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ジョセフ・ヒース「なぜ我々はかくも怒り狂っているのか? 保守政権に怒る人々と、保守政権に怒る人々に怒る人々」(2015年10月10日)

Why u so mad?
Posted by Joseph Heath on October 10, 2015 | Canada, elections

[訳注:本エントリは、スティーブン・ハーパーが首相を務めるカナダ保守党が政権与党であった、2015年のカナダの下院の総選挙直前に書かれたものである。]

先日、ブログの共同執筆者達によって書かれた[保守党の選挙戦術を批判する]公開書簡に関して、私はなんとも複雑な感情を抱えている。(結局、私も署名したわけだが…)。スティーブン・ハーパーを嫌う人は目立って沢山いるわけだが、「スティーブン・ハーパーを嫌う人」を嫌う人もまた沢山いる。なので、私が今に至るも確信しているのが、レックス・マーフィー1 はこの公開書簡に関して痛烈な批判を行うであろう。「587人もが署名した公開書簡は、大学における『ポリティカル・コレクトネス』と『集団浅慮』の暴走による帰結である」とか。他の批判者は、この公開書簡を、「単なる党派性」「ローレンシャン2 のエリート達の狂乱」その他もろもろのものとして片付けるに違いない。

公開書簡を「単なる党派性」の論題として扱ってしまえば、全ての政策論題がこのように関心を引きつけおらず、非常に多くの人々を激怒させてはいない事実の反映から逸脱することになる。カナダ保守党の政治要綱に、カナダの大学人達によって幅広く反対されている多くの事例があるというのは間違いない。例えば、『高級品の税額控除』は、この国のほとんど全ての経済学者から強く反対されている。しかしながら、経済学者達によるこの税額控除への大規模な公開書簡は顧みられていない。言い換えるなら、大学人達によるハーパー政権への激怒は端的にいつもの党派性や政治性とは異なっているのだ。保守党による選挙戦術として、マイノリティ集団に対する敵意の駆り立てのようなものが存在する。非常に攻撃的なものや、私が指摘した『一線を超えた』等である。そういうわけで、非常に多くの人々が激怒しているわけである。

繰り返させてもらうが、多数の保守党の擁護者達が、人々がハーパー政権に激怒している理由に関して、あらん限りの風変わりな理論を持ち出すであろう。示唆させてもらうなら、我々の立ち振舞から奇矯さを読み解くために、我々には精神科医による治療が必要である、等である。しかしながら、[多くの人々がハーパー政権に怒っているように見えるのには]極めて明晰な説得的事実が存在するのだ。以下が、十全に説明可能な単純なグラフだ。

CBCによる投票コンパスアンケート調査に答えた私の結果だ。4つの政党の主要政策論題が図示されている。政治的見解に関する一連の質問の解答に基いており、私は左上に位置付けされている。(ところで、もし私がこの場所に置かれたことに驚いた人がいるなら、私自身も驚いたのである)。ともあれ、この図おける関心事全ては、政党がどこに位置しているかにある。私の位置付けはどうでもいい。可視化されているのは、本質的に同じ投票先として3つの政党が競合していることと、保守党が右の分野に完全に単独で存在していることである。

今現在、我々が感じているフラストレーションは、有権者のほぼ70%が、左上1/4区画[社会的革新・経済的左派]に投票するとされている事に起因している。保守党に現ポジションが与えられている限り、今回の選挙は、単独の統一された中道左派政党があれば、たやすく政権交代が実現するだろう。しかしながらもちろん、もし本当に単独の統一された中道左派政党があれば、保守党はこのポジションにはいないでもあろう。

より知的なタイプの人々に特にフラストレーションを与えているものは、もし選挙で政策論題に焦点が絞られていれば、[中道左派の]票分離を克服するのは難しくないであろうことにある。その場合、新民主党とカナダ自由党への両投票者達は、より現実的になることで、自身の選挙区において、保守党に対して勝利するチャンスを最大化するよう候補者を支持するだろう。なぜなら、大きな絵図を見た場合の政策ということになれば、2つの政党間に端的にあまり違いがないのである。中道左派の2政党の分断の解消が困難である理由は、「党派性」「政治的アイデンティティ」「指導者の個人的資質」「候補者誰がしの父親からの遺恨」エトセトラ、エトセトラ…の要因からである。

いずれにせよ、大学人が不愉快である理由を理解するのに、風変わりな理論は必要ない。この件で、「エリート達」は通常のカナダ人の手が届かない場所にいるわけではない。それどころか、「エリート達」の立ち位置は、中庸の投票者に極めて似通っている。

投票が割れていることで追加言及するなら、Ali Kashaniによる動向が定まっていない選挙区に関する最近の研究に関心を示したい。新民主党とカナダ自由党の票分離が投影された結果、保守党候補の選出されている選挙区が存在する。特にAliが分析しているのは、現在、保守党がリードしている16の選挙区だ。そこでは、新民主党とカナダ自由党が合算されれば、保守党に十分に打ち勝つことができる。ただ、そこでは、新民主党とカナダ自由党の双方において、どちらかが際立って他候補の足を引っ張ることになっている。(なので公平に戦えるように、Aliは、8つの選挙区でカナダ自由党は新民主党に投票すべきであり、残りの8つの選挙区で、新民主党はカナダ自由党に投票すべきである、と分析している。)

この記事は、全てを読了することを推奨したい。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:タイトルを直訳すると『なぜ我々はかくも怒り狂っているのか?』となるが、当時のカナダの保守政権を巡る論争に関して、日本語読者は馴染みが少ないと考え、副題を追加している。

  1. 訳注:カナダの公共放送であるCBCのニュースキャスター。やや保守寄りの言論を行うことで有名。 []
  2. 訳注:カナダ北西部の高原地帯の名称だが、付近にカナダの有名大学が多数存在している。 []

ジョセフ・ヒース プライバシーの終焉,パート2: 向社会的行動の点数化 (2017年1月24日)

The End of Privacy, Part 2: Scoring Pro-Social Behaviour (In Due Course, January 24, 2017)
Posted by Joseph Heath

(訳注: 「向社会的行動」とは,他者の利益を意図した自発的行動.反社会的行動の反対語.)

哲学者の中には異論をとなえるものもいるだろうが,道徳なるものは明らかにまだ未完成である.道徳は時代とともに変わる.私の父が生まれた世界では「婚外性交」は非道徳的とみなされた.今はほとんどの人がそうは思わないし,それどころか,かつて非道徳的とみなした人がいたなどと理解しがたいという人も多いだろう.かくして物事は変わりゆく.

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ジョセフ・ヒース プライバシーの終焉, パート1: 読心術 (2017年1月4日)

The End of Privacy, Part 1: Mind Reading (In Due Course, January 4, 2017)
Posted by Joseph Heath

2017年へようこそ.最近は,つくづく歳をとったものだと感じている.そう感じるようになった原因の一部は,私が現在居住しているこの世界,私の前に姿を現しつつあるこの世界というものが,私が生まれた世界,私が社会に対する感じ方を育んだ世界とは根本的に異なっているという事実である.もっとも違いが明らかなのはプライバシーの領域だ.私は確信している.私の子供時代の1970年代こそが匿名性の黄金時代,すなわちある意味での個人の自由の黄金時代として歴史に残るだろう.先日,70年代の映画を見ていると,2人の刑事が犯罪者を車で追いかけて州境に向かっていた.犯罪者は刑事の追跡から逃れてしまい,刑事らは町へと引き返した.戻る途中,公衆電話で停車して刑事らは本部に状況を伝えた.子供らには説明してやらないといけなかった.昔は,無線の届く範囲から出てしまうと,警察官が署と連絡を取るには電話を探さないといけなかったのだよ,と.

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ジョセフ・ヒース 「偽善」についてのメモ (2014年12月12日)

A note on hypocrisyIn Due Course, December 12, 2014)

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この件は昔から個人的なイライラの元なのです。偽善とは何かということについて、とても多くのジャーナリストたちさえ明瞭な理解をしてないように感じられるのです。簡単のため、日常的な偽善の定義、「していることが言っていることと違う」という定義で話を進めましょう。これは立派な定義なのですが一つ問題があって、誰かを偽善だとして咎めようとするときに相手が言っていることを注意深く観察することが重要になります。特に、ルール一般がどうあってほしいかの話なのか、それとも、所与のルールの下でどんな行動をとりたいのかの話なのかの区別に注意を払うことが大事です。(Viktor Vanberg と James Buchanan は「構造的選好」(constitutional preferences)、「行動の選好」(action preferences)という語を導入しこの二つを区別しました。この呼び方はベストではないかもしれませんが、この区別に関する彼らの議論は重要なものです)。

具体例を挙げましょう。先日私は、ビル・ゲイツが選んだ2014年の5冊 についての小さな記事を読みました。うち一冊はトマ・ピケティの「21世紀の資本」だったのはウケました。ゲイツはこう言ったそうです。「著者のいちばん重要な結論に賛成だ。不平等の問題はますます大きくなっており、政府はこれを緩和する役割を果たすべきだ。著者の業績を称えるとともに、これが賢人たちが不平等の原因を探求したり解決するためのきっかけになることを期待する。」と。

こう言うと決まって「偽善だ!本当に不平等を解決する気があるなら自分の金をばらまくんじゃないのか?」という反応がありますね。知っての通りゲイツは自分の巨額のお金を—あなたや私が稼いだ以上の額を—ばらまいてきましたし、彼の子供たちに残す額にも厳しい上限を設定しています。しかしそれでもまだ彼はクロイソス級のリッチマンですし、彼があと20億ドルもばらまけば不平等をそれだけ緩和することになるのも確実です。さて、では彼自身が自分のお金でもっとできることがあるのに、政府に対して不平等の緩和のためより積極的な役割を果たすよう求めるのは、果たして「していることが言っていることと違う」ということになるのでしょうか。

答えは「ノー」。その理由は「構造的選好」と 「行動の選好」 の区別にあります。
ほとんどの人は、ある問題について自分個人がどれだけの義務を負うのかは、他の人々がどれくらいのことをしているかにある程度依存していると考えています。その人は同時に、他の人々がもっと多くのことをすればよいのにと思っているかもしれないし、また、他の人がそうするなら自分も喜んでそうするつもりもある、という場合もあります。つまり、自分を含む全員がXをするというルールに変えることを常に支持するけれども、同時に、そのようなルールがまだないのであれば自発的にXをすることはしない、ということがあり得るわけです。これは単純明快なポイントなのですが、公共の議論においてしばしば無視されています。(ジェラルド・コーエンの著書、『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』はこの単純なポイントに焦点を当てていればはるかに短い本にできたといつも思うのですが、考えてみればそれができないことがコーエンのこの仕事の欠点の一つなのでしょう。)

さて私は、税はあと1%高い方がいいと考えているのですが、かと言って自発的に余分に払うことはしていません。私のずる賢い会計士は私の税負担を減らすために様々な手法を駆使しています。大学教授はもっと授業をするべきだと考えていますが、自発的にクラスを増やしたりはしません。気候変動と戦うために私たちはあらゆる手段を講じるべきだと考えますが、私自身は明らかにサステナブルな水準以上の炭素エネルギーを消費しています。それでも私が偽善ということにはなりません。

