デヴィッド・サハ「環大西洋貿易投資パートナーシップ:経済学ブログでの議論まとめ」

David Saha “The Transatlantic Trade and Investment Partnership: Review of the debate on economic blogs“(VOX, 20 July 2014)

環大西洋貿易投資パートナーシップ (TTIP) の初期草案は、その想定される利点と欠点について大きな公での議論に火をつけた。本稿では、このパートナーシップに賛成あるいは反対する議論の一部を取り上げる。既に相対的には貿易障壁が低い中にあって経済的な便益がどれほどのものになるのかという議論がある一方で、批判者はこの協定によってEUにおける消費者保護、公共サービスの提供、環境保護の基準を引き下げることになると主張している。


欧州委員会に提出された経済政策研究所(Centre for Economic Policy Research)の調査 (CEPR 2013) では、環大西洋貿易投資パートナーシップ (TTIP) の効果を、コンピュータ処理可能な一般均衡モデルでモデル化をしている。関税障壁をゼロに下げ、非関税障壁を25%、政府調達障壁を50%引き下げるという意欲的な協定は、2027年までにEUのGDPを0.5%上昇させる。世界のそれ以外の地域の経済成長への効果もプラスとなり、EUとアメリカにおける需要の増大によって平均してGDPの0.14%の上昇となる。貿易の構成が異なるために、とりわけても低所得国家はTTIPによってマイナスの影響を受けることはない。

上の論文よりも引用される頻度は低いものの、ベルテルスマン基金の調査 (2013) は長期の一人当たりGDPへの効果をより大きく見ており、全ての関税と非関税障壁を解体する結果としてEUへは5%、アメリカへは13.4%の効果があるという。ここでは、利益の大部分は第三国の犠牲によってもたらされる。カナダやメキシコにとっては、アメリカとの自由貿易協定の価値が失われるため、基本線のシナリオによるとTTIPによって長期の一人当たりGDPはそれぞれ9.5%、7.2%の減少となる。

貿易担当欧州委員であるカレル・デ=ヒュフト (2014a)はCEPRの数値を引用しつつ、経済の回復が進まない中でTTIPはEUとアメリカに対して10年間に渡って顕著な便益をもたらすと書いている。価値観の共通は交渉を円滑にするものの、3つの面において結果がもたらされなければならない。すなわち市場アクセス、規制協調、貿易ルールだ。市場アクセスの改善はヨーロッパの企業のみならず消費者になっても得となる。規制の標準化は、世界規模の生産者に対する不必要な費用を避けることになる。

ディーン・ベイカー (2014a) は、雇用や成長に対する好影響によってTTIPを支持する声は嘘っぱちだと主張する。CEPRのモデルは常に完全雇用を前提としており、13年間でたった0.5%のGDP上昇は、雇用に対して知覚できるほどの影響をもたらさないという。経済成長への効果は実際には反対方向へと向かう可能性すらある。特許や著作権保護の強化は財の価格の上昇をもたらしうるからだ。

図1.自由化の種別ごとのTTIPによる年間産出量の向上

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出典:LSE USAPP

ガブリエル・シレス=ブルッヘ及びフェルディ・ドゥヴィル (2013) は、この大言壮語な協定の便益とされるものについて疑問の声を上げている。CEPRの調査で述べられている経済的便益のほとんどは、非関税障壁の解体によるものだ。しかし欧州委員会自身、非関税障壁のうち50%だけが「実現可能」、すなわち政策の及ぶ範囲内にあると指摘している。CEPRが仮定しているような関税障壁の半分を撤廃する時点で、既にかなり意欲的なものと思われる。さらに、部門間の強い結びつきのおかげで、こうした便益は自由化が全ての部門で成功した場合にのみ具現化するだろう。

