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ジョセフ・ヒース「ナオミ・クライン、追記その2」(2015年4月12日)

Naomi Klein postscript no. 2
Posted by Joseph Heath on April 12, 2015 | environment

これがすべてを変える』を読んで、私はどこかノスタルジックな気分なった。今から10年以上も前の古き良き時代だ。当時、『ブランドなんかいらない』や『アドバスターズ1 』が大流行しており、〔アドバターズの編集長〕カール・ラースンは「『カルチャー・ジャミング2 』は、我らの時代の、60年代の公民権運動、70年代のフェミニズム、80年代の環境保護活動になるだろう」と宣言していた。アンドルー・ポターと一緒に「こいつら全部クソだぜ!」と叫んで楽しんでいたことを思い出した。

私がノスタルジックになった理由の一端は、『これがすべてが変える』の序章の一節にある。その一節では、クラインと私の間の世界観認識の根本的な違いが、完璧なまでにハッキリと表明されている。我らの世代の重要な問題について理解しようとした時、クラインの中心的信念の1つが、「一般人は無実だ」というものだ。私的見解となるが、私は「一般人は有罪である」」と考える傾向が強いようだ。これは少しキツイ言い方に聞こえるので、「一般人は無実ではない」との言い回しの方が良いかもしれない。

実際、この世界観認識の違いこそ、『ブランドなんかいらない』で提唱されている消費主義理論と、アンドルーと私が『反逆の神話』で提示している消費主義理論との主要な相違点なのだ。『ブランドなんかいらない』の中心主張では、消費主義は、企業が一般市民になんらかのイデオロギー洗脳を行うことである、とされている。このクラインの主張に従えば、我々が生活している消費社会の様々な特徴に対して、一般市民は根本的には責任を負っていないことになる。指摘しないといけないが、多くの人が、このクラインの分析を好んでいる。なぜなら「ブランドの専制的」権力に打ち勝つことで、消費主義社会を何らかの方法で「治療する」ことができる、との希望に満ちた見通しが示されているからだ。

『反逆の神話』の中心的主張は、消費主義は何よりもまず、消費者が互いに行っている事象にある、というものだったーーこれが暗示しているのは、もし責任を負うべき人を探すなら、我々は各々少し時間を取って自分自身を見つめないといけない、ということだ。アンドルーと私の見解に従えば、消費主義は本質的には、消費者間のステータス競争を通して生み出される軍拡競争の構造を持っているからである。(実際、これこそが、『反逆の神話』内でクラインを最も痛切に批判した一節の要点だったーー我々が意図していたのは、人格攻撃ではなく、「ブランドなんかいらない」ことは、競争的消費を駆り立て、なんらかのステータスへ没頭させてしまうことに他ならないことを示すことにあった。消費主義への最も有名な批判者においてさえも、消費主義を促進するような行動を取ってしまっているーーつまりは、我々自身が制度の有り様に広範に共謀加担しており、広告を批判するだけでは何かを変える可能性がほとんどないことを示すのを目的にしていた。)我々のこの分析は、過剰な消費主義は、軍備管理条約に基づくことで、制限することが可能となっているかもしれないが、罹患した社会を「治療」できる可能性はゼロである、というかなり憂鬱な結果も示唆することになっていた。

こういった主張を展開するにあたって、我々が考え方の源泉にしていたのは、「集合行為問題」、もしくは「囚人のジレンマ」の概念だったのだ。なので我々は、新ヴェブレン主義者(フレッド・ハーシュ、ロバート・フランク、トーマス・フランク)に、消費社会の中心的病理を議論することで参加することになった。(カウンター・カルチャーの反乱と「共同選択」の動力学も含む)消費社会の中心的病理は、集団行為問題(特に底辺への競争として)の一種としてモデル化が可能だった。(ヴェブレンとの関連に興味がある人は、この件について私が書いた学術論文がここにある。)

アンドルーと私が『反逆の神話』を書いた時、「集団行為問題」と「囚人のジレンマ」の問題の全体像は、比較的まだ知られていなかった、なので分析には幾分の目新しさがあったのだ。ただそれ以来、「集団行為問題」の概念は、非常によく知られるようになった。そうなった原因の一端は、環境問題の重要性が増しているからだ。環境問題の多くが、「集団行為問題」の教科書的な実例になっている。しかしながら、環境保護論者達の多くが、私が「ホッブズの難しいアイディア」と呼んでいるロジックの把握には失敗している状況は変わらない。ただそれでも、今やほとんど人が「集合行為問題」を一度は聞いたことがあるに至っている。

