なるほど。で、クラインが批判している「ショック・ドクトリン」と、今や彼女が推奨するに至った「逆向きのショック・ドクトリン」との違いは正確には何なのだろうか? クラインに言わせると最初の違いは、「ショック・ドクトリン」は、独裁的な手法を課されたものであり、彼女が推奨している一連の変革は、大規模な民衆の動員を通じて全て民主的に達成されるものである、とのことらしい。

以下より詳細に読み説いてみようじゃないか。2番目の(そしてより根本的な違い)は、単純なものだ。前者はクラインが悪いと考えるアジェンダに適応しているものであり、一方で後者は彼女が良いと考えるアジェンダに適応しているものである。

(右派の「ショック・ドクター」は緊急事態(本物であろうと、捏造であろうと)につけ込んで、より危機をもたらす政策を私たちに強要するのに対して、ここまでページを割いて議論してきたような種類の変革はまさに正反対な結果となるはずなのです。それは、私たちが一義的に直面している深刻な危機の根本原因を取り除くことになるでしょう。そして、私たちに降り懸かるであろうものよりも暮らしやすい気候をもたらすでしょうし、現状よりはるかに公正な経済をもたらすはずです。(p.10)

このような言及方法は「良きショック・ドクトリンは私が賛成する物事を支持するものであり、一方の悪しきショック・ドクトリンは私が賛成しない物事を支持するものである」といった端的な気まぐれでしかないと私には思える。クラインが推奨するアジェンダの内容に目を瞑り、百歩譲ってアジェンダをまあありとするなら、[彼女が批判しているショック・ドクトリンの]戦略、要するに戦略の横暴さややり口をもってして争点化できるだろうか? 言い換えるなら、クラインの新刊の核心は何なのだろう?

つまり、「悪いショック・ドクトリンは権威主義的」であり、「良いショック・ドクトリンは民主的である」と定義付けて考える事は可能だろうか? この定義も、(ニューオーリンズの学校制度改革は、選任された公務員に着手されており、同じようにニューディール政策も、選任された公務員によって実行されていると考えると)出発点から、曖昧なものでしかない。しかも、本の後半部では、彼女はこの事を完全に失念しているのである。そこではジオエンジニアリング1 を、気候変動への対策として提唱している人達を、「自分勝手なショック・ドクトリン推奨者」として断固批判している(p.276-7)。この項目では、クラインは、大衆が実際に正しい位置にいることを気にしているようだ。

「もしジオエンジニアリングが実行されれたなら、冷静に考える十分な時間もないままに、集団パニックを騒擾することはほぼ確実なのです。 (中略) 深刻な緊急事態の渦中では、誰もが集団パニックの思考に捕らわれると考えるしかないでしょう? 私にはとんでもないことに思えます。(中略) ショック・ドクトリンは、このように作動するのです。深刻な危機による絶望下においては、あらゆる種類の理性的な反論を霧散しさせ、万事のハイリスクな言動を一時的であれ許容されてしまうように思えるのです。急激な変化の渦中にも、私たちは自身で価値判断を行わねばなりません。ジオエンジニアリングによって生じるであろう将来の倫理的問題やリスクを理性的に評価することは、危機的な雰囲気においては範疇外にあります」(p.276-7)

私は、ここにおいて奇しくもクライン同意することになるのである――たしかにジオエンジニアリングの支持者が提案しているものは、信じられないくらいリスキーなのだ。相違点を挙げるなら、クラインの支持しているものも同様に信じられないくらいリスキーなことにある。なので、クラインが大衆へ自説の押しつけを試み、「危機を悪用している」という点において、彼女は、他のショック行商人とまったく同じである。(注視すべきは、クラインは自身の見解を「人民のショック・ドクトリン」と呼称しているが、端的にそうなっていないことにある。現時点で「人民」の圧倒的多数は、クラインの提唱しているものをまったく支持していない。なので、少なくとも現時点では、クラインの提唱しているものは、エリートや前衛主義者の見解と同じでしかないである。)

クラインが推奨している気候変動問題の解決策は、どんな趣旨でリスキーなのだろうか? 私が考えるに、彼女の提唱は二つの様相において、リスキーな解決策となっている。まず最初に、クラインは気候変動問題に間接的に取り組もうとしている点にある。結果的に、クラインが提唱する改善案の有効性は、紆余曲折した因果関係に依存することになってしまっている。このことは前回のエントリでも触れたが、詳しく言及してみよう。以下のクラインの論旨を検討してみてほしい。

すると、なんらかの世界観や自明とされているイデオロギーを変革するのはどうすればよいのでしょう? ひとつは、根源的な政策論争によって正しい選択を相乗することです――単に法律を変えるのを目的にするのでなく、人々の思考パターンを変革するのです。つまり考え方を根本から変えるような変革です。これが意味するのは、例えば最小限の炭素税を勝ち取るのは過少な価値でしかないでしょう。最低所得補償の要求のために大連合を形成べきなのです。これまで議論してきたように、最低所得補償は、労働者に環境汚染エネルギーの仕事を拒否する言行を可能するだけではないのです。普遍的な社会的セーフティネットを求める議論の過程そのものが、諸価値を巡る声高の討論空間を開くことになるのです。価値とは、経済成長や企業利益などよりも、私たちが相互信頼に基づいて負うべきなんらかであったり、総体的価値観の尊重にあるのです。

ここでのクラインの言及内容に着目されたい――環境保護の達成のために究極的に行うべきこととして、我々はしばらくの間、環境対策を一時停止してでも、貧困層の収入の増加に集中しなければならない、とのことらしい。ただツッコませてもらうなら、クラインが提唱している「最低所得補償」から「気候変動の緩和」へと至る因果関係の連鎖は、信じられないくらい間接的で紆余曲折しているのだ。私的見解だが、この箇所で仮定されている因果関係の連鎖は、純粋かつ100%希望的観測である。私の評価に同意しない人でも、最低所得補償を課す政策に、気候変動の対策を関連付ければ、多くの物事が悪化する可能性があり、非常にハイリスクなアプローチであることは、認めるに違いない。(例えば、最低所得補償で新しい収入を得た人は、SUVを買うかもしれない――これは、過去に行われていた「汚染エネルギーの仕事」に、その人が従事することとほとんど一緒である。)

ただ、再低所得補償の優先は最悪事ではない。二つ目の、彼女が推奨している「脱成長(p.88)」政策こそ、気候変動危機への信じられないくらいリスキーな対処方法だ。これはつまるところ、GDPの規模を縮小させる婉曲表現の一種にすぎない。意味するところは、(おそらくだが)経済を、実質的にゼロ成長に均衡するように抑え込むようにデザイン調整された手法従事によって、長期の不況を引き起こすような政策の実行である。今やクラインは、数百万の労働者を低生産性セクターに移動させることを(p.126-7)計画している。そしておそらくだが、労働時間を削ること(p.93)で、この「脱成長」政策は失業を産まずに実行可能である、と夢想しているのだ。クライン計画絵図によるなら、一般的な一個人は、緩慢で絶え間のない(10年以上にわたっておおよそ年率2%の)実所得の低下を経験することになる。(こういった政策の推奨者は誰も具体的な数字を提供しないので、私は、彼らの想定像を推察させてもらった)。さらに引き続いて、永続的な所得の停滞となるだろう。(おそらく、技術変化も起ることになり、その生産性向上を受けて、総生産を増加させないことを確保する必要も生まれるだろう。なので脱成長政策は、労働時間の削減を履行するような方法によっても、達成せねばならないことになるだろう。)

所得の縮小ないし停滞状態の継続に並行して、クラインは、民間セクター消費を、公的セクター消費に大規模に移行させることも提案している。この政策の資金調達に、個人所得税の大幅な増加を手段として想定しているようだ。またもや、クラインは具体的な数値を示さないのだが、彼女の話しぶりからは、脱成長政策後のGDPの1/4ほどを移行することを欲しているように読めるのである。加えて、彼女は貧困層への巨額の再分配も夢想している。ここでも大雑把な概算が行われているが、平均的な人がおおよそ20%の賃金をカットを容認することを、クラインは欲しているように読めるのである。しかも二度と賃金上昇が起こらないことを確約させ、平均的な所得税率を約25%上げる合わせ技によってである。(なので、カナダの平均所得税率は30%から55%になる)。さらに忘れてはならないのが、これらクラインの提案全ては、「民主的に達成される」と想定されていることにある。有権者がこういった政策に、一度だけでなく、何度も投票するであろう、と想定されているのだ。

「脱成長」の提唱者達――クラインだけでなく、ピーター・ビクターも同様だが――に関して私を驚かせてきたものに、彼らが、このような平均所得の減少願望と、経済的不平等の縮小願望との間に、対立・葛藤関係をいっさい見出していないことがある。彼らは、人々が再分配の増加に同時して、自身の収入の低下を支持するのを期待しているのである。これは、私を形容できない困惑に至らせ――このような主張への根源レベルでの不審を表す言葉を探して苦闘することになる。このような主張が実現した世界は存在するのだろうか? 可能なのだろうか? かつて実現したことがあるのだろうか?

