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ビル・ミッチェル「日本式Q&A – Part 5a」(2019年12月3日)

Bill Mitchell, “Q&A Japan style – Part 5a“,  Bill Mitchell – Modern Monetary Theory, December 3, 2019 

Part 1 Part 2 Part 3 Part 4

これは、現代金融理論(現代貨幣理論、MMT)と、日本やオーストラリアなどの通貨発行を持つ政府の国債発行オプションに関する議論だ。こうした政府が持つ3つのオプションを検討し、MMTの観点からそれぞれを検討する。 MMTの理解によって、各オプションの結果を完全に理解できるようになる。我々が到達した結論は、主流派マクロ経済学で提示された結論とはまったく異なる。これは主に我々が、税収を超える政府支出を賄うにあたって国債発行が必要とは考えず、中央銀行と商業銀行のオペレーションを(主流派の架空の世界のやり方ではなく)現実のやり方に一致するよう構成するためである。今回の議論はまた、MMTで我々がしばしば検討する技術的な方法よりも、政府の政治的側面を明らかにもする。これは木曜日に締めくくる2部構成の回答の第1部である。今回我々は、日本経済を悩ませていた「大停滞」の解決策として大規模で非標準的な金融政策を1990年代後半に提唱したいわゆる「リフレ派」(’reflationists’)の日本での出現について考察する。

国債発行にあたって政府が直面する主な選択肢は3つある。

1.通貨の発行能力を認識した上で、とりわけ、財政赤字に対して(訳注:国債発行によって)「資金調達」を行うことは不要とみなす。このため、国債発行が何か他の目的に役立つ可能性について探ることとなり、その結論としては、(圧倒的多数の市民の幸福を促進するという観点から見て)継続的発行の有意義な目的は存在しないということになる。

2.政府は、中央銀行の会計的一致のために中央銀行に対して国債を発行し、政府の赤字支出を円滑に進めるために銀行の準備預金口座に入金することができる。このオプションでは、中央銀行は、政府の財務側  [訳注:財務省の意] から利払いを受け取って保有政府債務を蓄積する。連結政府会計では、当該負債と資産は相殺されてゼロになる。

3.政府は、何らかの制度の下で、非政府部門に国債を発行する。現代では通常、オークション形式を介して行われる。そこでは、選択された金融機関が「市場を形成する」ライセンスを取得し、額面と価格(利回り)に入札することで、各発行国債の全体の利回りを決定する。

これらのオプションは、日本の教授からの次の質問に繋がった。この質問は、MMTの理解に役立つ多くの興味深い側面を含むため答える価値がある。

質問:

  • 日本では、オプション3が望ましいという政治的コンセンサスがあります。これは、主に債務についての主流の神話に誘惑された結果として、進歩的左派と右派の保守政党の両方が取った立場です。
  • しかし、この場合中央銀行がすべきことについては意見の相違があります。
  • (A)中央銀行は、もし彼らが望むなら、流通市場における国債購入(これは利回りを統合政府部門に移転しつつ金利を操作する効果がある)によって金利をゼロに保つべきなのでしょうか?
  • あるいは:
  • (B)中央銀行は、流通市場でこれらの国債を購入することを控え、国債保有者が利息と満期時の元本返済を得るために非政府部門に国債を残存させておくべきですか?
  • 日本の進歩主義者の多くは、オプションAに反対します。なぜなら彼らは、準備預金を創造することで、1990年代後半から2000年代初頭の「大停滞」論争で著名ないわゆるニューケインジアン「リフレ派」の政策アプローチの術中にはまってしまうと考えているからです。
  • 一方、競合する別の見解は、オプション(B)の下で中央銀行が金利のコントロールを失い、最終的に利回りが市場で決定され、金利の上昇につながる可能性がある、というものです。
  • そうなると、現在の状況で生き残っている多くの限界企業は、金利の変化によって悪影響を受け、投資と総需要を削減する結果になります。
  • 他の観点でいくと、オプション(A)の下で、(流通市場での中央銀行の需要圧力のため)債券の価格が上昇し、(期待将来利子収入の割引後の合計を反映して)国債保有者がキャピタルゲインを享受すると認識されています。
  • したがって、流通市場での中央銀行による政府債務の購入は、とにかく利子収入と、この点でのオプション(B)との同等性を意味します。
  • MMTはこの議論について何と主張しているのでしょうか?
  • 政府は財政赤字に合わせて非政府部門に国債を発行し続ける必要があるという日本の政治的現実を考えると、本質的なMMTの立場は、オプション(B)よりもオプション(A)を選好し、ゼロ金利環境を維持することなのでしょうか?