「我々が予見可能な避難な結末に至るような自滅行動を行っていることが分かっていて、しかもその悲惨な結末を簡単に回避できる時でさえも、我々は行動を変えることに失敗しているのはどうしてだろう?」といった多くの人がまず躓いてしまう問題に、「ホッブズの難しいアイディア」は、シンプルでわかりやすい解答を提供しているので、重要だ。ホッブズが示した解答は、我々がそういった行動を行っている場合、行動を変更する場合は集合的な動機を保持しており、一個人としては自身の行動を変更するインセンティブを誰も持ってない、というものだ。なので、個人としては行動変更のインセンティブを欠いているので、破滅に向かって集団で突進を続けることになってしまう。ちょっと前となるが、これを理解できていないデビッド・スズキを批判して少し楽しんだことがあった。具体的には以下である。

スズキは、環境保護活動思想の典型的な誤謬を犯してしまっている。人が自身の行動が環境に与えている影響さえ理解できれば、自身の行動を変更するように動機付けられるだろう、と彼は考えているのだ。よって、我々が自身の行動を変えていない場合は、我々が何をなすべきか理解していないか、正しい「物語」を自身に伝えれていない、ということになる。(中略)なので、「私達は自身を知的だと自称しています。なのに水は神聖で、命の源と知っている知的生命体が、水を有毒物の廃棄処理に扱うでしょうか?」とスズキは書いてしまう。彼は本当に分かっていないようだ。答えは簡単:我々は、他人よりほんの少しだけ自分を気にする知的生命体なのだ。例えば、私はトロントのほとんど住人と同じく、自身の土地の水を有機廃棄物の処理するのに使用していない。処理にはオンタリオ湖の水を使っている。「私達は水の生命体であり、水に対して何かするこということは、自身への行いなのです」と話すのは、非常に心地よく聞こえるが、「私達」と一括して話すことは、実際には非常に深刻な混乱を引き起こすことになる。個人が水に〔優先して〕何か行えば、それは他人を優先したことになり、自分を優先しないことになるのだ。つまり、一個人は、水〔=環境〕に関しては本当に僅かしか気にしていないのだ。

以上見解を踏まえれば、『これが全てが変える』の冒頭で、クラインがいつものように混乱しているのを見ても、私は全く驚かなかった。

なので、毎度の疑問が脳裏にチラつくのです――どうしてこんな酷いことを私たちはやってしまっているのでしょう? 皆の運命共同体である一軒家が焼き尽くされてしまう脅威が迫ってきているのですよ! なのに私達が消火作業を行えないのは一体全体なぜなんでしょう?

この一節を読んだ時には、私は一瞬だがクラインに期待してしまったことを認めざるをえない。ここまできたら、クラインは「集合行為問題なのです」と言うだろう、と私は思ったのだ。さすがに誰であれこの思いつきに至るだろう? と。ところが、私の期待は、即座に打ち砕かれることになった。集合行為問題ではないことが判明したのだ。またしても、毎度の謀議家達の一般市民への陰謀である。

〔温暖化が酷いことになってるのに私達一般市民が対策を取ることができてないのなぜなのか?〕私が考える答えは、これまで多くの人が信じ込まされていたものよりはるかにシンプルです。私達が、必要な行動を行ってこなかったのは、排出削減行動は、規制緩和型の資本主義と根源レベルで対立しているからなのです。規制緩和型の資本主義は、気候危機からの脱出を模索しようと私たちが苦闘してきた全期間を通じて、支配的イデオロギーであり続けていました。破局を回避し最良の好機をもたらすであろう行動ーーそれは大多数の人に利益をもたらすでしょうーーは、経済、政治的プロセス、主要メディアのほとんどを牛耳っている少数のエリートに極度の脅威を抱かせるものになっています。なので私たちは行き詰まっているのです。(18)

実際のところ、このクラインの解答は、シンプルな説明にあまりなっていない。クラインが提起した問題は、現実には、非常に複雑な説明が必要とされており、多くの隠された目に見えない影響要因や、解き明かさねばならない多量の矛盾した証拠を必要としている。もっと単純に説明するなら、これは、ほとんどの人は単純に少しだけ利己的であることから引き起こされる集合行為問題であるということだろう。ところが驚いたことに、クラインは、利己性に問題があるという考え方さえ疑問視しているのだ。

私たちの大多数が行動に失敗している原因の一端は、私達が利己的なあまり抽象的でほど遠い問題を気にすることができないのではなく、注意を払うべき対象があまりに多すぎていて圧倒されているのだ、ということにすればどうでしょう? そして、私たちが沈黙しているのは、黙認などではなく、環境破壊の生々しい恐怖に立ち向かうための、共同体的な足場が欠けていることが原因の一端だとしたらどうでしょうか?(461)