現実世界において、経済不況は、政治的混乱の顕著な増大に強く関連している。他方において、経済成長は、再分配を非常に容易にするのである。端的な理由を挙げるなら、経済成長下における所得移転は、所得を移転拠出することになる人には純粋な損失として現れず、(はるかにより抽象的な)亡失利益として現れるからなのである。福祉国家が経済成長を背景に創り出されたことは、偶然ではないのだ。(政治政策における、経済成長効果の一般的見解に関しては、ベンジャミン・フリードマンの『経済成長とモラル』を参照してほしい。)

私にとって自明に思えるものに、(経済に負の総和を作り出すことによる)脱経済成長戦略は、徴税と再分配の両面において、巨大な抵抗を拡大するであろうことがある。このような抵抗の拡大による限定条件下では、脱経済成長政策は、極右政党への支持増大という危険な形のでの反動を産むかもしれない。

結果的に、この本でクラインが推奨しているものと、ジオエンジニアリングの熱狂的支持者が推奨しているものの間には、端的に何の道徳的違いもないように私には思えるのである。後者は工学万能主義であり、一方クラインは社会主義的ユートピアにすぎない。しかしながら、両者共に、気候変動問題の解消に関して、冒険的で、実証されておらず、潜在的に危険な政策に、自らの希望を賭けようとしている。おまけに、クラインが、自身のアジェンダは民主的に達成されるであろう、と考えていることに関して、非現実的なものとして驚かざるをえない。左派が保守政党を政権から追い出す方法が、皆目分からない国に未だにいるのにだ。

  1. 訳注:地球規模の工学手法で人為的に地球温暖化に対応する政策。空気・大気中の二酸化炭素を人工的に貯蔵して大気中のCO2濃度を低下させる、二酸化硫黄を大気中に放出し太陽光の放射を減少させるといった政策が代表的。 []

ジョセフ・ヒース「『批判的』研究の問題」

[Joseph Heath, “The problem with “critical” studies,” In Due Course, January 26, 2018]

学部生だった頃,こんな風に思っていた――《「客観的」「価値自由」なやり方で社会現象を研究する実証主義が社会科学で蔓延しているのは世界の災厄だ.そんなものは幻想だ,というか有害な幻想だ.だって,客観性をよそおいつつ,その裏には隠れた目標があるんだから.つまり,支配しようという利害関心をもってるんだ.人々を主体ではなく研究の対象として扱うなんて政治的に中立じゃない,だってそうやってうみだされる知識ってのは,どういうわけかうまいぐあいに,まさに人々を操作し管理するために必要とされるたぐいの知識になってるもの.つまり,「客観的な」社会科学はちっとも価値自由なんかじゃない,むしろ抑圧の道具になってるじゃないか.》
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ジョセフ・ヒース「保守主義者へのアファーマティブ・アクション?」(2017年 11月9日)

 

Joseph Heath, “Affirmative action for conservative academics?,  In Due Course, November 9, 2017.

 

2016年のエモリー大学にて、キャンパス内の諸々の歩道にチョークで書かれたトランプ支持派のスローガンを目にした一部の学生たちはとてもひどくトラウマを抱いてしまったために、それらのスローガンを「ヘイトスピーチ」の一種だとして調査するよう大学当局に要求した。大学全体がセーフ・スペースであるべきだという発想は、米国の2大政党の両方に対するいかなる支持の表明からも学生たちが隔離されるという事態を招く可能性を含んでおり、意見を自由に交換する場所としての大学という理念に対立するものであると多くの人から見なされた。同時に、自分たちの中にトランプ支持者が存在しているという事実がエモリー大学の学生たちをあれ程までに警戒させたということは、アメリカの一部の大学において政治的な意見の不一致がいかに珍しくなっているかを示している。アメリカの大学を広範囲に調べてみてもたった一人のトランプ支持者やたった一人の政治的保守派ですら見つからないことがある、というのが事実なのだ。

トランプが大統領になった現在、アメリカの学者たちは奇妙な状況に置かれてしまっている。トランプに対して非難を浴びさせたいが、その話をする相手がいないのだ…トランプを擁護しようとする人が周りにいないので、ただ単純に、諸々の問題について議論する相手がいないのである(そして多くの場合には共和党を擁護しようとする人もいないし、より一般的な保守派の運動を擁護しようとする人もいない)。特に小さな大学ほど、左翼的な意見のエコーチェンバーとなるリスクに晒されている。人々が机を囲んで新自由主義の文句を言い合い、皆が頷いて同意し合っているか、あるいは左翼同士が一枚上手なことを言おうと競い合うというお馴染みのゲームが始まるか、という場所であるからだ。このような議論は馬鹿らしいだけでなく、すぐに退屈なものになってしまうし、ひどい無益感を生み出してしまう 。

また、エモリー大学の事件は、大学が何故こんな場所になってしまったかということについての若干の反省を引き起こした。そこがアメリカであるということをふまえれば当然のことだが、このような事態は保守派に対する差別の結果である、という発想がまず真っ先に人々の頭に浮かんできた。そしてもちろん、なにしろそこはアメリカなのだから、その発想はアファーマティブ・アクションを求める声へとつながった。アメリカの大学において政治的保守派が代表される機会を増やすことを目的としたアファーマティブ・アクションである。この意見を主張している中でも最も有名な人物が、心理学者のジョナサン・ハイトだ。

私自身の意見によれば、「左翼のエコー・チェンバー」問題は実際に存在している。この問題は特にアメリカにおいて深刻であるが、度合いは少ないとはいえカナダでも起こっているし、何らかの対処がなされるべきだ。しかし、アファーマティブ・アクションはこの問題に対処する方法として不適切である。トランプが登場するはるか以前から存在していた、(しばしば「常識的」保守主義と喧伝される)保守派の反合理主義こそが問題の核心である、と私は考えている。リバタリアニズムなどの合理的な保守イデオロギーは大学で代表される機会が過小である訳ではない…むしろ、人々が実際にそれらのイデオロギーを支持している割合と比較すれば、合理的な保守イデオロギーは過剰に代表されている可能性の方が高いのだ。(もっともな理由のために)大学にて代表される機会が少ない保守主義とは、あらゆる種類の専門知を蔑み、経験的証拠と合理的な議論の両方を軽視しなければ支持できないような政治的立場を取るタイプの保守主義である。

まず、ハイトの提案についてコメントしよう。保守派へのアファーマティブ・アクションがハイトから提案されたということを聞いても私は驚かなかった。どんな提案について評価する際にも、その提案がどこから発祥したかということについて常に考慮することが重要だ。ハイトの問題は、1:彼は道徳について非認知主義者であり、2:彼は政治について道徳主義的であるということだ。ハイトによると、道徳に関して私たちが抱く信念は究極的には全て非合理的であり、それぞれの人々に備わる感情の傾向の結果に過ぎない。進化はケア・公正・自由・忠誠・権威・神聖という6種類の基本的な感情的反応の傾向(あるいは、社会的な関係についての素朴な「直感」)を私たちに身に付けさせた、とハイトは主張する。彼はそれらの傾向を私たちが食べ物から経験する6種類の異なる味覚と比較している。しかし、6種類の道徳的な味覚には幅があり、それぞれ異なる人々が6種類の味覚をそれぞれ異なった強度で経験するという性質が各々の人間に生まれつき備わっているのであって、また、社会環境によって特定の味覚が強化されてその代わりに特定の味覚が弱まったりもする。ある人がある政治的な信念を持つこととは、その人に備わっている道徳的な味覚の特有な配分の結果なのだ、とハイトは主張する。ハイトが特に主張しているのは、「リベラリズム」は6種の味覚のうちケアと公平のみが偏って強調された賜物である一方で、「保守主義」では6種全ての味覚がより平等に配慮されているということだ。