ニューケインジアン型「リフレ派」と日本

第一に、日本の文脈における「リフレ派」という用語の意味を理解しておこう。

1990年代初頭の日本での商業用不動産の大規模暴落の後、日本は財政赤字の支援を受けて成長トレンドに復帰した。

ただし、1990年代には、物価の動きが抑制され、1994年に卸売物価指数が低下し始め、1997年にCPIが同様に低下したのである。

その後、保守派の圧力を受けて、日本政府は1997年5月に消費税を導入した。これにより、経済活動が停滞し、「大停滞」として知られるようになった持続的な経済的不調が生じた。

当時の日本での議論は、デフレ対策に焦点が当てられていた。

この議論は、ブレトンウッズ体制から移行中、当時の通商産業大臣である中曽根康弘が、通貨ペッグ破棄による円高を相殺するために、インフレ率を上げる政策の使用を提唱したという日本の経験に基づいていた。

これについては、1972年初頭に日本で活発な議論が行われた。このことは、現在の日本銀行副総裁である若田部昌澄の優れた著書、”Japan’s Great Stagnation and Abenomics: Lessons for the World” (Palgrave Macmillan、2015年) に記されている。

この本の巻末注は、さらなる情報がある。

  1. 1972年8月9日、中曽根はそれを提案した。「円再切り下げを防ぐためには調整インフレも」 朝日新聞、1972年8月10日、9)。
  2. 17.朝日新聞は、中曽根の「調整インフレ論」に対して「調整インフレ論に反対する」という題名で批判した(朝日新聞、1972年8月13日、5)。

「調整インフレ論」と名付けられたこの政策は、リフレ戦略が提起されるたびに喧伝されることになる。

多くの経済学者は、日本の政策立案者が拡張的なマクロ経済政策を使用することを否定しようとし、代わりにデフレと戦うための「規制緩和およびその他の構造改革措置」を提唱した。

典型的な新自由主義的アプローチである。

若田部昌澄氏は、デフレの議論は、「海外からかなりの注目を集めた」ため、本当に「日本にとって最初の熱烈な経済的議論」であったと指摘している。

多くの外国人経済学者が議論に加わった一方で、若田部昌澄は「リフレに対する最も強力な議論は、ポール・クルーグマンから来た」と考え、中央銀行に対して「中央銀行はゼロ・インフレを目指している」と批判した。

このように、「リフレ派」として参戦したのは、より穏健なニューケインジアンであった。

1990年代初頭に(主に1991年の景気後退によって)OPECの石油危機から生じたインフレ時代が終わり、多くの経済学者は中央銀行がゼロインフレ目標を採用することを主張した。

1996年にクルーグマンは、日本は「3〜4%といった、かなり低いがゼロインフレではない水準の長期目標を採用すべきだ」と主張した。

彼の(欠陥のある)論理は、名目賃金の下方硬直性を考えると、市場は名目賃金の伸びよりも先にインフレを実行する能力を望み(実質賃金を削減する)、ゼロのインフレ率はこれを不可能にするというものであった。

クルーグマンは、基本的に名目金利がゼロの場合、デフレ期待があると、実質金利(名目金利とインフレ率の差)が高すぎて、投資を刺激せず停滞を解消できないと主張した。

これは、クルーグマンのいわゆる「流動性の罠」の議論であり、マクロ経済刺激策でインフレ期待を押し上げると、実質金利が完全雇用水準に低下するという彼の主張の根拠となるものだ。