とは言え、「みんなだってそうしている」、「みんながやるなら喜んでやるけれど」という言い訳を余りにも利己的に使いすぎる人のことを、何か一つの言葉で記述しようという考えが間違っているというわけではありません。たとえば、気候変動に対してのカナダの態度ですが、「構造的な」水準で言えば炭素使用量緩和の枠組みを決めたいと私たちは皆が思っていますが、個々の行動の水準においては、全員が計画に同意できるまで何も実行する準備がないわけです。個人レベルのアナロジーで言えば、「皆が正直に税を払うべきだと思う」と言いながら、どこかの誰かが税を回避しているということを知ると「なんで自分が払わなければならない?」と言って、あらゆるスレスレの税回避手段を駆使するような人。

一般化するとこういうことです。ある行動Xは全員の義務であるべきという構造的選好を持っているような人であっても、それが全員の義務になっていない状況においては行動Xをとる義務はありません。とは言え構造的選好はあなたの行動を緩やかに制限するはずです。つまりXと正反対のことは選択すべきではない、というように。これを犯してしまう不道徳にも名前があれば良いですね —「偽善」は明らかにこれを表現するための適切な言葉ではないので。

そうそう、偽善の正当な例をお望みでしたら、こういうのがそうでしょう。

ジョセフ・ヒース 「価格システムへの根強い抵抗」(2014年8月12日)

●Joseph Heath, “Capitalism remains controversial”(In Due Course, August 12, 2014)


価格システムが財を配分するその基本的なあり様に対する世間一般の抵抗の粘り強さ――あのアメリカにおいてでさえも!――には驚かされるばかりだ。「需要量と供給量を一致させるために財の価格が自由に変動(上下動)するに任せるべし」というアイデアは世の大抵の人々にとって直感に反するばかりか、道徳にも反するように感じられるようなのだ。そのことを示すまたとない実例がある。(配車サービス業界の革命児たる)Uber社が導入した料金システム(サージ・プライシング)に対する最近の騒動がそれだ(「市場行動の社会学」に興味がある向きにはこちらこちらの記事は面白く読めるに違いない)。Uberのサージ・プライシングは基本的にはその時々の需給状況(乗車を希望している人がどのくらいの数に上るか、路上にいるドライバーの数はどのくらいか)に応じてリアルタイムで乗車料金を変動させる仕組みであり、テクノロジーの助けを借りて(経済学入門の講義で必ずやお見かけするあの)完全競争市場に似たマーケットを作り出そうと試みた格好の例だと言える。Uberの利用者たちは料金が据え置かれて「不足」に悩まされる(乗車の順番が回ってくるまで長時間待つことを強いられる)よりは料金の上昇(を通じた需給の調整)を受け入れることだろう。そう思う人もいるかもしれないが、実際のところはどうかというと、(需要の急増に応じた)料金の引き上げに対してあちこちから怒りの声が上がっているのだ。

「需要の急増に応じて価格は上昇するに任せるべきだ」。経済学者がそう考える理由の説明に乗り出してから200年以上が経過しており、世間の人々も程度の差はあれその説明を受け入れてきているように見える。そうであるにもかかわらず、世の大抵の人々は未だに道徳的な直感のレベルで(需要の急増に応じて価格が上昇することに対して)大いに反発を感じてしまうようなのだ。私が驚かされるはこの点なのだ。おっと、勘違いしないでもらいたい。「市場」という制度はそのうち消えてなくだろうだとかUberの料金システムはおかしいだとかと言いたいわけではない。「市場」という制度は消えてなくなったりなんてしないし、Uberの料金システムも完璧に理に適ったものだと思う。「市場」が我々の生活を取り巻く支配的な経済制度となるまでに上り詰める一方で、我々の道徳的な直感は「市場」を組織立てる中心的な原理(需給の変動に応じた価格の上下動)に未だに(何世代もの間にわたって!)適応できない(馴染めない)でいる。いかにしてそんなことが可能となるのだろうか? 私が気にかかっているのはそのような何とも不可解な(そして哲学的なと言える)疑問なのだ。

ジョセフ・ヒース「アメリカのナクバ:社会が無惨にも分断を抱え堕落してしまった『理由』」(2017年3月14日)

American Nakba
Posted by Joseph Heath on March 14, 2017 | politics, United States

私は最近、『スティグマ現象』を扱った論文を書いている(ここで読む事が可能だ)。論文では、『貧困の文化』を巡って左派と右派の間で激しい応酬になっている論題の幾つかも扱うことになった。下層階級の人達は、自己破壊的な行動に従事する傾向にあるわけだが、そういった行動に対して「どこまで自己責任を追わねばならないのか」とか「どこまで自己責任を適用させるべきなのか」といった言説にまで関心を向けさせてもらっている。以上関心から、私は保守派による文化批判を読むことになり、デーヴィッド・フラムの本『我々は現状にどのように至ったのか:70年代』にたどり着くことになった。この本は、発売した時に漠然と関心を寄せていたが、当時は読書するまでには至らなかったのだ。しかし書架からこの本を取り出した時に、読むのを楽しみしてることを自覚したのである。理由を挙げるなら、フラムは(保守政権の役職から排除されて以来)過去5年ないしそれ以上にわたって、アメリカの社会状況において、一貫して興味深い言説の主だったことにある。ただ、読み終えて、あまりに悪書であることに、驚愕することになった。悪書である原因の一端は、この本が2000年(すなわち、けっこう過去)に出版されている事にある。そして、フラムは、この本の出版期に比べて非常に賢明になってはいるようだ。さしあたり、下記では、一つの驚くべき一節に焦点を絞りたい。そこでフラムは、アメリカの自動車メーカーが、自社の従業員に関して悩まされたいくつかの事例を取り上げている。アメリカにおける製造業の黄金期とされている時代である。

フォードの組み立てラインでは、1970年には労働者の1/4が職放棄したのです。フォードとGMでは、1961-1970年にかけて無断欠勤が倍増しています。特に、1969-1970年には、非常に急激に増加することになりました。1970年の春、GMでは、5%の労働者が常に無断欠勤状態だったのです。金曜日と月曜には、労働力の10%までもが欠勤となって現れています。GMの最もトラブルを抱えていた工場(ボルティモアのシボレー製造工場)においては、常習的欠勤者は、1966年の典型日では3%でしたが、1970年には7.5%に上昇することになっています。不満を抱えていた労働者達は、製造車(特に高級モデル)を故意に破壊するに至ったのです。当時のフォーチューン紙は「ネジはブレーキドラムに残されており、取り付け金具は泥除け区画に溶接されたままであり(これは、なぜか発見が困難で、運転時に常にガタガタを引き起こさせることになった)、塗装には剥がれ傷があり、室内装飾は破れていた」と報道しています。(p.21)

さらに「1977年の159社へののアンケート調査では、調査開始の1952年からのいかなる時期よりも、職への不満が発見されました」と続けている。フラムは言及していないが、70年代初期のアメリカの組み立てラインの労働者間では、薬物使用も非常に蔓延していたことも、製造品質の顕著な衰退にも寄与していたのである。
(因みに、私は、アメリカ車の熱狂的なマニアに、価値があるモデルとそうでないモデルを解説してもらった事がある。価値割合は労働者の薬物中毒割合に大雑把であるが基づいている、とのことである。因みに、だいたい60年代後半くらいで、価値があるモデルとそうでないモデルの分岐点になっているそうだ。)
ともかくとして、個人的にこの事案で蒸し返す価値があるとすれば、皆がメキシコと中国から返ってきて欲しい「素晴らしき製造業」は、アメリカにあった時点で、現実的には素晴らしいものと当時は考慮されていなかった事にあるだろう。

「フォードの組み立てラインでは、1年に労働者の1/4が職放棄している!」
フラムにとってこの労働者の職放棄事例は、書籍内では「70年代の堕落した世代批判」として広く関連付けられて提示されることになってる。ここにおいて重要なのは、(いかなる時であれ)人の記憶事実と、該当人物による実際の過去の経験事実は、まったく異なっている事にある。
(この点で、記載しておく必要があるのが、フラムは1960年生まれであることだ。彼によって回想された70年代においては、彼は基本的には当時10歳代だったことを意味しているのだ。)

個人的にフラムの本で一番驚いたのが、『反動保守思想』の異常なまでの典型的事例だったことにある。フラムは、どうでもよい不満を執拗に繰り返しているのだけだと言ってもよいだろう。因みに、私も70年代はダイッキライだったのだが、フラムの不満とはまったくの別途理由からである。この本は、70年代に起こったとされている、アメリカが道義を失ったり、高い理想を裏切ってしまったり、堕落に至ってしまった出来事の、長~い長い個別単言リストにすぎない。奇妙な点を挙げるなら、フラムは『反動保守思想の公式』に異常なまでに厳密に固執しつつも、自身はテンプレを表明してしまっていることに無自覚に見えることにある。つまりは全体的な読書感は、ハーレークインロマンスなのだ。しかも、既にハーレークイン様式の書籍が大量に存在することをまったく知らない作家によって書かれたハーレークインロマンスである。読者にとって「お決まり文句」や「手垢に塗れた安易な手法」にすぎないものが、著者的には「衝撃的な新しい洞察」や「新しい切り口の解説」として表現されているのである。

この本の特異性をいろいろ考えた事で、私はマーク・リラ1 の近著『難破する精神 世界はなぜ反動化するのか』を読むに至った。リラの本は、この反動保守のテンプレ反応の論題で、優れた洞察をいくつも含んでいる。『反動保守』の思想は表明される全ての場合において、どれも似たようなテンプレートに従うのを、リラは巧く説明することに成功している。リラは本書において、進歩的左派と反動的保守派の対称性に立脚して議論を進めている。進歩的左派と反動的保守派は、理想的(ないし少なくとも劇的に改善された)社会のビジョンにコミットしているという事で、似通ってはいる。しかしながら、進歩的左派は、将来にこの理想を位置づけ、その方向に物事を推し進めようと邁進することになる。対照的に、反動的保守派は、この理想を過去に位置づけることになる。反動的保守派によると現代社会が、理想にまったく似ていないという事実は、堕落が起こってしまった帰結として説明されることになっており、「堕落は(特定時期のとある時に)起こったに違いなく、この堕落の渦中に、社会は『道を失い』理想から逸れてしまったのだ」とされているのだ。したがって、反動的保守派は、しばしば、進歩的左派と同じようなユートピアを目指す政策プログラムを支持することになる。そして、反動的保守派は、自身のプログラムを[左派と同じであると]認識することに失敗することにもなる。なぜなら、反動的保守派は、それを、「革新」としてではなく、過去の状態の「復興」として想定しているからなのだ。「復興」を達成する為に、反動的保守派が採用する、中心戦略の一つが、「文化批判」や「衰退の神話」となる。そこでは、大衆は自身がいかに間違えていたかを悟り、真実の道に人は帰還する希望込みでの『堕落の物語』が語られることになる。

今現在、この反動保守派の[堕落の]物語の創話において、フランスは、おそらく世界の最先端にいる。リラは、エリック・ゼムール2 の”Le suicide francais”(『フランスの自殺』)と、イスラム原理主義者の基本的な神話を比較検討した上で、本質的に似たような構造を有しているとして、興味深い主張を展開している。今日の状況において、反動保守の思想構造を理解することは、現在のイスラム原理主義達の思想を理解するのにも絶対的に必要であると、リラは主張しており、以下のように語っている。