上述した主張の結末を想像してみれば、ハイトが保守主義へのアファーマティブ・アクションを求めている理由を理解するのは簡単だ。彼にとっては、「保守主義者であること」とは人種と全く変わらない個人的な特徴に過ぎない…それは、生まれつき備わった生物学的な傾向であるのだ。そのため、保守主義者たちはレディ・ガガが歌うところの「私は正しい道を歩んでいるわ、ベイビー。私はこうなる運命のもとに生まれてきたの」という保証を得られて安心することができる。さらに、ハイトの見方によれば、学術的な研究や合理的な調査と各人がそれぞれに採用する政治的立場の間には、本質的には何の関係性もない。彼によれば、規範的な言説は本質的には作話であるのだ。この主張は、より多く教育を受けることはその人をよりリベラルにするかもしれないという可能性を排除する。反対に、「リベラル」な理論や、(たとえば)ジョン・ロールズが主張するような政治哲学は、ただの作られたお話に過ぎない。自分たちが元から持っている道徳的な信念を正当化するためにリベラルが自分たちに言い聞かせるお話なのであって、結局のところ、理性よりも以前に存在する一連の感情(あるいは「直感」)に基づいたものであるのだ。その結果として、教育システムには保守主義者に対する構造的な差別があるからだということでしか、より多く教育を受けた人はよりリベラルになる傾向があるという事実に対して説明が付かなくなるのである。

さて、大学における保守主義者に関するハイトの見解は、彼が採用している二つの非常にラディカルな立場からかなり直接的に導き出されている、ということを理解するのは重要だ。その一つ目の立場は極端な道徳的非認知主義であり(ある人の道徳的コミットメントには合理的な根拠は全く存在しない、という主張)、二つ目の立場は政治に関する強い道徳主義である(ある人がリベラル-保守という政治的立場のスペクトラムのどこに位置しているかは、本人が選んだわけではない道徳的コミットメントの結果である、という主張)。どちらの主張に対しても、私は同意していない。ハイトの意見に相反する私の意見を説明するためにかなり長い本を書いたこともあるが、その概要は以下のようなものである。心理学の二重課程理論の観点から問題を考えてみよう(ダニエル・カーネマンによって近年に知名度を得た理論であり、ハイトも二重課程理論の観点にある程度は同感している理論だ)。「常識」運動の影響のおかげで、現代の保守主義は「直感」(または「システム1」)を「理性」(または「システム2」)よりも熱心に推奨するようになっている。そして、教育とはそもそも「システム2」を発達させる活動であるのだから、自然と、教育は保守主義を締め出す傾向を持つことになる。ポストモダニズムが大学を席捲しているという話題が頻繫に語られているのにも関わらず、理性を行使することを促進するという啓蒙主義の目標に対して、大学は(ただ主義としてその目標を掲げるだけでなく、大学という制度構造の全ての側面において)深くコミットし続けているのだ。そのために、反合理主義にコミットしている人を排除するだけでなく、反合理主義に含まれる間違いや反合理主義があまりにも頻繁に招く悲惨な結果を指摘することで学生たちを反合理主義から「治療する」ことによって、大学は様々な形態の反合理主義を締め出す性質を持つことになる。

(上記した保守主義の非合理主義にはいくつかの重要な例外がある、という点を記しておこう。・・・保守主義者が非直感的な「システム2」の観点を用い、それよりも直感的な「システム1」を左翼たちが奉ずる、という場合だ。このような事例を観察することは重要であるが、しかし、この場合においては保守主義者たちの見解は大学において代表される機会が過小である、ということがない傾向にある。この点については、後の段落で少し触れてみよう)

保守主義による「常識」へのコミットがもたらす影響について、一例を示させてもらおう。かなり「リベラル」な方向へと傾きやすい分野である、犯罪学における事例だ。わたしが犯罪学を例にとったのは、刑罰に対する我々のコミットメントの多くは進化による適応の結果として身に付いたものである可能性が非常に高い報復的な衝動の結果であり、つまり非合理的で直感的な反応であるということだから、ハイトの分析にとって不利ではないという点で適切な事例であるからだ。また、報復的な衝動をどの程度強く感じるかということには人によって違いがあるように思われるから、この衝動は[訳注:上述した6つの道徳的味覚と同じように]人によって変数があるものだと思われる。そして、報復的な感情の強さは、保守的な政治傾向と関連しているのだ。

だがしかし、一般的に、ある人がより多くの教育を受けるほど、その人が報復的な刑事司法政策にコミットする度合いはより少なくなる。なぜだろうか?刑事司法制度とはただ単に報復的なものであるのみならず、犯罪の抑止や再犯の予防などを含む様々な政策問題に対処しなければならない制度である、というのがその理由だ。私たちの本能的な復讐の欲望を満たすだけでなく、犯罪をコントロールすることができる刑罰システムこそが私たちの求めるものなのである。そして、犯罪をコントロールするための政策案の効果を比較する際には、私たちの「直感」はかなり有名かつ重大なバグの影響を受けてしまう。私たちの直感は、報酬が人々を動機付ける力に比べて、懲罰の力を過大評価してしまうのだ。したがって、「エビデンスに基づいた」刑事司法政策を立案するためにデータを集めたとすれば、「鞭」よりも「アメ」を重視した政策へと転換することになりがちだ。直感の観点からすれば犯罪者を「甘やかす」ものであるように思えてしまうような刑事司法政策の多くが、犯罪をコントロールするための政策という観点からすれば実は最も有効なものであったりする。そのため、より懲罰的ではない政策、言わば「リベラル」な刑事司法制度を支持するという結論にたどり着くことになる。つまり、多くの場合、「リベラル」な刑事司法政策は(ハイトが主張するであろうに)ある単一の道徳的「味覚」を偏って強調したために導かれているのではなく、犯罪抑止に関するエビデンスを理性的に評価した結果として導かれているのである。そのため、教育はよりリベラルな刑事司法政策を支持するように人々を転換させる可能性が高い。犯罪と刑罰について保守主義的な見解を持っている人々が教育システムにおいて差別される必要はないとはいえ、そのような人々の保守主義は教育の効果によって弱まるであろう。

(刑事司法政策に関する問題についてリベラルな見解を持っている人々の全員が、エビデンスを公平に評価した結果としてリベラルな見解を持つことになった訳ではない、ということには注意してほしい。・・・一部の人々は、信念を伝播させる社会的メカニズムを主に通じた非合理的な仕方で、それらの見解を持つことになる。しかしながら、そのような人々の非合理性は気付かれないことが多い。多くの場合には、彼らが支持する結論は、エビデンスを公正に評価した結果としてその人が支持するであろう結論と少なくとも一致しているのだ。反対に、保守主義的な見解を持っている人々の見解の非合理性は暴露されることが多いし、彼らの見解に対してエビデンスが集中砲火されることになる)

この問題は左翼VS右翼という枠組みには収まらない、ということは言及しておくべきだろう。たとえば、右翼が自由貿易を支持することは、どちらかといえば反直感的で合理的な議論の結果である(ポール・クルーグマンが「リカードの難解なアイデア」[訳中:比較優位の理論]と呼ぶものだ)。この問題においては、左派の方が直感的に最も安直な主張を行っているのだ(そのために、左翼的な反グローバリズムは人気があるのである)。しかし、自由貿易という点においては、右翼の主張が大学で代表される機会は過少ではないことに注意してほしい・・・大多数の経済学者たちは、何らかの形で自由貿易を支持しているのだ。問題となるのは、右翼の主張の中でも、証拠もなく合理的にも支持できないものだ。例えば、保守主義者たちの多くが行っている「伝統的な家庭の価値」の重要性に関する主張の大半は、いかなる種類の経験的証拠によっても支持されていない。むしろ、社会の安定性や順法精神やセルフマネジメントやキャリア的な成功などなどの物事に家庭環境はほぼ貢献しておらず、そのような主張は妥当性の最小閾値に属するものであるように思われる。

