マーク・ソーマ 「パトリオティズム、ナショナリズム、経済政策」(2010年7月4日)

●Mark Thoma, “Patriotism, Nationalism, and Economic Policy”(Economist’s View, July 4, 2010)


それぞれの国の経済政策は、どれくらい「パトリオティック」であるべきなのだろうか? まずは、「パトリオティズム」(Patriotism)とは何なのかをウィキペディア(英語版)で確認しておこう。

Patriotism, Wikipedia:「パトリオティズム」というのは、母国(祖国)に対する愛着や忠誠を特徴とする立場を指している。祖国(fatherland)を意味するギリシャ語の「パトリス」(patris)が語源である。とは言っても、その意味するところは、時代によって違う。どういう文脈で使われるかによっても、地域によっても、哲学の流派によっても、その意味するところは大きく変わる。パトリオティズムがナショナリズムと同じ意味で使われている言語もあるが、ナショナリズムはパトリオティズムを構成する不可欠な要素と見なされているわけでは必ずしもない。古代ギリシャではどうだったかというと、パトリオティズムは、国家に対する心からの愛着や忠誠心というよりも、言語、宗教的伝統、倫理、法、共通善(common good)への献身と関わりのある概念として理解されていた。J・ピーター・ユーベン(J. Peter Euben)は、次のように述べている。古代ギリシャの哲学者であるソクラテスにとっては、「パトリオティズムというのは、祖国のやることなすことすべてを受け入れるように求めるものではなく、分析的な思考によって祖国のやることなすことに疑義を呈するように駆り立てるものだった。祖国を可能な限り優れた国として高めるためにである」。・・・(略)・・・

18世紀の啓蒙時代に入ってもなお、パトリオティズムは、ナショナリズムと切り離された概念として理解されていた。人間愛や慈悲心を意味する概念として通用していたのである。例えば、慈善活動を行ったり、奴隷制を批判したり、過酷な刑法に異を唱えたりするのは、パトリオティックな振る舞いと見なされていた。同胞(fellow citizen)に対する一人ひとりの責任というのは、過去においてだけでなく現代においても、パトリオティズムの不可欠な要素となっている。

現代版のパトリオティズムの多くは、19世紀に広まったナショナリズムについての考えから強い影響を受けている。19世紀に入ると、「パトリオティックであること」というのが、ナショナリズムだったりジンゴイズム(好戦的愛国主義、対外強硬主義)だったりと結び付けて理解される傾向が強まっていった。とは言え、現代版のパトリオティズムの中には、同胞に対する責任を重んじる古典的なパトリオティズムの流れを汲んで、ナショナリズムを拒絶するような立場も入り混じっている。

倫理学者のポール・ゴンバーグ(Paul Gomberg)によると、・・・(略)・・・、一人ひとりが他者に対して負う道義的な責任の重さについて、別の国家共同体に属している他者に対する道義的な責任よりも、同じ国家共同体に属している他者に対する道義的な責任の方が重いと考えるのが、パトリオティズムの立場だという。そういう意味で、パトリオティズムは、選別的な利他主義を特徴としているという。その一方で、一人ひとりが(同じ国家共同体に属していようとそうでなかろうと)あらゆる他者に対して同等の道義的な責任を負っていると考える立場は、倫理学的にはコスモポリタニズムとして知られているという。・・・(略)・・・

移民だとか国際貿易だとかについて論じる時に、どれくらい「コスモポリタン」であろうとすべきなのだろうか? 例えば、発展途上国における貧困の削減を自国の利益(国益)よりも優先すべきなのだろうか? それとも、自国の利益(国益)をいつだって最優先すべきなのだろうか? 私利(国益)の追求が回りまわって万人(世界全体)の利益になる可能性――「見えざる手」の比喩が当てはまる可能性――もあるかもしれないが、そうなることを保証する条件が常に揃っているとは限らない。

