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マーク・コヤマ「伝染病と国家:『健康』と『自由』のトレードオフは回避できるのだろうか?」(2020年8月28日)

Epidemic disease and the state
Words by Mark Koyama, Works in progress, 28th August 2020

西洋民主主義国家は、COVID-19への対応で躓いているようだ。「健康」と「自由」の間には関係性が存在するが、これを解きほぐすことは可能なのだろうか?

アメリカ合衆国は2つのショックで動揺している。新規の伝染病が野放しで拡散していること。ジョージ・フロイドの殺害を受けて始まった抗議活動が制御不能になっていることだ。似たような抗議活動は、人種差別的な警察活動や警官の暴力といった問題ではアメリカと全く異なっているイギリスのような他の西洋国家にも波及している。国家と社会の関係性における危機を、パンデミックは増強することなっている。

これは、部分的であれ国家の有効性の危機だ。ある社会はCOVID-19への対応に苦戦し、また別のある社会は秀でているように見える。なぜだろう?

韓国、台湾、シンガポール、ベトナム、日本のような多くの東アジア社会は、ニュージーランドやオーストラリアと同様に、COVID-19に対して、相対的に成功を収めているように見える。他の社会(イギリスやアメリカのようなリベラルな西洋国家だけでなく、ブラジルやインドのような国も含む)では、対応は緩慢であり、死亡者数も多い。

なぜだろう? そしてこれは、有効的な国家を形作るものが何であるのかを、我々に教えてくれるのだろうか? 以上の問いに答えるには、「国家の有効性(state effectiveness)」という概念や、学術文献おいてポピュラーな用語「国家の行使能力(state capacity)」を用いるのが必要となっている。

国家の行使能力(state capacity)」とは、国家が政策を制定し実施する能力のことだ。これは、大抵は2つの要素に分けられている。一つ目は、「財政行使能力」だ。これは、脱税の蔓延を防ぎ課税によって歳入を調達する国家の能力のことである。二つ目は、「行政行使能力」もしくは「法的行使能力」だ。これは、規則を制定し執行する能力のことだ。財政行使能力が重要なのは、国家は運営するためには歳入が必要だからである。行政・法的行使能力が重要なのは、国家が定めた政策目標を、実際に運用するのを可能としているものだからだ。このアナロジーは完璧なものではないが、国家の行使能力を、資本の一形態と考えることができるため、有意義な要旨となっている。〔資本と考えることで〕国家の行使能力を作り上げるには、投資が必要であることや、容易に劣化・腐食する可能性があることが示唆される。

現行の出来事は、西洋国家や西洋社会の行使能力が著しく低下しているのを示しているのだろうか? 「西洋の制度や社会が衰退していっている」と考えている人は昔からずっと存在してきた。過去の「衰退論者」の多くが行ってきた説明は、オオカミ少年だったり、過度に悲観的だったことが証明されてきている。では、今回は違うのだろうか? このエッセイでは、「有効な国家を作り上げているものが何か」について、「国家」と「公衆衛生」というレンズを通して論じてみよう。

1月に危機が勃発した時、武漢のロックダウンは、専制国家にしか行えない過酷な政策のように見なされていた。対照的に、西洋諸国では、政府による権威主義的な対策は遅々として進まなかった。アメリカやその他の国は、中国からの飛行禁止処置を施行したが、早期に感染の中心拠点となったイタリアへの往復飛行便は継続させている。

イスラエル、韓国、シンガポールとは対照的に、西洋諸国の政府は、パンデミック初期には、国民にもっと頻繁に手を洗うよう勧告しただけで、ほとんど、あるいはまったく対策を講じていない。このような態度は、特にイギリスでは顕著で、イギリス政府は、プレミアリーグの試合中止や、集会の制限を強要せず、政治家や役人は矛盾・混乱した勧告を行っている。こうした状況は、3月下旬にスウェーデンを除くほとんどの西洋諸国が、厳格なロックダウン(今や緩和されているが)を実施したことで、様変わりすることになった。

リベラル派は、個人の自由にこのような大規模な制限を課すことには慎重になるべきだと考えている。そして、彼らは「感染症勃発初期の危機が永続するようなら、その感染症への対応によって、我々の自由が失われる危険がある」との〔リベラルからみれば〕当然の懸念を表明している。もし、公衆衛生と自由との間にトレードオフがあるのなら、リベラル派が懸念する通り、これはたしかに厄介事である。この件では、歴史的観点に立ち返ることが有益だ。