最後に、「ポピュリズム的」保守主義の隆盛は、大学にて保守主義者が代表される機会が過少である問題を必然的に悪化させる、という点について記しておこう。(少なくともトランプ主義的な種類の)ポピュリズムの中心的な特徴は、現代の保守主義にまだ残っている合理的な要素をすべて放棄することにあるからだ。最も明白なことに、トランプのポピュリズムは自由貿易や移民を否定しており、法の支配に対してすら否定的である。また、トランプのポピュリズムは教育を受けていない層を主な支持層としている。結果として、ポピュリズム的保守主義の支持者に対して大学システムが中立であることを期待するのは馬鹿げたことになるだろう。

以上では、「左翼のエコーチェンバー」について考えるうえでアファーマティブ・アクションのモデルは適切ではない、と私が考える理由を説明してきた。同時に、「左翼のエコーチェンバー」自体は実際に問題となっているということを認識するのも重要である。カナダではこの問題はアメリカほど深刻ではないが、その理由の一部は、単にカナダではどの大学も非常に大きいのでどの大学でも必然的に多様になる、ということだ・・・例外もあるとはいえ(トレント大学が頭に浮かぶだろう)。また、カナダの大学ではかなり多くのアメリカ人を採用しており、そしてアメリカ人はカナダ人に比べると多くの問題について右翼的な見解を抱いていることも一因である(バラク・オバマですらカナダに来れば中道よりも僅かに右派寄りになる、ということを覚えておこう)。同時に、保守主義者たちが代表される機会は実際に過少である。ざっと思い出してみても、私は自分が右翼であると自称している同僚を3人しか数えられない(そのために、学術的なセミナールや研究に関する議論などであるはずだが実際には左翼たちのお茶会である場において、私自身がその部屋にいる中で最も右翼的な人間である、という事態が数えられない程に起こる。このような状況は、話し合う前から実のところ既に基本的な政治的な意見を共有している訳ではない他人とどのように議論すればよいのか全くわからない、という事態を左派たちにもたらしてしまうため、知的に不健全である)。

では、解決法は何であるのか?私が考えるに、左翼のエコーチェンバー化現象に対抗することができる一般的な傾向と政策案が一つずつ存在する。まず、人は年を取るほど保守的になるという単純な事実がある。そのため、左翼の教授ですらも、若いころの彼ら自身に比べれば左翼的ではない。結果として、過激な左翼の学生たちをドグマ的な見解から解放することについては、実は左翼の教授の方が上手いことが多いのである。ハイトのアプローチでは、保守的な教授に触れることは左翼の学生たちを中和する効果があると前提されているようだ。しかし、その前提は疑わしいと私は思う。露骨に保守的な教授たちは、しばしば学生たちに反感の気持ちを引き起こし、議論を分裂させてしまうことが多い。対照的に、以前は極端な左派であったが現在は穏当な左派となっている教授たちは、左翼の学生から信頼される可能性が高く、そのため学生たちの見識を広めさせられる可能性も高い(以下のように考えてみよう。マルクス主義に対して抱く青臭いロマンスから学生を目覚めさせられる可能性が高いのは、自称オーストリア学派の教授たちだろうか、それとも昔はマルクス主義者であったが現在は社会民主主義者である教授たちだろうか?その答えは明白であるように思える。元マルクス主義者なら、マルクス主義の何が間違っているかについて、共感的な仕方かつ無用な反感を引き起こさないような仕方で学生たちに説明することができるからだ)。

第二の提案は、より具体的な政策に関するものだ。思想史を教えることには、(良い意味での!)保守主義的な傾向が本質的に存在するように思える。私の考えによると、最近の極端な左翼主義に対して最も有効な処方箋は、その理念の源にあるものを教えることだ。つまり、現代の左翼主義は理論(theories)に基づいていることを…人々が常に信じてきた訳でもなく、実は間違っていたことがやがて判明するかもしれない理論に基づいているということを教えるのである。さらに、現代にある考え方の歴史的な起源を教えることは、常にそれらの考え方を競争の場に置くこととなる…Twitterで拡散された道徳的な確信ではなく理論としてそれらの考え方を読解するなら、その考え方が挑戦に晒されているということに気付かないことはできない。それらの考え方は何らかの議論に基づいているのであり、そして物事について考える方法は他にも存在する。アメリカの小さな大学における(私が気付いた)問題の一つは、それらの大学では充分に歴史を教えることがなく、最近流行っている理論ばかりを教えることなのだ。

手短に私の主張をまとめよう。 保守主義が大学で代表される機会が過小であることの解決策とは、ごく単純に伝統的な人文学的教育へのコミットメントを倍増させることである。真の保守主義者であるならいかなる人でも私の提案に満足するはずだ、ということは記しておくべきであろう。

ジョセフ・ヒース「なぜ我々はかくも怒り狂っているのか? 保守政権に怒る人々と、保守政権に怒る人々に怒る人々」(2015年10月10日)

Why u so mad?
Posted by Joseph Heath on October 10, 2015 | Canada, elections

[訳注:本エントリは、スティーブン・ハーパーが首相を務めるカナダ保守党が政権与党であった、2015年のカナダの下院の総選挙直前に書かれたものである。]

先日、ブログの共同執筆者達によって書かれた[保守党の選挙戦術を批判する]公開書簡に関して、私はなんとも複雑な感情を抱えている。(結局、私も署名したわけだが…)。スティーブン・ハーパーを嫌う人は目立って沢山いるわけだが、「スティーブン・ハーパーを嫌う人」を嫌う人もまた沢山いる。なので、私が今に至るも確信しているのが、レックス・マーフィー1 はこの公開書簡に関して痛烈な批判を行うであろう。「587人もが署名した公開書簡は、大学における『ポリティカル・コレクトネス』と『集団浅慮』の暴走による帰結である」とか。他の批判者は、この公開書簡を、「単なる党派性」「ローレンシャン2 のエリート達の狂乱」その他もろもろのものとして片付けるに違いない。

公開書簡を「単なる党派性」の論題として扱ってしまえば、全ての政策論題がこのように関心を引きつけおらず、非常に多くの人々を激怒させてはいない事実の反映から逸脱することになる。カナダ保守党の政治要綱に、カナダの大学人達によって幅広く反対されている多くの事例があるというのは間違いない。例えば、『高級品の税額控除』は、この国のほとんど全ての経済学者から強く反対されている。しかしながら、経済学者達によるこの税額控除への大規模な公開書簡は顧みられていない。言い換えるなら、大学人達によるハーパー政権への激怒は端的にいつもの党派性や政治性とは異なっているのだ。保守党による選挙戦術として、マイノリティ集団に対する敵意の駆り立てのようなものが存在する。非常に攻撃的なものや、私が指摘した『一線を超えた』等である。そういうわけで、非常に多くの人々が激怒しているわけである。

繰り返させてもらうが、多数の保守党の擁護者達が、人々がハーパー政権に激怒している理由に関して、あらん限りの風変わりな理論を持ち出すであろう。示唆させてもらうなら、我々の立ち振舞から奇矯さを読み解くために、我々には精神科医による治療が必要である、等である。しかしながら、[多くの人々がハーパー政権に怒っているように見えるのには]極めて明晰な説得的事実が存在するのだ。以下が、十全に説明可能な単純なグラフだ。

CBCによる投票コンパスアンケート調査に答えた私の結果だ。4つの政党の主要政策論題が図示されている。政治的見解に関する一連の質問の解答に基いており、私は左上に位置付けされている。(ところで、もし私がこの場所に置かれたことに驚いた人がいるなら、私自身も驚いたのである)。ともあれ、この図おける関心事全ては、政党がどこに位置しているかにある。私の位置付けはどうでもいい。可視化されているのは、本質的に同じ投票先として3つの政党が競合していることと、保守党が右の分野に完全に単独で存在していることである。

今現在、我々が感じているフラストレーションは、有権者のほぼ70%が、左上1/4区画[社会的革新・経済的左派]に投票するとされている事に起因している。保守党に現ポジションが与えられている限り、今回の選挙は、単独の統一された中道左派政党があれば、たやすく政権交代が実現するだろう。しかしながらもちろん、もし本当に単独の統一された中道左派政党があれば、保守党はこのポジションにはいないでもあろう。