少し前のエントリーで、次のように述べた

アメリカの政策当局者は、他国の厚生(利益)も考慮に入れた上で政策の中身を決めるべきだというのが私の意見だが、Fed(連邦準備制度)の言い分に耳を傾けると、そうする気はこれっぽっちもないようだ。

つまりは、それぞれの国の経済政策は、国境の内側に及ぼす効果だけでなく、国境の外側に及ぼす効果も考慮に入れた上でその中身を決めるべきだというのが私の考えなのだ [1]訳注;この点については、本サイトで訳出されている次の記事もあわせて参照されたい。 ●マーク・ソーマ … Continue reading。とは言っても、自国の利益と他国の利益を同等に評価せよとまで主張するつもりはない。そういう意味では、私は筋金入りの「コスモポリタン」じゃない。しかしながら、他国の厚生(利益)に割り当てるウェイト(重み)の大きさはゼロでいいとは思わない [2] 訳注;自国の政策が他国の厚生に及ぼす影響なんて一切考慮せずに政策の中身を決めるべきだとは思わない、という意味。。プラスであるべきだ [3] 訳注;自国の政策が他国の厚生に及ぼす影響もいくらか考慮に入れた上で政策の中身を決めるべきだ、という意味。というのが私の考えだ。しかしながら、誰もが私と同じ考えというわけじゃない。例えば、アラン・クルーガー(Alan Krueger)が、移民政策との絡みで次のように述べている

移民政策に簡単な答えはない。新参の移民、古参の移民、土着民(土着民も一枚岩ではない)といった異なるグループの厚生(利益)にそれぞれどのくらいのウェイトを割り当てるのが適当かについて、人によって意見がまちまちの可能性があるからだ。

こういう議論は、今に始まったことじゃない。その証拠に、移民がテーマになっている過去のエントリーの一部を再掲するが、以下の議論を(移民政策だけでなく)あらゆる経済政策に応用するのも難しくないだろう。

———————————(引用ここから)———————————

経済学者が移民の受け入れに賛成しがちな理由をめぐって、グレッグ・マンキュー(Greg Mankiw)ブラッド・デロング(Brad DeLong)が興味深い指摘をしている。経済学者に特有の三つの衝動( 「リバタリアン」の衝動/「エガリタリアン」(平等主義)の衝動/「コスモポリタン」の衝動)が関わっているのではないかというのだ。デロングのエントリーを以下に引用しておこう。

マンキューがめちゃくちゃ鋭い指摘をしている(マンキューのエントリーは、ゴシック体で引用):

Greg Mankiw’s Blog: “Why Economists Like Immigration”:

移民制度改革に向けた議論が上下両院で進められている最中だが、移民に友好的な上院案に大半の経済学者が賛同している理由をまとめておいてもよさそうだ。

経済学を学ぶと、次の二つの強烈な衝動が体内に埋め込まれることになる。

「リバタリアン」の衝動:大人同士がお互いに得になると考えて行うやりとりには、そのやりとりに伴って外部性が生じない限りは、干渉すべきではない。自由な市場経済圏で暮らす人々が豊かになれるのは、自発的なやりとりが認められるおかげである。政府が自発的な交換(やりとり)を邪魔すると、市場の「見えざる手」が魔力を発揮できなくなってしまう。

「エガリタリアン」の衝動:市場経済圏では、一人ひとりの報酬(稼ぎ)は、その人に内在する価値によってではなく、需要と供給のバランスによって決まる。市場は、人生の浮き沈みだったり、どの家に生まれるかという偶然だったりに対する十分な備えを提供できずにいることがしばしばある。それゆえ、ハシゴの一番下で喘いでいる人々(貧困層)を救う方法を探さねばならない。

大半の経済学者は、どちらの衝動にもある程度突き動かされている。「右派の経済学者」と「左派の経済学者」の違いは、どちらの衝動により強く突き動かされるかの違いにある。右派の経済学者は、「リバタリアン」の衝動により強く突き動かされる一方で、左派の経済学者は、「エガリタリアン」の衝動により強く突き動かされる。

