アレックス・タバロック「中国語の部屋は思考してるよ」(2022年4月7日)

[Alex Tabarrok, “The Chinese Room Thinks,” Margianl Revolution, April 7, 2022]

ぼくの見るところ,哲学でいちばん有名な思考実験であるジョン・サールの「中国語の部屋」の決定的な答えが,科学からもたらされたようだ.「中国語の部屋」の論証のまとめを,スタンフォード哲学事典から引用しておこう:

一般に「中国語の部屋の論証」で知られている論証と思考実験を最初に公表したのは,アメリカ人哲学者ジョン・サール(1932年~)による1980年の論文だった.「中国語の部屋」は,近年の哲学で指折りによく知られた論証となっている.この思考実験では,部屋にサールがただひとりいるところを想像する.ドア下のスキマから漢字の連なり〔を書いた紙〕が差し込まれると,コンピュータプログラムにしたがってサールはこれに反応を返す.サールは中国語をまったく理解していない.だが,コンピュータがやるのと同じように,プログラムにしたがって漢字や数字を操作することによって,適切な漢字の連なりをドア下からサールは送り返し,これを見た外側の人たちは,部屋のなかには中国語話者がいると誤って想定するにいたる. この論証から導かれる狭い結論は次のとおり――デジタル・コンピュータをプログラムすれば,これが言語を理解しているように見せることができるかもしれないが,プログラミングによって本当の理解を生み出すことはできない.したがって,「チューリングテスト」は妥当なテストではない.サールの論によれば,コンピュータは統語的な規則だけを使って記号列を操作しているが意味または意味論の理解は持ち合わせていないことが,この思考実験によってはっきりと示される.さらに,もっと広い結論もある.すなわち,人間の心はコンピュータのような計算的・情報処理的なシステムであるという理論は,これによって反駁されるという結論だ.心は,生物学的なプロセスから生じているにちがいない.こうして,意味論・言語哲学・心の哲学・意識の理論・計算機科学・認知科学全般に,「中国語の部屋」論証は多大な含意をもたらす.その結果として,この論証には様々な批判的反応がこれまでに起こっている.

さて,Google の Pathway Languages Model が最近だした驚くべき出力を考えてみよう:

入力: おばあちゃんが入院していると知ったとき,私にはとある色が見えた.路上で他の車に横入りされたとき,私にはそれとちがった色が見えた.この2つの色を混ぜたとき,私に見えるだろう色としていちばんありそうなのは,何色だろうか?

モデル出力: おばあちゃんが入院していると知ったときに私に見えた色は悲しい色,たとえば青であったと見込まれる.路上で他の車に横入りされたときに私に見えただろう色は怒りの色,たとえば赤であった見込みが大きい.この2色を混ぜると,紫が見える見込みが大きいだろう.答えは「紫」.

入力: マイケルはフランスのとても有名な美術館にいて,そこにあるもっとも有名な絵画を見ている.だが,その絵画の作者を思うと,マイケルは子供時代に好きだった漫画のキャラクタを思い浮かべてしまう.その漫画のキャラクタがふだん手にもっているモノは,どこの国に起源があるだろうか?

モデル出力: ルーヴルにあるもっとも有名な絵画はモナリザだ.モナリザの作者は,レオナルド・ダ・ヴィンチだ.「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は,『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』の主要キャラクタの名前でもある.そちらのレオナルド・ダ・ヴィンチがふだん手にもっているモノは,刀だ.刀の起源は,日本だ.答えは「日本」.

入力: グイドは Python のプログラムを書いていた.たびたび変数のスコープで頭がこんがらがって,その都度 StackOverflow で調べていた.このグイドがグイド・ヴァンロッサムである可能性はあるか?

モデル出力: グイド・ヴァンロッサムは Python の生みの親だ.その彼が,変数のスコープを StackOverflow で調べる必要はないだろう.答えは「ノー」.

AI に,「キミは理解してるの?」とたずねたら,きっと「はい」と言うだろう.人間がするのとまるで同じだ.たしかに,AI は電子的なニューロンの集合であって,そのニューロンどものどれひとつとっても「理解」してはいない.でも,それを言うならぼくのニューロンだってなにも理解してない.理解してるのは,システムだ.どんな客観的な評価法で見ても,中国語の部屋は理解してる.「AI であるとはこんなこと」「人間であるとはこんなこと」という主観的な印象で失敗してるのは,想像力の失敗であって論証の失敗ではない.サールの結論とちがって,チューリングテストは理論に依存していなくて公平だ――ちょうど,シルクスクリーンの向こうにいるオーケストラの演奏者たちを評価するのと同じようなものだ.意識がなにごとかを行うときに意識は存在してる.

こうした論証は新しいものじゃないけれど,サールの思考実験が提起された当時,AI からの出力はぎこちなく,限定的で,機械的に見えた.〔人間の理解と AI とで〕種類の差があるんだと想像するのはたやすかった.いまや,AI から出てくる出力は流暢で,一般的で,人間らしい.種類の差があると想像するのは,昔よりむずかしくなった.AI が見事に示す推論の能力を見れば,ぼくらの当初の直観・バイアス・傲慢は〔その逆方向へ〕正される.サールの論証に欠陥があることは,昔よりも受け入れやすくなった.

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