二者間協定の世界的意義

パスカル・ラミー (2014) は、TTIPのような特恵的貿易協定 (PTAs)は、残存している関税昌益を引き下げるのに資するのであれば非常に有益となりうると書いている。しかしながら、ほとんどのPTAsは関税よりも規制問題により焦点を当てている。消費者保護のような一部の関税障壁は、正当な目標に役立っている。また、PTAsが様々な集団を異なる規制アプローチへと組み込んでしまい、取引費用を増大させてしまう危険性が存在する。そして最後に、WTOを通じた機能的な多国間貿易制度は、経済の断片化を避けたり、世界規模での妥当なルール作りをするにあたって欠かせないものであり続ける。

ミカエル・ボスキン(2013) は、TTIPの結果はアメリカとEUだけに留まらない可能性があると指摘している。NAFTAが署名された後、ウルグアイ・ラウンドの貿易交渉は復活した。同様に、TTIPが成功裏となれば、瀕死状態のドーハ・ラウンドの大きな火付け役となる可能性がある。EUとアメリカの間で真に意見が対立している点において和解がなされるかどうかが非常に重要となるだろう。最も困難なもののうちのひとつは、遺伝子組み換え食品に対するEUの輸入制限であるが、これはアメリカの農業にとって主要な問題のひとつとなっている。もう一つは金融規制で、アメリカの銀行は自国で芽生えつつあるより厳格な枠組みよりも、EUの法制を好んでいる。こうしたことは防衛機協定の外側の国にとっても関係することだ。EUが遺伝子組み換え食品の輸入に関する法制を緩め、アフリカからの輸入についても慎重な監視へと切り替えるならば、アフリカの農業にとってはとてつもない恩恵となりうる。

ハンスーヴェルナー・シン (2014) にとっては、二者間の貿易協定が近年世界的に勢いを増していることは驚きではない。というのも、多国間貿易交渉になんの実質的進展が見られないためだ。WTO交渉のドーハ・ラウンドは基本的には大失敗だった。現在のところ、EU内における消費者保護へのマイナス効果についての恐怖が議論を歪めている。EUでは欧州裁判所におけるカシス・ドゥ・ディジョン判決に従い、全ての国に適用される最低基準は基準の一番低い国のものが適用されており、実際にはアメリカの消費者保護基準はしばしばEUよりもかなり高い。CO2の排出上限規制は、イタリアやフランスの小型車製造業者を守ることを狙った隠れた産業政策であり、このようなEUの誤った規制の一部を撤廃することで、TTIPは顕著な経済的便益をもたらす可能性がある。

TTIPの貿易に対する非関税障壁と知的財産保護

ポール・クルーグマン (2014) は、アメリカの他、アジア太平洋地域の11か国からなる環太平洋パートナーシップ(TPP)協定が失敗したとしても、大惨事とはならないだろうと書いている。実際の貿易障壁、すなわち関税は既に非常に低い。アメリカ国際貿易委員会はその最新の報告書の中で、アメリカの輸入制限による費用はGDPの0.01%としている。こうした貿易協定は本当のところは知的財産権のような問題に関するものであることが多く、それらによる利点はずっと不確実なものだ。知的財産権は一時的な独占を生み出す。これらはイノベーションを促進するためには必要なものかもしれないが、自由貿易を擁護する古典的議論に繋がるところはない。

ライアン・アヴェント(2014)は、この問題に関してクルーグマンは宿題をこなしていないと考えている。まず、関税は普遍的に低いわけではない。マクロ経済的な影響が限定的である可能性はあるとしても、一部の財に対する高関税はミクロ経済的には望ましいものとなる。次に、TPPとTTIPの双方が狙いとしているものの一つは、非関税障壁の削減だ。農産物の輸入をはじめとするほとんどの事例においては、こうした障壁は関税障壁よりもずっと高くついている。

ディーン・ベーカー(2014b)は、知的財産権保護拡大の有用性については非常に懐疑的だ。アメリカにおけるピーナッツバター・サンドウィッチのような馬鹿げた特許の可能性は、価格を上昇させ競争を阻害するだけだ。これによる一番の勝者は製薬会社であるかもしれない。彼らはアメリカとEUで謳歌している歯止めのない特許独占を拡大し、医薬品価格の上昇と医療品質の低下を招く可能性がある。その他の企業はTTIPを特定の利害を促進する方法として見ており、それは例えばフラッキングのような問題について民主的手続きを回避するために自由貿易を根拠として使うことだ。

投資保護:国家主権に対する脅威か?

TTIPはEUの利益に対してアメリカの利益が優越するという話ではなく、一般市民を支配する資本所有者の利益なのだとジェンス・ジェッセン (2014)は書いている。TTIPの投資家保護条項は文化や教育についての国内政策への巨大な脅威となる。たとえば、公立大学を私立大学よりも安価にするための支援はできなくなる。大企業も小規模業者も補助金に対して同じ権利をもつことになるため、地域映画産業への支援は不可能となる。大衆娯楽の制作会社は、地域のオペラや交響楽団に対する支援を自分たちにも拡大するよう求めて国家を訴えることが出来るようになり、公共ラジオ局も同様の脅威にさらされるだろう。

カレル・デ=ヒュフト(2014b)は、そうした主張に対して鋭く反論している。EU条約やユネスコ文化多様性条約は加盟国に対して文化多様性の保護を義務付けるとともに、地域映画産業支援などの政策を明示的に許可している一方で、オーディオビジュアルはいずれにせよ一切TTIPの範疇には含まれていない。ドイツ1国だけでも130の投資保護協定を結んでいるが、これらが企業に対して利益が減少した場合の求償権を含んだことは一切ない。また、1990年代初頭にポーランドがアメリカと投資保護協定に署名した後、文化あるいは教育部門に補助金を提供する同国の権利に疑問が投げかけられたことはない。

EUとアメリカの民主主義に対するTTIPの投資条項による脅威は、しばしば主張されるよりも低いものだとロバート・ベースドウ (2014)は書いている。投資家と国家間の紛争解決条項によって、投資家は超国家的な仲裁裁判所に対して社会的ないし保健、環境への保護の取り消しを求めて国家を訴えることができるようになると批判者は主張している。しかしながら、香港あるいはシンガポールのような金融ハブとの二者間条約が多重的に存在することにより、こうしたところの管轄権内に資産を持つ投資家は現時点で既にそうした権利を持っている。実際のところ、TTIPはそうした仲裁手続きをより透明化及び合理化する機会を提供するものなのだ。

参考文献

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●Baker, D (2014a), “Why Is It So Acceptable to Lie to Promote Trade Deals?“, Beat the Press Blog, Centre for Economic and Policy Research (Washington, DC) 30 May.
●Baker, D (2014b), ”TTIP: It’s Not About Trade!“, Atlantic-Community.org, 12 February.
●Basedow, R (2014), “Far from being a threat to European democracy, the EU-US free trade deal is an ideal opportunity to reform controversial investment rules and procedures”, LSE EUROPP Blog, 2 July.
●Bertelsmann Foundation (2013), “Who benefits from a transatlantic free trade agreement?“, Bertelsmann Stiftung Policy Brief 2013/04.
●Boskin, M (2013), “Transatlantic Trade Goes Global”, Project Syndicate, 16 July.
●Centre for Economic Policy Research (2013),”Reducing Trans-Atlantic Barriers to Trade and Investment“ , final project report for the European Commission.
●De Gucht, K (2014a), “Aiming high: the values-driven economic potential of a successful TTIP deal” , Oecdinsights blog, 16 June.
●De Gucht, K (2014b), “Zum Glück kein Wahnsinn“, Die Zeit, 13 June.
●Jessen, J (2014), “Eine Wahnsinnstat“, Die Zeit, 12 June.
●Krugman, P (2014), “No Big Deal“, The New York Times, 28 February.
●Lamy, P (2014), “The Perilous Retreat from Global Trade Rules“, Project Syndicate, 9 January.
●Siles-Brügge, G and de Ville, F (2013), “The potential benefits of a US-EU free trade deal for both sides may be much smaller than we have been led to believe”, LSE USAPP blog, 17 December.
●Sinn, H-W (2014), “Free-Trade Pitfalls“, Project Syndicate, 24 June.

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