今日のムスリム世界では、失われた「黄金時代」への信仰が、最も有力で重要なものとなっています。ムスリム世界の人々は急進的イスラム主義の文献を非常に深く読み込むことで、神話の魅力を絶賛するようになっているのです。彼らが魅了されている神話とは以下のようなものとなっています。
預言者ムハンマドの到来前の世界は、無知の時代、すなわちジャヒリーヤに陥っていた。[当時中東にあった]偉大な帝国は、多神教の不道徳に沈んでおり、[そこに住まう]キリスト教徒は生を否定する修道的禁欲主義を発達させており、アラブ人は迷信を信じている酔っぱらいにしてバクチ打ちにすぎなった。このような状況で、ムハンマドは、神による最後の啓示を伝える器として選ばれ、ムハンマドの啓示を受け入れたあらゆる個人や大衆の道徳を高めることになったのである。預言者ムハンマドに従った者たちと、初期の数人のカリフは、神の意思の完全な伝承者達であり、神の法に基いて新しい社会の建設を始めることになる。しかしながら、驚くほどあっという間に、この創設世代による聖なる力は失われることになった。そしてそれは、二度と回復されることはなかったのだ…。(p.140)

このイスラム原理主義者達の神話を現在にまで進めれば、大雑把であるが以下のように語られているとのことである

[西欧による]近代の植民地政策の狙いは、イスラム教徒を完全に宗教的戒律から離れさせた上で転向に追い込み、さらに不道徳な世俗的秩序を課すことにあった。新たなる十字軍は、戦場でムスリムの聖戦士と相対することよりも、近代科学やテクノロジーの小道具を単純に提供することで、ムスリムを魅了することを目的にしていたのだ。イスラム教徒が神を捨て、神の正統なる支配から逃れれば、西欧の新たなる十字軍は満足し、小道具をイスラム教徒に与える。世俗的近代の邪なる力は、ムスリム世界のエリート達に、「発展」への魅了として作用し、即座に効果を発揮する。この邪なる力は、女児を含むエリートの子供たちを、世俗の学校や大学に通わせることとしても、容易に作用するのである。ムスリム世界の世俗の暴君的権力者もまた、西欧と手を組みその支配下に入ることで、イスラム教の信仰を抑圧し、エリート層の世俗化を促進することになる。これら(世俗主義、個人主義、物質主義、道徳的無関心、専制政治)の影響力は全て重なり合い、新たなジャヒリーヤを到来させた。全ての信仰深いイスラム教徒が苦闘せねばならないジャヒリーヤなのだ。預言者ムハンマドもまた、7世紀の夜明け時には、苦闘している。預言者ムハンマドは、[世俗化等に]妥協せず、寛大にならず、民主化を行わず、発展を追い求めなかった。ムハンマドは、神の声を話し、神の法を制定した。なので、我々は彼の神聖なる規範に習うべきなのだ。(p.142)

リラによると、「こういった原理主義者の神話には、イスラム教徒の独自性がほぼ存在しない」とのことである。これは、反動保守のテンプレートが現れている端的な一事例だろう。リラは「この原理主義者の神話には、今日のイスラム思想の歴史・神学的理論をもってしても、『抗体』としてほぼ機能しえない」と主張している。

『抗体』は、この事象を扱うには最適な用語だと私も考えている。『反動保守派による文献』を読んでいると、同じテンプレートが何度も何度も登場するのに出くわすことになる。しかしながら、それらは皆、異なる時代、異なる社会のものなのだ。故にそれらを、精神を侵食するウィルスのようなものであると見做さないのは難しい。崇拝者が異常に感動する「奇跡的なヒーリングの物語」である。少なくともこれらは、大規模な誤謬の一種ではあろう。しかして追記しておくと、我々が保持する伝統や習慣には、過去回帰の魅了への抗体が一応備わっているのである。なので、フラムは、自身の本の最後から2番目のパラグラフで、70年代以前の時代も偉大な時代でなかったことを、若干ではあるがしぶしぶ認めて表明している。

一般的な物事において半世紀前の方が良いというのは、事実ではないでしょう。多くの面において物事はより悪かったのです。つまり、より軍国主義的であり、技術進歩は低く、国家はより抑圧的で、寛容さは低く、組合活動は活発であり、人道性は低く、偏向的な思想は蔓延していたのです。過去を懐かしむノスタルジアは、間違えています。そして仮に間違いでなくとも、ノスタルジアは、最も脆弱で無益な感情であり、敗北者における麻薬であり、無力な言説にすぎないのです。しかしながら、[70年代以前は]概して物事が良くなかったとしても、個別にはいくつかの物事は良かったのです。人が家庭や国家により忠誠を表明する時代であり、人がより読書をし互いに話し合う時代であり、人が自身のセクシャリティを抑制している時代であり、大学教授や学芸員が知性や芸術的基準を高めることを恐れていない時代であり、移民達が急速にアメリカ化されると期待されている時代であり、人が皆マイナスの感情でもって訴訟を起こさない時代であり、これらは良きことだったのです。(p.356)

上記のパラグラフは、興味深いの矛盾の混合体である。少なくとも、フラムによって言及されている物事と、その物事がどのように言及されているかの関係においては緊張的対立を孕んでいるのだ。引用箇所の2つめの文の中で、仰々しくそれでいて適当に羅列されている過去の「悪かった」とされている物事と、最後の文中にあるやけに詳細で感情的に「良かった」されている物事の一覧を比較してみてほしい。ノスタルジアに関しては(脆弱で、無用で、敗北主義で、無力だと)独特の強い糾弾が行われる一方、過去への極端なまでに都合の良い懐古主義的な見解のリストとも、突き合わせてみてほしい。フラムが、[良き事として]列挙されている2つ目のリストの項目のいくつかをマイナス評価してみれば、1つ目のリストで列挙されてる[悪い事の]いくつかを取り除く対価となるかもしれない、といった可能性をまったく考慮していないことにも着目していただきたい。(例えば、移民が「急速にアメリカ化」される期待が低下している様な状況では、アメリカは「寛容な」世相になっている可能性等である)。いずれにせよ、最後の文の論調が明示しているのは、フラムを実質的に魅了しているのが、何世紀にもわたって反動保守の思想家達を魅了してきた信仰でしかないということであろう。それでいて、フラムは、反動保守の信仰告白として受け取られる可能性を少なくとも自認してもいるので、そう解釈されてしまうことから逃れようとする生半可な試みで、このパラグラフは全体的に構成されてもいる。ここでフラムは、喚き立てる反動保守主義者では知的に尊敬されないと考え、少なからず何か別のこと提示せねばならないとの認識を示しているわけである。

さて、以下はこの件で、フラムに本についての最後の私的見解となる。「この本は基本的に、70年代に起こったあらゆる悪い出来事の個別単言リストにすぎない」と私が上で言ったのは、けっして冗談などではない。リストの品質に関しては、私が過去に読んだこの手の著作物で中でも、特筆して非論理的である産物であることで推察されたい。フラムが話題にしている悪い物事だが、全てにおいて彼はその物事の説明を試みないままに、単に話題から話題へと飛び回ることになっている。「説明」とは、その物事が起こった理由とか、物事の関係者の思惑が何であったとか、社会変化の幅広い流れの何が悪い物事の一部に位置づけられているのか、などである。以下がそのリストになる。
「裏切り者達はベトナム戦争を敗北させ」「人々は教会に行かなくなり」「女性は娼婦となり」「エゴイスト達は離婚し」「犯罪はコントロール不可となり」「アメリカ人達は訴訟にあけくれ」「裁判官たちは狂った判決を出すようになった」まだまだ続く…。
この本の最後の数ページで、読者は、フラムがなんらかの説明をすることや、これらの物事がなぜ起こったのかの熟考を拒否している理由を発見することになる。理由は、保守派が犯しがちな誤謬の別の一般的なテンプレとなって現れている。保守派が犯しがちな他の誤謬とは、「人の行動や態度の理由に、広範な説明のようなものを提示してしまう事は、『行動や態度』を甘やかす事を包括してしまう」といった考え方である。言い換えるなら「物事に対しては、個別個人に自己責任を付与させるために、説明めいた言辞を避けなければならない」とされている考え方である。
(これは私の『スティグマ現象』論文で扱っている論題でもある)。フラムは以下のように語っている。

1970年代のアメリカに起こった様々な出来事がなんらかの巨大な世界的要因の産物であったとしましょう――たとえば避妊薬の発明による不可避な結果だったとか、第一次世界大戦の後遺症だったとか、『近代性』と呼ばれる何かだったとか――もしそうであるなら、我々は許されますかね? 我らの現なる実行以外に、何かを行いうる事は可能でしたかね? 我らの継続してきた出来事以外に、何か行いうる事は可能ですかね? なんらかの形の別の完全なるベストに至る結果を行うことはできましたかね? 男女のコントロールを超えた偉大なる歴史の力が、1970年代を具現化させたのはたしかに真実かもしれないですよ。それでも1970年代の発現は、個人の選択だったのです。それはあくまでの一個人が引き起こしたのであって、人が関与できない社会の力などではなかったのです。あくまで一個人が、ヘロインを買う為に街角で老母から強盗を行ったのです。そして、法の執行の緩和させることで、路上強盗という政策の代償に変じさせたのも、とある特定の人々や集団だったのです。特定の人々は、南ベトナムに弾薬と燃料の供給を拒否することで、おそらく戦争の流れを変じさせたのです。他の特定の人々は、アメリカに来た移民達が英語ではなくスペイン語で教育されるべきだと決定しました。さらにまた別の特定の人々は、アラブ諸国が価格統制の拡張によって石油の禁輸措置行おうとした時、価格統制を撤廃させずに、それを許容する選択を行ったのです。これらは全て「選択」であり、「選択」が全ての結果をもたらしたのです。他の「選択」が取られた可能性もあり、それは別の結果をもたらしていたでしょう。(p.351-352)

私は哲学者なので、以上の言説は、驚嘆すべき不合理の連なりにしか思えない。人気あるポストモダニズムの核心的信念の一つが、悪しき政治状況は、悪しき形而上学概念群の帰結であるとされている――なので、人が保持している悪しき形而上学的信念を矯正することでもってすれば、人はなんらかの形で進歩的左派にすっかり変じる、といったものとなっている。このポストモダニズムの見解は、不誠実さとご都合主義の両輪となり、私を常々驚かさせてきた(「ハンマーを持てば全てが打つべき釘に見えてしまう」というやつである)3 。他方で、上記の文章内におけるフラムをまさに、悪しき形而上学的見解の犠牲者として見做すことが可能だ。犠牲者として完全なる知的衰弱に陥っている。基本的に、フラムは世界について何も理解しようとはしないのである。異常に薄っぺらい表層理解を超えることは一切ない。なぜなら、人の行動を理解してしまうと、行動の説明が必須になってしまう。そして一度でも、人の行動が説明されてしまったら、関与した個々人が、その行動に際して自由選択を行ったことを否定していることになってしまう。そして、人の自由選択が否定された時には、人の道徳的責任の否定に直結してしまうからなのである。

ウギョエー!