天然痘と国家

自由と健康との間にトレードオフはあるのか? これは、ヴェルナー・トレスケンが“The Pox of Liberty (自由という梅毒)”で問うたテーマだ。惜しむらくも2018年に早逝したトレスケンは、最後の本で、このようなトレードオフの可能性について詳細に説明し、トレードオフを緩和する方法について論じている。

このトレードオフの前提は単純だ。個人の対処では、伝染病の拡散を抑制するには不十分なのだ――特に、大規模で密集した都市環境では。都市環境では、外部性は単純だがあまりに大きく、外部性を計測して割当するにはコストがあまりにかかりすぎる。

地方自治体や都市行政でも、外部性を内部化できないかもしれない。封じ込め政策、検疫、強制予防接種を実施するのに、最適な立場にあるのは中央政府だ。しかしながら、こういった政策は、しばしば個人の権利と自由を踏みにじる必要性を生じさせる。

トレスケンは“The Pox of Liberty (自由という梅毒)”で、19世紀アメリカにおける三大感染症である天然痘、チフス、黄熱病に焦点を当てている。トレスケンは以下のようなパズルを提示している。「20世紀初頭には、アメリカは世界で最大かつ最速の経済成長を遂げた。しかし、アメリカ人は豊かになったにも関わらず、健康転帰1 、特に感染症に関しては停滞していたのだ」。

1900年だと、アメリカの天然痘の死亡率は、デンマークやカナダの31倍だった。ソ連は、アメリカより先に天然痘の根絶に成功している。トレスケンによるなら、しばしば「アメリカが感染症の根絶において遅れをとったのは『豊かで自由であったにも関わらず』ではない、『豊かで自由であったから』なのだ」ということになる。

トレスケンは、天然痘について研究し、予防接種の義務政策を施行する際の特徴と実施において、アメリカの連邦主義が、地域ごとの差異を許すことになっていたのを示している。予防接種の法的強制力が弱い州では、強い州に比べて、天然痘の発生率が10倍も高かったのだ。当時もし、天然痘やその他感染力の強い病気に対して、国家レベルで予防摂取政策を義務化し実施することができる強力な中央政府があったなら、死亡者数はより少なくなっていただろう。これこそ、自由と公衆衛生のトレードオフである。

諸国家だと、19世紀後半では、一人当たりのGDPと天然痘発生率との間に、U字型の関係が見られることを、トレスケンは発見している。中国、アルジェリア、エジプトのような貧しい国は、天然痘の発生率が非常に高くなっている。アメリカ、スイス、イギリス、オランダのような豊かで自由な国では、天然痘の発生率は中程度だった。一方、スウェーデン、デンマーク、ドイツのような比較的中所得だった国は、豊かで自由な国より中央集権化されており、集団予防接種の義務化に着手したことで、天然痘の発生率が最も低くなっている。最近の世論調査でも、1/3ものアメリカ人が、「自分はCOVID-19のワクチンを利用しないだろう」と答えている。

〔公衆衛生の〕一連の技術革新は、特にワクチン接種の分野において、数え切れないほどの多くの命を救っている。しかしながら、伝染病との戦いにおいて、一般のアメリカ人の生活に、以前よりはるかに大きな政府の介入を許すことになってしまったのも事実だ。

実際、当時のアメリカの知識人達は、「病気の細菌説」を批判している。トレスケンは、“State Medicine: A Menace to Democracy (国家医療:民主主義の危機)”の著者H.B.アンダーソンを引用しているが、アンダーソンは「細菌説は、個人に自由と敵対する、多数の法律・規則・規制の基礎となってきているのです」と語っている。当時の知識人達が保持していた公衆衛生への恐怖は、天然痘ワクチン接種だけに限れば、根拠がなく、生命を犠牲にするものだった。しかしながら、もっと一般的なレベルに敷衍してみれば、確かな根拠に基づいたものでもあった。当時、アメリカの医療機関は、権限を乱用しており――例えば、特定の集団、特にアフリカ系アメリカ人に対して強制的に不妊手術を行ったり、実験対象にしている。

こういった見解を支持する必要はない。しかしながら、「トレードオフが事実であった」のは、ある程度までは受け入れねばならない。反ワクチン主義者達が誤った考えを持っていると見なすのは簡単だ。しかしながら、天然痘の予防接種に反対した人達は、犯罪者や「精神的不適格者」に対する強制的な不妊手術法に反対している。ワクチン接種に反対していた19世紀後半の人は、「自由」という言葉を不誠実に使用していない。

ただ、健康と自由のトレードオフは、決して避けられないものではない。回避は可能であり、事実回避されてきている。長期的に見れば、アメリカにおいて富と自由は、科学研究と経済成長の重要な動力となり、大学や研究機関が世界最高になるのを可能にしている。開かれた科学研究は、リベラルな社会で盛んとなっているのだ。