クルーグマンはまた、QEタイプの国債購入が望ましいインフレを刺激するのに役立つと主張した。

これは明らかに、貨幣数量説の含み(QEからのインフレ)を伴う、貸付資金説の議論(実質金利の問題)である。

それは誤りであり、この論点については後ほどすぐに戻ってくる。

若田部昌澄が指摘しているように、クルーグマンは、「大停滞」が供給側の要因の結果だと考えている人々を強く批判した。

彼の議論は、誤った根拠(実質金利など)を根拠にしているものの、以下のようなものである:

  • 日本の問題はマクロ経済の需要不足だったのであり、必要な救済策は拡張的なマクロ経済政策だった。

クルーグマンの考えは、インフレ率引き上げに基づく拡大政策を提唱するために、ラース・スヴェンソンやベン・バーナンキを含む多くのニューケインジアン経済学者に結びつけられた。

そして彼らは「リフレ派」と呼称されたのである。

当時、この議論は、日本の主要なケインズ経済学者(例えば、東京大学教授の吉川洋)によって強く批判された。

彼の主張は以下の通り:

1.問題は、(ケインズ流の)有効需要の不足であった。

2.「需要の飽和」があるため、拡張政策は機能しない。

3.以前は利用できなかった新しい商品で新しい市場を作成することによってのみ、家計や企業による新しい支出が促進される。

4.クルーグマンの議論は、(1930年代にケインズがその誤りを暴露した)欠陥のあるニューケインジアン型分析 — 貸付資金仮説と貨幣数量説 — に基づいていた。

若田部昌澄が指摘するように、それでも吉川教授は、1997年の消費税増税によるメルトダウンの後、1990年代後半に財政拡大を支持した。

「リフレ派」による「流動性トラップ」としての日本の問題の描出は誤りであり、1930年代に流動性トラップ現象を分析したケインズの洞察を反映したものではなかった。

私は(中でも特に)以下のブログ投稿でその問題について論じた:

1. Whether there is a liquidity trap or not is irrelevant (July 6, 2011).

2. The on-going crisis has nothing to do with a supposed liquidity trap (June 28, 2012).

またさらに、ニューケインジアンあるいは「リフレ派」が論じた因果関係(これはクルーグマンらやその同類をモチベートした)には大いなる欠陥があった。

この主張についての問題については、以下のブログ投稿 — Q&A Japan style – Part 1 (November 4, 2019) [邦訳] — でも論じた。

関連する論点を要約すると:

1.リフレ派は、インフレの過程を理解するにあたって、古典的な貸付資金説の原則、ヴィクセリアンの実質金利リンク、および貨幣数量説の妥当性を信じているため、金融政策が日本でリフレーションを起こせると信じてしまっていた。

これらの概念はいずれも、現代の金融経済において有効な理論ではなく、1930年代以降にケインズやその他によって明確に誤りを暴かれた。

2.自然利子率は、貸付資金説(貸付資金市場が貯蓄者と投資家をマッチングさせるとする理論)の中心概念であり、自然利子率は、投資資金の実質需要が貯蓄の実質供給に等しい値とされている。

これは、ニューケインジアン型マクロ経済学の中核概念のままだ。

したがって、金利が自然利子率を下回ると、投資は貯蓄を上回り、総需要は総供給を上回ることになる。銀行融資(貯蓄を投資家にシフト)は、新しい貨幣を生成して投資ギャップに資金供給し、インフレを発生させる(逆の場合、つまり自然利子率よりも金利が高い場合は逆のことが起きる)。

主流派の立場は、金利が何らかの形で投資と貯蓄のバランスを取り、投資が貯蓄の事前貯蔵を必要とするというものであるが、そのどちらも間違っている。

現代では、ニューケインジアンは以下のように説明する — 中央銀行は、銀行の準備預金と銀行間市場を管理することにより、名目金利を制御する、と。

中央銀行は金利を操作して所与のインフレ率を目標とし、それによって実質金利に影響を与える。これは、貸付資金市場の通貨システムの外で決定され、貯蓄と投資の選好を仲介する。次に、貯蓄と投資の選好は生産性や、現在消費に対する将来消費の優先度といった要因を反映する。