誰かマジで、フラムにコンパティビリティズム4 の概念を解説してやるべきだ…(ヒュームでカントでもお好きにどうぞ)。

いずれにせよ、上記文章に、今日の保守の反知性主義の源泉の一つを見ることが可能だろう。例示して考えてみよう。[今日の保守によると]犯罪の「原因」は、犯罪者が法破りする意思決定に起因する、とされている。なるほど。しかしながらこう考えると、70年代に始まり、今世紀になって消え去ったアメリカ合衆国を襲った巨大にして尋常な恐ろしい犯罪の大波は、説明可能なのだろうか?
(ニューヨークの殺人率は1963年には10万人あたり7人だったが、1973年には22人に跳ね上がることになっている。1983年には、10万人あたり23人に、1993人には27人に上昇することになった。2003年になって、7人まで急低下することになっている。)
[保守派の見解に従うなら]この犯罪の大波現象は、何千人もの人々が突如自発的に人殺しを開始するようになり、続く2世代にわたって突如自発的に人殺しを継続し、そしてある日、人々は、突如自発的に人殺しを止めたということになるのだろうか? 説明としては、まったくもって非合理的で無益な言説だ。明白に、ここで保守派の分析は「規範的社会学」の行使となって現れている。――(人に自己責任を付与したい願望といった)道徳的関心が、分析に先入観をもたらし、強引な説明を課すことを許容してしまっているのである。この場合も、まったく説得力がない(自己勝手で、非説得的な選択)産物でしかない。いずれにせよ、こういった反動保守派の見解の全てが、自由意志と道徳に関する多くの度し難い混乱に明白に動機づけられている。

ちなみに、私がフラムの本にあまりに手厳しいとお感じの場合は、単なる一人の大学教授として、高い知的水準の維持を高めることに努めている、と見做すことで甘受していただきたい…。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:タイトルを直訳すると『アメリカのナクバ』となるが、「ナクバ」は日本人には一般的でない単語と思われるので、副題を追加している。
『ナクバ(NAKBA)』とは、アラビア語で『大惨事』の意味する言葉。転じて、1948年のイスラエルの建国で大量にパレスチナ難民が発生した歴史的事件に対して、パレスチナ人達は屈辱を伴ってこの言葉を使うようになった。
本エントリで、ヒースは、アメリカの保守派が「70年代の様々な社会現象によって、アメリカ社会は堕落・分裂してしまった」と頻繁に言及することを、『アメリカにおけるナクバ(言説)』と見做して、このようにタイトル付けし、エントリで分析を行っている。

 

  1. 訳注:1956年生まれのアメリカの政治学者。コロンビア大学教授。政教分離の研究等で有名。邦訳書籍に『シュラクサイの神話』『神と国家の政治哲学』等がある []
  2. 訳注:フランスの右派の作家・ジャーナリスト。ジャン=マリー・ルペンが「信頼できるジャーナリスト」と名を挙げたことで有名。 []
  3. 訳注:「ハンマーを持った人にはあらゆる事象が打つべき釘に見えてしまう」つまり「なんでも説明できるが故に何も説明できていない」といった考えを表す欧米でよく使われる比喩表現 []
  4. 訳注:コンパティビリティズム:『柔らかい決定論』と訳されることもある、自由意志と決定論が両立する哲学上の立場。 []

ジョセフ・ヒース「なぜ炭素税は非常に低価格なのだろう?」(2016年07月30日)

Why are carbon taxes so low?
Posted by Joseph Heath on July 30, 2016 | environment, public policy

カナダの環境大臣キャサリン・マッケンナは、国内炭素価格の予測値を年末までに決めると最近告知した。大変歓迎すべきニュースだ。炭素価格付け政策に関して、基礎の理論的根拠の衆知化に、多く時間を費やしてきた(ココココココそしてココ)私にとって、本件は想定しうる限り、ほぼ勝利に近づいたと言えるだろう。事が成る事を、そうここに願う!

炭素価格付け政策に関して過去に執筆に当ててきた時間のほとんどで、私は政策の最も基礎的な特徴について説明するのに腐心してきた。([人や政府機関等が]共同で行動する際の問題は何かであるのかとか、価格付け制度はどのように作用するのかとか、なぜ[炭素だけでない]全ての財に課税してはいけないのか、等々である。)このエントリは、まずは右派の読者、その内で特に気候変動問題に関して何もすべきでないと、なんとなく思っている人を想定させてもらっている。相対的にではあるが、左派や環境保護論者への説明――『気候変動問題』において、『価格付け』がなぜ適正な政策基準であるかといった説明――にはあまり時間を割いていない。(詳しく知りたい場合は、ココココ [訳注:本サイトでの邦訳版はココ]を参照して欲しい)。
(一般的な議論において、我々が[公共政策としてなんらかの財に]『価格付け』を扱わねばならない場合や、環境政策で「義務を課すような」アプローチを選好する場合、ずっとお勧めしているのが、ジョン・ブレイスウェイトの論文『有害な企業活動を規制する際の経済学上の限界について』である)。

炭素価格付けの政策に関しては、あまり言及されていない論点だが、非常に妥当な疑問がある。炭素価格付けを支持する主流派は、炭素1トン当たり米ドルでおおよそ30ドルの税金を課すべきとする見解を示している。(この『炭素1トン当たり』という単位基準は、あらゆる温室効果ガスを測定する時に一般的に使われる単位だ)。このことで、ガソリン価格は1リットル当たりおよそ10セント上昇する事になる。明白な疑問が生じる。たったこれだけのガソリン価格の上昇で、気候変動問題への効果的な解決策になるのだろうか、と。

この疑問を議論する際のパターンの1つに、[炭素価格等の財の]限界余地による価格変更で、[経済主体の]行動に影響を与える考えが理解できないままに議論を続けてしまう事例がある(この件は個人的にはココで議論済みである)。ひとまずこの価格の変更余地の議論に関しては脇に置いておいて、今派生している事実をだけを検討してみたい。2年前になるが、邪悪なるハーパー政権下において、ガソリン価格がリッター当たり1.2ドルに高騰した事がある。今現在、ガソリン価格はリッター当たり1ドルだ(ここオハイオ州では)。よって、リッター当たり1.1ドルにガソリン価格を上昇させるような措置は、環境にとってのユートピアに至るのだろうか? 本当に気候変動が大きな脅威であると結論付けるのなら、ガソリン価格はリッター当たり3ドルか4ドルになると考えるべきではないだろうか?

疑問をわかりやすく言い換えるなら、「炭素税は提案される場合や、ブリティッシュコロンビア州のような管轄区域で採用された時、なぜこんなに『安く』設定されているのだろう?」となる。(ここでEcofiscal Commission1 による、カナダの州ごとの炭素政策の厳密な比較を参照することができる)。

以上[リッター当たり3ドルか4ドルになるべきではないのか]は非常に重要な質問だ。やや込み入ってはいるが、1つの納得が行く答えがある。(厳密には「1つ」というより集合的な答えになるが…)。技術的だが、あまり知られていない答えは、炭素1トン当たり30ドル(正確には33ドルほど)が、『SCC:”social cost of carbon”(炭素の社会的費用)』による最適見積もり価格との結果が出たのである。SCCとは、炭素1トンの排出によって、経済にどれだけ負の効果を与えるのかを示す数値である。つまり[SCCに応じた炭素税を課すことで]、排出炭素1トン当たりを適応範囲とした炭素価格で「外部性を内部化」させることが可能になる。つまりは、化石燃料由来の民間使用のエネルギーコストを、おおよその社会的コストとして同一化させることができるのである。2

しかしながら(これは本当に大きな「しかしながら」なのだが)、この社会的コストの計算は、我々の様々な社会活動の成果を膨大な仮説・仮定した上での数値化に基いているのだ。以下にこの件での、私のいくつかの考察を、簡単に箇条書きして示させてもらった。示したのは、我々の炭素の排出の痕跡を、最大限可能な限り減少させる、私が支持する様々な手段である。
(ついでに、気候変動問題に関しては、議論が非常に複雑化してしまっていることで、様々な論者が相互理解から遠い状態でやり取りしてることに気づいたのである。なので、泥沼に陥っている議論基盤を、共通な議論が行われるように、簡単な概略図を示させてもらったつもりでもある。)

1.「将来の人類はより豊かになるのである」
環境保護論者は、経済成長がどれくらい力強く、成長によって将来世代がどのくらい利益を得る事になるのかを、見極めることにしばしば失敗している。気候変動のダメージは、幾何学関数的に正確とまでいかないまでも、数十年間かけて段階的に増加する。一方で、経済成長は、毎年、指数関数的に増加する。なので発展途上国の過去の成長率を検討し、社会や経済や政治制度の要素が適正に整備されると想定すれば、現行の予測では、10年以内に[途上国の]1人当たりのGDPが2倍になる可能性があるのだ。これは、気候変動政策に関して以下の2つの帰結を産むことになる。

1つ目に、現役世代が、気候変動の沈静化・改良コストの一部を将来世代に繰り延べる事が適正であると見出すのが可能になる。なぜなら、人類が将来においては、この問題にを向き合うためにはるか多くのリソースを持つと予測できるからだ。(さらには、今より豊かになる事で、[気候変動等の政策の]負担が、経済厚生に与える影響も少なくなるだろう。たとえ、気候変動が、年代を経るにつれ悪化したとしても、[人類]の経済状況は、(最も可能性が高い予測に基づけば)それより早く改善する。なので、いくつかの政策行動を遅らせるのは合理的なのだ。例示すると、京都議定書が交渉されていた1996年には、中国経済は今のたった1/4に過ぎなかった。京都議定書交渉時に、中国は条約義務からの免除を求めて、以下のように主張している。
「1996年の今、我々は貧しい。なのになぜ、我々はこの義務を課せられねばならないのだ? 20年後には我々は4倍豊かになっている、その時には、非常に容易に[温暖化緩和の]義務を履行することができる」。過去を振り返ると、この論拠は妥当と見なすことが可能だ。そしてもちろん、発展途上国の人達は、今も同様の主張を行う妥当性を保持している。

2つ目に、経済成長にマイナスの影響を与えるような政策を行うには、その政策の機会費用を正統化する為に、将来世代への巨大な便益が提供されている必要性を見出さねばないということである。例えば、もし中国の平均寿命や乳幼児死亡数を仮想数値化し、GDPとの相互関係を考えてみてほしい。そして、将来を見積もれば、あなたは成長率の低下を予測することができるだろう。今、大胆で徹底的な炭素排出量の減少政策(例えば、新規の火力発電所の建設停止処置等)を採用すれば、経済成長率の低下を招くかもしれない。この大胆で徹底的な炭素排出量の減少政策を実行することは、全世界での平均寿命を低下や、乳幼児死亡数の減少の鈍化を推察されることになる。なので、この[大胆な炭素削減]政策を実行することは、一定の人を「殺害する」事になるだろう。一方で、この政策を実行し、気候変動を沈静化することで、別の多数の人を「救う」事にもなる。つまりは、極端な気象変動や、穀物の不作による悪影響を減らす事になるわけである。どれだけの量の人を「救う」事で、概算で最低限どれだけの量の人を「殺害する」事になるべきかによって、気候変動に関する政策は正統化されねばならない。不幸にも、気候変動の沈静化の恩恵はそれほど大きくないのだ、発展途上国における経済成長と比較した時には。
(これはもちろん、先進国には正しくない。先進国における成長はさして違いを産まない。しかし、気候変動はグローバルな問題なので、大きな絵図を見る必要がある。)

