オスカー・サイクス「とあるキーウィのインフレ退治――インフレ目標はいかにして生まれ,広まっていったか」(2025年6月12日)

インフレ目標は,いまや各国中央銀行で標準になっている.ところが,そのはじまりは,ニュージーランドで起きた何気ない発言と政治的なギャンブルだった――経済学者たちが真面目に取り合うのよりもずっと前のことだった.

インフレ目標は,いまや各国中央銀行で標準になっている.ところが,そのはじまりは,ニュージーランドで起きた何気ない発言と政治的なギャンブルだった――経済学者たちが真面目に取り合うのよりもずっと前のことだった.


今日の中央銀行の大半は,インフレ率の目標を設定している:つまり,インフレ率の数値目標を政府が公表して,中央銀行がその達成の任務にのぞむ.そのために用いる方法は,金利の変更,預金準備率の設定,金融証券の売買だ.昔からずっとそうだったわけではない.1990年代以前には,多くの中央銀行がマネーサプライや為替レートを目標に設定していた.

インフレ率を目標に設定するように変わったといっても,べつに,専門家たちのあいだで「中央銀行に改革が必要」と共通意見が醸成されたおかげでも,経済学者たちの研究のたまものでもない.1980年代にニュージーランドの財務相を務めていたロジャー・ダグラスが明確なインフレ率の目標を公言したのが,その発端だった.物価を安定させる決意のほどをはっきりと示そうというダグラスの政治的な意思決定が発端となって,やがて,ニュージーランド中央銀行はインフレ目標の制度を公式に整備していくことになる.

ダグラスが公言した当時,インフレ目標は政策担当者や経済学者たちから懐疑の目を向けられた.それにもかかわらず,インフレ目標設定はとてもうまくいくのが証明された.インフレを鎮めようとする小さな島国の試みで始まった政策が,ついには世界中の中央銀行で標準的な営みに変わっていった.そうなってからようやく――世界中で実施されだした後になってやっと――インフレ目標制度がなぜ・どのように機能するのかを説明する学術文献が大量に積み重なっていった.

クレジットカード融資

歴史を振り返ると,ニュージーランドは昔から世界でも有数の豊かな国だった.人口に対する農地の比率がものすごく高いのに加えて,イギリスと特権的な貿易関係を結んでいたおかげで,ニュージーランドは強力な農産物輸出経済となっていた.

ころが,20世紀中頃になると,その経済的な地位は悪化はじめていた.1970年代に,イギリスが欧州経済共同体に加盟した後,ニュージーランドはしだいにイギリスへの優先的な市場アクセスを失っていった.また,ニュージーランドは1973年と1979年の世界石油危機に厳しい打撃も受けた.1960年から1980年までの20年間で,ニュージーランドの一人当たり所得は OECD 加盟24ヶ国の3位から17位にまで落ちてしまった.

当時,政府は銀行・保険・utilities など多くの産業の大きな割合を統制していた.それに,農業部門は気前のいい助成金・価格保証・低金利融資に支えられていた.また,輸入財も厳しく統制されていた――ニュージーランド人が海外の雑誌を定期購読しようと思ったら,政府の承認をもらう必要があった.

欧州経済共同体 (EEC) にイギリスが加盟することにニュージーランドが抱いた不安を描いた1967年の漫画.(Source: Lodge Laugh family.)

この時期ずっと高インフレの問題は続いた.1980年のピーク時には 17.2パーセントにまで達している.2度の石油ショックによって世界中でエネルギー価格が押し上げられたのも一因だったけれど,政府の財政赤字とインフレ促進的な金融政策によってこれがいっそうひどくなった.

Source: Reserve Bank of New Zealand

今日の各国中央銀行は,インフレ率を制御する手段として主に金利の調整をもちいる.でも当時のニュージーランドでは,金融機関に対して直接の規制による統制が用いられていた.政府は,政府債務の指定量を保有するよう銀行に強制して,預金者痛に対しては金利に上限を設定していた.資本を統制してお金の流入・流出を制限することで,固定為替レートを維持できるようにしていた.