より知的なタイプの人々に特にフラストレーションを与えているものは、もし選挙で政策論題に焦点が絞られていれば、[中道左派の]票分離を克服するのは難しくないであろうことにある。その場合、新民主党とカナダ自由党への両投票者達は、より現実的になることで、自身の選挙区において、保守党に対して勝利するチャンスを最大化するよう候補者を支持するだろう。なぜなら、大きな絵図を見た場合の政策ということになれば、2つの政党間に端的にあまり違いがないのである。中道左派の2政党の分断の解消が困難である理由は、「党派性」「政治的アイデンティティ」「指導者の個人的資質」「候補者誰がしの父親からの遺恨」エトセトラ、エトセトラ…の要因からである。

いずれにせよ、大学人が不愉快である理由を理解するのに、風変わりな理論は必要ない。この件で、「エリート達」は通常のカナダ人の手が届かない場所にいるわけではない。それどころか、「エリート達」の立ち位置は、中庸の投票者に極めて似通っている。

投票が割れていることで追加言及するなら、Ali Kashaniによる動向が定まっていない選挙区に関する最近の研究に関心を示したい。新民主党とカナダ自由党の票分離が投影された結果、保守党候補の選出されている選挙区が存在する。特にAliが分析しているのは、現在、保守党がリードしている16の選挙区だ。そこでは、新民主党とカナダ自由党が合算されれば、保守党に十分に打ち勝つことができる。ただ、そこでは、新民主党とカナダ自由党の双方において、どちらかが際立って他候補の足を引っ張ることになっている。(なので公平に戦えるように、Aliは、8つの選挙区でカナダ自由党は新民主党に投票すべきであり、残りの8つの選挙区で、新民主党はカナダ自由党に投票すべきである、と分析している。)

この記事は、全てを読了することを推奨したい。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:タイトルを直訳すると『なぜ我々はかくも怒り狂っているのか?』となるが、当時のカナダの保守政権を巡る論争に関して、日本語読者は馴染みが少ないと考え、副題を追加している。

  1. 訳注:カナダの公共放送であるCBCのニュースキャスター。やや保守寄りの言論を行うことで有名。 []
  2. 訳注:カナダ北西部の高原地帯の名称だが、付近にカナダの有名大学が多数存在している。 []

ジョセフ・ヒース プライバシーの終焉,パート2: 向社会的行動の点数化 (2017年1月24日)

The End of Privacy, Part 2: Scoring Pro-Social Behaviour (In Due Course, January 24, 2017)
Posted by Joseph Heath

(訳注: 「向社会的行動」とは,他者の利益を意図した自発的行動.反社会的行動の反対語.)

哲学者の中には異論をとなえるものもいるだろうが,道徳なるものは明らかにまだ未完成である.道徳は時代とともに変わる.私の父が生まれた世界では「婚外性交」は非道徳的とみなされた.今はほとんどの人がそうは思わないし,それどころか,かつて非道徳的とみなした人がいたなどと理解しがたいという人も多いだろう.かくして物事は変わりゆく.

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ジョセフ・ヒース プライバシーの終焉, パート1: 読心術 (2017年1月4日)

The End of Privacy, Part 1: Mind Reading (In Due Course, January 4, 2017)
Posted by Joseph Heath

2017年へようこそ.最近は,つくづく歳をとったものだと感じている.そう感じるようになった原因の一部は,私が現在居住しているこの世界,私の前に姿を現しつつあるこの世界というものが,私が生まれた世界,私が社会に対する感じ方を育んだ世界とは根本的に異なっているという事実である.もっとも違いが明らかなのはプライバシーの領域だ.私は確信している.私の子供時代の1970年代こそが匿名性の黄金時代,すなわちある意味での個人の自由の黄金時代として歴史に残るだろう.先日,70年代の映画を見ていると,2人の刑事が犯罪者を車で追いかけて州境に向かっていた.犯罪者は刑事の追跡から逃れてしまい,刑事らは町へと引き返した.戻る途中,公衆電話で停車して刑事らは本部に状況を伝えた.子供らには説明してやらないといけなかった.昔は,無線の届く範囲から出てしまうと,警察官が署と連絡を取るには電話を探さないといけなかったのだよ,と.

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ジョセフ・ヒース 「偽善」についてのメモ (2014年12月12日)

A note on hypocrisyIn Due Course, December 12, 2014)

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この件は昔から個人的なイライラの元なのです。偽善とは何かということについて、とても多くのジャーナリストたちさえ明瞭な理解をしてないように感じられるのです。簡単のため、日常的な偽善の定義、「していることが言っていることと違う」という定義で話を進めましょう。これは立派な定義なのですが一つ問題があって、誰かを偽善だとして咎めようとするときに相手が言っていることを注意深く観察することが重要になります。特に、ルール一般がどうあってほしいかの話なのか、それとも、所与のルールの下でどんな行動をとりたいのかの話なのかの区別に注意を払うことが大事です。(Viktor Vanberg と James Buchanan は「構造的選好」(constitutional preferences)、「行動の選好」(action preferences)という語を導入しこの二つを区別しました。この呼び方はベストではないかもしれませんが、この区別に関する彼らの議論は重要なものです)。

具体例を挙げましょう。先日私は、ビル・ゲイツが選んだ2014年の5冊 についての小さな記事を読みました。うち一冊はトマ・ピケティの「21世紀の資本」だったのはウケました。ゲイツはこう言ったそうです。「著者のいちばん重要な結論に賛成だ。不平等の問題はますます大きくなっており、政府はこれを緩和する役割を果たすべきだ。著者の業績を称えるとともに、これが賢人たちが不平等の原因を探求したり解決するためのきっかけになることを期待する。」と。

こう言うと決まって「偽善だ!本当に不平等を解決する気があるなら自分の金をばらまくんじゃないのか?」という反応がありますね。知っての通りゲイツは自分の巨額のお金を—あなたや私が稼いだ以上の額を—ばらまいてきましたし、彼の子供たちに残す額にも厳しい上限を設定しています。しかしそれでもまだ彼はクロイソス級のリッチマンですし、彼があと20億ドルもばらまけば不平等をそれだけ緩和することになるのも確実です。さて、では彼自身が自分のお金でもっとできることがあるのに、政府に対して不平等の緩和のためより積極的な役割を果たすよう求めるのは、果たして「していることが言っていることと違う」ということになるのでしょうか。

答えは「ノー」。その理由は「構造的選好」と 「行動の選好」 の区別にあります。
ほとんどの人は、ある問題について自分個人がどれだけの義務を負うのかは、他の人々がどれくらいのことをしているかにある程度依存していると考えています。その人は同時に、他の人々がもっと多くのことをすればよいのにと思っているかもしれないし、また、他の人がそうするなら自分も喜んでそうするつもりもある、という場合もあります。つまり、自分を含む全員がXをするというルールに変えることを常に支持するけれども、同時に、そのようなルールがまだないのであれば自発的にXをすることはしない、ということがあり得るわけです。これは単純明快なポイントなのですが、公共の議論においてしばしば無視されています。(ジェラルド・コーエンの著書、『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』はこの単純なポイントに焦点を当てていればはるかに短い本にできたといつも思うのですが、考えてみればそれができないことがコーエンのこの仕事の欠点の一つなのでしょう。)

さて私は、税はあと1%高い方がいいと考えているのですが、かと言って自発的に余分に払うことはしていません。私のずる賢い会計士は私の税負担を減らすために様々な手法を駆使しています。大学教授はもっと授業をするべきだと考えていますが、自発的にクラスを増やしたりはしません。気候変動と戦うために私たちはあらゆる手段を講じるべきだと考えますが、私自身は明らかにサステナブルな水準以上の炭素エネルギーを消費しています。それでも私が偽善ということにはなりません。

とは言え、「みんなだってそうしている」、「みんながやるなら喜んでやるけれど」という言い訳を余りにも利己的に使いすぎる人のことを、何か一つの言葉で記述しようという考えが間違っているというわけではありません。たとえば、気候変動に対してのカナダの態度ですが、「構造的な」水準で言えば炭素使用量緩和の枠組みを決めたいと私たちは皆が思っていますが、個々の行動の水準においては、全員が計画に同意できるまで何も実行する準備がないわけです。個人レベルのアナロジーで言えば、「皆が正直に税を払うべきだと思う」と言いながら、どこかの誰かが税を回避しているということを知ると「なんで自分が払わなければならない?」と言って、あらゆるスレスレの税回避手段を駆使するような人。

