ジョセフ・ヒース「ポリティカル・コレクトネスについて付記」(2015年6月8日)

The words “Political Correctness 101” on a blackboard in chalk

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Posted by Joseph Heath on June 8, 2015 | education

オタワ・シチズン紙に論説(『カナダの大学教授はなぜ学生を恐れないか』を寄稿し今日掲載された〔日本語訳はここで読める〕ことで、どうやら私は今現在、ポリティカル・コレクトネスに関して無敵の人になっているようだ。そもそものきかっけは、アメリカの単科大学――特にリベラル・アーツ系の小さな単科大学(カナダだとノバスコシア州を除けばほとんど存在しないタイプの大学)――で何か馬鹿騒ぎが起こるたびに、概して「総合大学」が悪評を浴びる事態に、私が苛ついたことにある。カナダの総合大学に問題があるのを否定はしないが、アメリカで起こっている出来事は全て、カナダでも同じように起こっているに違いないと単純仮定するのは止めて、カナダの問題についてはカナダの総合大学に依拠して議論するのが良いんじゃないか、と。

なんにせよ、私がハッキリさせておきたい話がある。それは、ここカナダでは「ポリティカル・コレクトネス」の熱狂は、ずっと前に真面目しか取り柄がない人達に、喫緊の問題の解決に取り組ませる為に真面目な話し合いを強要し、その後に彼らを屋上に放置してから、ハシゴを外してどこかに消え去ってしまった、ということだ。むろん、私がこの話をしようとするやいなや、学者仲間たちは、私が主張した「消え去った」ものの痕跡を後生大事に示して、私のこのお話を執拗に毀損しようとし始めた。まあしかたない…。私は、できる限りこのお話に拘り続けるとしよう。つまるところ、誰かさんらは、飯の種を正当化しようとしないといけないのだ。

私が該当記事で言いたかったポイントはいくつかある。ただ寄稿記事に全部掲載するには長くなりすぎたので、全て収録できなかったのだ。記事で、カナダ(特にケベック州)では学生活動が盛んだが、その強い関心は生活費の問題(特に授業料)に向いている、と私は述べた。(アメリカの学生が、大学の行政に対してそこまで強い影響力を行使できるなら、その力を授業料の値上げに抗するのに使わないのは不可思議ではないか? と)。ここに不可避の重要な繋がりがあると、私は本気で思っている。そして、アメリカのインテリ(教授や学生)が全般的に政治的に無力になっていることは、小規模で象徴的な闘争にのめり込ませる一因となってしまっているのだ。これはつまるところ「僕は共和党が議会を占拠するのを阻止することはできないんだ! でも共和党員がキャンパスに来て卒業式で演説するのだけは阻止できるんだ!」みたいなものである。対照的にカナダでは、教員も学生も、本物の政治的権力や影響力を達成する為の道が開かれているので、キャンパス内の内輪の諍いに巻き込まれる可能性はほぼありえない(ゼロではない!)。

〔新聞寄稿では〕カナダの大学の入学許可においてはアファーマティブ・アクションが存在せず、「ポリティカル・コレクトネス」の面でカナダとアメリカに大きな違いがあることも指摘したかったのだが、これも文章量に余裕がなかったので掲載できなかった(オンタリオ州には、間違いなくアファーマティブ・アクションがないのを私は知っているが、全国的にそうであるかは自信がない……誰か知ってるだろうか?)。無論、カナダで目立つ2つの少数派集団(東アジア系と南アジア系)は、人口シェアに比べて大学への入学者数が多いので、人種に基づいたアファーマティブ・アクション政策を実施すれば、政策の策定が複雑怪奇になるだろう。万が一、カナダの大学にポリティカル・コレクトネスの大波が押し寄せてきたとしても、学生はアファーマティブ・アクションのような政策を扇動要求しないはずだ。(アメリカで、アファーマティブ・アクションを止めると大学が発表したとしたら、どんな騒ぎになるのか想像してみて欲しい…)。現在、カナダで実施されている〔大学の入学〕制度は、基本的に冷酷で、生きるか死ぬかの実力主義(少なくともアメリカの制度よりも遥かに実力主義に近いもの)となっている。そして、私が知る限り、学生がこの実力主義の状況を変えようと扇動要求しているなんらかの証拠は存在しない。

一方で、私が気づき出したものがある。それは、私はポリティカル・コレクトネスがほとんど存在しなかったトロント大、モントリオール大、マギル大のような極一部のカナダの大学で長年過ごしてきたので、見解には強いバイアスがあることだ。さらにおそらくだが、私は哲学業界にいるので、capital-T〔「本物の厄介事」〕の「事情」を全く斟酌しない(それが我々の仕事だからだ)。

もう一つ、紙面で言及したかったのが、ソーシャルメディアがあらゆる諸要素の原因となっていることだ。これは、昔ながらの魔女狩りのようなものを可能としてしまっている。大学教授らはこれに恐れをなしているが、それは本質的なものであると当時に、学生らの方がこのツールに非常に精通しているのも理由になっている。なので、「学生が怖い」という点では、これが重要事になっている。

最後に。先週投稿した「『じぶん学』の問題」は、シリーズの最初であることを伝えねばならない。今週末に「規範的な社会学(normative sociology)の問題について」と題した続編の投稿を予定している。乞うご期待!

追記:「労働組合」について言及するのを忘れていたようだ(redditに感謝)。カナダの大学には、多くの労働組合がある(私は、一つの大学にずっといなかったので、労働組合の件を失念していた)。カナダの過半の大学では、教職員組合が組織されているが、それだけでなく、非常勤講師もほとんど組合化されている。私は非常勤講師や学生の苦情に対応しないといけない管理職に就いていたことがあるので、後者の非常勤講師の組合について、多く経験を持っている。そこでの経験からだが、私が主に対応していた学生からの苦情案件は、「教授が私を不快にさせるようなことを言いました」などではなかった。「教授が一ヶ月前に消失しました。論文を返してくれないし、成績も付けてくれず、卒業できません。メールの返事もありません」みたいなものばかりだった。細かいことは抜きにしておくと、このような〔非常勤講師が学生の指導を放置して姿を消した〕状況でも、〔カナダでは組合の力が強いので〕非常勤講師の契約の更新を拒否するのは難しい、とだけ言っておこう。

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