2.「技術変化」
気候変動を巡っては、政策の「終結点」をどう想定するかでしばしば意見が異なっており、水面下での対立となっている。一部の人々は、気候変動政策を、水路への水銀廃棄のような平凡な汚染問題と同一視するような見解を保持している。以上の見解に立った場合、対処方法は、「汚染してはいけない」と謳う法案を通す事になる。すると企業は、[汚染物を廃棄する]インセンティブを抱えたままに、廃棄を止める事になる。なぜなら、[廃棄する事は]違法であり、罰金等で脅かされているからである。以上を[気候変動政策に]適応するには、「私の見解」では非現実的だ。端的な理由として、気候変動のグローバルな性質と、国際的な[法や罰則の]強制施行体制の不可能性を理由に挙げることができる。全ての化石燃料は地中に単に手付かずの状態で眠っている事実を考えてみて欲しい。さらにはこれは驚嘆すべきありえない安価なエネルギー源でもある。なので、世界中の国が化石燃料を地中に手付かずのままにすることで歩調を合わせるようになるのは、まったくもって信じられないのである。よって他の多くの人達と同じく、「負の外部性」を単純に修正し、「負の外部性」が作り出した「価格の歪み」を取り除き、それから政府と市場参加者が共に努力し、技術的な解決策を模索するように至るような政策を、「終結点」と私も考えている。この技術的解決策によって、化石燃料を燃やす事による水面下のインセンティブを取り除く事になるだろう。

以上観点に立つと、[気候変動の]基礎的な問題は、(外部性によって)化石燃料が安すぎる事にある。これはエネルギー研究への顕著な投資不足を産んでいる。緑のエネルギーは、褐色のエネルギーと競争することができていないのだ。なぜなら後者は、(気候変動を犠牲に払って)暗黙下の助成を受けているからである。20世紀の電子機器分野における、我々が経験した技術的イノベーションの発達度合いを考えてみて欲しい。そして次に、エネルギーシステムの技術的イノベーションの発達度合い(実質的にゼロである。我々は未だに19世紀に有力だった技術を使用しているのだ)と、比較検討してみて欲しい。炭素消費ゼロのエネルギー源を発見できる可能性を楽観視できるはずだ。この世界には、結局のところエネルギーが満ちているのである。常時、地球は15000テラワット以上の太陽エネルギーを受け取っている。常時の、人類使用の総エネルギーは、おおよそ17テラワットである。おまけに、人類使用のエネルギーの大部分は、人類が直接太陽から補足したものではない。それは植物によって、何百万年も前に補足され変換された太陽エネルギーなのだ。我々は、今より良い方法を行うことができるはずだ!

以上により、炭素価格付け政策の最終目標は、大量の炭素[排出]の減少を実現させることではない。価格の歪みを訂正することにあるのだ。人間の創意工夫の方向を、この問題の解決に大きく比重するように導くにある。

3.「カナダは行うべき鎮静・削減の大部分を行っていない」
持続可能なレベルでの1人当たりの炭素排出量を概算すると、炭素2トンとなる。(もちろん、全世界人口に左右される数値である)。知っての通り、カナダでは今のところは、炭素排出量は1人当たり約20トンとなっている。(しかしながら、アルバータ州とサスカチュワン州では、平均して1人当たり80トンないしそれ以上を排出しており、我が国の排出量の平均値を嵩上げすることになっている)。ともかく、カナダの排出量が現実に1人当たり2トンまで低下するシナリオは、見込みもなさそうだし、望ましくもない。我々は、北方の国であり3 、裕福な工業国でもあるので、自身で炭素を削減するより、他国と排出量の削減で取引を行う事が効果的である可能性が常にありえる。ただ、今のカナダは、排出権取引を行うには適正ではない4 。炭素価格が設定されていなくても、[炭素の]限界削減費用がゼロだったりマイナスですらある、経済分野(例えば照明分野)も存在する5 。なので、炭素税の導入意図は、低吊りの果実を摘み取るようなものなのである6

ただもちろろん、炭素税の導入は、我々の1人当たりの炭素排出量を2トンまで引き下げる事を意図した政策ではない。さらには、我々には、炭素税を導入する道徳的要求は必要とされていない。道徳的要求とは、「我々は生成する排出量の全ての費用を支払わねばならない」との見解である。理想的な政策体制下において、温暖な気候に暮らす多くの人達は、十全に炭素を排出しても[排出枠に]2トンも必要としなくなる(屋内暖房を必要としないこと等で)。一方で、我々は[理想的な政策体制下でも2トン]より多くの炭素排出が必要になる。よって、我々は温暖地の人達から[炭素排出]スペースを「買う」事ができる。7 (言い換えるなら、我々は名目上のノルマを超過した時、その影響を賠償しても良いのである)

4.『将来世代を助けるためのその他の多くの方法』
気候変動問題だけを特別視しない事は何よりも重要である。つまりは、多くの政策課題から、気候変動だけを切り離して見てしまってはならないということだ。例えば、人によっては、「気候変動の公平性」の観点から、第一義的かつ最優先されるべき再分配上の公平命題であるかのように言及している。豊かな世界が貧しい世界を傷つけているからだ、と。この手の主張において、気候変動の沈静化は、公平性の命題として提示されているわけだ――「我々は貧しい世界に何らかの借りがある」とのように。しかしながら、気候変動の緩慢さ(現行の政策の実行と、その政策の影響の享受に80年のラグがある)を考えれば、我々が採用するであろう(いかなる政策も)、公平性の命題からは、大変非効率的なものとなるだろう。例示するに、バングラディッシュが、海面上昇によって被る被害は、非常に不当であり、これを改善するために、我々は大胆で徹底的な炭素減少プログラムを採用せねばならないと、人によっては主張するかもしれない。しかしながらこれが何を意味するのを考えてみようではないか。80年後にバングラディッシュの人々に利益をもたらすために、カナダが文字通り何十億ドルもの大胆な炭素削減政策に予算を当てるとしよう。カナダの政策とは別途に、現行の成長率を考えれば、バングラディッシュの平均的市民は80年後には今の6倍豊かになっている。遠い未来の人々を助けなければいけないという思想[に基づいた政策]は、現世界が直面している公平性の命題への対応としては最善な方法と思えない場合があるのだ。バングラディッシュの人々を助ける、もっと良い方法はないだろうか?
(想定すべきは、[カナダ]連邦政府により表明されているカナダの先住民の生活環境改善のための処置である。[この政策処置]の最初の便益が得られるようになるのは、おそらく22世紀の初頭になるだろう。)
[途上国の]人々の助ける、より良い方法が存在するはずであると、単純に考える事は可能だ。今だと、純粋な再分配はどうだろう? あるいは、安全な飲料性が確実に確保できるようにするのは? この一連の文脈下で「命題」を見てみれば、すぐにでも人は、[途上国の]人々を助ける多くの異なった政策手段が存在することに気づき始めるはすだ。そして、気候変動の沈静化は、[途上国への処方箋として]特効薬でない事も自明である、と。マラリア撲滅研究への投資なんてのはどうだろう?

ただここで、ビヨン・ロンボルグの路線、「気候変動と闘う代わりに、我々は他の多くの政策課題に取り組まねばならない」のような主張を取らない事は明示しておきたい。私が単に言いたいのは、政策空間には、多くの競合する選択肢があり、どれを行うのが最適なのかには不確実性が存在するとのことである。しかしながら、我々が確信を持てる事の1つが「正しい炭素価格はゼロでない」という事実だ。化石燃料の消費(その他の極少数の[人為的]減少)に起因する、空気・大気への外部性が存在する限り、我々はそれを内部化しないといけないのだ。そしてその時に見出される炭素価格は、SCCによる最新の推定値に基づいたものになる。以上事実により、我々は、[温暖化沈静化政策に]なんらかのチップを置くことができるのだ。将来世代を最善化するようななんらかの政策を具体的に決定せずとも。8

5.「現役世代への適正な優遇」
最後に、最も賛否両論ある問題がある。我々は、将来世代よりも、今日生きている人々をどの程度まで優遇するのを表明する事が許されているのだろうか、ということである。[世代間の利益配分問題に関して]、我々が実行可能で、せねばならない事を検討した、長い論文を書いた事がある。(論文収録雑誌はココ、論文だけだとココ)。私が考えるに、我々が最適に現役世代への『優遇』を実行できないのは、人々を魅了するいくつかの種類の見解があり、それらは高い道徳的見解に見えるからなのだ。しかしながら、[高い道徳的見解を]考え過ぎることは、総合的にクレイジーな結論に至ることになる。今を生きる人や現役世代と、将来世代に、平等な道徳性を負荷してしまう事の大きな問題は、将来世代は、現役世代より遥かに人口が多いことにあるのだ。今存在している人々(ないし、今を生きる人)に対して、なんらかの「優遇」を表面するのを拒否する事は、あらゆる種類の不条理なシナリオの生成をも可能にしてしまう。こうした[過度の道徳的見解を]想定をしてしまうと、今存在する人々以上に、存在していない[将来の]人々への優遇が常時継続して続く事になる。(なぜなら将来世代は非常に多勢だからなのだ)。このことは、結果的に、採用された政策の便益を、現役世代でない人達が得続ける不条理に至ることになる。

なので、炭素税が低価格である理由の大部分は、SCCの計算によって、適正な割引率9 が適応され――そのことで、他の全ての公的投資や支出プログラムは割引率に応じた実際上の行動に至り――これによって、現役世代への「適正な優遇」の測定結果も表明されることになるのである。

結論:「なぜ炭素価格は非常に低価格なんだろうか?」
理由は、気候変動に関するコスト―それは何を行っても、何も行わなわなくとも―は、少なくとも200年間に渡って拡散する。なので、我々は、今すぐこれら負担を穏健な[政策]割当以上に引き受ける義務はないという、複数の理由からなのである。

※訳注:以下は、本エントリのコメント欄で行われた、気候変動の専門家と思われるサム・テイラー氏とヒースとのやり取りである。

サム・テイラー:2016年07月31日の投稿

私は、全面的に『炭素価格付け政策』に賛成してますし、さらに[現行の]与えられた条件下では、[この問題で]正しい方向へ向かう唯一の方法であると考えています。ただ、このエントリは、いくつかの件で若干のどっち付かずの要素がありますし、議論のいくつかには大きな欠陥があるように思えます。

まず最初に。特定の炭素価格を決定する際に、重要視し可能とあなたが導出している『割引率』に不信感があります。実際、被害要素の数値化の仮定において、[あなたの導出した]『割引率』は、炭素価格を設定する際に、単一の決定要因に顕著に依存しています。『割引率』には異なる試算があり、一般的には『スターン価格』と、『ノードハウス価格』の違いとして説明されています。この2つの価格は、大きく異なった数値仮定となっています。さらには、ノードハウスの率は、ネイティブアメリカンがマンハッタン島を24ドルで[オランダ人に]売却した事実を彷彿させます。つまり島を売った部族にとっては、その時点では「良い取引」だったのです。特定の『割引率』を支持するには、強い説得力がある論拠が必要になります。しかし、深く納得できるような見解の表明をほぼ見ることができていません。

また、あなたは「[経済及びエネルギー]消費の最大化」を争点化し主たる論拠として表明しているようですが、[この問題に取り組む]他の人によっては「リスクマネジメント/保険買い取り」として争点化する事をより重要視しているかもしれません。あなたは、経済と気候をスムーズな変動システムとして扱っており(このあなたの仮定や数値入力に依存する限り)成長を通じて人を豊かにするために、炭素は排出しても、最終的には理にかなうことになるでしょう。このあなたの見解は、気候システムが強い非線形的なシステムであり、極めて急速に状態変化を起こしてしまうという強固な地質学的な証拠を無視しているように思えます。現状、我々は、極端なまでに限定された温度領域においてでしか、大規模な集約的農業(一つの事例です)が行えない、との確定事実しか持っていないのです。だから、想定できる甚大な状況を避けるに、我々は、誇大なまでのリスクプレミアムを支払わねばならないかもしれません。例えば、気温3-4℃の上昇はなんらかの[甚大な]危険性を産む可能性があります。気候変動による被害要素[の設定]は”fat tail(太った尻尾)”10 になっている可能性があります。[気候変動による被害要素の設定によっては]あなたが想定しているリスク因子を相当大幅に改定してしまう可能性です。気候変動がシリアの崩壊の要因となったかもしれないと、いくつかの分析は示しています。この事実は、少なくとも、物事を慎重に考えねばならないことになるでしょう。

