ノア・スミス「格差は縮みつつあるのかも」(2023年1月2日)

Piketty’s Lecture 1” by European University InstituteCC BY-SA 2.0.

そうでありますように

近頃あんまり聞かなくなった名前といえば,トマ・ピケティだ.2013年に,かのフランス人経済学者は『21世紀の資本』刊行でいっきに世間の人々に知られるようになった.同書でピケティが述べた主張は,ようするにこういうものだった――「外的な要因がはたらかないかぎり――戦争や大規模な政府の行動による介入がないかぎり――資本主義はおのずと格差をどんどん広げがちだよ.」 その主張を要約したのが,あの有名な “r > g” だ.この式は,簡潔でいて多くを物語っている.それは,資本の利益率 (r) が経済全体の成長率 (g) を上回っていると,格差は機械的に開いていくってことだ.ピケティによれば,20世紀前半に格差が大きく開いていたものの,大恐慌とニューディールと第二次世界大戦と戦後の急成長というとてつもない出来事が組み合わさってはじめて,その格差によって社会が崩壊するのをまぬがれたのだという.そして,いまふたたび,ぼくらは危険領域に舞い戻りつつある――それが,ピケティの語った物語だった.有名なグラフを引用しよう.いくらかラベルを付け足しておいた:

ピケティの本が世に出た時期は,左派の政治的な心情と世間の騒擾の爆発と完璧に重なっていた.誰も彼もが,自分の主張を支えるデータを必要としていた時代に,ピケティが提示した格差のいろんな数字は具体的かつ堅固で,「資本主義ってのはその性質ゆえに不安定なんだよ」「いまアメリカは深刻な危機に瀕してるんだよ」と主張するのに,「ほら,これを見なよ」と示すのに好適だった.進歩派たちは,ひっきりなしに,「第二の金箔時代」のメッセージを力説してまわっていた――というか,いまだに力説してる.

一方その頃,学術的な経済学業界では,ピケティ本をきっかけに,激しい論争の幕が切って下ろされていた――そのなかでもいちばん劇的だった瞬間は,2015年のアメリカ経済学会での一幕だ.その会場で,ピケティはこんなことをほのめかした――自分を批判している人たちは,金持ちに買収されているか,対価をもらっているんじゃないか.また,そこまで「わっ」と沸き立つようなものではないけれど,いろんな論文やブログでの論議で,ピケティに異論をはさむべき理由を次々に見つけ出していった――「ピケティは資本償却のコストを無視してるじゃないか」「「資本」から得られる所得のかなりの部分が土地からの所得だってことをピケティは無視してるぞ」「貯蓄率その他についてピケティの理論では疑わしい仮定をおいてるぞ」などなど.なかには,ピケティのデータそのものが信頼できないと論じる人たちすらいた.

とはいえ,合衆国で格差が大きく開いていることを疑う人は,基本的にいなかった.格差が正確にどれくらいなのかについて意見の違いはあるにせよ,とにかく格差は開いているという点で衆目は一致していた.合衆国で所得と財産の分布がますます不平等になっていってるあいだは,ピケティのデータと理論に向けられた学術的な批判はあくまで……まあ,学術的なものにとどまっていた.自由放任資本主義を忠実に擁護するごく一部の人たちは,「格差なんて問題じゃない」と主張したけれど,そういう主張はたいしてウケなかった.「延々と終わることなく格差が開き続けていっても社会がなんらかの大きな問題に直面することはない」なんて,たいていの人たちは考えない.

というわけで,何年ものあいだ,ぼくらの多くは次の点を必死に考えてきた――「いったいどうやったら,完全に手に負えなくなる前に,格差の拡大に歯止めをかけられるんだろう.」 ぼくはと言えば,社会のなかでより貧しい人たちの所得を押し上げたい陣営にいた.その方法は,たとえば福祉給付や経済成長の加速だ.

ともあれ,そこに面白いことが起こった――格差がちょっぴり縮小しはじめたんだ.

合衆国における格差拡大の足踏み,そして(わずかだけど)格差の縮小

まずは,財産の格差について語ろう.この話題は,アメリカではたくさん報道されやすい.ガブリエル・ザックマンなどの左派寄り経済学者たちや新しい社会主義運動がいちばん関心を注ぐ傾向があるのが,この財産格差だ.