経済学者の間での言い争いは、どちらの衝動により強く突き動かされるかの違いに還元できる場合がしばしばだが、移民の問題については「リバタリアン」の衝動と「エガリタリアン」の衝動が手を取り合う。「リバタリアン」の衝動が囁く(ささやく)。「アメリカ人の雇用主がメキシコからやって来た移民を雇う邪魔をするな。大人同士の自発的な交換(やりとり)なのだから」。「エガリタリアン」の衝動が囁く。「メキシコからやって来た移民は、アメリカ人の雇用主やアメリカ人の労働者よりも貧しいじゃないか。移民の入国制限が緩和されたら、貧しい彼らが恩恵を受けるのだ」。

最後に、ちょっとした思い付きを述べておこう。特定の政策が「リバタリアン」の衝動と「エガリタリアン」の衝動のどちらにもアピールする(訴えかける)ようなら、その政策の是非について経済学者たちの意見は割と一致するに違いない。移民の問題がその実例だ。

私としては、三つ目の衝動も付け加えたいところだ。「コスモポリタン」の衝動がそれだ。経済学者は、異国人も同胞も同じ人間なのだから、同胞の境遇(厚生)だけでなく異国人の境遇(厚生)も考慮に入れるべきと考えがちなのだ。そういう観点からすると、移民の受け入れを増やすのは、世界全体の経済発展を支える超強力な開発政策の一つに位置づけられることになる。それとは逆に、移民の制限についてはどう言えるかというと、国内の貧困を減らすためのめちゃくちゃコストが嵩(かさ)んで効果もあまり期待できない政策というのが関の山だろう。

マンキューによると、「リバタリアン」の衝動と「エガリタリアン」の衝動が「手を取り合う」ので、移民の問題について(移民の受け入れに賛成する方向で)「経済学者たちの意見が割と一致する」という。私としては、デロングの言い分に沿って――「コスモポリタンの衝動」も加味して――少しだけ修正を加えたいところだ。すべては、効用関数(選好)の形状次第だ。効用関数の形状の違いによって、移民の受け入れを支持する衝動の持ち主なのか、移民の受け入れに反対する衝動の持ち主なのかが分かれる。相手がどの国に住んでいるかにかかわらず、世界中のあらゆる貧困者の境遇に心を砕く人――経済学者でさえそうだ――と、同じ国に住んでいる貧困者や同胞の境遇を何よりも優先すべきと考える人とでは、スキル(技能)の低い移民が享受する利益についてまったく違う見方をすることだろう。政策当局者は、どうすべきだろうか? アメリカ国民が世界中のあらゆる貧困者の境遇に心を砕く選好の持ち主だとしたら、そのことを政策に反映させるべき(世界中のあらゆる貧困者の利益も考慮に入れて政策の中身を決めるべき)だろうか? それとも、アメリカ国民の利益を最大化することだけを目指すべきだろうか?

———————————(引用ここまで)———————————

読者の皆さんは、どう考えるだろうか? 「パトリオティズム」は何を求めているのだろうか? ナショナリズムと同一視される「パトリオティズム」よりも、古い意味の「パトリオティズム」(「国家に対する心からの愛着や忠誠心というよりも、・・・(略)・・・共通善への献身と関わりのある概念」)の方が私としては好きだが、「パトリオティズム」をどう定義するか自体が争点の一つなのだ。

References

References
1 訳注;この点については、本サイトで訳出されている次の記事もあわせて参照されたい。 ●マーク・ソーマ 「それぞれの国の経済政策は国境の枠に縛られるべきなのか?」(2015年12月17日)
2 訳注;自国の政策が他国の厚生に及ぼす影響なんて一切考慮せずに政策の中身を決めるべきだとは思わない、という意味。
3 訳注;自国の政策が他国の厚生に及ぼす影響もいくらか考慮に入れた上で政策の中身を決めるべきだ、という意味。
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