ニュージーランドの中央銀行であるニュージーランド準備銀行は,政府の直接支配の下で運営されていた.そこでは,政治的な利害が金融政策に大きく影響をふるっていた.1976年と1977年に反インフレ策が実施されたものの,ひとたびその経済コストが実感されるようになると,そうした策は放棄された.1981年の選挙までのあいだずっと,諮問役たちに金融政策の引き締めを何度も勧められながらも,首相であり金融相だったロバート・マルドゥーンはこれを無視した.金融政策の引き締めとは,経済に流れるお金の量を当局が制限することだ.1982年にインフレ率は下がりはじめた.とはいえ,それは,マルドゥーンが物価・賃金の完全な凍結を強いた後でのことだ.そして,これと同時期に経済の縮小が起きている.

1984年6月,見るからに酒の入った様子のマルドゥーンがテレビの生放送中にした発言に,国中が仰天した.1ヶ月後に解散総選挙をするというのだ.その場で記者が訊ねた.「そうしますと,首相,選挙に向けた準備期間があまりありませんね?」 するとマルドゥーンがこう返した.「時間がないのは野党も同じだろ?」

野党の労働党が選挙で決定的勝利を収めると,下野した首相は,あとを引き継ぐデイヴィッド・ランゲに不吉なメッセージを残した.「悪いニュースが待ち構えているぞ.」 それまでの1ヶ月間,ニュージーランドは自国通貨の取り付け騒ぎを経験していた.ニュージーランドドルは過大評価されていると広く考えられていた.そこに,解散総選挙が発端となって,大きな売り浴びせがはじまった.解散総選挙が公表された翌朝の取引開始から1時間で,ニュージーランド準備銀行が〔為替レートを維持しようと介入して〕売却した外国通貨は,通常なら1ヶ月まるまるかけて売る量を超えていた.

準備銀行の職員たちは,売り圧力を抑えるために通貨を切り下げるよう3度も進言したけれど,彼はこれを拒否した.為替レートを守るために,準備銀行と財務省は 17億ニュージーランドドルを借り入れてニュージーランドドルを買い続け,国家財政に負担をかけた.ランゲはのちにこう述べている.「我々は追い詰められた挙げ句に,ついには海外の外交機関にこう訊ねだした.『そちらのクレジットカードで,いったいどこまで資金を引き出せますかね?』」

ロジャーノミクス

与党となった労働党政権は,野心的な一連の自由市場改革を立ちあげた.のちに,財務相のロジャー・ダグラスの名をとってこれは「ロジャーノミクス」の名で知られるようになる.

政府は通貨を切り下げたのちに,変動相場制に移行した.また,賃金凍結を解除した.多くの国営組織の職員を解雇した.国鉄は,従業員数を 2万1,000人から 5,000人にまで削減した.所得税の最高税率は 66% から 33% にまで半減された.各種の産業助成金は大幅に削減され,労働党が政権をとった時点で政府支出の 16.2% を占めていたのが,1994年には 4% にまで下がっている.

一連の改革が進む速度と広がりは,並外れていた.OECD で当時チーフエコノミストをつとめていたデイヴィッド・ヘンダーソンはこの改革をこう呼んだ――「歴史上,もっとも目を見張るべき自由化の事例.」

ただ,こうした変化によって一時的にインフレはさらに悪化した.1984年から1985年にかけて,インフレ率は 6.2% から 15.4% に上昇している.賃金凍結を解除したことで,それまで抑え込まれていたインフレ圧力がいっきに解放された一方で,通貨切り下げによって海外資本が大量に流入してきた.

Source: Reserve Bank of New Zealand

ランゲの新政権は,インフレ沈静化に固い決意で臨んだ.新政権に先立つ数年に他国で起きていた状況は,各国が引き締め金融政策で高インフレを首尾よく抑え込めることを示していた.ポール・ヴォルカー率いる連邦準備制度理事会は,金利を 20パーセント近くにまで引き上げてインフレ率を下げた.1980年には 13.5% だったのが,1983年には 3.2% にまで下がっている.後にニュージーランド準備銀行総裁となるドン・ブラッシュはこう述べた.「(インフレ抑制は)不可能ではない:実現可能であり,現にポール・ヴォルカーがやってのけて証明した.」

この転換には,他のことも影響している.それが,「長期的な金融政策が有意味に影響しうるのは価格のみであって,産出や雇用といった現実の活動はこれに影響されない」という経済学者たちの間の共通見解だ.それまで,多くの経済学者たちはこう信じていた.「インフレ率は,失業と経済算出の両方と安定した逆相関の関係にある.」 これを記述したのがフィリップス曲線だ(ニュージーランドの経済学者ビル・フィリップスにちなんで命名).この理論からは,「より高いインフレ率を受け入れると,持続的に失業率をより低くすることになりうる」ということが示唆される.