もう気づいている読者もいるだろうけど,今年,株価はガクンと下がった(そこまでではないけど,住宅価格も下がった).株価が下がると,中流や貧困層よりも富裕層の方が痛手を負いやすい.富裕層がアメリカの株式の大半を所有しているからだ.なかでも超富裕層の痛手はとくに大きい.彼らの財産の大半は,自分が設立した企業の株式で構成されているからだ.アメリカでいちばんお金持ちのイーロン・マスクは,今年,テスラの株価下落によって,1330億ドルを失った

これは,財産の数字に見てとれる.そういう数字のすぐれた情報源といえば,「リアルタイム格差」の realtimeinequality.org だ.このサイトでは,経済学者の Thomas Blanchet, Emmanuel Saez, Gabriel Zucman が収集したデータを表示してる.このデータについてあれこれと意見がある人もいるだろうけれど,Saez と Zucman は他の人たちよりも格差を大きく見積もる傾向がある.だから,おそらく,このサイトの数字は最悪シナリオに相当する.さて,その数字を見てみると,今年,市場の下落にともなって最富裕層が所有する財産の割合がどうなったかわかる:

Source: realtimeinequality.org

この下落による影響はとくに富裕層にかたよっているのが見てとれる.絶対値で財産の数字を見てみると,その下がりっぷりはいっそう劇的だ:

Source: realtimeinequality.org

興味を引くことは他にもある.今回の下落のまえにさかのぼってみると,最富裕層が所有する財産の割合はこの8年~9年ほどずっと横ばいを続けたり,ことによると低下している.どうやら,1980年ごろから財産格差が猛烈に開く傾向がはじまっていたのが,ちょうどピケティの本が出版された時期に,ピタッと止まっていたらしい.

次は,賃金格差に目を向けよう.労働運動に味方してる進歩派たちが着目しがちなのが,この格差だ.労働所得格差は,70年代後半から2010年代後半にかけて安定して開き続けた――2010年代後半と言えば,まさにピケティの本が世に出た時期だ.そして,その後に横ばいに転じている.所得分布を上から下まで4つにわけてそれぞれの賃金シェアを見てみると,どれも基本的に安定化してる.例の有名な「1パーセント」もだ.細かく見れば,所得分布の上半分は少しだけ減少している一方で,下から2番目の四分位は少しだけ増えている.

Source: realtimeinequality.org

他の各種データソースを見ると,いっそう楽観的な見取り図がえられる.とくに,パンデミック以降が顕著だ.Autor, Dube & McGrew による最近の研究発表によれば,たしかにインフレによって誰も彼もの実質賃金が打撃を受けてこそいるものの,稼得者の下位 10% では,インフレによる損失分を賃金上昇が上回っている:

Source: Autor, Dube & McGrew (2022)

高卒の学歴しかない労働者も,〔年齢などが〕似た属性でもっと学歴の高い人たちよりも急速に賃金を伸ばしてる.

このグラフから見てとれるように,この賃金格差の圧縮がはじまったのは,パンデミックよりもだいぶ前からだ(赤い線が青い線や緑の線よりももっと上がっている).著者たちによれば,このパンデミック前の賃金格差圧縮が起きたのは,もっぱら最低賃金を引き上げた州にかぎられている.ここから,最低賃金引き上げの政策が一役買ったかもしれないのがうかがえる.

Autor, Dube, & McGrew にしても,賃金格差の圧縮が起きている理由について正確なところは知らない.労働市場が売り手優位であることが――急速な経済成長と過熱した経済によって売り手市場になっていることが――一因になっていると示唆する証拠を,彼らは見出している.ただ,同時に,パンデミック以降に転職が増えているという証拠も見出されている.とくに賃金を大きく伸ばしたのは,転職した低賃金労働者たちだ.ここから,労働市場がたんに売り手市場になっているだけではなく,もっと競争が激しくなっていることがうかがえる.

総所得を見てみると――これには賃金の他にも賃貸料所得や政府の現金給付なども含まれる――もっとややこしい見取り図がえられる.「リアルタイム格差」 サイトを見てみると,2013年ごろに総所得が横ばいになっているのがわかる.これは財産や賃金の格差と同様だ.ただ,最近になって格差の圧縮が起きているわけではない点がちがう.でも,Larrimore, Mortensen, & Splinter による最近の論文によれば,政府による福祉給付(コロナウイルス救援策の給付も含む)によって,他より貧しい人たちの所得の伸びが後押しされている.

次の点はぜひ留意しておきたい.格差の縮小とはいっても,ごくごくささやかなものだ――金融危機後の数年間におきた格差拡大をかろうじて相殺するていどでしかない.80年代,90年代,00年代の長期的な傾向を逆転するのには,まるで足りない.それに,これは一時的な救いでしかないかもしれない.ただ,ピケティ本が世に出てから格差が拡大を続けなかったのを見るにつけ,どうやら,資本主義がいまにも危機に陥るという予測は誇大だったようだ.ちかごろピケティの名前が以前ほど人々のあいだに飛び交っていない理由として,学術業界でのピケティ説への反論におとらず,この点もあるのかもしれない.

どうして格差は縮みつつあるんだろう,そして,この格差縮小は維持できるんだろうか?

この格差の縮小は,このまま維持されるだろうか? その答えは,いま格差が縮小している理由によってちがってくる部分がある.その理由は,まだ知りえないけれど,いくらか推測するのなら,いまからでもはじめられる..

まず,財産の方から見ていこう.ここで最重要の要因は,株式市場だ.先日の記事では,アメリカの株式からの利益が,いままで慣れ親しんできた水準よりもさらにささやかなものに今後10年間で変わってくるかもしれない理由を列挙した.

列挙した理由には,たとえばこういうものがある――米中の分断とグローバル化の全般的な退行(つまりは海外で利益を得る機会が減るってこと),人口増加の減速,金利上昇,息を吹き返した反トラスト運動(つまり利益マージンの伸びが鈍化するってこと),そして,株価が歴史的な観点でみていまだにかなり高いって事実.今後10年で,株式からの利益がいっそうささやかなものになっていけば,財産の格差はいっそう圧縮される.

次に所得について見てみると,政策の選択が大いにものをいう.Dube らの研究では,最低賃金引き上げが賃金〔の差〕を圧縮するのに効果的なのが示されている.なお,これはぜひ言い添えておくべきだろうね.最低賃金引き上げは,いかなる種類の大量失業ももたらしてはいないよ.こうした労働運動によって,レストランや倉庫その他の従業員をうまく組織化するかどうかでも,政府による現金給付におとらない大きなちがいが生じる.グローバル化の退行や AI といった大きな要因も,影響をおよぼしうる.それに,FRB による利上げによって景気後退に陥るかどうかという問いもある.ただ,ここでとりわけ大事な要因は――少なくとも長期的に大事な要因は――政策の民主的な選択によって推し進められるとぼくは見てる.

つまり,かりにピケティの直接警告が言い過ぎだったとしても――そして,ピケティの研究を引用してはきたるべき資本主義の崩壊を警告していた左派たちは結果的にホラを吹いていたのだとしても――ピケティが述べていたことには,核心を突いていた部分があるように思える.つきつめれば,格差拡大の傾向を逆転させたのは,政府による行動,株価の下落,売り手優位の労働市場,グローバル化の退行(いまのところは大戦争ではないにせよ)という要因の組み合わせだった.この点は,ピケティが予想していたとおりだったかもしれない.

でも,このことで立証されるのは,民主主義的な資本主義体制が根っこから不安定だってことではなくて,逆に,民主主義的な資本主義体制の根底に自己修正式の安定性が備わっていることなんじゃないか.これはありえそうに思える.株価の上昇は,長い間にわたって経済のファンダメンタルズの伸びを上回ることがある.でも,おそらく,それは永遠に続いたりしない.高い教育を受けた労働者の育成に関心を集中させた経済は,そのうち,肉体労働者の方をもっと必要とするようになって,そうした肉体労働者たちの賃金が上がる.グローバル化が長い間つづくときもあるけれど,いずれ,輸出市場や海外投資機会が飽和してしまう.低賃金労働者たちがあまり長いことひどい待遇を受け続けていたら,やがて憤慨して団結し,労組で賃金と手当の上昇をもとめる決議をする.

もしかすると,ちょうど格差拡大のピーク時に差し迫った警告を発したピケティみたいな人たちも,いったん開いた格差をもどす安定化機構の一部なのかもしれない.そうだったらいいなと思う.そうでありますように.

追記: Michael StrainJohn Voorheis の数字を見てほしい.こうした数字を見れば,2010年代前半に賃金格差の拡大が止まって,2010年代後半には逆に賃金格差が縮みはじめたことがわかる.また,同じく Strain の指摘によれば,課税・移転後の所得のジニ係数も,2010年代前半ごろに上昇をやめている.

[Noah Smith, “Inequality might be going down now,” Noahpinion, January 2, 2023]
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3 comments
  1. 社会には良心があってそれが無償の労働だったら比較的豊かな社会層や政府がそれに期待するのは虫が良すぎるだろう。

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