ジョセフ・ヒース「白人のマウント合戦:コフィ・ブライトの仮説を拡張する」(2023年8月25日)

アメリカでは人種的正義を求める闘いに馳せ参じれば並外れた文化的名声を獲得できるため、世界中で模倣者を惹きつける傾向を生んでいる

リーアム・コフィ・ブライトが『Journal of Political Philosophy(政治経済学ジャーナル)』に最近投稿した論文「白人のマウント合戦」での、アメリカの人種政治についての見解を大いに楽しませてもらった。まず最初に、この論文は査読の通過がほぼ不可能な形で執筆されているため、無事掲載されたこと自体に驚かされた。アカデミアにおける哲学論文は、査読者全ての怒りを鎮めることで、あたかも委員会によって書かれたように見えてしまう問題に悩まされている。さらに重要なのが、私見だが、アメリカの文化戦争に、ブライトのようなイデオロギー的に客観的なスタンスを示すことの極めての有用性である。

ハッキリ言っておくが、私はブライトの見解のほとんどに同意できない。しかし、彼の言ってることで絶対的に正しいものが一点ある。アメリカにおいて、「人種対立」という言葉が使われると、多数派の白人と、少数派の黒人との間での対立と見なされがちだが、実際の対立は白人間のものであり、黒人の利益はおざなりにされている、というものだ。この意味でたしかに、我々が接している〔アメリカの文化政治〕議論の多くは、「白人間のマウント合戦」と特徴付けるのが最適である。

(ブライトの論文の要約は省略する。興味がある人がいるなら、ここで読むことができる。論文はオープンアクセスだが、もし変更されれば、ウェブ上で簡単に見つけられるマニュスクリプト版がある)

ブライトの懸念は、私の懸念とよく似ている。それは、アメリカでは人種的正義を求める闘いに馳せ参じれば並外れた文化的名声を獲得できるため、世界中で模倣者を惹きつける傾向を生んでいることだ。(アメリカは文化における支配的な世界的覇権国であり、アメリカでの文化戦争の用語や構造は輸出される傾向にあるため、アメリカ国民でない人でもそれを理解することに価値が生じる)。アメリカの「用語と構造」を模倣しようとする人の中で、それが本当に社会正義のための闘いに役立つかどうかを自問自答し、態度を保留する人はほとんどいない。ブライトの指摘は、今行われているアメリカの文化戦争はマウント合戦であり、現実の問題から目をそらすものになってしまっている、というものだ。

私が懸念しているのは、それがマウント合戦であるということ(たしかにほとんどはそうなのだが)よりも、アメリカ人は人種間の対立を永続させるためのレシピを発見し、今やそれを世界中に輸出しようとやっきになっている、というものだ。私のこの分析に同意してもらうには、人の物事を額面通りに受け取ってしまう性質によって困難となっている(例えば、誰かが「正義」の名の下の何かしていると、その人は本当に何らかの正義の状態を実現しようとしていると思ってしまう)。なので私は、〔アメリカでの正義行動と、その目的との乖離を指摘している〕ブライトのアプローチに共感する。

しかし、この白人のマウント合戦には、ブライトが完全に見落としていると思われる重要な側面がある。ブライトは、“懺悔”階級による反人種差別的な取り組みは、「ときに、全てがこれ見よがしのものとなり、道徳的な称賛を得るための動機から演じているのではないかと疑いを目をもたれる。しかし、我々はそこまでシニカルになる必要はない」と言及している。これについて私は、「いや、シニカルになる必要がある。もう少しシニカルになったほうがよい」と言いたい。具体的に説明するなら、アメリカでは、人種差別の告発が、白人間でのステータス・ヒエラルキーの構造化おいて大きな役割をはたしていることをブライトは失念しているのだ。

これを理解するために、アメリカでのレイシスト(人種差別主義者)についての、次のような奇妙な事実を考えてみてほしい。アメリカ人はとかく、レイシストと呼ばれることを嫌う。なぜか? アメリカ人は「人種差別はいけないという見解を共有しつつ、我々は何か間違えたことをしているのでは?」と思い込んでいるからだろうか? いや、そうではない。アメリカの白人間での「レイシスト」という言葉は、道徳的判断に関するものだけでなく、ステータスにおける蔑称を表す言葉として使われているからだ。これはおそらく、南北戦争にまで起源を辿れるが、アメリカにおいて「レイシスト」という言葉は、貧しく、無知で、下層階級の南部白人のイメージと紐付けられている。結果、レイシズム(人種差別)は、単なる道徳的な誤謬を超えて、クズ野郎、後進的、非洗練なものだと考えられている。

リベラルなアメリカ人は、誰かへのレイシスト呼ばわりを、「嘘つき」や「臆病者」呼ばわりと同じであり、純粋な道徳的判断の行使だとする自己欺瞞によく陥っている。あらゆる道徳的な批判には、何らかの形での差異化ゲーム的要素を含んでいるのが自明だが、アメリカにおける「レイシスト」は特に、ステータスにおける差異化ゲーム要素が際立っている。白人アメリカ人が、他の白人アメリカ人を「レイシスト」呼ばわりする場合、常に次の2つの主張が潜んでいる。①「お前は人非人だ」、②「お前は俺の下にいる」。リベラル派は、自分は①の主張しかしてないと思いたがっているが、保守派からはリベラルは②の主張だけをしているように聞こえている。