各点は年を表す.(Source: Bill Phillips (1958))

1970年代の間ずっと,イギリス・アメリカのような国々では,顕著なインフレと同時に失業率上昇が起こる事態を経験していた.「スタグフレーション」という現象だ.これによって,インフレ率が上がると雇用も増えるという見かけ上の関係は破綻し,しだいにこう考える経済学者たちが増えていった――「持続的な高インフレにはなんの便益もない」

インフレ率と雇用の関係は瓦解しているように見える.スタグフレーション期のアメリカにおけるインフレ率 vs. 失業率,1966~1988年.( Source: Econweb Introduction to macroeconomics)

ロジャー・ダグラスと彼の諮問役たちは,揃ってこの見解をとっていた.改革の一環として,彼らはニュージーランド準備銀行に事実上の独立を認めた.これによって,政治の介入・干渉を受けずに日々の意思決定を中央銀行が下す自律性がうまれた.また,彼らはニュージーランド準備銀行に対して,産出・貿易・雇用の促進といった他の法定目的よりインフレ率低下を優先するよう指示した.

それまで大臣の承認が必要とされていた直接統制から,金融システムの流動性を調整することで間接的に金融政策を実施する方式に新政権は転換した.ようするに,銀行が借り入れられる資金量を変えることで金融政策を行うようになった.

この時期のインフレ率は高く思えた.1987年には 15.7% にまで達している.だが,その大半は1986年に 10% の付加価値税 (VAT) を導入して価格が急上昇したことによる.この効果を除外すると,インフレ率は安定して下がっていた.

他の選択肢の欠如

こうした心強い兆しを見て,ダグラスは準備銀行理事会に,インフレをもっとうまく制御するためにさらに変更できることはないか検討するよう促した.

その目的は,金融政策の意思決定を下すための新たな枠組みを見つけて,中央銀行の意志決定をもっと一貫して信用されやすくすることにあった.一貫して信用されやすければ,金融政策の効果は向上するはずだ.そうしたアプローチの一つが,貨幣に関わる目標設定だった.このアプローチでは,中央銀行が事前に公表したペースでマネーサプライを増やしていくのを目標にする.それまでの20年ほどの間に,アメリカ・イギリス・西ドイツなど多くの主要国がこれを採用していた.その論理は明快だ:経済を流れる貨幣の量とインフレ率の間には歴史的に強い関係があるのを経済学者たちは見て取っていた.もしも多すぎる貨幣が少なすぎるモノを追いかければ,物価は上がるはずだ.「マネーサプライの増加を制御することで,中央銀行はインフレを制御できる」と各国の中央銀行は考えていた.

この意思決定では,インフレ率のような直接的な目標ではなくてマネーサプライのような中間目標に関心を絞る.これは,実践的だった.そうした中間目標は,〔インフレ率などと比べて〕もっと中央銀行の直接的な制御下にあって,政策変更に対してもっと迅速に反応するように見えた.そのおかげで,有効性をより判断しやすかった.

貨幣量目標〔を設定する政策〕は,理論上,説得力がありそうに思えた.ところが,各国の中央銀行は目標を達成できなかったり,目標こそ達成しながらもインフレは思ったように制御できないことがよくあった.この時期に,金融のさまざまな革新と規制緩和によってマネーサプライはさらに不安定になり,制御になっていた.

こうした課題を受けて,多くの国々では貨幣量目標を放棄したり,以前ほど重視しなくなった.ただ,こうした不満はありつつも,説得力のある代替案は見当たらなかった.オーストラリア準備銀行のペーパーでは,こう述べられている:「貨幣の集計量を用いる様々な難点はよく知られている.(…)ここで厄介なのは,そうした目標にかわってなにを据えるのかという問題だ.」

海外でのこうした経験を目の当たりにし,しかもニュージーランドでは金融自由化にともなってマネーサプライの大幅な上下変動が繰り返し起きたため,当局では貨幣量目標設定への関心はほとんどなくなっていた.