一般化するとこういうことです。ある行動Xは全員の義務であるべきという構造的選好を持っているような人であっても、それが全員の義務になっていない状況においては行動Xをとる義務はありません。とは言え構造的選好はあなたの行動を緩やかに制限するはずです。つまりXと正反対のことは選択すべきではない、というように。これを犯してしまう不道徳にも名前があれば良いですね —「偽善」は明らかにこれを表現するための適切な言葉ではないので。

そうそう、偽善の正当な例をお望みでしたら、こういうのがそうでしょう。

ジョセフ・ヒース 「価格システムへの根強い抵抗」(2014年8月12日)

●Joseph Heath, “Capitalism remains controversial”(In Due Course, August 12, 2014)


価格システムが財を配分するその基本的なあり様に対する世間一般の抵抗の粘り強さ――あのアメリカにおいてでさえも!――には驚かされるばかりだ。「需要量と供給量を一致させるために財の価格が自由に変動(上下動)するに任せるべし」というアイデアは世の大抵の人々にとって直感に反するばかりか、道徳にも反するように感じられるようなのだ。そのことを示すまたとない実例がある。(配車サービス業界の革命児たる)Uber社が導入した料金システム(サージ・プライシング)に対する最近の騒動がそれだ(「市場行動の社会学」に興味がある向きにはこちらこちらの記事は面白く読めるに違いない)。Uberのサージ・プライシングは基本的にはその時々の需給状況(乗車を希望している人がどのくらいの数に上るか、路上にいるドライバーの数はどのくらいか)に応じてリアルタイムで乗車料金を変動させる仕組みであり、テクノロジーの助けを借りて(経済学入門の講義で必ずやお見かけするあの)完全競争市場に似たマーケットを作り出そうと試みた格好の例だと言える。Uberの利用者たちは料金が据え置かれて「不足」に悩まされる(乗車の順番が回ってくるまで長時間待つことを強いられる)よりは料金の上昇(を通じた需給の調整)を受け入れることだろう。そう思う人もいるかもしれないが、実際のところはどうかというと、(需要の急増に応じた)料金の引き上げに対してあちこちから怒りの声が上がっているのだ。

「需要の急増に応じて価格は上昇するに任せるべきだ」。経済学者がそう考える理由の説明に乗り出してから200年以上が経過しており、世間の人々も程度の差はあれその説明を受け入れてきているように見える。そうであるにもかかわらず、世の大抵の人々は未だに道徳的な直感のレベルで(需要の急増に応じて価格が上昇することに対して)大いに反発を感じてしまうようなのだ。私が驚かされるはこの点なのだ。おっと、勘違いしないでもらいたい。「市場」という制度はそのうち消えてなくだろうだとかUberの料金システムはおかしいだとかと言いたいわけではない。「市場」という制度は消えてなくなったりなんてしないし、Uberの料金システムも完璧に理に適ったものだと思う。「市場」が我々の生活を取り巻く支配的な経済制度となるまでに上り詰める一方で、我々の道徳的な直感は「市場」を組織立てる中心的な原理(需給の変動に応じた価格の上下動)に未だに(何世代もの間にわたって!)適応できない(馴染めない)でいる。いかにしてそんなことが可能となるのだろうか? 私が気にかかっているのはそのような何とも不可解な(そして哲学的なと言える)疑問なのだ。

ジョセフ・ヒース「アメリカのナクバ:社会が無惨にも分断を抱え堕落してしまった『理由』」(2017年3月14日)

American Nakba
Posted by Joseph Heath on March 14, 2017 | politics, United States

私は最近、『スティグマ現象』を扱った論文を書いている(ここで読む事が可能だ)。論文では、『貧困の文化』を巡って左派と右派の間で激しい応酬になっている論題の幾つかも扱うことになった。下層階級の人達は、自己破壊的な行動に従事する傾向にあるわけだが、そういった行動に対して「どこまで自己責任を追わねばならないのか」とか「どこまで自己責任を適用させるべきなのか」といった言説にまで関心を向けさせてもらっている。以上関心から、私は保守派による文化批判を読むことになり、デーヴィッド・フラムの本『我々は現状にどのように至ったのか:70年代』にたどり着くことになった。この本は、発売した時に漠然と関心を寄せていたが、当時は読書するまでには至らなかったのだ。しかし書架からこの本を取り出した時に、読むのを楽しみしてることを自覚したのである。理由を挙げるなら、フラムは(保守政権の役職から排除されて以来)過去5年ないしそれ以上にわたって、アメリカの社会状況において、一貫して興味深い言説の主だったことにある。ただ、読み終えて、あまりに悪書であることに、驚愕することになった。悪書である原因の一端は、この本が2000年(すなわち、けっこう過去)に出版されている事にある。そして、フラムは、この本の出版期に比べて非常に賢明になってはいるようだ。さしあたり、下記では、一つの驚くべき一節に焦点を絞りたい。そこでフラムは、アメリカの自動車メーカーが、自社の従業員に関して悩まされたいくつかの事例を取り上げている。アメリカにおける製造業の黄金期とされている時代である。

フォードの組み立てラインでは、1970年には労働者の1/4が職放棄したのです。フォードとGMでは、1961-1970年にかけて無断欠勤が倍増しています。特に、1969-1970年には、非常に急激に増加することになりました。1970年の春、GMでは、5%の労働者が常に無断欠勤状態だったのです。金曜日と月曜には、労働力の10%までもが欠勤となって現れています。GMの最もトラブルを抱えていた工場(ボルティモアのシボレー製造工場)においては、常習的欠勤者は、1966年の典型日では3%でしたが、1970年には7.5%に上昇することになっています。不満を抱えていた労働者達は、製造車(特に高級モデル)を故意に破壊するに至ったのです。当時のフォーチューン紙は「ネジはブレーキドラムに残されており、取り付け金具は泥除け区画に溶接されたままであり(これは、なぜか発見が困難で、運転時に常にガタガタを引き起こさせることになった)、塗装には剥がれ傷があり、室内装飾は破れていた」と報道しています。(p.21)

さらに「1977年の159社へののアンケート調査では、調査開始の1952年からのいかなる時期よりも、職への不満が発見されました」と続けている。フラムは言及していないが、70年代初期のアメリカの組み立てラインの労働者間では、薬物使用も非常に蔓延していたことも、製造品質の顕著な衰退にも寄与していたのである。
(因みに、私は、アメリカ車の熱狂的なマニアに、価値があるモデルとそうでないモデルを解説してもらった事がある。価値割合は労働者の薬物中毒割合に大雑把であるが基づいている、とのことである。因みに、だいたい60年代後半くらいで、価値があるモデルとそうでないモデルの分岐点になっているそうだ。)
ともかくとして、個人的にこの事案で蒸し返す価値があるとすれば、皆がメキシコと中国から返ってきて欲しい「素晴らしき製造業」は、アメリカにあった時点で、現実的には素晴らしいものと当時は考慮されていなかった事にあるだろう。

「フォードの組み立てラインでは、1年に労働者の1/4が職放棄している!」
フラムにとってこの労働者の職放棄事例は、書籍内では「70年代の堕落した世代批判」として広く関連付けられて提示されることになってる。ここにおいて重要なのは、(いかなる時であれ)人の記憶事実と、該当人物による実際の過去の経験事実は、まったく異なっている事にある。
(この点で、記載しておく必要があるのが、フラムは1960年生まれであることだ。彼によって回想された70年代においては、彼は基本的には当時10歳代だったことを意味しているのだ。)

個人的にフラムの本で一番驚いたのが、『反動保守思想』の異常なまでの典型的事例だったことにある。フラムは、どうでもよい不満を執拗に繰り返しているのだけだと言ってもよいだろう。因みに、私も70年代はダイッキライだったのだが、フラムの不満とはまったくの別途理由からである。この本は、70年代に起こったとされている、アメリカが道義を失ったり、高い理想を裏切ってしまったり、堕落に至ってしまった出来事の、長~い長い個別単言リストにすぎない。奇妙な点を挙げるなら、フラムは『反動保守思想の公式』に異常なまでに厳密に固執しつつも、自身はテンプレを表明してしまっていることに無自覚に見えることにある。つまりは全体的な読書感は、ハーレークインロマンスなのだ。しかも、既にハーレークイン様式の書籍が大量に存在することをまったく知らない作家によって書かれたハーレークインロマンスである。読者にとって「お決まり文句」や「手垢に塗れた安易な手法」にすぎないものが、著者的には「衝撃的な新しい洞察」や「新しい切り口の解説」として表現されているのである。