また、必ずしも「より大きな国家」とならずとも、国家は「より効果的」になることでも、トレードオフの回避が可能だ。このような国家は、危機の間は強圧的な権力を行使するかもしれないが、危機が収まった後は、その強圧的な権力を手放したり、悪用を止めるかもしれない。あるいは、より効果的になることで、強圧的になる必要がないかもしれない。これは空想的に聞こえるだろう。しかし、伝染病への対応が遅かったアメリカやイギリスやブラジルよりも、いち早く対応した社会の方が、個人や企業への規制を迅速に解除できているのだ。

国家がこのトレードオフを回避できる別の手段もある。それは、強圧的であるより、より効果的になることだ。韓国政府は、検査の規模を拡大し、厳格に接触を追跡する政策を実施する、非常に迅速な対応をとっている。韓国では、感染者は、政府の検疫所に隔離されている。対照的に、アメリカでは、COVID-19への検査の導入に失敗している。アメリカでは、最初期の検査は不完全なもので、当初には中国への渡航歴がある少数の個人しか利用できていない。連邦政府は州に責任を添加し、州知事の裁量に任されることになっている。無症状患者がウィルスを蔓延させているという情報は、広範に入手可能であったが、役人によって否定されている。

イギリスの対応も失敗続きだった――大規模なスポーツイベントは2020年3月中旬まで開催され、医療用マスクの有効性について当初は効果がないと揶揄されたが、数ヶ月後には公共交通機関や商業施設で着用が義務化され、悲喜劇な様相を呈している。

この失敗の結果、〔イギリスでは〕怪しげなことを主張した専門家や政治家に対する国民の信頼が低下し、国家の有効性を全体に低下させることになっている。

何が国家の有効性を形作るのだろうか?

「国家の行使能力」という概念は、20世紀後半の東アジアの奇跡の状況下に、開発研究の専門家達から最初に関心を引いている。

開発を専門とする学者達は、韓国と台湾政府を表現するために、「開発国家」という言葉を編み出した。経済学者達は、韓国は輸出主導型の開発戦略を成功させることができたように見えたのに、南米やアフリカ諸国が失敗してしまったのはなぜなのかを、自問自答している。

韓国では、政府は介入主義的な政策を取り、腐敗問題を多く抱えており、1980年になってようやく民主国家になったので、経済学者達は〔韓国の成功に対して〕「自由市場」と「汚職の除去」といった単純な回答が不可能になっていたのだ。シンガポールもまた、別の成功した開発国家だが、未だに民主主義国家ではない。

事前に、韓国が急速に発展すると予測した人はほとんどいなかった;1960年当時だと、開発の専門家達は、アフリカのサハラ以南の旧植民地国家の方が将来性が高いと考えていたのだ。事後となってみれば、韓国は国家レベルで、人的資本に投資し、レントシーキングを制限し、特定産業への戦略的投資を行った手腕が、決定的な要因であったと考えられている。この韓国の手腕こそが、「国家の行使能力」と言われているものである。

しかしながら、「国家の行使能力」の概念はどのように計ることができるのだろう? この疑問に答える場合、「政府部門の規模」は、「国家の行使能力」を意味していないことに注意しなければならない。政府支出では、韓国は〔国家の総GDP比で〕32.8%であり、イギリスの39.3%より低くなっている。政府部門の規模は、国家の行使能力の尺度になっていないのだ。

合衆国が、どのようなライバル国家に対しても、空爆で壊滅させられることに疑問の余地はないだろう。多くの点で、アメリカの国家能力は、巨大さを維持している。アメリカ以外の政府は、合衆国のような国力を持ってはない。しかし、合衆国政府は、強力なリヴァイアサンとしての要素では、明らかに老朽化しているように見える。トランプ政権下で、国務省の人員が大幅に不足していることはよく知られている。同様に、経済諮問委員は現状ではたった一人しかいない。しかしながら、これはトランプ政権だけに限った話ではない。2013年、オバマ政権下では、医療保険制度改革法案のウェブサイトの立ち上げ失敗が露わになっている。この時は、ログインの問題などが生じ、初日に登録できたのはたった6人だった。同様の〔行政〕行使能力の欠如が原因となって、ニューヨークのような都市では、費用対効果の高いインフラを建築することが不可能になっている

今年の春、COVID-19によって全米が大混乱に陥り始めた時、特に関心を引いたのが、FDAの機能不全ぶりだった。FDAはマスクの輸入阻止に労力を注ぎ、シアトルで行われていた革新的なCOVID-19の検査プログラムを(一時的に)禁止させている