こうした議論が繰り広げられていた頃,「インフレ率が横ばいになりはじめているかもしれない」とダグラスは懸念しはじめていた.たしかにインフレ率は1988年のピークに比べれば大幅に下がっていたものの,企業が見透す今後2年間のインフレ予想はまだ 6.7% にとどまっていた.

1988年3月に,さらにインフレ沈静化を進めるために政府の固い決意を世間に伝える必要があるとダグラスは諮問役たちに語った.そう言われた諮問役たちは,はてさてこの発言をどれくらい真剣に受け取ればいいのかと自信をもてないまま,会議室を後にした.

そんな彼らは,すぐ翌日にダグラスが行った発言に驚くことになる.TV に出演したダグラスは ,今後2年でインフレ率を「だいたい 0% から 1%」あたりに下げる意図を表明した.その後の数日間にも,同様の趣旨の発言を何度かダグラスは繰り返した.

準備銀行の予測に世間の人々が抱いた懐疑心を示す1988年の漫画.(Source: Malcolm Walker.)

具体的な日程についてはのちに姿勢を和らげたものの,自分の発言を支える公開のインフレ目標をつくるよう準備銀行と財務省にダグラスは求めている.準備銀行は,ダグラスが公言した目標インフレ率の上限を1パーセントポイントだけ上げた.これは,当時のインフレ率計測が実情よりも上に偏るのを考慮に入れた補正だった.これで,インフレ目標は 0% から 2% の幅になった.準備銀行の金融政策部門の責任者だったマイケル・レデルはこう述べた――この目標は「大臣による正式な承認で決まったというより,浸透圧のように」決定された.

こうした展開を受けて,当局者たちはこう考えた――インフレ目標を,準備銀行がとる金融政策枠組みに組み込んではどうか.元副総裁のデイヴィッド・J・アーチャーはこう述べている――やがて,インフレ目標は「利用可能な選択肢のなかでもっとも害の少ないもの」として選ばれた.

インフレ目標を金融政策枠組みに組み込むとなると,いくつか厄介な設計上の問題が出てきた.ダグラスが最初に発表したインフレ率低下目標は,〔インフレ〕予想を動かすコミュニケーション上の戦術として意図されていた.これは,政府が設定した時限式の目標だったので,市場の状態にもとづいて結果を評価する余地があった.中央銀行を統制する法定の枠組みの柔軟性は,これよりもはるかに小さかった.

経済をなんらかのショックが襲うと,その目標達成が実行不可能だったり望ましくなかったりする立場に準備銀行が追い込まれてしまうかもしれない.必要な柔軟性を維持しつつ,〔中央銀行の〕意図を効果的に世間に伝える目標をどう設計すればいいか,はっきりわかっていなかった.当初の目標に関しては,「ショックへの対応に当たって財務相と目標の再交渉を行う」とニュージーランド準備銀行はしぶしぶ合意していた.

また,中間的な数値に比べてインフレ目標では業績を評価する根拠が乏しい点も,準備銀行は懸念していた.それを言うには,「我々を信頼してください.自分たちがなにをやっているのかわかっています」という態度をとることを国民に認めてもらう必要があった.準備銀行の意思決定を人々に理解してもらうには強力な透明性が必要だと当局者たちは信じていた.透明性を高めれば,説明責任が向上し,選挙で選ばれたわけでもない政策担当者たちに与えられている権限に正当性を確保しやすくなるだろう.

このため,金融政策ステートメントが導入されることになった.このステートメントは,中央銀行の総裁が年に2回,それまでの政策決定を検証し,今後の意図のあらましを伝えねばならない報告書だ.このステートメントが出されると,次に議会が精査する.

これと並行して,立法によって中央銀行のより大きな自律性を正式に認める方法をもっぱら検討するための尽力も続けられた.政治目的のために金融政策を利用する事態に将来の政府がもどってしまうリスクを,ダグラスは減らしたいとのぞんでいた.

