5.2.5: ジョン・ピーター・オルトゲルドの経歴: オルトゲルドはドイツに生まれた。1848年、生後3ヶ月だったオルトゲルドを連れて両親はオハイオ州に移り住む。南北戦争では北軍に参加。バージニア州タイドウォーターのモンロー要塞でマラリアにかかり、生涯にわたって苦しむことになる。戦後、オルトゲルドは高校を卒業して鉄道作業員や学校教師などをして転々と渡り歩きつつ、どこかで法律を学ぶ。1872年、ミズーリ州サバンナで市法務官 (city attorney)、1874年には郡検事となる。1875年、オルトゲルドは『罰せられるべき我らの機械とその犠牲者』(Our Penal Machinery and its Victims) の著者としてイリノイに姿をあらわす。1884年のオルトゲルドはふるわない民主党議員候補だった――そして、民主党大統領候補グローバー・クリーブランドの強力な支持者でもあった。
1886年、オルトゲルドはクック郡上位裁判所判事に選出される。この時期のどこかで、オルトゲルドは不動産投資と建設業で金持ちになっている――最大の物件は1891年にシカゴに建てられた16階建のユニティ・ビルディングだ(ノース・ディアボーン・ストリート127番地)。知事としてオルトゲルドは議会にロビー活動を行い、当時のアメリカでもっとも厳重な児童労働禁止法案と職場安全性法案を可決させ、教育予算を増加させ、州政府の上級職に女性を任命させている。
大半が共和党系または共和党に資金を得ている新聞報道は、ジョン・ピーター・オルトゲルドがヘイマーケット爆破犯に恩赦を与えたことを非難した。以後、生涯にわたってオルトゲルドは全米(とくに東海岸)の中流階級向け新聞紙の読者たちにとって外国生まれの異邦人アナーキストで社会主義者の殺人上等イリノイ州知事として記憶されることになる。
1894年5月11日に、プルマンコーポレーション(寝台車と関連設備の製造会社)の従業員が賃下げを拒否してストライキをうつ。オルトゲルドの友人クラレンス・ダロウは、自分の視点からストがどう見えたか、スト側の弁護士となったいきさつ、そして指導者ユージン・V・デッブズのことを自伝に書き綴っている。
私はシカゴ・ノースウェスタン鉄道の弁護士になった。(…)ありとあらゆる相談がもちかけられた(…)傷害が起きた場合の会社の法的責任はどうなのか、積荷が行方不明になったときはどうだ、法律・条例の起案をどうすればいい等、鉄道会社の利害に関わる無数の相談だ(…)。[ストライキは]鉄道交通全般の障害を[引き起こした](…)。シカゴ・ノースウェスタン鉄道は他のあらゆる道路と関わりがあった。オフィスにやってきた人々は誰もがストライキのこと以外ほぼなにも頭になく、誰もがその話をしにきていた(…)。
操車場にあった[鉄道]車両が大量に燃やされ(…)どちらの側もこの火災に責任があるのは向こうの方だと言い張った(…)。誰が火をつけたのか私にはまったくわからない。ただ、操車場にいた人々の大半がスト側に共感していることにホッとした(…)。これまで、いろんな争議や他社でのストライキに関わってきた。民兵での争議にも関わったことがある。そうやってあちらこちらを観察してわかったのだが、総じて彼らは本心ではスト側に共感しているのだ(…)。産業界での争いでは、ありとあらゆる態度や心の葛藤が現れる。どちらの陣営でも、およそ平時には夢にも思わないようなことをいくつもやってのける(…)。
ストライキが本格的になったのは、鉄道会社が連邦裁判所に差止処分の申し立てをしてからだった(…)。〔著者がスト側の弁護士を引き受ける少し前に、エドウィン・ウォーカーが鉄道会社側の弁護士になったという話につづいて〕エドウィン・ウォーカー氏は(…)シカゴ・ミルウォーキー・セントポール鉄道会社、管理職組合 [General Managers’ Association] の顧問弁護士であり、しかも合衆国の特別検事でもあった。これは公平じゃないと私は思った(…)。デッブズ氏や大勢の私の友人たちがこの裁判の相談にやってきた(…)。私は彼らの側に立つことにした。貧しい男たちが、生活の糧を失おうとしていたのだ(…)。
そこに例のグローバー・クリーブランド大統領が会社側の言い分を尊重してストを抑える決定を下す。彼の命令によって、合衆国法務長官リチャード・オルニーが裁判所にストの禁止命令を出させて、列車の運行妨害も運行妨害を手助けする一切の行為も禁止する――さらに、シカゴへの部隊の展開を軍に命令する。オルトゲルドはこれに抗議した。オルトゲルドはクリーブランドに電報を2本打って指摘する――憲法4条4項によって大統領が国内の暴動に対して国内で部隊を運用する権限が認められているのは「[州]議会の要請または(議会の招集ができない場合には)行政府の要請に応じ」るときにかぎられる。クリーブランドはこれに対して、暴徒やアナーキストや社会主義者から財産を保護する方が重要だと応じた:「シカゴにハガキを配達するのに合衆国陸軍と海軍がまるごと必要だろうと、ハガキは配達するんだよ」
1894年7月7日、デッブズその他の組合側指導部は差止命令違反で逮捕され、ストライキは解散となった。
ダロウが連邦政府の介入を要約して述べているように:
オルトゲルド知事は、シカゴに部隊を送り込む権限などありはしないと主張した。明らかにそのとおりだった。(…)連邦政府の部隊が示威のために送り込まれた(…)憲法にも違反し法律にも違反し人々の自由を侵害しての示威行動だった(…)。デッブズ氏をはじめ組合役員は全員、禁止を受けた。なにを禁止するというのだろう? もちろん、誰にもわかるはずがない(…)。