これは、左派的には、緊縮財政と基幹的な行政サービス廃止の物語だ。しかしながら、CDC〔Cnters for Disease Control and Prevention:合衆国疫病対策センター〕の予算は、1987年以降、インフレを上回るペースで増えているのだ。CDCへの資金提供は、他の機関への政府支出をも相対的に上回っている事実もある。

問題は予算ではない。使い道である。予算は、感染症の研究よりも、サウナやフィットネスセンターを備えた豪華なオフィスビルに使われている。FDAの予算は、1987年以降、実質ベースで5億9000万ドルから6倍以上に膨れ上がっている。この件は、資源と人材が豊富であるにもかかわらず、「国家の行使能力」が悲惨な有様に至っていることを物語っている。合衆国は、この病理の極端なケースを示しているが、他の先進国でもこの疾患は明らかになっている。

国家の行使能力をメンテナンスする

国家は、どのようにして、行使能力を構築したり、喪失したりするのだろう? 完全な答えを出すのは不可能だ。明らかなのは、レントシーキングが、国家の効率性を最も阻害していることである。

医療保険制度改革法が効果を発揮できなかった理由の1つが、民間保険の買取が必要となっていたからだ2 。農業利権者は、長期に渡って、政治家へのロビー活動に成功しており、結果ほとんどの富裕国で非効率な農業制度が行われている。合衆国のCOVID-19の対応が芳しくなかったのは、部分的だが、このような病理の深さの反映である。

ただこれだけでは、公共選択理論の学者によって診断された「官僚的病理」というものに、ある社会は、他の社会よりも罹患しやすい理由を説明してくれない。

マンサー・オルソンは、民主主義が長続きすれば、利権集団が十全に組織されることで、経済を逼塞・硬直化させるだろう、と主張している。オルソンの分析は、サッチャー改革以前の1970年代のイギリス経済の悲惨な実態に触発されたものだ。対照的に、オルソンの分析に従うなら、西ドイツは、第二次世界大戦後、既得権益が定着していない状態で始まったが故に成功した、ということになる。

「国家の行使能力」に関する多くの文献からは、市民社会の役割が見落とされているのかもしれない。

国家は、市民社会によって補完されたときに最も効果的になる。

この先行文献での市民社会の役割の軽視は、ダレン・アセモグルとジェームズ・ロビンソンの新著“the Narrow Corridor (狭い回廊)”〔邦題は『自由の命運 国家、社会、そして狭い回廊』〕で改善されている。アセモグルとロビンソンによるなら、社会の発展には、国家の行使能力の構築と市民社会の台頭の両方が必要とされている。アセモグル&ロビンソンは、国家が不在だとホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」が起こると主張している。

逆に、市民社会に対してあまりに強圧的な国家は、抑圧的なリヴァイアサンと化してしまう。国家は不在でも強圧的過ぎても、経済発展の持続性、あるいは長期的に続く可能性が低くなるのだ。しかし、国家と社会が均衡した「狭い回廊」の中では、繁栄と自由な社会秩序の達成が可能となる。加えて、この狭い回廊内では、国家のより強力な発展が、市民社会のより強力の台頭に補完される好循環が生じるとアセモグルとロビンソンは主張している。

このような国家の力の成長は、市民社会の組織化と活性化の増大を誘発し、国家権力の乱用の抑制や防止を可能とする。戦時によく起こるように、市民社会が国家が一体となった場合、社会内や、社会と国家の間に緊張感がある場合よりも、国家はより効率的なものとして具現化するだろう。負のスパイラルも起こりうる。国家の有効性が低下すると、大抵は政府や社会に対する信頼性は低下する。

COVID-19危機の渦中においては、このダイナミズムの識別が可能となっている。東アジアの社会は、COVID-19への対応に最初期には最も成功している。これは、これらの国々では、市民社会も〔国家の対応〕に呼応したからである。このことで、韓国と台湾では、厳格なロックダウンが不要となっている。ドイツも同様であり、政府への高い信頼を背景に危機を乗り切ったように見える。

対照的に、合衆国では、社会が一丸となって、感染症や経済危機に立ち向かわねばならない時期に、社会の分断が爆発的に広がってしまったことが懸念されている。トランプ大統領がマスクを着用するようになったように、最近は有望な兆候が見られるが、5月から6月にかけては、マスク着用が左派と右派の間での政治的な分断線のトレンドになっていたのだ。病気の蔓延を緩和するために個人が対処可能な、見たところ効果的で、最も安価な対策が政治争点化してしまったのだ。