ニュージーランド準備銀行の見解は,時間不整合に関する研究によって形成された.この研究で,根本的な問題がつきとめられた:政策担当者たちがおよそ考えうる最良の計画を公表したときにすら,ひとたび人々がその公表を踏まえて行動すると目標から逸れていくインセンティブに直面する場合がよくあるのだ.方針を変更したくなるこの誘惑を合理的な人々が予期できるために,そもそもの政策発表を人々は信じない結果になってしまう.

この論理にしたがって準備銀行が提唱したモデルでは,法律によって物価安定の責務が準備銀行に負わされ,準備銀行の理事会がその実現に当たる.ただ,財務省は中央銀行職員の説明責任を保つために,政治的な監督の必要を強調した

こうして登場したのは,斬新な妥協案だった.アメリカの連邦準備制度理事会やドイツ連邦銀行とちがって,ニュージーランド準備銀行には運営上の独立だけが認められた.つまり,合意された目標を達成するために金融政策の様々な方策を用いる自由はある一方で,そうした目標そのものを設定するのは準備銀行の仕事ではなかった.また,準備銀行には単一の焦点が与えられた:それは,物価の安定だ.雇用・産出・貿易に関するそれまでの目標は削除された.

説明責任を確かなものとするために単一意思決定者モデルがこれに組み合わされた.ニュージーランド準備銀行の総裁には単独の権威が認められ,自らの行動に説明責任を負うことになった.任命されると,新しい総裁は財務相と目標について交渉し,決定された目標が達成されなかったら解任されうる.準備銀行の目標を最長1年間延長する権限を政府は保持していたものの,それには議会の命令によって公開で行われる必要がある.その狙いは,危機の際に政府の介入を可能にしつつ,公開することによって政治的な動機による干渉を抑えることにあった.

成功

新しい準備銀行法 (Reserve Bank Act) が1989年12月に可決され,1990年2月に施行された.ドン・ブラッシュ総裁には,1992年末までに 0~2% インフレ率の目標を達成する責務が与えられた.その目標は1年前倒しで1991年12月には達成され,多くの人が驚いた.

ブラッシュ総裁は,金融政策の引き締めを維持してこの目標を達成したものの,引き締めによって失業率は急上昇した.1988年のブラッシュ任命から3年後のインフレ目標達成までに,失業率は 6.4% から 11% にまで上がっている.(ただし,1987年には世界規模の株価崩壊が起こったのに加えて,より広範な各種の改革がなされたことも,失業率上昇の一因になっていた見込みが大きい.)

その後20年で,〔インフレ目標設定という〕枠組みは約束通りの成果をあげた.ニュージーランドが経験した物価安定ぶりは,混乱の1970年代や80年代にはおよそ考えられないほどの穏やかさだった.

ニュージーランドの年間インフレ率:消費者物価指数の1年当たりの変化 (Source: Reserve Bank of New Zealand)

それ以来,この法律は,政治的な便益のために金融政策が利用されるのを首尾よく防いできた――目標の繰り越しについての条件は,これまで一度も使われていない(ただし,使用が検討されたことはある).

改革によって,たしかに柔軟性は高まった:ショックに見舞われたときに目標を〔中央銀行と財務相で〕再交渉する制度は実用的でないことがすぐに判明したし,頻繁に再交渉を繰り返すと,目標の信頼性がそこなわれるリスクもあった.制作はすぐさま改良された.改定された目標は1990年12月に署名され,総裁が目標から逸脱してもよい状況の概略が定められた.こうした状況では,経済的混乱への対応で下した判断を見て総裁は評価される.のちに変更が加えられていって,この裁量の余地はさらに増え,目標は絶え間なく達成されていないものではなくて,中期的な平均で達成されるべきだと規定された.