これらの選好と実物経済が安定していれば、自然利子率は安定する。そのため、政策レジームは、適切な自然利子率を提供する名目金利設定を介して、インフレ率をターゲティングしようとするものとなる。

同じアプローチのもとでは、財政政策の拡大が金利に上方圧力をかける(「クラウディング・アウト」)と主張されるため、財政政策は不安定な力と見なされ、忌避される。

実際には、投資は所得調節を通じてそれ自体の貯蓄を生み出す。

貯蓄は所得に依存する金融変数だからだ。

さらに、銀行は信用に値する顧客に融資を行うのであって、利用可能な貯蓄に制約されるなどということはない。

融資は預金を創造する。預金が支出されると、支出後の余韻として所得と貯蓄を刺激する。財政赤字の増加から生じる金融的なクラウディングアウトは存在しない。

3.「リフレ派」は、日本銀行が大規模な国債購入キャンペーンを通じて銀行の準備預金を拡大すると、銀行が融資を拡張する能力を高め、それが経済成長を刺激し、インフレ率を押し上げると信じていた。

彼らは、中央銀行のマネー(銀行の準備預金)の増加が幅広いマネーの成長の増加につながり、貨幣数量説を介してインフレ率を引き上げると考えていた。

インフレへの期待が高まると、これによりインフレ率が自律的に上昇し始める。

低い名目金利の中でインフレ率が上昇すると、実質金利が引き下げられる。これは、貸付資金モデルによれば、投資と経済全般を刺激することになる。

上記のような、融資に先んじて準備預金の積み上げが必要であるとする銀行のサプライサイド・モデルは、現実を描写するものではない。これは、主流派金融理論のフィクションの1つである。

さらに、貨幣乗数というアイデアは誤りだ。

現実の世界では、銀行が借り手に信用を供与し、融資が預金を創造するため、中央銀行は、「金融の安定性を保つ」という綱領の一貫として、決済システムの整合性を保証する十分な銀行準備預金を確保しておく義務を負っている。

このため、準備預金は広義貨幣量に対して調節されるものなのであって、その逆ではない。

現実には、中央銀行にはマネーサプライを管理する能力はないのである。

したがって、銀行は、中央銀行から常に準備預金を取得可能であることを認識した上で、別のプロセスとして法律に則った準備預金水準を確保する。

こうした環境で中央銀行が信用創造に影響を与えることができる唯一の方法は、需要に応じて商業銀行に提供する準備預金の価格(訳注:銀行間市場金利のこと)を通じたものである。

「リフレ派」が理解していなかった(今も間違っている)のは、量的緩和が中央銀行による民間部門の資産スワップ(金融資産→準備預金)を意味しているということだ。

民間部門の純金融資産は実際には変化しないが、これらの資産のポートフォリオ構成は変更され(満期変換)、これにより利回りと収益が変化する。

こうして、投資資金のコストが低下する可能性があるため、総需要増加を齎し得る。しかし、一方で、より低い金利は、貯蓄者の利子所得を減少させ、それに応じて消費(需要)を減少させるであろう。

これらの相反する効果がどのようにバランスするかは明らかではないが、エビデンスは大したインパクトがないことを示唆している。

貨幣の総計(ベースマネー以外)が増加するためには、銀行が融資を増やして預金を創造する必要がある。これが主流派の信条の核心であり、量的緩和は経済を刺激して、生産減少と失業増加の下降スパイラルにブレーキをかけるということになっている。最近の経験(および2001年の日本の経験)は、量的緩和が上記を達成できないことを示すものとなった。

驚くべきことだが、絶対にあり得ないのである。主流派の見解は、銀行が貸し出す前に準備預金が必要であり、量的緩和がそれらの準備預金を提供するという誤った信条に基づいている。これは銀行システムの実際の運営方法についてのよくある誤解だ。しかしながら主流派は、銀行が事前準備を持っている場合にのみ貸し出すと(間違って)主張しているのである。

銀行の準備預金を構築しても、銀行の融資能力は増加しない。融資は預金を創造し、創造された預金が準備預金を導くのである。銀行融資は「準備預金による制約」を受けるものではない。