エネルギーに関して、[地球の常時受取太陽エネルギーと、使用化石燃料の比率である]15000対15の比率は、表層的な楽観主義として喧伝されているだけであり、精査に耐える事実ではありません。[地球が常時受け取っている太陽エネルギーの数値]から、海面、山間部、農業エリア、雲による反射を差し引く事を始めてみれば、あっという間に桁が減り、比率が圧縮されていくでしょう。それこそが緻密な比率です。現実的な数字を適用すると、必要な太陽光発電パネルの面積は、非常に巨大な国々のサイズに等しくなってしまいますから、この引き算は簡単な作業ではないでしょう。追記するに、電力に由来する炭素排出量はおおよその20%にすぎません。他の工業過程(鉄鋼の生成や、ハーバー・ボッシュ法)はおそらく簡単に代用できません。土地利用変化や農業からの炭素排出は言うまでもないでしょう。物理学をバックグラウンドに持ち、エネルギー分野で働くことに少なからず時間を費やしている我が身から見れば、たしかにこの分野には多くの希望的観測があります。ご指摘の通り、太陽エネルギーは膨大です。そして我々は吹き荒れる風を存分に浴びて生きています。しかしながら、これらは、本質的に低品質のエネルギー源なのです。これらは、断続的で、拡散しやすく、低い温度状態にあります。対照的に、石炭や石油や天然ガスは、ずば抜けて優秀なエネルギー運搬手段なのです。容易に保存でき、エネルギー密度が高く、要求に応じて利用可能です。現役世代の再生可能エネルギーと貯蔵技術は、[化石燃料からは]はるかに後方にあります。なので、すぐに追いつけるとの自明性を見出すのは、非常に困難です。さらに、再生核融合研究は数十年に渡って金銭を浪費しており、現役世代の核エネルギーは狂気じみて高価で不人気なものとなっています。なので、これら[核エネルギー]をグローバルに[現役]世代で大規模に共有するのも、非現実的に思えます。

他にも沢山の未解決な問題があります。中国は今も急速に石炭生産量を増やしています。中国が石炭を使用する際の、石炭火力発電所を半分にする方法を想定するのは非常に困難です。イギリスは、天然ガスの採掘をさらに増やすようにジワジワと近接しています。なぜなら我々英国はライトが消える前に何かする必要にかられているからです11 。そして、アメリカ合衆国はすぐにでも大量の老朽化している発電所を建て替えねばなりません。その上、これら老朽資産は完全に減価償却されるようです。低炭素代替社会を目指す説得力がある変更処置のシグナルがなければ、様々な国が炭素集約型インフラの建設に持続的に数十年間も従事する危険性を孕むことになるでしょう。

ジョセフ・ヒース:2016年07月31日の投稿

思慮深いコメントに感謝します、サム。

あなたの最初の指摘ポイントに関して。私のエントリの「理由」の1~5のうち、1と5が、あなたの指摘している社会的『割引率』を決定する際の理由となっており、特に1が最重要です。なので、私は『割引率』の一義的な特徴を提示しただけです。私は、このことだけ[を根拠にする事]で『割引率』を導出したのではありません。

あなたの2つ目の指摘ポイントに関して。気候変動問題に、外部性の社会コストを計算するよりも、『保険』観点のアプローチを優先させても、得るべきものは何もありません。『保険』は、似たようなリスクに直面している多くの人々による、リソース/基金のプール作成の同意に基づいた『協定』です。この『協定』によって、損失を被った人は、『補償』が利用可能になります。これは、気候[変動]の件には適応できません。なぜなら、[地球は]惑星単位では1つだけしか存在しないからです。なので、誰であれ何であれ「プールする領域」は存在しません。よって、炭素削減に伴う費用を、保険買い取り政策と類似して考えるアイデアは、私には適正に思えません。我々が現に行う事は、炭素削減に取り組んでいる時に、有害な気候変動の可能性を減らす事にあるのです。具現化している確実な大惨事シナリオの可能性を減らす事です。(保険とは異なり、今不確実に起こっている事態からの損失に保険をかけても[大惨事の]可能性を減少させることはできないのです)。ここにおいて問題になっているのが、最適なリスク削減の一種です。例えば、今確実に起っている大惨事の可能性を減らす為に、どこまで政策を拡張すれば、どのくらい道理にかなっているのか、といったことになります。私が考える限り、以上を包括した計算数値は、SCCの決定に基づいたコスト・ベネフィット計算数値と同じとなるでしょう。なので、2つのアプローチ(最適な[エネルギー]消費と保険を比べる事)にどのような違いがあるのかは、私には意味がないと思うのです。

サム・テイラー:2016年8月1日の投稿

ジョー。

あなたの『割引率』の導出方法に関しては、理解していましたよ。私が単に考えているのは、炭素価格においてなんらかの『率』を選択する際に、巨大な過敏性が見出される事を、非常に深刻に考慮する必要があるという事です。なぜなら、[過敏性を考慮の入れない方法では]、あなたが好むように、炭素価格の計算は簡単になってしまいます。特に『率』は、様々なパラメータに応じる極僅かな仮定によっても、影響を受ける事が見出されています。我々がなんらかの『率』を決める際の「不確実性」や、『計算式』を決める際の確率分布的な形における「不確実性」は共に巨大な影響を持ちます。つまりは「太った尻尾」の支配が始まるのです12 。これは、安い炭素価格を導いていた仮定群などを帳消しにしかねません。低い炭素価格が必然的に簡単である、との考えは、私には非現実的に思えます。

ハッキリさせましょう。ゼロの『割引率』は、なんらかの異常な状況に導く可能性がある事に、完全に同意します。この件で、私が支持する最近の事例はこのリンク先にあります。

上記に従って、将来において皆が豊かになる(おそらく正しい)であろう論拠に関して。自然が生み出す気候変動による多量のダメージの蓄積という別の事実も存在します。この多量のダメージのうちの一部は、生態系の安定性への影響として、我々には感じられる事になるでしょう。[このダメージの]一部は、生物多様性の減少としても我々には感じられるかもしれません。私の知る限り、以上の[生態系への影響]事象のどれも、炭素価格の数値化においては、必要な考慮事項として補足されていないのです。これらによって、どんな仮定であったとしても、意味の有る価格付けとなっていないと思われます。可能な限り経済的に中立な方法を取ったしても、多くの[生態系]が失われる事になると、私にはまだ思われるのです。自然資本アプローチのようなものがあるとも認識していますが、これらは未発達であり、生態系の多くが非線形で急速な状態変化受けることを考慮すると、炭素価格付け制度は、この[自然の非線形な]挙動を補足するには不十分なメカニズムではないでしょうか?

[前回の投稿で]私が保険と消費を対立させた論拠を提示したのは、あなたとのコンセプトの違いを強調することを試みたのです。しかしながら、議論構築においてベストな方法ではなかったかもしれません。私が理解する限り、我々は最適な炭素価格を算出するのに、様々な平均的な予測に基づいた価格を使用する傾向にあります。しかしながら、人は保険を購入する際、その動機として、早すぎる死亡、家屋の火災のような、人生の生活結果において可能性が最も低い最悪の出来事を改善するのを優先しています。人は、これらリスクに保険をかける際、予測以上の損失を支払う事に明らかに満足しています。(保険産業が存在しない場合は、誰も利益を上げる事はありません)。一般的に人は、最悪の結果を避ける為に、顕著なまでの保険料を支払う用意があるように思えるのです。なので、[行うべき]政策は、予想価格の最大化ではなく、最悪の結果を避ける事に焦点を絞るべきなのだ、という論拠がおそらく導かれるでしょう。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:カナダの環境に関する調査を行っているNPO法人 []
  2. 訳注:SCCに関しては、ココで日本語での詳しい解説を読むことが可能。 []
  3. 訳注:寒冷地は暖房等で一般的に炭素排出量が地球上の他地域より多くなる事が多いため、排出量が世界平均より多くなることが認められている事が多い。 []
  4. 訳注:今のカナダは炭素税の導入等で、自国内で炭素排出量を削減する余地があるとヒースは考えている為、排出権取引を行う状況にないと考えての文章と思われる。 []
  5. 訳注:照明をLEDに切り替える事等は、炭素排出量を減らしつつ、経済的にも利得がある事を指していると思われる。 []
  6. 訳注:炭素税は簡単に導入でき、簡単に小規模の排出削減の蓄積を実現できる、を意味する文章と思われる。 []
  7. 訳注:排出権取引のこと []
  8. 訳注:炭素価格や炭素税を設定すれば、具体的な温暖化対策を想定せずとも、経済主体は半ば自動的に炭素削減の為の行動を取り始めることを可能となる。つまり政策内容いかんに関わらず、炭素削減を目的にした政策に踏み出すことが可能となる(つまりチップを置くことができる)、との意味の言い回しと思われる。 []
  9. 訳注:炭素価格を設定する際の、世代間の負担割合や経済成長を根拠にした「率・レート」のこと。日本語ではココ等で解説を読むことが可能。 []
  10. 訳注:統計グラフ等が太った尾のように横に広がっている状態、つまり正規分布とは違い、不確実性が多く予見が困難な状態。 []
  11. 訳注:イギリスは、規格電圧が高く、照明インフラが高コストになっている事実への言及と思われる。 []
  12. 訳注:上でも説明したが『太った尻尾』とは、統計グラフが左右に大きく分布してしまう現象を指しており、不確実性が大きくなり初期リスクを大きく見積もる可能性が高くなることである。 []

ジョセフ・ヒース「一線を越えたカナダ保守党」(2015年10月5日)

Joseph Heath, “Conservative Party Moves Beyond the Pale” (In Due Course, 5 October 2015)

現代民主主義政治にとって最も重要な概念のひとつは「妥当な不一致」である。我々のほとんどがある程度まで賛同する道義や価値観でも、それらがぶつかり合うような場合どちらを優先すべきなのかはっきりしないものが多くある。公共の利益は個人の自由より優先されるべきか。社会的平等を進めるためには公益の損失はどこまでなら許容されるのか。これらは現代政治の妥当な不一致の範囲にあると定義される論点の類だ。政党が左右のスペクトルのどこに位置するかが決まる主要な特徴は、これらの問題に異なる解決策を提示するところである。右派は個人の自由を、左派は平等を強調し、中道派は厚生の最大化を焦点にしている。これはそのまま社会における政府の役割についての異なる複数の見解につながっている。 [Read more…]

ジョセフ・ヒース「講義『気候変動問題』のシラバス」(2015年6月23日)