この本の特異性をいろいろ考えた事で、私はマーク・リラ1 の近著『難破する精神 世界はなぜ反動化するのか』を読むに至った。リラの本は、この反動保守のテンプレ反応の論題で、優れた洞察をいくつも含んでいる。『反動保守』の思想は表明される全ての場合において、どれも似たようなテンプレートに従うのを、リラは巧く説明することに成功している。リラは本書において、進歩的左派と反動的保守派の対称性に立脚して議論を進めている。進歩的左派と反動的保守派は、理想的(ないし少なくとも劇的に改善された)社会のビジョンにコミットしているという事で、似通ってはいる。しかしながら、進歩的左派は、将来にこの理想を位置づけ、その方向に物事を推し進めようと邁進することになる。対照的に、反動的保守派は、この理想を過去に位置づけることになる。反動的保守派によると現代社会が、理想にまったく似ていないという事実は、堕落が起こってしまった帰結として説明されることになっており、「堕落は(特定時期のとある時に)起こったに違いなく、この堕落の渦中に、社会は『道を失い』理想から逸れてしまったのだ」とされているのだ。したがって、反動的保守派は、しばしば、進歩的左派と同じようなユートピアを目指す政策プログラムを支持することになる。そして、反動的保守派は、自身のプログラムを[左派と同じであると]認識することに失敗することにもなる。なぜなら、反動的保守派は、それを、「革新」としてではなく、過去の状態の「復興」として想定しているからなのだ。「復興」を達成する為に、反動的保守派が採用する、中心戦略の一つが、「文化批判」や「衰退の神話」となる。そこでは、大衆は自身がいかに間違えていたかを悟り、真実の道に人は帰還する希望込みでの『堕落の物語』が語られることになる。

今現在、この反動保守派の[堕落の]物語の創話において、フランスは、おそらく世界の最先端にいる。リラは、エリック・ゼムール2 の”Le suicide francais”(『フランスの自殺』)と、イスラム原理主義者の基本的な神話を比較検討した上で、本質的に似たような構造を有しているとして、興味深い主張を展開している。今日の状況において、反動保守の思想構造を理解することは、現在のイスラム原理主義達の思想を理解するのにも絶対的に必要であると、リラは主張しており、以下のように語っている。

今日のムスリム世界では、失われた「黄金時代」への信仰が、最も有力で重要なものとなっています。ムスリム世界の人々は急進的イスラム主義の文献を非常に深く読み込むことで、神話の魅力を絶賛するようになっているのです。彼らが魅了されている神話とは以下のようなものとなっています。
預言者ムハンマドの到来前の世界は、無知の時代、すなわちジャヒリーヤに陥っていた。[当時中東にあった]偉大な帝国は、多神教の不道徳に沈んでおり、[そこに住まう]キリスト教徒は生を否定する修道的禁欲主義を発達させており、アラブ人は迷信を信じている酔っぱらいにしてバクチ打ちにすぎなった。このような状況で、ムハンマドは、神による最後の啓示を伝える器として選ばれ、ムハンマドの啓示を受け入れたあらゆる個人や大衆の道徳を高めることになったのである。預言者ムハンマドに従った者たちと、初期の数人のカリフは、神の意思の完全な伝承者達であり、神の法に基いて新しい社会の建設を始めることになる。しかしながら、驚くほどあっという間に、この創設世代による聖なる力は失われることになった。そしてそれは、二度と回復されることはなかったのだ…。(p.140)

このイスラム原理主義者達の神話を現在にまで進めれば、大雑把であるが以下のように語られているとのことである

[西欧による]近代の植民地政策の狙いは、イスラム教徒を完全に宗教的戒律から離れさせた上で転向に追い込み、さらに不道徳な世俗的秩序を課すことにあった。新たなる十字軍は、戦場でムスリムの聖戦士と相対することよりも、近代科学やテクノロジーの小道具を単純に提供することで、ムスリムを魅了することを目的にしていたのだ。イスラム教徒が神を捨て、神の正統なる支配から逃れれば、西欧の新たなる十字軍は満足し、小道具をイスラム教徒に与える。世俗的近代の邪なる力は、ムスリム世界のエリート達に、「発展」への魅了として作用し、即座に効果を発揮する。この邪なる力は、女児を含むエリートの子供たちを、世俗の学校や大学に通わせることとしても、容易に作用するのである。ムスリム世界の世俗の暴君的権力者もまた、西欧と手を組みその支配下に入ることで、イスラム教の信仰を抑圧し、エリート層の世俗化を促進することになる。これら(世俗主義、個人主義、物質主義、道徳的無関心、専制政治)の影響力は全て重なり合い、新たなジャヒリーヤを到来させた。全ての信仰深いイスラム教徒が苦闘せねばならないジャヒリーヤなのだ。預言者ムハンマドもまた、7世紀の夜明け時には、苦闘している。預言者ムハンマドは、[世俗化等に]妥協せず、寛大にならず、民主化を行わず、発展を追い求めなかった。ムハンマドは、神の声を話し、神の法を制定した。なので、我々は彼の神聖なる規範に習うべきなのだ。(p.142)

リラによると、「こういった原理主義者の神話には、イスラム教徒の独自性がほぼ存在しない」とのことである。これは、反動保守のテンプレートが現れている端的な一事例だろう。リラは「この原理主義者の神話には、今日のイスラム思想の歴史・神学的理論をもってしても、『抗体』としてほぼ機能しえない」と主張している。

『抗体』は、この事象を扱うには最適な用語だと私も考えている。『反動保守派による文献』を読んでいると、同じテンプレートが何度も何度も登場するのに出くわすことになる。しかしながら、それらは皆、異なる時代、異なる社会のものなのだ。故にそれらを、精神を侵食するウィルスのようなものであると見做さないのは難しい。崇拝者が異常に感動する「奇跡的なヒーリングの物語」である。少なくともこれらは、大規模な誤謬の一種ではあろう。しかして追記しておくと、我々が保持する伝統や習慣には、過去回帰の魅了への抗体が一応備わっているのである。なので、フラムは、自身の本の最後から2番目のパラグラフで、70年代以前の時代も偉大な時代でなかったことを、若干ではあるがしぶしぶ認めて表明している。

一般的な物事において半世紀前の方が良いというのは、事実ではないでしょう。多くの面において物事はより悪かったのです。つまり、より軍国主義的であり、技術進歩は低く、国家はより抑圧的で、寛容さは低く、組合活動は活発であり、人道性は低く、偏向的な思想は蔓延していたのです。過去を懐かしむノスタルジアは、間違えています。そして仮に間違いでなくとも、ノスタルジアは、最も脆弱で無益な感情であり、敗北者における麻薬であり、無力な言説にすぎないのです。しかしながら、[70年代以前は]概して物事が良くなかったとしても、個別にはいくつかの物事は良かったのです。人が家庭や国家により忠誠を表明する時代であり、人がより読書をし互いに話し合う時代であり、人が自身のセクシャリティを抑制している時代であり、大学教授や学芸員が知性や芸術的基準を高めることを恐れていない時代であり、移民達が急速にアメリカ化されると期待されている時代であり、人が皆マイナスの感情でもって訴訟を起こさない時代であり、これらは良きことだったのです。(p.356)

上記のパラグラフは、興味深いの矛盾の混合体である。少なくとも、フラムによって言及されている物事と、その物事がどのように言及されているかの関係においては緊張的対立を孕んでいるのだ。引用箇所の2つめの文の中で、仰々しくそれでいて適当に羅列されている過去の「悪かった」とされている物事と、最後の文中にあるやけに詳細で感情的に「良かった」されている物事の一覧を比較してみてほしい。ノスタルジアに関しては(脆弱で、無用で、敗北主義で、無力だと)独特の強い糾弾が行われる一方、過去への極端なまでに都合の良い懐古主義的な見解のリストとも、突き合わせてみてほしい。フラムが、[良き事として]列挙されている2つ目のリストの項目のいくつかをマイナス評価してみれば、1つ目のリストで列挙されてる[悪い事の]いくつかを取り除く対価となるかもしれない、といった可能性をまったく考慮していないことにも着目していただきたい。(例えば、移民が「急速にアメリカ化」される期待が低下している様な状況では、アメリカは「寛容な」世相になっている可能性等である)。いずれにせよ、最後の文の論調が明示しているのは、フラムを実質的に魅了しているのが、何世紀にもわたって反動保守の思想家達を魅了してきた信仰でしかないということであろう。それでいて、フラムは、反動保守の信仰告白として受け取られる可能性を少なくとも自認してもいるので、そう解釈されてしまうことから逃れようとする生半可な試みで、このパラグラフは全体的に構成されてもいる。ここでフラムは、喚き立てる反動保守主義者では知的に尊敬されないと考え、少なからず何か別のこと提示せねばならないとの認識を示しているわけである。