しかし、問題はもっと深刻かもしれない。根付いた利権集団に関するオルソンの見解では、西洋において国家・社会の行使能力は、再建するのが困難であろうことが示唆されている。その上、このオルソンの議論を少し敷衍してみれば、国家の行使能力は、循環的である可能性が示唆される。西洋国家は繁栄を長期に謳歌すること自体をもってして、その国をレントシーキングで太らせしまう。韓国のような新しく豊かになった国は、国家が非効率に至る途上の遥か後方にいるのだ。

こういった着眼点はそれほど目新しいものではない。ポリュビオスやタキトゥスのような古代の著述家は、「政治的な美徳は循環する」と考えていた。中世の自治都市国家は、当初はおよそ2世紀にかけて、独立していない他の都市国家よりも成長を遂げたが、長期的にはレントシーキングを求める利権集団に取り込まれてしまい、この成長の優位性が逆転してしまったことをデイヴィッド・スタサヴェージは発見している

「国家の有効性は、潜在的に循環する性質である」との考察は、ピーター・ターチンの最近の著作群を思い起こさせる。

ターチンは、ジャック・ゴールドストーンと共に、歴史循環の構造人口動態理論を開発したことで有名である。ターチンは、2010年よりも前に「2020年代は、合衆国を始めとする西洋諸国で混乱と暴動が発生するだろう」と予測している。これらターチンの予測は、3つの動向が基礎となっている。最初の2つ、「成長の鈍化」と「格差の拡大」は、多くの人によって指摘されている。しかしながら、3つ目の「エリートの過剰生産」こそが、最も重要だと判明したかもしれないのだ。ターチンは『不和の時代』で、エリートの過剰生産の帰結を以下のように概説している。

社会が提供できる地位の数より、エリートが多く存在することは、社会を本質的に不安定化させる。エリートの過剰生産は、エリートの平均所得を減らす。さらに、エリート志願者とカウンター・エリートが多数化すれば、エリート内の競争/紛争が増加する。その上、エリートの内輪での競争は、顕示的消費を促進する。このことで、エリートの地位を維持するのに必要な所得水準が、膨張する効果をもたらす。エリートの競争は、社会の協力規範の崩壊の一因となっている。

このターチン理論によるなら、エリートの過剰生産は、政治の不安定化と、国家の有効性の低下の鍵となる原動力である。

歴史を通じて、社会はずっと伝染病に苦しめられてきている。そして、過去の伝染病が往来した出来事は、各々の社会に対して、必ずしも永続的な影響を与えてきたわけではない。1918年のインフルエンザの大流行は、大衆文化や制度にほとんど永続的影響を与えなかった、と多く指摘されている。インフルエンザの大流行は、第一次世界大戦の末期に到来し、その影響は、戦争がもたらした、より全面的な影響に吸収されてしまっている。1957~58年や1968年のインフルエンザの大流行も、同様にほとんど忘れ去られている。トレスケンが研究した、黄熱病、天然痘のような出来事でさえも、19世紀のアメリカにおいては、国家的な影響事となっておらず、局地的な影響にすぎなかったようである。

しかしながら、いくつかの伝染病は、社会に大きな影響を与えている。カイル・ハーパーのような古代史家は、3世紀のローマ帝国に危機に対して、キプリアヌスの疫病が大きな役割を果たしたと考えている。トゥキュディデスの読み方にはいろいろあるが、その内の1つが、「民主的なペリクレス派のアテネの欺瞞が、疫病の恐怖によって暴かれる」というものだ。ペストもまた、中世の社会と信仰に対して、異なるも似たよう悲惨な影響をもたらしている。

ここまでの記載によって、私は運命論を提起したいわけではない。そうではなく、リベラルな社会において結束を強化し、国家の有効性を修復するには、どうすれば良いのかを理解するための呼びかけを行っているのだ。

COVID-19の影響がどこまで広範囲に及ぶかどうかを判断するには時期尚早だ。ワクチンの開発スピードや、ウィルスが弱毒化する可能性に大きく左右されるだろう。しかしながら、もし2020年の春と夏が、西洋史において分水嶺になるとすれば、それは病気そのものが原因になるのではなく、伝染病の影響と、西洋国家や社会の根底にある脆弱性や病理の相互作用の反映が原因となるであろう。

著者紹介:マーク・コヤマはジョージ・メイソン大学の経済史家である。ツイッターはこちらからフォロー可能。

  1. 訳注:公衆衛生の結果達成される健康状態のこと []
  2. 訳注:医療保険制度改革法、所謂オバマケアは、公的保険制度ではなく、民間の健康保険に連邦政府が補助する形で施行されている []

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