ブランコ・ミラノヴィッチ「歴史の終わりの終わり:私たちはこの戦争で何を学んだのだろう?」(2022年3月2日)

The end of the end of history
What have we learned so far?
by Branko Milanovic

戦争は最も恐ろしい出来事だ。絶対に起こってならない。全人類はその努力でもって、戦争を実行不可能に追い込まねばならない。違法化するだけに留まらず、誰しもが実行できない、あるいは始めるインセンティブを持たないようにするような、不可能化が求められている。

しかし残念なことに、我々はまだそこには到達していない。人類はそこまで進化していないのだ。我々は今、非常に残酷なものとなるかもしれない戦争の真っ只中にいる。

戦争はまた、(冷酷に思えるかもしれないが)我々の先入観を見直す機会にもなっている。物事は、突如として鋭く焦点化する。信念は幻想に変わり、懐疑論は無意味となってしまう。私たちは、前日まで想定してた世界ではなく、現前に広がる世界に対処しなければならない。

では、ウクライナ・ロシア戦争が始まって1週間、私たちは何を学んだのだろう? 私は、結果ついては推察しないつもりだ。それは誰にもわからない。ウクライナが占領・征服されて終わるかもしれない。ロシアの解体で終わるかもしれない。どのような形であれ中庸で終わるあらゆる可能性もあるだろう。私も、読者も、プーチンも、バイデンも行く先は知らない。なので私は推察を行わない。

しかし、私たちはこれまで何を学んだのだろう?

1.寡頭政治の力〔癒着する資本層の力の脆弱さ〕

国家存亡の危機を前にすると、寡頭政治〔訳注:ここでは資本家等上流階級による癒着による政治的影響力のこと〕の力は限定的なものとなる。ロシアは寡頭的な資本主義経済であり、富裕層が政策に決定的な影響を与えていると私たちは考える傾向にあった。おそらく、非戦時下での政策決定はそうに違いない(これは、ロンドンやニューヨークに住むオリガルヒ [1]訳注:ソ連解体後の資本経済の移行後に登場した新興の富裕層 ではなく、モスクワやサンクトペテルブルクに住み、有力な民間企業や半国営企業のトップや大株主であろう人を念頭に置いている)。しかし、国家的問題が深刻になれば、組織化された権力、つまり寡頭政治体制は、国家的には些事となる。戦争が始まる数週間前、アメリカは経済制裁の脅威を目に見える形で示し、大々的に宣伝した。これによって、ロシアのオリガルヒは、所有しているヨットをアメリカの管轄外に移動させたり、財産を火急に処分したかもしれないが、戦争を始めるプーチンの決断に一切の影響を与えられなかった。

また、ロシア人大富豪によるイギリスの保守党やアメリカの民主・共和両党への金銭的影響も、〔英米の政策に〕何の影響も与えなかった。アメリカの建国理念となっている「私有財産の神聖さ」(これによって、オリガルヒは〔ロシア国内から〕搾取した富をアメリカに蓄えておくことがでている)もまた、〔アメリカの対ロシア政策に〕何の影響を与えていない。アメリカは、おそらく史上最大規模での富の移譲を実行した。これは、ヘンリー8世の、教会用地の差し押さえに相当する規模だ。国家内での、このような大規模な資産の没収は過去にあったとしても(フランス革命やロシア革命)、国家間で24時間以内に一挙に行われた今回の事例は前例がないだろう。

2.金融の分断化

結果、超富裕層は、たとえ市民権を変更したり、政治活動に関与したり、資産の一部を文化的活動にまわしたとしても、政治権力からの安泰が保証されなくなった。超富裕層は自身でコントロールできない地政学の犠牲になる可能性が生じたのである。これは、彼らの権限をはるかに超えており、場合によっては想定の範疇外である。過度に金持ちのままでいるには、これまで以上に政治的抜け目なさが必要となってしまった。今回の差し押さえに対して、世界的な富裕層は、これまで以上に本腰を入れて国家機構を掌握せねばならないと解釈するのか、投資のための新たな避難場所を探索しなければならない解釈するかか、このどちらかを取るかどうかは分からない。おそらく、グローバル化された金融の分断化と、アジアにおける新たなる代替金融センターの創設につながるだろう。それはどこになるだろう? ある程度の司法の独立性があり、米国・欧州・中国の圧力に屈しないだけの国際的な政治的影響力と行動力を持つ民主国家が有力候補になるだろう。ボンベイやジャカルタなどを思い浮かべることができる。

3.歴史の終わりの終わり

私たち――少なくともある種の人々は――「歴史の終わり」が1989年11月に一夜にして到来し、最終的な政治・経済システムは自明となり、国際紛争という手段が遺物となり二度と具現化しないだろうと信奉する傾向にあった。後者は、イラク、アフガニスタン、リビアに至るまで、何度も間違いが証明されている。この証明において、さらなる残忍なデモンストレーションが今まさに実行されようとしている。記録に残る人類史5000年おいて実践されてきたにもかかわらず、時代遅れと思わてきた手段が行われ、国境が引き直されようとしている。

今行われている戦争は、世界の複雑さ、そして文化的・歴史的「荷物」がどれだけ重いものであるかの証明であり、なんらかのシステムが最終的にあらゆる人に受け入れられるとの考えが妄想であることを私達に示している。こうした妄想に取り憑かれてしまえば、血塗られた結果に至る。我々は、平和を得るために、互いに違うことを受け入れねばならない。この「互いに違うこと」とは、現在喧伝されている「多様性を受け入れよう」といった些末な違いなどではない。私たちが受け入れ、共存のために必要とされている「違い」とは、もっと根本的なもの――社会のあり方、信奉するもの、何を政府の正当性の源と想定しているのか、といったものに関係している。むろん、過去に何度も見られたように、社会によってはそうしたものは変化するだろう。しかし、特定時点においては、それらは国家・地域・宗教によって異なっているのだ。「私たちのよう」でない人は、皆、何らかの欠陥がある、「私たちのよう」になれば良いのに気付いていない、などと決めつけるような欠陥だらけの信念を抱き続けるなら、それは終わりのない戦争の元凶であり続けるだろう。

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1 訳注:ソ連解体後の資本経済の移行後に登場した新興の富裕層
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