Climate change syllabus
Posted by Joseph Heath on June 23, 2015 | Uncategorized

今秋学期開始のこの講義では、環境倫理学を教える予定です。特に「気候変動問題」に焦点を当てています。本コースは3学年向けのものであり、2学年時の一般環境倫理学を既に履修していることを前提にしています。なので、このコースで基本分野を扱うことは義務付けられておらず、扱うことは少なくなる予定です。エリック・ポズナー (Eric A. Posner) とディヴィッド・ワイスバッハ (David Weisbach)1の本”Climate Change Justice“『気候変動対策の公平性』を基本の教科書として使用し、授業の進行に応じて副読本を追加する予定です。指定資料が全てではありません。私が賛成しそうなものや、議論を呼ぶような資料も追加する必要があるでしょう。ついでに、[本講義は]純粋な環境「倫理」というより、環境における「公平性」や「政策」を重視した内容となっています。

いずれにせよ、どんな追加書籍・論文であろうと、[学生からの]提案を歓迎します。ヘンリー・シュー (Henry Shue)2 、ステファン・ガーディナー (Stephen Gardiner)3 、カレン・マッキノン (Karen McKinnon)4 、ダレル・メレンドルフ (Darrel Moellendorf)5 、その他らは、お馴染みかもしれませんが、私もまだ一部しか読んでいませんので、見逃している良い事例があれば、お知らせください。あと、私はポズナーとワイスバッハの本の内容に従って講義の項目を作成しており(彼らのこの問題への体系化は非常に優れていると考えています)、この本を読んでいない場合、このシラバスは無意味なものとなるでしょう。

PHL373F:環境倫理の諸問題6
気候変動への対処:この講義では、人由来の気候変動問題に対処するための効果的な政策手段を立案するときに直面する、規範的な難問のいくつかを、学生に説明する予定です。
まず、問題の制度的な側面と主な政策手段を説明するところから始めます。そこでは、[人や政府機関等が]共同で行動する際の問題の分析、『炭素価格付け』の理論的根拠、炭素排出の削減を達成する為の主要な制度的メカニズム、等が含まれています。私たちは、そこで具現化した2つの規範的論題に焦点を合わせることになるでしょう。「環境保全はどの程度までなされるべきなのか?」と「『便益』と『負担』をどのように配分するのか?」と言った論題です。
対処するには非常に難しい問題群もあります。それは「現役世代と将来世代との、利益の調整をどのように決定すればよいのか?」とか「将来世代の排出権を決定する際に、『過去の排出量』や現時点での経済的な不平等が果たす役割をどう位置づければよいのだろう?」といったものになります。

1.総括的導入

2.コモンズの悲劇
ギャレット・ハーディンThe Tragedy of the Commons,” 『コモンズの悲劇』 Science 192号(1968年)
トーマス・シェリングミクロ動機とマクロ行動』”Micromotives and Macrobehavior”(1978年)第7章

3.規制についての理論
アフメド・フッセン (Ahmed Hussen)7Principles of Environmental Economics”『環境経済学の原則』(London: Routledge, 2000) 第5章
ロナルド・コース  “The Problem of Social Cost,”『社会的費用の問題8 Journal of Law and Economics, 3 (1960): 1-44.

4.気候危機についての序論
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第1章
ジョン・ブルーム (John Broome)9Climate Matters”『気候の諸問題』(New York: W. W. Norton, 2012),第2章

5.政策手段
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第2章

6.義務論的アプローチ
サイモン・キャニー (Simon Caney)10Climate Change, Human Rights and Moral Thresholds,”『気候変動、人権と道徳による限界』in Stephen Gardiner et. al. (eds.) Climate Ethics (Oxford: Oxford University Press, 2010), pp. 122-145.
キャス・サンスティーン恐怖の法則 予防原則を超えて』“Beyond the Precautionary Principle,” University of Pennsylvania Law Review, 151 (2003): 1003-1058.

7.実質よりもスタイルが大事
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第3章
エリノア・オストロムA Polycentric Approach for Coping With Climate Change,”『気候変動に対処するための多面的アプローチ』 World Bank Policy Research Working Paper 5095 (2009)

8.気候変動と再分配の公平性
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第4章

9.悪事を成敗する
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第5章
ウォルター・シノット・アームストロング (Walter Sinnott-Armstrong)11   “It’s Not My Fault,”『それは私の責任じゃない』in Stephen Gardiner et. al. (eds.) Climate Ethics (Oxford: Oxford University Press, 2010), pp. 332-346.

10.1人あたりの排出権
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第5章
サイモン・キャニー“Justice and the Distribution of Greenhouse Gas Emissions,”『温室効果ガス排出における公平性と再分配』Journal of Global Ethics, 5 (2009): 125-146.

11.将来世代
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第7章
デイヴィッド・ピアース (David Pearce)12  、ベン・グルーム (Ben Groom) 、キャメロン・ヘプバーン (Cameron Hepburn) 、フィービー・クローンドリィ (Phoebe Koundouri) “Valuing the Future,”『将来世代を評価する』World Economics, 4 (2003): 121-141.

12.結論と総括
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第8章

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:”Justice”は「公平性」と訳している。
※訳注:指定書籍・論文で、邦訳があるものは、邦訳タイトルをまず記載した後に、原題を記載している。邦訳がないものは、原題の記載後に、暫定の邦題を『』で囲った上で続けて記載している。指定の書籍・論文で、ウェブ上で確認できたものにはリンクを貼っている。
※訳注:挙がっている人名で、邦訳された人名がある場合はその記載に従っている。人名が日本で一般的で無い場合は、暫定の邦訳人名を記載した後に、アルファベット表記の人名を続けて記載している。
※訳注:書籍・論文の著者で日本語版のウィキペディアに項目がある人物は、ウィキペディアにリンクを張ることで説明を割愛している。

  1. 訳注:共にシカゴ大学ロースクールの教授。エリック・ポズナーは、「法と経済学」で有名なリチャード・ポズナーの息子である。 []
  2. 訳注:オックスフォード大学教授。政治学が専門 []
  3. 訳注:ワシントン大学教授。哲学者 []
  4. 訳注:レディング大学教授。公共政策と気候変動の研究が専門 []
  5. 訳注:ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン教授。政治倫理学が専門 []
  6. 訳注:PHL373Fは講義の管理コード []
  7. 訳注:経済学者。カラマズー大学経済学部教授。環境問題が専門。同名の政治家との混合に注意。 []
  8. 訳注:有名な『コースの定理』が始めて提唱された論文。邦訳書籍『企業・市場・法』の第5章に収録 []
  9. 訳注:オックスフォード大学教授。哲学および経済が専門 []
  10. 訳注:オックスフォード大学教授。政治理論が専門 []
  11. 訳注:デューク大学教授。哲学者 []
  12. 訳注:経済学者。元ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン教授 []

ジョセフ・ヒース 「規範的な社会学(normative sociology)」の問題について (2015年6月16日)

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先週のエントリでは、昨今のアカデミアで見られる複合的な振る舞いについてジャーナリストたちが「ポリティカル・コレクトネス」という意味未分化な単語で描写しがちであることへの不満を述べました。「古典的な」ポリティカル・コレクトネス-たとえば言葉狩り-の問題はすっかり廃れているのですが、それとは別の困った傾向が潮流として存在することを述べたのです。今週はその続きとして、私たち(物事を分類するのが大好きなのです)が「規範的な社会学(normative sociology)」と呼んでいる、やはり少々問題がある慣習について書こうと思います。

この「規範的な社会学」というコンセプトの由来は、ロバート・ノージックが「アナーキー・国家・ユートピア」の中で軽い調子で書いたジョークです。「規範的社会学、つまり『何が問題を引き起こしている”べき”なのか』、の学問がわれわれ全員を魅了する」。これはカジュアルな発言ながら鋭い観察です。社会問題の研究にはほとんど抗い難い誘惑があります。それは自分がその問題の原因であってほしいものを研究してしまい(その理由は何であれ)、本当の原因を無視してしまうことです。これを修正しないまま続けていくと、さまざまな社会問題についての「”政治的に正しい”説明現象」が起こります。つまり、AがBを引き起こしているかどうかに関してしっかりした証拠はないのに、どういう訳か、AはBの原因であるべきだと考えてしまうという現象です。さらに、AがBを引き起こすという関係を否定することは道徳的な非難を受けるという状況に至り、この関係は証拠を調べることによってではなく、「そうあるべきだと思うから」という理由で支持されるようになります。

話を進めるために一例を挙げましょう。「人種差別」に関して、証拠が示すところをはるかに超えた強い因果関係の主張がなされているのをしばしば耳にします。その中には正しい主張もあるでしょうけれど、そこには聖なる道徳の印が刻まれており疑わしい因果関係が仮定されています。これは倒錯です。何が何を引き起こしているかという問題は純粋に実証的であるべきだからです。

その因果のつながりを問うことはしかし「人種差別を小さく見積もる」方向になりがちです。(実際、上の二つのセンテンスを読んで「オーマイガッ、この筆者は人種差別を小さく見積もろうとしているな」と思いはじめる人がほとんどでしょう)。また、人種差別はとても悪しき事であるがゆえに、それが他の多くの悪しき事をも引き起こしているに違いない、という感覚もあるようです。しかしこの直感は道徳的なものであり、非論理的です。一般に、(本質的に)極端に悪い事象なり、非常に一般的な事象であっても、因果の論理という面では特段重要ではないということなど幾らでもあり得ます。

この種の道徳と因果関係の間の倒錯はしばしば起こっていると感じます。さらに言えば、この問題は「定性的な」社会科学の領域で特に大きな悪さをしていると考えます(私はこの分野に強い共感を抱くものではありますが)。実は、社会科学の定量的アプローチの大きな利点の一つは、規範的な社会学をすることだけで済ますことを不可能にするところにあります。

なお「規範的な社会学」に左翼バイアスがあるというわけではなく、保守側の事例も多くあります(例えば離婚率の上昇は同性愛の受容が関係している、とか、婚外児の出産は福祉制度によって引き起こされている、など)。ただ、左の人々は社会問題を解決することに熱心であることが多く、それゆえ具体的な関心がより強いため判断に強いバイアスがかかりがちなのです。これは非常に苛立たしい状況です。原因を攻めることによって社会問題を解決しようとするためには因果関係を正しく把握しなければなりません。さもなくば介入が役に立たないどころか、逆効果になりさえします。

これは「反逆の神話」の中で消費主義について書いたときに考えていたことです。この本でアンドリューと私が示したかったことの一つは次のようなことです。左翼は「過剰生産による恐慌は資本主義の宿命である」というマルクスの古い思想を基本的に受け入れて、何が消費主義を引き起こしたかの理論を打ち立てそれに固執しました。そして、消費主義に関連するさまざまな現象(公告、計画的な陳腐化、不足感を煽り続けること)は、過剰生産の問題を何とかする試みであるとして説明しようとしたのです。こうして時間をかけ、精巧な建造物がこのたった一つの根拠の薄い主張の上に構築されて行きました。この主張は実証的に検証されることもなく、しかも少し詳細に分析すれば意味すらなさないものだったのにもかかわらずです。資本主義には「矛盾」がビルトインされていると信じたかったのです。かくして、活動家たちは本来解決しようとしていた問題とは関係のないものを変えようとし、とりわけ消費主義の問題ではむしろ事態を悪化させる「解決策」を推し進めようとし、結果として膨大なエネルギーを浪費することになりました。

私はそのように考えていたので、ロバート・フランクの著書「Choosing the Right Pond」の次の箇所には感銘を受けました。以下の箇所で彼は上に書いた左翼の傾向について不満を正確に述べています。