新たな共通意見

ニュージーランドに続いて,世界各国にインフレ目標は広まっていった.次にインフレ目標を採用したのはカナダだった.1975年から1982年まで,カナダは貨幣量目標を追求していた.他の国々と同じように,カナダも失望を味わっていた.マネタリーサプライ目標をおおよそ達成していたにもかかわらず,インフレ率は長らく高いままにとどまり,この期間の平均インフレ率は 8% だった.これを見て,貨幣目標は放棄された.当時の総裁ジェラルド・ブーイはこう述べている.「私たちが貨幣集計量を放棄したのではない.貨幣集計量が私たちを見捨てたのだ.」

カナダの財務相マイケル・ウィルソンは,ジョン・クロウ総裁にインフレ率低下目標を策定するよう指示した.目標値は1991年2月に政府とカナダ銀行との共同発表で公表された.この計画では,インフレ率を当時の 6.2% から1995年までに 1~3% の範囲に下げる時限付きの目標が設定された.1991年3月,バーゼルの国際決済銀行で,カナダのクロウ総裁は中央銀行の職員たちと会合を開いた.インフレ目標にカナダ銀行が転換したことには,大きな批判が向けられた.元副総裁のジョン・マレーは当時の主調をこう表現している:「賢慮ある中央銀行が,こうした不確実で明示的な責務を受け入れることで自らの評判を危うくするとはどういうわけだ? [目標を達成する]見込みはきわめて小さいと考えられていた.そのため,目標未達で銀行の信頼性がそこなわれる見込みが大きいと見られていた.」 こうした懸念にも根拠がなかったわけではない.予測インフレ率のシミュレーションでは,65%信頼区間がインフレ率目標範囲を上下に大きく超えて広がっていた.

それにもかかわらず,金利引き上げに加えて,すでに経済の下降局面に入って経済が冷まされつつあったために,インフレ率は1992年までに 1.5% にまで下がった.ニュージーランドと同じように,その後の数十年で,カナダのインフレ率は比較的に低く安定していた.インフレ目標の導入から2018年まで,カナダの平均インフレ率は 1.9% で,目標中央値の 2% にとても近かった.

インフレ目標設定を導入してからのカナダは,比較的に低く安定したインフレ率を維持してきた (Source: Bank of Canada, Statistics Canada)

1992年から1993年のあいだに,イギリス・スウェーデン・オーストラリア・フィンランドがインフレ目標設定を採用した.なかでも目を見張る点は,オーストラリア以外の3ヶ国すべてが,欧州為替相場メカニズム (ERM) 内で固定相場制が崩れた直後にこの政策を導入していることだ.

こうしていきなり導入された理由がはたしてニュージーランドだけにあるのかどうかははっきりしない.クロウ総裁によれば,カナダがインフレ目標を導入した近因は,財務相から受けた指示だったそうだ.ただ,カナダ銀行はニュージーランド準備銀行のスタッフたちと相談はしていた.当時のイングランド銀行主席エコノミストで後に総裁になったマーヴィン・キング卿は,こう述べている.「インフレーション目標のアイディアは,間違いなく,ニュージーランド準備銀行とのやりとりに影響を受けていた.実施の詳細はイギリスで発展したものだった.」

1990年代に,EUに加盟する11ヶ国が欧州通貨同盟をつくった.これは,共通通貨のユーロを採用するための準備段階だった.このとき,欧州中央銀行は,インフレ目標設定に似た枠組みを採用した(もっとも,みずから「インフレ目標」というラベルはつけなかったけれども).

国際通貨基金 (IMF) や数名の学術系の経済学者たちはこう主張した――「たしかに先進諸国では心強い兆しがみられるものの,インフレ目標設定は途上国にふさわしくないかもしれない.」 1998年の IMF 論文では,〔インフレ目標設定の〕導入で成功を収めるのに必要な準備条件の概略を述べている.そうした条件には,中央銀行の独立,インフレを予測する技術的な能力,十分に発展を遂げた金融市場が含まれている.そうした条件の大半は途上国では整っていなかったため,この制度は維持しがたいとIMF は考え,代替案として固定相場制などを推奨した.

しかし,IMF は後にこの立場を見直して変更している.チリ(1999年)やメキシコ(2001年)などの国で〔インフレ目標設定が〕首尾よく導入された事例を見てのことだ.2名の経済学者による2006年の論文は,こんな結論を述べている:「調査で得られた証拠からは,インフレ目標設定が採用されて成功を収めるには,産業的・技術的・経済的な厳しい「準備条件」を満たしておく必要はないことが示されている.」

今日,ほぼすべての先進諸国と多くの途上国がインフレ率の目標を設定している.