より詳細な議論については私のエントリをお読みいただきたい:

1. Money multiplier – missing feared dead (July 16, 2010).(*邦訳

2. Money multiplier and other myths (April 21, 2009).(*邦訳

3. Bank of England finally catches on – mainstream monetary theory is erroneous (June 1, 2015).

同様に、こうした失敗は、貨幣数量説という”まじない”(invocation)が虚偽であることを意味する。

貨幣数量説はMV=PQという数式に象徴され、この式はマネーストックに期間あたりの回転率(V)を掛けたものが、価格レベル(P)に実際の出力(Q)を掛けたものに等しいことを意味する。主流派は、Vは固定され(実証的には大きく変動しているにもかかわらず)、Qは市場調整の結果として常に完全雇用状態を保つと仮定している。

一般に、この恒等式が利用可能なものとなるには、VとQが固定であると想定する必要がある — つまり、経済は常に完全雇用状態にあると想定するわけだ(新古典派経済学者は、価格柔軟性が完全雇用状態を維持すると考える)。

こうした仮定の下では、Mの変化はPの変化を引き起こす — これは『マネーサプライの拡大はインフレ促進的である』という基本的な「リフレ派」の主張と同じだ。 彼らは、過剰な貨幣成長によって多すぎるお金が少なすぎる商品を追いかける状況が作り出され、それに対して可能な調整は名目(つまりインフレ)だけだと主張している。

ケインズは、物価水準変動が貨幣供給の変動に影響されていない(その逆も然り)ということを観察した上で、金融システムの運営方法についての考え方を変え、彼のマーシャリアン的(貨幣数量説的)基礎から決別したのである。

さらに、さまざまな時期においてキャパシティと労働力の多くが未活用であることから、Qが固定されているという見解を本気で維持することはほぼできない。総需要の名目成長に合わせた実物的調節範囲(つまり、産出の増加)が常にある。したがって、信用の増加が可能となり、融資によって創造された預金を使用して借り手が商品やサービスを購入した場合、キャパシティ余剰のある企業は価格ではなく生産量を増やすことで対応する可能性がある。

1990年代後半に日本の商業銀行が融資を減らしたのは、潜在的な借り手がリスク回避的になり、銀行に自らを融資先として提示しなかったからだ。

「準備預金」の不足とは何の関係もなかったのである。量的緩和による準備預金の追加が悲観的な見通しを変えることは決してなかっただろう。

「リフレ派」は、大停滞を需要側の問題と論じ、構造改革(賃金削減、雇用保護の削減、民営化、福祉削減など)をいくらやっても解決することはできないと主張した点においては正しかった。

しかし、彼らは大停滞が実質金利が高すぎることと関係があると信じていたのは間違いだった。

名目金利がゼロかその付近に近づいたため非標準的な金融政策(QEなど)が必要になるのだという彼らの信条もまた、間違いだったのである。

より詳細に論じているその他の関連エントリについては以下の通り:

1. Investment and interest rates (August 10, 2012).

2. The natural rate of interest is zero! (August 30, 2009). (*邦訳

3. Why investment expenditure is insensitive to monetary policy (June 22, 2015).

4. Monetary policy is largely ineffective (April 8, 2015).

5. Building bank reserves is not inflationary (December 14, 2009). (*邦訳

6. Printing money does not cause inflation (March 17, 2011).

7. Modern monetary theory and inflation – Part 1 (July 7, 2010).

8. Modern monetary theory and inflation – Part 1 (January 6, 2011).

結語

重要なのは、MMT派経済学者は、1990年代後半に日本で「リフレ派」が主張したような物語を支持しないということだ。

それは明らかに虚偽であり、実施されたとき、上述の理由でその目的は達成できなかった。

日本が政治的に制約された環境であったとはいえ、オプション(A)の価値を認めるために「リフレ派」のビジョンや因果推論に同調したりはしない。

木曜日に、こうした知見を検討中の特定の質問に関連付け、そして最後の声明を論じる。

今日はここまで!  


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