左の批評家たちは歪んだレンズを通して市場を見ている。彼らはまず、市場の中に強者が弱者を搾取するシステムを見る。市場支配力がある企業は、機会が限られている労働者たちよりも不当に有利な立場にあると。左の批評家たちはさらに、市場は社会のニーズのない製品を売ることを促しており、市場はこれに立脚してすらいると見る。彼らは巧みな広告を見て、環境は汚染され、子供たちの読むべき良い本がない状況なのにもかかわらず、引っ込み式のヘッドライトを備えた燃費の悪い車に所得を吐き出させるように人々を誘惑するものだと捉える。そして最終的には、市場システムにおける報酬は、必要性にもまたメリットにさえも比例しないとする。ほんの少し才能や能力が違うだけで、しばしば収入が劇的に変わるというわけだ。報酬は行われた仕事の社会的価値とほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

ここまではお馴染みの話ですが、ここからもっと面白くなります。

ほとんどの人は当然ながら、政治的スペクトルの両極端に位置しているわけではない。市場システムについて両端の勢力が主張している見方の中間のどこかを真実と見ているだろう。本章において、一番実りの多い解釈は市場が両端の主張の中間地点に領域にあると安易に捉えることではないということを述べる。ここで描写される市場は、擁護者が主張している肯定的な諸価値と、批判されている欠陥を網羅したものになるだろう。但し、左翼が市場がうまくいっていない理由として指摘しているものはほとんど例外なく間違いであることについても述べよう。(162-3)ほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

この章の締めくくりは控えめな勝利宣言です。

左翼は、実際の問題を特定しながらそれを間違った原因に帰着させてしまったため、政策としての解決策を提示することが難しいということになったのだ。(177)

このような意見表明を聞くことは滅多にありませんので読んで驚いたものです。左翼は常に正しく問題を捉え、しかし説明を間違え(そして間違いと判明してからも長い間それに執着し)、そのため何ら実効性のあることができていません。

「規範的な社会学」はいろいろな意味でこのことと関係していると思います。また、ざっくり見たところ(社会問題を批評する人の言うことを何百時間も聞いてきた経験から)次のような四種類があります。

1.政策手段を求めて

そもそも未解決の社会問題が未解決になっているのは、その問題が直ちに法的な判断が下せる領域の外で起こっているからです。それは私的領域での問題だったり(たとえば家族内でのジェンダーの分業)、個人の自主性の行使と関係するものだったりします(たとえば高校からの落ちこぼれ)。従って問題を簡単に解決できる明確な政策手段は存在しません。国は単純にこれらの分野に直接介入する権威(あるいは権力)を持っていないのです。

よって、それらの問題の解決を望んで問題分析に取り組む人にとっては、何か別の政府が政策手段を確かに持っている領域が、対象と因果関係を持つと考えたくなるという、非常に強い誘惑が存在するわけです。この傾向がいちばん明確に表れているのは不平等からの因果関係を過大視する傾向だと思います。なるほど富の再配分は政府がコントロールすることができます。なのでもし「厄介な社会問題A」が「集団Bの貧困」によって引き起こされているということを示すことができれば、政府に問題Aの解決手段が与えられることになります。集団Bに富を再配分することは常に可能なのですから。

具体的な例として、昨今よく耳にする「社会的健康勾配(social health gradient)」というものがあります。健康状態とSES(socio-economic status: 社会経済的地位)の間には驚くほどの強い相関があります。対して医療リソースの分布は比較的公平なのです。SESは、富と社会的地位の不平等を統合して表すようにデザインされた複合概念です。当然のことですが、国からすれば富は容易に再分配することができるものである一方、社会的地位の方の扱いはかなり難しく、そのヒエラルキーに介入したり、ましてや改良したりする力は国にもほとんどありません(富の再分配よって間接的に介入することはあり得るでしょう。しかし、その受益者は給付を受けるという正にそのことよって社会的地位を失ってしまうという、意図と逆の結果に終わることが多いのです)。このように地位の不平等に関連する社会的健康勾配に対しては、国にできることが事実上何もないのです。公衆衛生に関してのこんなプレゼンテーションは、これまで幾つ聴いて来たかわかりません。SESの話から始まるのですが、富の不平等の話に微妙にずれて行き、何らかの所得再分配を推奨して終わるというような。

2.「被害者を非難してしまう」心配

この道徳と因果関係との間のいちばん良くある錯誤は、人々が「責任」を考え始めるときに発生します。X氏がAを引き起こした時に、Aの責任はX氏が負うと考える傾向はものすごく強いものがあります。そのため、あなたがAの責任X氏に負わせることを望まない時には、 X氏の選択ないし行為がAを引き起こしたことを示唆するものすべてに抵抗したくなる強い誘因を覚えることになるわけです。これはもちろん錯誤です。なぜなら、X氏がAを引き起こしたのかどうかは単に事実の問題であって、責任の問題を判定するものではないからです。ところが、学者がある社会問題の原因について単に実証的な結論を述べた際に、「被害者を非難するのか?」と攻撃される話をしばしば耳にするわけです。道徳が無関係なところに侵入しているのです。この種の推論に従ってしまうと、私たちは「本当の原因そのもの」についてではなく、「本当の原因であってほしいもの」について語ることにのみ終始するようになります。

もう少し説明しましょう。ある結果に対する責任を誰かに割り当てるとき、原因(因果関係)はその目的のための必要条件ですが、十分条件ではない場合もむしろ多くあります。「『多すぎる原因』現象」と呼ばれるものがあるのです。たとえば私がビール瓶を窓から戸外に放り投げたとして、下の通行人がケガをしたら、ケガを引き起こしたのは私であることは明白です。ただ、他にもその人がその瞬間に私の家の前を散歩しようと思い立ったこともまたケガを引き起こしています。同様に、その場所での散歩が禁じられていないということや、酒屋が私にビールを売ったことなど、寄与していたことはいくらでもあるのです。このように「誰の責任であるか」は因果とは別の問題です。「何が何を引き起こしたという話」と「誰の責任なのかという問題」とは完全に切り離されるべきなのです。もちろんたいていの場合前者は後者のための議論ですが、前者の議論に後者への関心を持ち込むことは厳に避けられるべきです。

この問題がはっきり出ている例を一つ挙げましょう。貧しい国々の開発が遅れている原因として地域事情があることを認めることに対する非常に強い抵抗です。貧困は金持ち国によってもたらされている害悪であるとか、あるいは金持ち国の過去の罪のせい(たとえば植民地主義の遺産)であるとして取り扱うための圧力が存在します。そうなってしまうのは、説得力のあるメカニズムを想定することによって、と言うより、「被害者を非難」したり貧しい国々の人々自身の状況のせいにすることを避けるために、という方がむしろ適切です。

3.相関の片側を強調

これは微妙な問題です。統計分析ではよく二つの事柄間の相関関係を明らかにするのですが、誰もが知っているように相関関係は因果関係を意味しません。AがBと相関する場合には次の可能性があります。1)AがBを引き起こしているか、2)BがAを引き起こしているか、3)互いに補強し合っているか、4)別のCがAとBの両方を引き起こしているか。にもかかわらず統計的相関が因果関係として報道されることなどしょっちゅうです。(例えば、医療報道でも大きな問題です。私の母は大人になっても、アルツハイマー病患者の脳にアルミニウムが存在していたという研究の報道に影響され、アルミニウム鍋での調理や抗発汗剤の使用を恐れていました。しかしこの研究が正しいとしても、アルミニウムへの暴露がアルツハイマー病を引き起こしているとする理由はなく、話しは逆で病気がアルミニウムの蓄積を引き起こした可能性もあります。)このような思考の転倒はいつでも起こり得るもので、AがBを引き起こしていると考えたい人が、相関関係の証拠に過ぎないものを自分の見解を立証するものと見なしてしまうのは自然なことです。

上記三つの傾向を全部含んだ格好の例を提供してくれるのが、所謂「貧困の文化(culture of poverty)」についての議論です。貧困には、自己弱体化とでも言うべきさまざまな行動(十代の妊娠、家族崩壊、麻薬中毒、ドメスティックバイオレンスなど)が伴うということが(統計的に)はっきりしています。これを踏まえてステレオタイプの保守派はこう言います。「彼らが貧しいのも無理はない。彼らが自身が間違った選択をしたのだから。」同じものを見てステレオタイプのリベラルはこう言います。「彼らが悪い選択をしてしまったのは無理もない。彼らはとても貧しいのだから。」実際には両方が相互に補強し合っているとするのが妥当な場合が多いのですが、因果関係の片方向を抽出し、そちらだけに集中するというのが、むしろよく見られるイデオロギー的反応です。

リベラルのこの振る舞いは上記の「政策手段を求めて」とみなすこともできます。「貧困の文化」と説明はされますが、誰もそれを変えるアイデアを持っていません – 聖職者の説法を聴けば少しは良くなるというものでもないでしょう。ところがお金の再配分なら実行可能です。また同じく上記の「犠牲者を非難する」のを避けようとする欲望も明らかに発動しています。悪い文化的傾向を「前提と考える」のは、何らかの形で個々に責任を負わせていると見られることになってしまいます。しかしお金を配れば良いとするならばその心配がありません。)

4.道徳的畏敬

先にも少し書いたのですが、ある種の行動やエピソードについては道徳的畏敬(the moral awfulness)により重大な帰結が要請されている、ということがしばしばあります。そこからは容易に、この帰結を認めない者はある意味で道徳的畏敬を軽視しているという認識が導かれます。(誰もが道徳的な帰結主義者であるならばこの問題はありません。道徳的畏敬が純粋に効果にだけ向けられるのであれば、効果が小さければ畏敬もわずかで済みます。しかしほとんどの人は帰結主義者ではないのです。)

近年の議論におけるこの一つの良い例は、不平等の広がりに対する態度です。ほとんどの人は不平等はとても悪しき事と考えています。そして、とても悪しき事はさらに多くの別の悪いことを引き起こしているに違いないと考えたくなります(リチャード・ウィルキンソン とケイト・ピケットによる「平等社会」やジョセフ・スティグリッツの「世界の99%を貧困にする経済」がこの傾向のよい例です)。また、政情不安や革命は貧困と不平等によって引き起こされると考える欲望にも根強いものがあります。しかし証拠からは、むしろ不平等は「原因になっていない」ことが示唆されています(実は重要なのは「期待の高まり」なのです)。こうして不平等からのそのような連鎖を認めない人であっても、その言い訳をしようとしがちになります。(ここではクルーグマンがスティグリッツの文章に対して興味深いコメントをしているのですが、わざわざ自分が不平等を批判するものであることを強調していることに注目しましょう)

追記:アレックスさん、貴重なご指摘どうもありがとう。二点。第一に、社会学者の一部はこの問題に敏感になりつつあります。誤解を招かないように言いますが、この話は実際の社会学についてのものではありません。次のジョークの中で”社会学”という単語が使われているということです。「社会学者は社会の問題(たとえば、何だか変な風習)の原因を研究する人々です。規範的社会学者は何が原因であるべきかを研究する人々です(よほど変!)。」私自身は、実際の社会学者に対してではなく、第一に哲学および政治理論畑の人々に適用するものとしてこの言葉を使います。第二に、「お前こそ主張をサポートする証拠を示していないではないか」との指摘に対しては「ええと、これはブログエントリなのですが」と。もしあなたが規範的社会学がなされるのを一度も見たことがないとおっしゃるなら、ご同慶の至りです。あなたは私が参加してきた会議よりもまともな会議に出て来られたのでしょう。