(Source: Hamond (2011), Roger (2010), International Monetary Fund)

これほど広くインフレ目標設定が採用されたのは,なぜだろう? 明白な理由は一つある.政府が実際に気にかけていることの不完全な代理指標にマネーサプライその他の中間目標を用いる実践面の問題が,インフレ目標設定によって解決されたからだ.

「インフレ目標をほとんど達成できなかったときに中央銀行が信認を失ってしまうのではないか」という懸念は,現実にならなかった.インフレ目標設定を導入した時期は,ちょうど,《大安定》時代に重なっていた (”the great moderation”).この時期,インフレ率も経済の浮沈も異例なまでに低く穏やかだった.そのうちのどれくらいがインフレ目標設定によって生じたのかについては,いくらか論争がある.ただ,間違いなく,このおかげで中央銀行は低いインフレ目標を設定し,これをおおむね達成できていた.

インフレ目標設定によって,世間のインフレ予想は際立って安定していたように見える.ダラス連邦準備銀行の論文では,インフレ目標設定を導入した国々の方が,インフレ率の急上昇後のインフレ予想上昇がずっと小幅に収まっていたのを見出している.この点は,インフレ目標設定を導入した国々を,導入前と比べた場合にも,導入していない国々と比べた場合にも,当てはまる.「中央銀行は目標を維持するだろう」と信じているときには,人々はこれを賃金設定や価格設定の意志決定に織り込む.これにより,インフレ率を下げようという局面で大幅に金利を引き上げる必要は弱まる.そうした大幅利上げをすれば不況が起こり雇用喪失が起こるものだが,それをせずにすむのだ.

また,このおかげで,「インフレ目標設定によって,経済をショックが見舞ったときに有害な結果が生じるのではないか」という懸念は,これまでこれといって大きな問題になっていない.人々のインフレ予想が安定することで中央銀行の信認が強まり,そのおかげで,インフレを制御するという中央銀行の確約に対する市場の信認が維持されつつ,民間の銀行は自由に行動できている.中期的に目標を達成することに注力しつつ,一定の条件下では目標から逸脱するのも許容する柔軟性を維持する方針への転換に,この点は見てとれる.

また,インフレ目標設定は他の制度の改善を促す傾向を見せる.そうした改善の例としては,中央銀行の独立と,〔中央銀行がなにをやろうとしていて,今後どのようにふるまうかを世間に伝える〕透明なコミュニケーションが挙げられる.中央銀行の独立は,その責務の達成を助ける.また,透明なコミュニケーションにより,政府は貨幣に関する権限を安心して任せられる.

こうした特性のおかげで,かつての制度で見られた政治的な介入や短期志向は弱めやすくなっている.政治介入や短期志向は,改革前のニュージーランドにおいて,政治の都合でさまざまな反インフレ策が放棄された顛末にありありと見てとれる.さまざまなインセンティブどうしの相反をなくし,透明性をもたらすことで,インフレ目標設定は経済面の意志決定を歪める政治圧力を許容することなく説明責任を産み出している.

ニュージーランドで展開された金融・貨幣に関わる改革の特色は,意見の相違・即興・予期しない展開にある.のちにドン・ブラッシュが述べたように:

おそらく,後発組であったおかげで,いくらか利点があったのだろう.[…]この背景があって,「インフレ率を直接に目標とする方がいいのかもしれない」という発想がかたちになりはじめた.だが,インフレ目標設定への移行は,明確に定義されていたわけではない.[…]私としては,ただこう述べるのとどめたい.その場にいた当事者たちにとってすら,ときとして歴史は驚くほどに不可解な場合があるのだ.

インフレ目標設定は,学術研究から生まれたわけではない.ロジャー・ダグラスは,物価安定をはかる決意のほどを示したかった.そして,インフレ目標設定は,その方法を提供した.この政治的な旗振りを実行可能な制度枠組みに落とし込む際に経済学者たちは重大な役割を果たしたものの,そもそもこの発想を俎上に載せたのはダグラスだった.ニュージーランドとカナダでインフレ目標設定の有効性が実証されたあと,他の国々はすぐさま後を追った.現に結果を出したことで,共通意見が動いたのだ.


オスカー・サイクスは,ソフトウェア・エンジニア.Twitter アカウントはこちら.


[Oscar Sykes, “How one Kiwi tamed inflation,” Works in Progress, June 12, 2025]
Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts