Kevin Bryan, “Oliver Hart and the nature of the firm,” Vox, 01 November 2016
オリバー・ハートはベント・ホルムストロームと共に『契約理論への寄与』により2016年ノーベル経済学賞を授与された。この記事が解説するのは会社の本質を理解するためにハートが成した貢献の概要である。
オリバー・ハートは2016年、ベント・ホルムストロームと共にノーベル経済学賞を受賞した。残余支配権(residual control rights)訳註1に関する理論は彼を有名にした。しかし近年ではそこに触れることはほとんどない。彼は自らの信条も研究課題も根本から変えてしまった。それは年齢を重ねることから来る気まぐれでも政治的な圧力のゆえでもなく、そこには測り知れないほどに賢明で思慮深い理由がある。そう、2007年のノーベル賞受賞者であるエリック・マスキンと2014年受賞のジャン・ティロールが言明しているように。ハートの功績を理解するためには経済学の一分野としての会社の理論の歴史を短く紐解く必要がある。
会社が本来持つ特異性については、1991年のノーベル賞受賞者、ロナルド・コースにまで遡る。しかしまずは2007年のノーベル賞受賞者、レオニード・ハーヴッツの秀逸なる定理を紹介したい。その論旨は次の通り。経済全体で作られている物は実に多種多様であるのに対し、個々人が持っている情報はごく限られている。そこで市場活動の調整役として機能するのが競争価格である。
鉛筆を例に採ろう。黒鉛が採掘され、樹木から木材が切り出され、ゴムの木の樹液が採取され加工され、これらの原材料は工場に運ばれ鉛筆という形に組み合わされ、そして小売店へと輸送される。これだけの段階を経て、一本の鉛筆は10セントで売られる。ここには権威の計画管理はなく、誰かが供給全体の流れを把握しているわけでもない。こうして見ると、市場とは経済活動を制御するのに驚くほど優れた仕組みとなっている。
ところがコースが指摘しているように、経済活動のうち市場で調整されるのではなく会社と呼ばれる上意下達の共産的官僚制度によって行われる部分(国際貿易ではむしろこちらのほうが多い。Atalay et al 2014)は膨大となる。ではこのような組織がこの世界に存続するのはなぜなのか。会社はいつ合併しそしていつ分裂しその一部を売却するのか。会社の理論はこれらの問題提起によって形作られる。
初期の段階でコースが出した答は、市場取引そのものにも費用はかかっておりその取引費用は会社の外では断然高いから、となる。そして会社の大きさは、官僚的であることから来る費用が、組織となることによって得られる取引費用の減額を超えてしまうところで決まる。
ここで二つの問題が現れる。第一に、誰も「取引費用」と「官僚制費用」を正確に知りはしない。そしてその二つの費用はどうして組織の形態によって異なるのか。その説明はほぼ同語反復となってしまう。
第二に、アルキアンとデムセッツがその秀逸なる論文(Alchian and Demsetz 1972)で指摘したように、会社が従業員に指示したり罰したりする特殊能力を持っているとする仮定には確実な根拠があるものではない。物資の供給元が意に沿わない時には、そのままにしておく、打ち切る、再交渉に臨む、といった対処が取れる。社内の一部所が意に沿わない時には、そのままにしておく、打ち切る、再交渉に臨む、といった対処が取れる。要望通りに動いてもらえるか、という問題――それはまた契約上の問題でもある――は、会社の内部では発生しない、というほど単純ではない。
2009年にエリノア・オストロムと共にノーベル賞を受賞したオリバー・ウィリアムソンの取引費用理論はもっと正式なものだ。連携する方が別個に仕事をするよりも高い附随利益が得られることがあり、不測の事態により契約内容の変更が望ましくなることがあり、そして契約内容の変更は労務者なり物資の供給者なりが会社の内部の人間である方が費用を抑えやすい。「不測の事態」には、後になって裁判所や調停者が計量できない事柄も含まれ得る。最終的に契約の履行を強制するのはこれらの機関なのだ。毎日の活動に対して取引費用がそうそう変わるものではないが、契約交渉は持続的な関係を持っているほうが対処しやすい。
会社が単純に巨大化していかない理由に関係してくるのが「官僚制費用」という概念だが、それは実際のところ粗削りで正式な理論とはなっていない。この点はコースに似ている。しかしたとえ正式性を欠いているものではあっても、取引費用とは直感的に受け入れられる類のものであり私達が経験上知っている世界とも合っている。発展途上の世界では会社はより大きくなる。それは脆弱な法制度の下では契約時の想定を超えた「不測の事態」がより起こりがちであり、それに備えておかねばならないからだ。ここでは業務の軌道修正や契約再交渉のための費用が会社の大きさの決定要因となる。
とは言え、アルキアンとデムセッツの批評にも、「官僚制費用」の定義にも、釈然としないものがある。そして、エリック・ヴァン・デン・スティーン(Eric van den Steen 2010)が指摘したように、紙を手に入れるのに自社傘下の事業所から調達するかそれとも社外の店舗から買うか考えている人にとって、会社の存在理由が社外取引費用を抑えるため、というのは納得できるものなのだろうか。
財産所有権と不完全契約
グロスマンとハート(Grossman and Hart 1986)の主張では、会社を会社たらしめるものは財産の所有となる。なぜ所有が問題となるのだろう。それは、契約の不完全性と関係してくる。雇い主が物資を供給する人間と、あるいは従業員や中間管理職員と、意を異にするのは珍しいことではない。そしてその意見の相違が契約規定の範囲外のこととなると再交渉が必要となる。
連携して仕事をすることによってより多くの利益を得られるなら、当事者たちはその関係性を断ち切ろうとはしない。ここでグロスマンとハートは、取引費用を引き合いに出す代わりに、単に、意見の相違が起きたときには財産の所有者ははるかに有利な立場で交渉を進められることを指摘した。財産は将来の利益の源泉となり、それゆえ所有者は財産の価値を高めようとする。
ベイカーとハバード(Baker and Hubbard 2004)が分かりやすい実例を挙げている。長距離トラックに搭載されたコンピュータがトラックの壊れる過程まで追うことが可能となってから、トラックの所有者が運転手自身から個人経営でない運送会社へと移った。それ以前は、運送会社がトラックを所有すると丁寧な運転や手入れを欠かさないことまで契約で保障させることは難しかった。その一方で、運転手がトラックを所有する際には、何日もの間トラックが使われずに置かれないよう配車係が気を配ることや効率的な道順で配車することを契約で保障することは難しかった。
コンピュータの導入により、運送会社はトラック所有へと向かった。その決定に運転手は加わっていない。そして、この例はグロスマンとハートの「残余支配権」理論に即している。協働による附随利益と契約の不完全性があるからこそ残余支配権は利益の源泉となる。それが無視できるなら、財産の所有よりも利益を生む協働形態を見付けることに意識を傾けるはずだ。
ハートとムーア(Hart and Moore 1990)はこの基本的なモデルを多種の財産と複数の会社がある場合へと拡張した。ここで、財産は単独所有こそが最も有利、という示唆を熟慮をもって行った。この財産は他の用途にも替えが利く。交渉力が変化し契約が不完全であるときでも、財産所有権は契約外のことにまで影響力を持つことができる。財産の所有権が分割されている場合、個々の共同所有者の交渉力は弱く、それゆえ資産価値の維持向上のための投資は魅力的でない。ハートと共著者(Hart et al. 1997)が示した残余支配権の見事な適用が、政府の役割として刑務所の設置管理は望ましいがごみ収集はそれには当たらない、という事例である。
(余談:ハートの全理論の中での交渉の位置づけを短く記しておく。正式と呼べるだけの「完全な」交渉のモデルはなく、ハートは交渉問題の解をシャープレイ値の様に協力ゲームの理論に求めるようになっていった。この研究は2002年にロイド・シャープレイがアルヴァン・ロスと並行してノーベル賞を受けて以降、多くの賞を得ている。そして、これは「不測の事態」問題への協力ゲームの適用に大いに影響を受けている。おそらく、今なお協力ゲームは博士課程で積極的に教えられるべきものだ。)
その他の会社の理論
ここまでに挙げたもの以外にも、当然、会社の理論は多数ある。マーシャルにまで遡るものとして、業界によっては利益を出すために最低限必要とされる固定費が大きいのでいきおい会社の規模は大きくなる、という見解がある。会社における代理業務理論は少なくともジェンセンとメクリング(Jensen and Meckling 1976)にまで遡る。この二人が注目したのは、会社が従業員に自身の利益を最大化する動機を与えている、という問題である。ホルムストロームとミルグロム(Holmström and Milgrom)が挙げたのが、高い成果賃金を与えられる労働者と固定給の労働者がいるのは会社内での役割分担に応じている、という好例である。
もっと最近の研究では、ボブ・ギブソンズ、レベッカ・ヘンダーソン、ジョン・レビンらによる関連契約への討論がある。その内容は、自発的な努力との関連への見解であり、今日の重労働が将来得る対価につながるならそれは正式な契約に取って換わるということであり、そしてこの「関連契約」がいかに会社によって個人の職歴によって異なるか、である。
これらの会社の理論はそれぞれ与えられた状況下で実証の裏付けを経ている。しかし20世紀の終わりになって、契約の不完全性や検証不可能性に頼ったすべての理論はマスキンとティロールによる秀逸なる論文(Maskin and Tirole 1999)に衝撃を受けることとなった。不完全契約に頼った理論は一般的にあいまいさを持つことになる。そこでは、事前に予測できないこと、後に法廷で検証できないことがあるので、常に、不測の事態が起こったときには意見の不一致が起こってしまう。
しかしマスキンとティロールは、協業を続けて行く上で互いに査定されることがなければ、予測不可もしくは検証不可の状態を気にも留めない、ということを正しくも指摘していた。だからすべての「不完全契約」では、例えば協業を続けることの価値を一方が12、他方が10と査定したなら、現時点で最善となる割合でその合計22の価値を分配すべく、事前に決断する人がいるべき、となる。将来における利益がどれだけだったとしても分配できるようになっていれば、契約は完了である。もちろん、互いに利益を確実にする上でこれで問題がなくなったわけではない。予測できない事態が起きたときに、その査定した価値をお互い正直に言う保証はない。
そこで、マスキンとティロールが示したものは、協働がその仕事に参加している各々の人にとってどれだけの価値があるのかを知る方法だ(それは難解ではあるが驚くほど巧みに構成されている)。その仕組みをそのまま信じるわけではないが、論文の精神に則るなら、後になって各人にとっての協働の価値が正しくわかれば不完全契約は問題ではない。そして、例えば仲裁人のように、現実社会にはその調整にあたる人がいる。しかしもし、マスキンとティロールが証明したように(マスキンは2002年に短い文章の中でより単純な解説を行っている)、不完全契約が問題でないならば、我々は元の問題へと戻ってしまう:なぜ、会社と呼ばれる組織は存続するのか。
なぜ会社は存在するのか
どうしたものか。とある論理学者の指摘によれば、仔細な検証をするならマスキンとティロールの論文には多少の瑕疵が見られる。例えば高次信察(higher-order beliefs)訳注2の前提について(例えばAghion et al 2012)。しかしマスキンとティロールの論理の本質からすればこれらはそうは当たらない。経験に則して考えれば、「明言されていない」あるいは「現実とは違う、又は予測困難」といった部分があったとしても、将来の利益を正当に配分する仕組み、例えば仲裁人制度などがある限り、当事者たちは契約の不完全性を是正しようとはしない。そして実際の契約では後になって契約内容の解釈に不一致が起きたときの対応についても前もって取り決めがなされているものだ。
ハートは、過去の業績からもそして最近の論文や講演からも明らかに言えることだが、不完全性が会社の根本的な存在理由ではない、という立場を取っている。ハートとムーア(Hart and Moore 2006, 2007)の主張ははっきりしている:
「契約の不完全性を基とした文献は会社という存在に対し有用な理解を与えては来たものの、欠陥をも含む。次の三点は私たちにとって特に重要だ。第一に、事前投資のうち契約に入れることのできない部分の強調が過大評価を生む。この投資は間違いなく重要ではあるが、それが組織をつくる唯一の推進力とは思えない。関連して第二に、その手法は会社の組織内部という重要にして興味深い主題の研究には不向きである。その理由を見るに、コース派の見解からすれば、再交渉では関係者が集まって交渉金を支払いつつそれぞれにとって有益な分配を決定することになる。それをふまえるなら、権威となる機関、階層構造、委任団、更には何者であっても所有権以外のものにはその存在理由が見えない。そして第三に、その手法には基本的な弱点がある。」[マスキンとティロールによる指摘(Maskin and Tirole 1999)]