これが、ドナルド・トランプして、俺は世界史上で最も人種差別していない人間だ、と言わしめる理由だ。トランプは、ステータスに非常に敏感で、社会的優位性を維持することにかけて狂信的な人物だ。トランプをレイシストだと批判すると、道徳的批判の側面では蛙の面にションベンだが、ステータスの毀損において彼は看過できないため、断固として抵抗する必要に立たされる。故に彼は、「俺はレイシストではない」と主張するだけでなく、「誰よりも差別していない人間だ」と主張する義務感を感じている。

トランプのこうした反応は、社会的ステータスをめぐる対立がある場所ではどこでも、ステータスを巡る競争が観察される可能性が高いという点も示している。ステータス競争は、非常に極端な行動を引き起こすが、それは人々に他者を出し抜くことを強いるからであり、結果、人々は出し抜くことに血祭りにあげるサイクルに閉じ込められてしまう。ステータスがシグナルとして顕示されると、それは誇張された表現となり、邁進していく可能性がある。リベラルによる、アンチ・レイシズム(反人種主義)へのコミットメントを示そうと懸命となる行為に、この力学が働いているのを見ることができる。彼らはよく、他の白人を疎外し、怒らせるのを計算されているかのような自己卑下を行う(ゆえに、これは、人種的正義を達するという目的に関する限り、明らかに逆効果となる)。

私は、これを理解するのにずいぶんの時間を要した。例えば、自他ともに認めるリベラルなアメリカ人が、自他ともに認めるリベラルなアメリカ人をレイシスト呼ばわりして熱狂するのに、長い間困惑してきた。これは、人種的正義のためではなく、社会的ステータスの問題であり、特にステータス・ヒエラルキーにおける自らのステータスの強化行為であることがわかって、ようやく得心がいった。これはまた、白人アメリカ人、特に贖罪に躍起になっているタイプの白人が、自身への批判を、それがどんなに荒唐無稽であっても受け入れる現象を説明してくれる。私はどこかに「世界のあらゆる問題の責任を引き受けると申し出ている白人に注意されたし」と書いた張り紙を貼りたくなった。むろん、世界の問題の中には、本当に白人が引き起こしているものもあれば、そうでないものもある。それらの解決を望むなら、そうなっている事例と、そうでない事例を見定めることが非常に重要だ。しかし、白人に聞いてもこれに答えを見出すことはできない。なぜなら、答えはおのおの白人のマウント合戦の配役具合によっても違ってくるし、その根底にあるステータスにも左右されるからだ

残念なことに、ブライトはこうした人種政治を明快に再構築した後、自分のような「中立主義」の思想家は、〔文化政治言説を〕全て無視し、純粋に物質主義的なスタンスを採用し、富の分配の改善に関心を絞るべきだ(「物質的な不平等が存在する限り、人種間のヒエラルキー格差は極めて大きいままとなる」から)とする、かなりうんざりするような主張をしている。古い瓶に入った古いワインのような非常に深刻な事例において、人種を巡る対立に関心を絞ることは、イデオロギー的な上部構造だけに関心を絞ることに他ならず、労働者階級の本当の問題から関心をそらすことになってしまうとブライトは指摘している。

こうしたブライトの見解を読んでふと思ったのが、彼がアメリカの文化戦争に適用している知的柔術ともいうべきものは、本人的には無自覚かもしれないが、お馴染みの(一世紀以上にわたって繰り広げられ、ようやく終焉を迎えたとナイーブな私は思っていた)「あらゆる物事を階級の問題だと考えるイギリスの学者」に他ならない。「バカなアメリカ人は、人種が全てだと思っているが、実際には階級が問題なのだよ」と言うイギリス人の数は、「バカなイギリス人は、階級が全てだと思っているが、実際には人種が問題なのだよ」と言うアメリカ人の数と、容易にミラーリングされる。(後者の論点については、アメリカで経済的な再分配が不可能となっているのは、人種間憎悪に起因しているとする膨大な研究文献があることを鑑みれば、アメリカ人に「人種のことは忘れて、物資的な格差に関心を絞ろう」とアドバイスするのは、あまり有益ではない。)

純粋に中立的な政治思想の持ち主からは、アメリカ人が人種に執着し、その重要性を過大評価しているように、イギリス人も階級に執着し、その重要性を過大評価しているように見える。そして、両者共に、公正な社会を作るための公式を持っていない。それは単に、近道も、魔法の弾丸もないからだ(例えば、両者ともに、ステータス・ヒエラルキーを無視するか、誤解している)。とはいえ、世間で流通している言説を解釈するにあたって、字義通りナイーブに受け取る必要はないとするブライトの主張は確かに正しい。

[Joseph Heath,“White psychodrama: the extended hypothesis” In Due Course, 25 August, 2023]
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