ああ、まったくだ。人が〔利他的なので〕環境問題を気にしすぎていて問題になっている可能性は常にある。私が端的に人様を信用してしないだけかもしれないが、「人様は常に他人を気にしている利己的存在なのだ」との考えに立って私はとにかく金儲けに勤しむことにしよう。

冗談は置いておくと、なぜこの件に拘る必要があるのだろうか? この問題になんらかの診断を行うと、その診断は推奨される解決策に強く影響を与えることになるからなのだ。問題の重要性を鑑みると、我々は正しい解決策を実行することが本当に重要となっている。クラインに関して、私を常に悩ませてきたものが、彼女は観察している問題のほとんど全てで、解決策はなんらかの「深い草の根レベルの」民主主義にある、と考えていることだ(従って、上記の「環境破壊の生々しい恐怖に立ち向かうための共同体的な足場」を要求することになる)。民主主義は非常に複合的な履歴〔訳注:民主主義による意思決定は有権者等の複雑な意思決定プロセスを経ていること〕を保持しているので、私はこのクラインの解決策を不可思議に思う。(「深い」とか「本物」の民主主義擁護のほとんどは、「本物のスコットランド人ではない3 」に類する誤謬に基づいているように思える。)〔民主主義における問題は〕大衆扇動を置いておいても、地方レベルの民主主義は集合行為問題を悪化させることが多く、気候変動の面ではあまり役に立たないように私には思われる。クラインの解決策は、解決に代わって、単なる地域住民エゴを生み出す傾向にある。

例えば、クラインが「ブロッカディア4 」と呼んで熱狂的に推奨している新規の活動について考えてみよう。現在、エネルギー問題においてオンタリオ州で幅広い動員活動が起こっているのは事実だ。トロントから北に1時間ほど車で出かければ、「ブロッカディア」の中心地に行くことができる。そこでいったい、市民は「ブロッカディア」によって何を騒いでいるのだろう? 市民は何に反対して抗議しているのだろうか? 答えは「風力発電機」だ。

以下のような写真をいたるところで見ることができる。

〔訳注:「風車を近所に作るな!」等、風量発電への反対を表明している標識〕

一方、〔クラインが〕保護しようとしている地方の生活環境とは何なのだろう? 以下の不動産の内覧広告を見て考えてみてほしい。79万7千ドルとなっており、内装から判断すると、この家は上流階級の家ではない。実際、この家はトロントの平均的な住宅価格より安価だ。これはどちらかといえば、年間家計収入が10万ドル以上20万ドル未満の人が買う傾向がある住宅だ。カナダ人の多くが所有を熱望するタイプの住宅である。私がとにかくビックリしたのが、巨大な4ドアのガレージの内部からの写真だ。

わぉ。住人がどんな車に乗っているのが想像すらできない(恐らく母屋に併設されている2台車庫に駐車されているのだろう)。この家の家族は、余暇活動で大量の化石燃料を消費している、と断言して問題ないだろう。一般市民が自身の生活をどのように構築しているのかを観察するために、時々はこのような写真をじっくり観察することは重要だ。我々全員がカーボンバジェット5 の範囲内で生活するのに、必要とされているなんらかの変革に、この住宅の住人のような人が投票することを期待するのは、あまりに非現実的であるように私には思われる。よくても、このような人たちは死票になってもらう必要があるだろう。

いずれにせよ、「一般人は無実ではない」という私の主張を立証するために、上の写真を証拠物件Aとして喜んで提示する所存であります。

※訳注:ヒースのナオミ・クライン批判の一覧は以下に纏められている。
ジョセフ・ヒース『ナオミ・クラインについての最終論考』(2015年9月22日)

  1. 訳注:カナダに本拠を置くカウンターカルチャーに大きな影響を持っている雑誌。「ウォール街を占拠せよ」で有名なオキュパイ運動等を先導している。 []
  2. 訳注:アドバターズによって提唱されている反資本主義運動。資本・大企業の洗脳に対抗するために、一般市民が資本・大企業のブランド広告等に対して文化的撹乱攻撃を仕掛けて認知不協和的を作り出し対抗しよようとする試みである。例えば、ナイキのスニーカーやヴィトンのバッグの代わりに、自前の「クール」なスニーカーやバッグを使用することで、ブランドによる洗脳価値観を錯乱・転倒させるようとする試みである。 []
  3. 訳注:論理学上のジョーク。自説に都合が悪い具体例に対して「それは本物の○○ではない」と反論することで反証を回避する無敵論法の一種。 []
  4. 訳注:地方の自然環境保護を目的に、化石燃料の採掘場所等で行われている市民による封じ込め運動のこと []
  5. 訳注:気候変動による気温上昇を目標値に抑えるために必要とされている温室効果ガスの排出量目標値のこと []

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