さて、以下はこの件で、フラムに本についての最後の私的見解となる。「この本は基本的に、70年代に起こったあらゆる悪い出来事の個別単言リストにすぎない」と私が上で言ったのは、けっして冗談などではない。リストの品質に関しては、私が過去に読んだこの手の著作物で中でも、特筆して非論理的である産物であることで推察されたい。フラムが話題にしている悪い物事だが、全てにおいて彼はその物事の説明を試みないままに、単に話題から話題へと飛び回ることになっている。「説明」とは、その物事が起こった理由とか、物事の関係者の思惑が何であったとか、社会変化の幅広い流れの何が悪い物事の一部に位置づけられているのか、などである。以下がそのリストになる。
「裏切り者達はベトナム戦争を敗北させ」「人々は教会に行かなくなり」「女性は娼婦となり」「エゴイスト達は離婚し」「犯罪はコントロール不可となり」「アメリカ人達は訴訟にあけくれ」「裁判官たちは狂った判決を出すようになった」まだまだ続く…。
この本の最後の数ページで、読者は、フラムがなんらかの説明をすることや、これらの物事がなぜ起こったのかの熟考を拒否している理由を発見することになる。理由は、保守派が犯しがちな誤謬の別の一般的なテンプレとなって現れている。保守派が犯しがちな他の誤謬とは、「人の行動や態度の理由に、広範な説明のようなものを提示してしまう事は、『行動や態度』を甘やかす事を包括してしまう」といった考え方である。言い換えるなら「物事に対しては、個別個人に自己責任を付与させるために、説明めいた言辞を避けなければならない」とされている考え方である。
(これは私の『スティグマ現象』論文で扱っている論題でもある)。フラムは以下のように語っている。

1970年代のアメリカに起こった様々な出来事がなんらかの巨大な世界的要因の産物であったとしましょう――たとえば避妊薬の発明による不可避な結果だったとか、第一次世界大戦の後遺症だったとか、『近代性』と呼ばれる何かだったとか――もしそうであるなら、我々は許されますかね? 我らの現なる実行以外に、何かを行いうる事は可能でしたかね? 我らの継続してきた出来事以外に、何か行いうる事は可能ですかね? なんらかの形の別の完全なるベストに至る結果を行うことはできましたかね? 男女のコントロールを超えた偉大なる歴史の力が、1970年代を具現化させたのはたしかに真実かもしれないですよ。それでも1970年代の発現は、個人の選択だったのです。それはあくまでの一個人が引き起こしたのであって、人が関与できない社会の力などではなかったのです。あくまで一個人が、ヘロインを買う為に街角で老母から強盗を行ったのです。そして、法の執行の緩和させることで、路上強盗という政策の代償に変じさせたのも、とある特定の人々や集団だったのです。特定の人々は、南ベトナムに弾薬と燃料の供給を拒否することで、おそらく戦争の流れを変じさせたのです。他の特定の人々は、アメリカに来た移民達が英語ではなくスペイン語で教育されるべきだと決定しました。さらにまた別の特定の人々は、アラブ諸国が価格統制の拡張によって石油の禁輸措置行おうとした時、価格統制を撤廃させずに、それを許容する選択を行ったのです。これらは全て「選択」であり、「選択」が全ての結果をもたらしたのです。他の「選択」が取られた可能性もあり、それは別の結果をもたらしていたでしょう。(p.351-352)

私は哲学者なので、以上の言説は、驚嘆すべき不合理の連なりにしか思えない。人気あるポストモダニズムの核心的信念の一つが、悪しき政治状況は、悪しき形而上学概念群の帰結であるとされている――なので、人が保持している悪しき形而上学的信念を矯正することでもってすれば、人はなんらかの形で進歩的左派にすっかり変じる、といったものとなっている。このポストモダニズムの見解は、不誠実さとご都合主義の両輪となり、私を常々驚かさせてきた(「ハンマーを持てば全てが打つべき釘に見えてしまう」というやつである)3 。他方で、上記の文章内におけるフラムをまさに、悪しき形而上学的見解の犠牲者として見做すことが可能だ。犠牲者として完全なる知的衰弱に陥っている。基本的に、フラムは世界について何も理解しようとはしないのである。異常に薄っぺらい表層理解を超えることは一切ない。なぜなら、人の行動を理解してしまうと、行動の説明が必須になってしまう。そして一度でも、人の行動が説明されてしまったら、関与した個々人が、その行動に際して自由選択を行ったことを否定していることになってしまう。そして、人の自由選択が否定された時には、人の道徳的責任の否定に直結してしまうからなのである。

ウギョエー!

誰かマジで、フラムにコンパティビリティズム4 の概念を解説してやるべきだ…(ヒュームでカントでもお好きにどうぞ)。

いずれにせよ、上記文章に、今日の保守の反知性主義の源泉の一つを見ることが可能だろう。例示して考えてみよう。[今日の保守によると]犯罪の「原因」は、犯罪者が法破りする意思決定に起因する、とされている。なるほど。しかしながらこう考えると、70年代に始まり、今世紀になって消え去ったアメリカ合衆国を襲った巨大にして尋常な恐ろしい犯罪の大波は、説明可能なのだろうか?
(ニューヨークの殺人率は1963年には10万人あたり7人だったが、1973年には22人に跳ね上がることになっている。1983年には、10万人あたり23人に、1993人には27人に上昇することになった。2003年になって、7人まで急低下することになっている。)
[保守派の見解に従うなら]この犯罪の大波現象は、何千人もの人々が突如自発的に人殺しを開始するようになり、続く2世代にわたって突如自発的に人殺しを継続し、そしてある日、人々は、突如自発的に人殺しを止めたということになるのだろうか? 説明としては、まったくもって非合理的で無益な言説だ。明白に、ここで保守派の分析は「規範的社会学」の行使となって現れている。――(人に自己責任を付与したい願望といった)道徳的関心が、分析に先入観をもたらし、強引な説明を課すことを許容してしまっているのである。この場合も、まったく説得力がない(自己勝手で、非説得的な選択)産物でしかない。いずれにせよ、こういった反動保守派の見解の全てが、自由意志と道徳に関する多くの度し難い混乱に明白に動機づけられている。

ちなみに、私がフラムの本にあまりに手厳しいとお感じの場合は、単なる一人の大学教授として、高い知的水準の維持を高めることに努めている、と見做すことで甘受していただきたい…。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:タイトルを直訳すると『アメリカのナクバ』となるが、「ナクバ」は日本人には一般的でない単語と思われるので、副題を追加している。
『ナクバ(NAKBA)』とは、アラビア語で『大惨事』の意味する言葉。転じて、1948年のイスラエルの建国で大量にパレスチナ難民が発生した歴史的事件に対して、パレスチナ人達は屈辱を伴ってこの言葉を使うようになった。
本エントリで、ヒースは、アメリカの保守派が「70年代の様々な社会現象によって、アメリカ社会は堕落・分裂してしまった」と頻繁に言及することを、『アメリカにおけるナクバ(言説)』と見做して、このようにタイトル付けし、エントリで分析を行っている。

 

  1. 訳注:1956年生まれのアメリカの政治学者。コロンビア大学教授。政教分離の研究等で有名。邦訳書籍に『シュラクサイの神話』『神と国家の政治哲学』等がある []
  2. 訳注:フランスの右派の作家・ジャーナリスト。ジャン=マリー・ルペンが「信頼できるジャーナリスト」と名を挙げたことで有名。 []
  3. 訳注:「ハンマーを持った人にはあらゆる事象が打つべき釘に見えてしまう」つまり「なんでも説明できるが故に何も説明できていない」といった考えを表す欧米でよく使われる比喩表現 []
  4. 訳注:コンパティビリティズム:『柔らかい決定論』と訳されることもある、自由意志と決定論が両立する哲学上の立場。 []