マスキンとティロールは残余支配権と不完全契約を基として政策や現実の事象を説明することに挑んだ。そして、私が知る限りでは、それより後にオリバー・ハートが書いた論文は皆無である。その代わりにハートが主として時間を割いてきたのが、基準規定に関する理論、意見不一致時の行動論、「公正な」利益配分提案を促す有効な事前契約、分配が明確でない時の隠蔽その他の破壊的行動などの研究だ。これらの状況では、協働している人々の間で事前の契約と事後の「公正さ」について意見の不一致が起きやすい。
そこから主として次のような帰結が得られた。柔軟な契約(例えば故意に不完全さを残した契約)は状況ごとの調整が容易にできるが、一方が悪意をもって自分だけの利益を追うことが可能となる。逆に柔軟性をなくせば、身勝手な行動を抑えられる反面、両者の利益を最大にする選択肢を閉ざしてしまうことがある。
ハートは過去10年にわたりこの見地を多くの疑問へ適用させていった。一例を挙げるなら、意思決定権の代理人への委任は信頼できるものなのか、といった。その権利を戻そうとしたときには代理人は抵抗するかもしれない(Hart and Holmström 2010)。もし代理人が完全に合理的であるなら、権利返還の正当性を認めさすのは困難、もしくは不可能となりうる。そして、ここで代理人が純粋に合理的ならばマスキンとティロールの評論が適用される状況である。
権威による計画管理のない市場でなぜ会社が存在するのか、この始めに出された疑問から私たちが得たものは何なのだろう。多くの機智に富んだ見解が現れ、それぞれ状況に合った回答を与えてくれるものの、厳格な理論としては完成されていない。
完成された会社の理論は次に挙げられる疑問に答えられなければならない。なぜ会社は現在の大きさなのか、なぜ会社は現在あるように物を所有するのか、なぜ会社は現在のような組織形態なのか、なぜ会社は存続するのか、そしてなぜ会社間の提携と取引は現在のような形で行われるのか。その論理はほぼ確実に、すべての参加者が高度にあるいは完璧に合理的であると仮定したとき、適合するものでなければならない。何百万という組織に採用されている制度を考えるなら、愚かさを言い訳にはできない。
会社を「資源」とした理論は多くあるが、ここで要求されるのはそれよりはるかに完成された理論、会社の基本を成す現在の財産所有権の形に合ったものでなければならない。(会社存在の理由はそこに協業文化を創り上げたから、会社存在の理由は他の誰にもまねできない成功の秘訣を見付け出したから。これらは因果関係ではなく現在の状況を述べているに過ぎない。)
コース、ウィリアムソン、そしてオストロムは正しかった。彼らが示したように、関係を保つための費用――取引費用――が本来的に会社の内外で異なるのには理由がある。そしてハートは、財産所有権と意思決定権がいかに財産価値を高めさすのか、そのことに関心を向けさせたことにおいて、正しかった。しかし彼らの深い洞察をもってしても会社の理論として求められているすべてに応えられるものではない。
おそらく理論の根幹となるのは、他人からの評価、関係性を示す契約、そして組織の中において望む方向が異なる人々の結びつき、などとなる。しかし未だ私たちの理論は混沌としている。権威による計画管理のない、いわば魔法のような市場制度の中で、なぜ「小さな共産的官僚制」は必要とされているのか、私たちの論理はその答を見付けられていない。
訳註
1.residual control rightsとは、「契約に記載されていない部分の所有者の権利」を意味する。この記事では「残余支配権」と訳しておいた。
- higher-order beliefsとは、互いに相手の考えを推察しながら自分の行動を決める状態のこと。この記事では「高次信察」と訳しておいた。参照:LSE The Higher Order Beliefs Web Page. http://personal.lse.ac.uk/dasgupt2/hob_main.html