タイラー・コーエン 「主権(あるいは国家)という不合理な――しかし必要な――観念の共有」(2011年1月26日)

●Tyler Cowen, “Why do we care so much about sovereignty?”(Marginal Revolution, January 26, 2011) [1]訳注;アーノルド・クリングの次の記事でも本エントリーと似たような議論が展開されている。 あわせて参照されたい。 ●Arnold Kling, “Libertarians … Continue reading


本ブログの熱心な読者の一人であるIVVから、次のような質問が寄せられた。

ソブリン債(国債)に、ソブリン債のデフォルト。EUが抱える様々な問題。リバタリアンの口から発せられる不平不満の数々。加速するグローバリゼーション。そんなあれこれについての議論を目にするたびに、どうしても知りたくてたまらなくなることがあります。

どうして私たちは、「主権」というものに、こんなにも頓着(とんちゃく)しているのでしょうか?

土地に線を引いてこっち側とあっち側を区別するのに、こんなにも懸命になっているのはなぜなのでしょうか? 線のこっち側に住む人間と、線のあっち側に住む人間とで、属する管轄権を区別しようとするのはなぜなのでしょうか? いずこかの管轄権に属するというのは、一体どういうことを意味しているのでしょうか? こういった一連の決定から、市井の一般人を締め出さねばならない理由は何なのでしょうか? こういったことに、一体どれだけの経済的な価値があるのでしょうか?

我々は、公共財の供給を請け負う政治単位を必要としているだけでなく、大勢の人々に所得をどのくらい稼いでいるかを自発的に報告してもらって、税金を進んで納めてもらう必要がある。そして時には、自らの命を賭けてでも政治単位のために戦っても構わないと思ってもらう必要がある。そのためには、いささか不合理的ではあっても、主権だとか国家だかという観念を大勢の人々に共同で信じ込んでもらう必要があるわけだ――この点については、ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の『Imagined Communities』(邦訳『想像の共同体』)を一読されたい――。現状の国境の線引きは理想的とはおそらく言えないだろうが――個人的には、政治単位(国家)の規模を今よりも縮小した方が好ましいのではないかと考えている――、OECD(経済協力開発機構)加盟国に話を限ると、現状の国家の枠内でかなりうまくやれていると言えるだろう。現状よりも望ましい枠組みに移行するにはどうしたらいいかはわからないが、EUのような包括的な枠内であれば、もしかしたら何か打つ手はあるかもしれない。

おそらくすべては、進化的なプログラミング――進化の過程で人類の遺伝子に埋め込まれたプログラム――によって支えられているのだろう。我々の遠い祖先は、生き残りを図るために、小さな集団を形作って協力する必要があった。その名残なのか、我々は今でも小さな集団に愛着を持ち続けている。政治の世界で活躍する政治起業家たち(political entrepreneurs)は、小さな集団に対する我々の愛着を踏み台にして、狩猟採集民が形作る小さな集団よりもずっと規模の大きな政治単位に対する愛着(偽りの愛着)を育もうと、あれこれと手を尽くしている。ラジオ、テレビ、政治団体の地方組織といった手段を介して、大きなもの(国家)を小さく見せる(身近なものに感じさせる)というのはその一例だ。

国民国家という上部構造自体は揺るがさずに、主権という枠をほんの少しだけ「スルリとすり抜ける」ような政策はいいアイデアである場合が多い。移民の受け入れだとか、メディケアに投じられている予算を100万ドルだけ削って、その100万ドルをハイチに対する援助にまわすとかいうのがその例だ――金額がもっと大きくなると、政治的な実現可能性は遠のくことになるだろうが――。つまりは、莫大な見返りが期待できる至極単純なレシピが存在するわけだ。主権というものに対する共同の信念を掘り崩さない範囲で、主権にほんのちょっぴり揺さぶりをかければいいのだ。

ところで、ブライアン・カプラン(Bryan Caplan)が「知らない人」(”the stranger”)と題されたエントリーで次のように語っている。

あなたに聞きたいことがある。同じ国に住んでいる「同胞」(”fellow citizens”)のうちで、あなたがこれまでに直接会ったことがある同胞の数は全体の何%くらいだろうか? おそらくゼロ%に限りなく近いことだろう。同胞と呼ばれる人々の大多数は、実のところ、あなたにとっては赤の他人に過ぎないのだ。「知らない人についていっちゃダメだよ(知らない人の車に乗っちゃダメだよ)」と我が子に言い聞かせることがあるだろうが、同じ市民権を持っている人は「知らない人」には含まれない・・・とはならないだろう。現代の政府――そして、政治哲学の大半――は、多大の労力を費やして、そうではないふりを演じているに過ぎないのだ。

カプランの指摘ももっともではあるが、ある程度の幻想が大勢の間で共有される必要があるという事実から、彼は目を逸らしている――そのことにうっすらと気付いている素振りは感じられるが――。国民一人ひとりが、この国は「知らない人」の集まりに過ぎないと見なすようになったとしたら、(一人ひとりを結び付ける)「社会の紐帯」(”the cement of society”)はどうなってしまうだろうか? 価格システムさえあれば、それで充分というわけじゃない。価格システムが円滑に機能するためには、法的・文化的な基礎に支えられる必要がある。そして、そのような法的・文化的な基礎は、大勢の人々が共同で何かを信じ合うことではじめて形作られるし、維持されるのだ。とは言え、大勢で一緒に信じ合いさえすれば、何を信じたっていいというわけじゃない。(価格システムが円滑に機能するために)大勢の間で共有される必要がある幻想の候補はいくつかあるが、有効に機能する可能性を秘めた政治単位への忠誠(あるいは、愛着)――正真正銘のコスモポリタニズムの観点からすると、いささか不合理なまでの忠誠――はそのうちの一つに違いない。

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1 訳注;アーノルド・クリングの次の記事でも本エントリーと似たような議論が展開されている。 あわせて参照されたい。 ●Arnold Kling, “Libertarians and Group Norms”(Library of Economics and Liberty, September 19, 2012)
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