「経済のほかの部分はみんな正常化した、そろそろ金利も正常化させる頃合いだ」と思ってるなら、まちがいだ。ほかの部分がみんな正常化してるなら、金利はとっくに正常化されてるにちがいない。
ヴィクセルはこう考えた――経済の基底にはなんらかの「自然な」利子率がある。自然利子率を下回る利子率を中央銀行が設定するとインフレが生じるし、自然利子率を上回る利子率を設定すればデフレが生じる。だから、物価水準を安定させたい中央銀行は、実際の利子率をこの基底の利子率に等しく設定するのを狙うべきだ。そして、物価の安定をのぞむなら、どれほどの期間であっても平均で見て実際の利子率が(おおよそ)自然利子率に等しくなる必要がある。
ヴィクセルの時代から、そんなに進歩はしていない。ネオ・ヴィクセリアンが付け足す重要なことはひとつしかない。それは、「名目利子率と実質利子率の区別が大事(実質利子率 = 名目利子率 – インフレ率)」ということだ。つまり、2パーセントのインフレ目標を立てている場合には、自然利子率に2パーセント足すと「中立的な」名目利子率がえられる。そして、インフレ率を安定して2パーセントに維持したければ、どれほどの期間であっても平均で見て実際の名目利子率はこの中立的な名目利子率に(おおよそ)等しくなる必要がある。
これが金利を「正常化する」という考えにどうはまるかおわかりだろう。一定期間の平均という意味でも中央銀行が目指すべきのぞましい規範という意味でも、「正常」になるわけだ。
ところが、こんな声をよく聞く――「カナダ銀行(とか他国の中央銀行)はすぐさま金利を正常化する必要がありますぞ。」 思わずシャベルを手に取りたくなる。理由を解説させてほしい。
ちょうどここでやっているように、なんらかの見解に対して反論したいときには、たいてい、その見解がどんなものなのか言葉にしてみるのがいい手だ。意を汲んでみると、こんな具合:
「しばらく前に、経済は正常にうまくやっていた。カナダ銀行は自然利子率におおよそ等しく実際の利子率を設定していて、だから産出ギャップはおおよそゼロで、インフレ率は2パーセント目標に達していた。そこに金融危機が起きて、産出ギャップはマイナスに転じ(景気後退)、インフレ率は目標を下回りはじめた。そこでカナダ銀行はこの景気後退に対抗すべく一時的に実際の利子率を自然利子率未満に切り下げる必要に迫られた。しかし、しかや経済は回復し、産出ギャップはふたたびおおよそゼロに戻り、インフレ率はおおよそ目標に達している。そろそろカナダ銀行は自然利子率にもどして金利を正常化する頃合いだ。」
この見解のこまかい部分にはつっこまないでおきたい――「産出ギャップは本当にゼロなのかい」とか、「インフレ率は本当に目標水準までもどっているのかい」とか。そのへんをつっこんだところで、変わることといえば、いますぐ正常化すべきなのか、それとももう数ヶ月ほど待っておくべきなのかということでしかない。ここでは「正常化」という発想そのものをやっつけたい。
1. 自然利子率は、あちらからこちらへと動く標的だ。かつて正常だったものが今日も正常だとはかぎらない、将来も正常だともわからない。カナダ国内でも世界でも、のぞましい貯蓄や投資を変えるほぼあらゆることが、自然利子率を変えてしまう。
2. 自然利子率は見えざる標的だ。というか、あとから振り返ってみないと見えない標的だ。あとになって過去の産出とインフレ率を見れば、かつて自然利子率が(おおよそ)どのへんだったのかわかる。でも、いま自然利子率がどのへんなのかは見えないし、これからどうなっていくのかもわからない。
3. 自然利子率は、こちらが仕損じたときに動く標的だ。さらにわるいことに、「このへんだ」とこちらが思っていたところからさらに遠くに動きやすい。
4. 自然利子率は1つきりではない。なぜなら、実際の金利が1つきりではないからだ。当該の金融資産の流動性・リスク・期間しだいで、いろんな金利がある。そのいろんな金利のどれをとってみても、その金利なりの自然利子率があるし、時間経過とともに、そうした金利どうしの差は変動する。
5. さっき、太字強調した箇所が、「正常化」論のどこが間違っているかを示している: 「そこでカナダ銀行はこの景気後退に対抗すべく一時的に実際の利子率を自然利子率未満に切り下げる必要に迫られた。」
「正常化」論にかわる世の中の見方を示そう: なにかが(金融危機が)起きて、自然利子率が急落した。そのあと景気後退が起きたのは、カナダ銀行が実際の金利を切り下げるよりもすばやく自然利子率が低下してしまって、実際の金利が自然利子率を上回っていたからだ。さて、いまや経済は景気後退から回復している。これはつまり、実際の金利は自然利子率におおよそ等しくなっているということだ。インフレ率はおおよそ目標に達している。これはつまり、実際の金利がすでに(おおよそ)正常化されているということだ。新しい正常はかつての正常とはちがう。それが来年どうなっているか、再来年どうなっているかも、きっとやっぱりちがっているだろう。
時がたっても自然利子率がまったく変わらない定数だったなら、あるいは、かならずゆっくりと予測しやすいかたちでしか変動しないなら、金利の「正常化」を語るのも意味をなす。でも、もしそうだったなら、そもそも景気後退が起こるのは、その不変の自然利子率を上回る金利を設定するよう急に中央銀行が決定したときにかぎられる。
どれほど不完全であれ、もしも予測の水晶玉かなにかがあって自然利子率がどのへんにあるかわかるなら、金利の正常化について語っても意味があるかもしれない。でも、そんなものはない。できることといったら、あとから産出とインフレ率を振り返ってみて、どのへんに自然利子率があったのかあたりをつけることだけだ。もしも産出ギャップがゼロなら、あるいはインフレ率が目標に達していてそこにとどまっている様子なら、自然利子率はとにかくいま実際の利子率のあたりにあるにちがいない。
「経済のほかの部分が正常化しているなら、そろそろ金利も正常化すべき頃合いだ」と考えるならまちがっている。経済のほかの部分が正常化しているなら、金利もすでに正常化しているにちがいない。