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タイラー・コーエン 「人目に晒され過ぎたせいで魅力が損なわれた芸術作品」(2004年9月12日)

●Tyler Cowen, “Artworks ruined by overexposure”(Marginal Revolution, September 12, 2004)


洞察力に満ち溢れているジェームス・トウィッチェル(James Twitchell)が「人目に晒され過ぎた(目にする機会が多すぎる)せいで魅力が損なわれた芸術作品」のリストをまとめている。

1. レオナルド・ダ・ヴィンチ作の『モナ・リザ』

2. グラント・ウッド作の『アメリカン・ゴシック』

3. エマヌエル・ロイツェ作の『デラウェア川を渡るワシントン』

4. いわゆる『ホイッスラーの母』1

5. いわゆる『ムンクの叫び』2(本作品はつい最近(2004年8月に)所蔵先の美術館から盗まれてしまったが、そのおかげで芸術作品としての魅力が高まることになるかどうかはいずれ判明することだろう)

ギルバート・スチュワートの手になるジョージ・ワシントンの肖像画もリストに加えたいところだ。モンドリアン柄のバッグやらシャンプーボトルやらも出回っているが食傷気味だね。トウィッチェルが語るには、「モネ、ピカソ、ドガ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ。こういった面々の作品も陳腐になりつつある」とのこと。どんな作品か気になる人は自分でググって調べること。リンクなんか貼って「人目に晒され過ぎ」問題の片棒を担ぎたくはないからね。

「人目に晒され過ぎ」問題は「共有地の悲劇」の典型例だと言える。絵を鑑賞する楽しみの一つはその絵に備わる「意外性」(「驚き」)や「力強さ」を味わうことにあるが、それに対して絵の供給(公開、紹介)を担う大勢の面々(作者やら美術館やらその他諸々)は我こそがその絵の魅力を余すことなく伝えるんだとこぞって躍起になる。その結果として同じ絵が何度も繰り返し人前に引っ張り出されることになり、そのために絵に備わる「意外性」は瞬く間に色褪せてしまう。「ワクワク」ではなく「飽き飽き」してしまうわけだ。公共財の供給にまつわる深刻な問題の多くの根は人間の内なるニューロ経済(人間の感覚をつかさどる神経組織)にあるのかもしれないね。

絵画については「時の試練」の結果を予測するのは大変難しい。今は力強い絵だと思われていても2030年には陳腐な絵と見なされているかもしれない。絵に備わる「力強さ」が時とともにどうなるか(どう受け取られるか)を前もって予測するのは難しいのだ。

この話は音楽にはそこまで当てはまらないかもしれない。音楽は絵に比べると人間の神経システムにダイレクトに働きかけてくる分だけ普遍性が高いからだ。とは言え、次のような話もある。

スーザ作曲の『自由の鐘』を耳にすると『空飛ぶモンティ・パイソン』のオープニングで上から降ってくる巨大な足がキャラクターを踏み潰すシーンが同時に思い出されてしまうものだ3。「いや、私は違う」という人が果たしてどれだけいるだろうか? リスト作曲の『ハンガリー狂詩曲第2番』についてはどうだろうか? (アニメの『バッグス・バニー・ショー』で)ピアノの名手たるバッグス・バニーが持ち前の冷静さを保ちながら演奏している姿を連想せずに聞くことができるだろうか?

ロッシーニ作曲の『ウィリアム・テル序曲』もそうだ。(映画にもなったテレビドラマの)『ローン・レンジャー』のテーマ曲として知れ渡っているからね。そう言えば、かつてトーマス・シェリングが「バッハを聞くのを日課にしないように踏ん張っている」と語っていたものだ。バッハを聞いてワクワクする感覚をずっと先まで長持ちさせたい(おじいちゃんになってもバッハの作品を楽しめるようにしたい)というのがその理由だ。

ちなみに、文中の引用はすべてトウィッチェルの出色の一冊である『Branded Nation: The Marketing of Megachurch, College Inc., and Museumworld』からのものであることを断っておく。

  1. 訳注;ジェームズ・マクニール・ホイッスラー作の『灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像』 []
  2. 訳注;エドヴァルド・ムンク作の『叫び』 []
  3. 訳注;『自由の鐘』は『空飛ぶモンティ・パイソン』のオープニング曲。 []

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