男たちは大挙して同社を去った。賃金切り下げと労働条件悪化を避けるためだ。鉄道会社は抗議した。譲歩すれば費用が高くなるからだ(…)
どちらの側も正しかった。だが、私としては、従業員たちが勝つのを見たかった。労働者がどれだけ受け取るべきなのか決める方法を私は知らない。労働者がどれだけ手にするべきなのか、それを決めるのはその人がどれだけ手に入れられるかしだいで、誰でも報酬はそうやって決まっているように思える(…)。デッブズ氏をはじめとする組合役員たちは連邦大陪審によって有罪判決を下された(…)。いまでも人間の自由を守ることに関心をもっている市民がいるなら、合衆国の共謀罪に関する法律を彼らに学ばせてやってほしい。
その後、オルトゲルドは決意する。クリーブランドのような中道派ではなく、民主党の民主派の民主主義候補が大統領選に出馬しなくてはならない。オルトゲルドは、1896年の党大会でグローバー・クリーブランドを民主党から追い出すことに決める。オルトゲルドは各地の特別州大会で草の根運動を組織し、金本位制の撤廃を公然と支持する州憲章を主張する――金1オンスに対し銀16オンスの比率で銀貨発行を自由にするようオルトゲルドは主張した。そして1896年の党大会でオルトゲルドは党の綱領を掌握する:新綱領は、(クリーブランドが支持した)金本位制を糾弾し、(クリーブランドが命じた)労働組合に対する政府介入を糾弾し、(クリーブランドが違背した)連邦主義を支持した。さらに、新綱領は最高裁判所に所得税に関する憲法改正をさせることを求めるとともに、労働組合をつくる自由の支持と個人の自由と市民の自由の支持を求めた。
オルトゲルドは、もと合衆国上院議員リチャード・P・ブランドを民主党の大統領候補に指名させようと模索した。だが、若きウィリアム・ジェニングス・ブライアンにはそれと別の考えがあった――そして、党大会はこれに熱狂する。グローバー・クリーブランド大統領と支持者たちは民主党を捨て、元共和党イリノイ州知事でかつて南軍の将軍でもあったジョン・M・パーマーと元ケンタッキー州知事でかつて北軍の将軍でもあったサイモン・ボリバー・バックナーを出馬させる。ウィリアム・ジェニングス・ブライアンとアーサー・シーウォルから票を奪い取ろうとの目論見だった。
共和党の熱烈な支持者だったセオドア・ルーズベルトはこう主張した――民主党がブライアンを候補に指名しても、合衆国の真の支配者はもっと悪どいオルトゲルドになるだろう:
ブライアンよりもオルトゲルド氏の方がずっと危険だ。もっと狡猾で、ずっと知恵が回る。ブライアンほど愚かでなく、しかも公共の道徳の制約からずっと自由だ。同じくタチが悪くとも、片方は虚栄心でそうしているのにもう片方は計算ずくでやっている。一方は深い考えもなくただぺちゃくちゃと雄弁を弄して[金本位制の]全面廃止を企てている。なぜなら知性が欠けているからだ(…)。もう一方は、周到な狡知でまぎれもない殺人を黙認してみせる。その理由は、当人の邪な魂のほかには誰も知るよしもない。アメリカがこういう男たちに運命を委ねることになるなど、およそ考えるのも耐え難い不名誉というものだ(…)。
そんななか、『ハーパーズ』誌が割って入って、どう考えるべきか東海岸のオピニオンリーダーたちにこう説いた:
オルトゲルド知事が(…)頭脳で(…)彼が(…)ブランド氏ではなくブライアン氏を選んだのだ(…)ブライアンは(…)野心家で恥知らずなあのイリノイの共産主義者に抜け目なく操られて、粘土のようにどうとでも形を変えられることだろう(…)銀の自由鋳造は(…)彼の政治信条の根幹をなす教説である全面的な社会主義への一歩に他ならない(…)。ブライアンはこの古き政党制、古き伝統、建国以来ずっと政府を動かしてきた不可欠の政策を転覆せしめようとしている(…)
ブライアンとシーウォルはマッキンリーとホーバートに敗北する。
〔19世紀末の大統領選で、共和党候補の結果は次のとおりだった〕
〔原文は普通の段落だったが箇条書きにあらためた〕
ブライアンは 600,000票差で敗北する――近年の民主党大統領候補に比べると 700,000票近くの遅れをとった票差だ〔この箇所、意味がわからない〕。ブライアンとシーウォルの敗北は選挙人投票で95票差、一般投票で5パーセントポイント差だった。ケンタッキー州・アイオワ州・イリノイ州の票しだいでは結果はちがっていてもおかしくなかった。だが、アメリカの有権者の重要な浮動票は、当時、民主党の民主派の民主的な候補を望んではいなかったのだ。
有権者のなかの重要な中道は、財産の保護かそれとも財産を危険にさらしても機会を増大するかの選択を問われて、財産を選んだ――なぜなら、財産を持っていたか、あるいは財産をもっていると思っていたからだ。再分配で利益を得る人々には、なんらかの意味でそんな資格のない者たちが多すぎると彼らは思っていた。ヘイマーケット事件後に証拠もなく有罪にされた人々を赦免したりプルマンのストライキ団を支持したりというごく薄い〔労使間の力の〕水平化ですら、20世紀初頭のアメリカには耐え難いほど水平化の度が過ぎていたのだ。
(6/6につづく)
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