Joseph Heath, “Hobbes’s difficult idea” (In Due Course, December 15, 2014)
ポール・クルーグマンの「リカードの難しいアイディア」は私のお気に入り論文のひとつである。そこでは、どうして人々が「比較優位」の概念を理解するのがこれほど大変なのかの理由が述べられている。比較優位ほどひどい状況ではないとは言え、「集合行為問題」も理解が難しい概念であるということを最近思い知らされた。この概念は比較優位よりもう少し長い歴史があるが、集合行為問題を「ホッブズの難しいアイディア [1] … Continue reading 」と呼んでも歪曲にはならないだろうと思っている。
数日前にジェイムズのコメントを見たことが、この問題を考えるきっかけになった。
思うに誰でもフリーライダー問題を理解できるけれど、実際にこの世界を〔フリーライダー問題を踏まえて〕考える人はほとんどいないだろう。
悲しいがこれは真実だ。気候変動に関する議論で私が常に驚くことのひとつは、集合行為問題の基本的な概念はこんなにも捕まえにくいものだったのか、そして、多くの人々にとってここまで非直感的なものだったのか、ということだ(コメント欄でジェイムズが言っているように、理解したり実際に適用したりするにあたっても)。確かに私も直ちに「理解した」わけではなかった。「囚人のジレンマ」については何度も聞いたことがあったが、それが単なるちょっとしたパズルではなく重要なことなのだと理解したのはあとのことだった。(私に天啓が訪れたのはラッセル・ハーディンの 「Collective Action」、あるいはデイヴィッド・ゴディエの「合意による道徳(Morals by Agreement)」を読んでいるときだったと思う。)
とにかくその時以来、私にとっては集合行為問題という見方で世界を捉えることが第二の天性のようになってしまい、集合行為問題のない世界を想像することがますます難しくなった。そのため、集合行為問題を見ることができないひとがいるということが信じがたくなってしまったのだ。毎年、私は囚人のジレンマや共有地の悲劇などの集合行為問題に関する基本的なことを授業で教えている。
この授業を行うときはいつも、あまりに当たり前のことを話しているのでほとんどの学生は退屈しているのではないかと、私はひどく自意識過剰になってしまう(基本的なところを聞いたことがある人はごめんなさいと通常は謝ってから始めているくらいだ)。にも関わらず、先日ナオミ・オレスケスとエリク・M・コンウェイによるこの本を私は読んだが、彼らが全然〔集合行為問題を〕理解していないということがわかった。この本は気候変動に関するものなのに、それが「集合行為問題」であるという説明がひとつも出てこない。結局彼らは、ただ「私たちはXという結果が望ましくないということを知るべきで、しかもその結果Xを避けるための行動ができていない」という当惑を表明するばかりだ。こうして彼らは多くの環境活動家が行き詰まるところに自分たちも陥り、人々が行動しないことを次のように説明する:
- Xがこれからどれだけひどくなるのかを効果的に説明することに科学者が失敗している。あるいは、
- 何らかの「イデオロギー」が人々を縛り付けていて、それが行動を阻んでいる。
彼らは結局はこの2点の両方で説明しているが、どちらかというと2を強調しており、人々が行動しないことを「市場原理主義」というイデオロギーがどういうわけか説明しているという考えに行き着いている。
こういうものに対して猛烈に苛立たしいという以外の言葉が思い浮かばない。この種の基本的な間違いを犯すことの代償は余りにも大きい。ずっと昔になるが、私はまさにこのトピック – 人々がいかに集合行為問題をイデオロギーの問題と取り違えるのか – についての論文を書いたが、もう一度広める価値があると思う(“Problems in the Theory of Ideology“)。この論文を書く動機となったのは、もとはと言えば、「社会批判」に従事している知識人が集合行為の論理を理解していないと、以下のような議論が展開されるということに気づいた事だ。
Xという結果(以下、結果X)はひどいものだ。いまやっているY(以下、行為Y)がそれをより悪化させている。だからみんなやめるべきだ。
(時間経過)
何も起こらなかった。人々は依然として行為Yをしていて、結果Xを出し続けている。どうしてなんだ?
人々はイデオロギーの犠牲者に違いない!結果Xがどれだけひどいかを理解していない。このイデオロギーを批判しなければならない。
(時間経過)
何も起こらなかった。それだけでなく、イデオロギー批判は浸透しているのに、彼らは依然として行為Yを続けていて、結果Xを出し続けている。どうしてなんだ?
そうだ、彼らはもっと深くて潜行性のあるイデオロギーの犠牲者で、だから我々の批判を受け入れつつも行為Yを続けているんだ!我々はもっと革新的なイデオロギー批判を考え出さなければならない。
(時間経過)
何も起こらなかった…
無限にこの繰り返し。
そして考えてみると、ジレンマの別の一端(これは科学者に関するものだ)が、それはそれで次のような独自の力学を生み出す。
結果Xは本当にひどいものだ。いま行っている行為Yがそれをより悪化させている。だからみんなやめるべきだ。
(時間経過)
何も起こらなかった。人々は依然として行為Yを続けており、結果Xを出し続けている。どうしてなんだ?
これはきっとどれだけ結果Xが悪いことになるかみんな理解できていないからだ。みんな!結果Xは本当にひどいことを引き起こすことになるんだ!わかって!
(時間経過)
何も起こらなかった。人々は依然として行為Yを続けており、結果Xを出し続けている。どうしてなんだ?
これはきっとどれだけ結果Xが悪いことになるかみんな理解できていないからだ。みんな!結果Xは大惨事を引き起こすことになるんだ!わかって!
(時間経過)
何も起こらなかった。人々は依然として行為Yを続けており、結果Xを出し続けている。どうしてなんだ?
これはきっとどれだけ結果Xが悪いことになるかみんな理解できていないからだ。みんな!結果Xは西洋文明を終わらせてしまうんだ!わかって!
(時間経過)
何も起こらなかった…
無限にこの繰り返し。
昨今の環境運動の中にこれらの傾向を見出すのはさほど困難なことではない。(一方で「ディープエコロジー」という批判を、もう一方で環境黙示論を生み出したりしている。)どちらの問題の解決法も同じだ。まずそれは集合行為問題なのであって、これは解くのが難しいのであるから、怖れずに取り組む必要があるのだと認識することだ。
お疲れ様です。タイポですが,1パラ「理解するがこれほど大変」となってます。また,5パラと6パラの間(「基本的なことを授業で教えている。」「この授業を行うときはいつも、」)は原文では同じパラのようですが,これは敢えてそうされているんでしょうか。
気付くのが遅くなってスミマセン。ご指摘ありがとうございます。修正しました。
引き続きタイポ警察よろしくお願いいたします!