ビル・ミッチェル「バランスシート不況と民主主義」(2009年7月3日)

Bill Mitchell, “Balance sheet recessions and democracy“, Bill Mitchell – billy blog, July 3, 2009.

 

常連読者から、東京を本拠地とするエコノミストであるリチャード・クーが書いたレポートが送られてきた。当該レポートでは、長引く不況と民主主義の関係についていくつかの興味深い問題提起がなされている。クーは、いわゆる ”失われた10年” において日本で起こったことを描写する言葉として “バランスシート不況” という用語を創造したことで、ここ10年あるいはそれ以上に渡り、ある意味有名になった。彼は現在の世界経済危機についてもその分析を適用している。彼は現代金融理論家(modern monetary theorist)ではないが、大規模財政介入の必要性と、量的緩和邦訳)の無益さを理解している。このブログ記事では、その全てについて論じる。

バランスシート不況とは何か? 私は以前、クーの2003年の本 – Balance Sheet Recession: Japan’s Struggle with Uncharted Economics and its Global Implications – (邦題:デフレとバランスシート不況の経済学)(John Wiley & Sonsが出版)を読んだことがある。

クーの本は、1990年代の日本の経済停止の理論的説明を行っている。当時、1990年代の日本がなぜ経済減速に陥ったかについて、二つの対立する理論があった。一つ目は新自由主義的サプライサイドの議論で、日本の機構(銀行や産業など)が壊死しており、大規模なミクロ経済学的改革――民営化、規制緩和、官僚的干渉の排除――が必要だとされた。

二つ目は需要サイドの説明で、民間部門の貯蓄欲求の上昇によって発生した深刻な支出ギャップを克服するために公共事業支出の拡張が必要だとされた。需要サイド理論の一部はミクロ的改革アジェンダの提案に反対ではなかったが、急を要するのは財政・金融的拡張だと主張していた。

クーのバランスシート不況のアイデアは、また一味違ったものだ。日本の構造的硬直性は、力強い成長をしていた時代にも同様に存在していたのであり、1990年代にのみ生じたものではない、とクーは論じている。

彼は1970年代に始まり、1980年代の加速した債務蓄積に着目している。

(主に土地に紐づけられた)債務蓄積によって加速した資産価格ブームは、最終的には日本銀行の緊縮策によって終結させられた。続いて生じた資産価格のクラッシュと、その結果としてのバランスシート調節によって、かの用語―― ”バランスシート不況” ―― を生み出している。

このバランスシート再構成プロセスにおいては、第一目標は利益追求ではなく債務返済になってしまうとクーは言う。次に、このことは投資の落ち込みを通じて総需要抑制につながる。そうした低迷は悲観論を強化し、信用力のある借手は干上がり、倒産が増加する。この回路を断ち切るのは財政政策しかない。なぜなら(以下に私が説明する通り)経済は流動性の罠に陥っているからだ。

次に示す図はクーの2003年の本から引用したものだ。この図は基本的に、入門教科書で用いられている所得-支出-生産の関係を示す循環フローモデルを拡張したものだ。このフロー図は、彼のバランスシート不況の概念の基礎を捉えたものである。

この図から分かる一連の事象は以下の通りだ。

・民間部門が資産・投機資産の購入のために大規模債務を積み上げる。

・資産価格は需要に応じて上昇するが、最終的にはバブルは破綻し、民間部門は富の減少と莫大な債務と共に取り残される。

・民間部門は、バランスシートの再構成を開始し、いかに金利が低くなろうとも、借入をストップする。

・債務返済(デレバレッジング)に全力が捧げられ、家計は将来への悲観から貯蓄を増やし、支出を減らす。

・信用収縮が発生する――それは資金不足によるものではなく、銀行が融資可能な信用力のある借り手が見つけられなくなるからだ。

・銀行への流動性注入の試みは失敗に終わる。なぜなら、銀行は準備預金に制約されているわけではないからだ。銀行が融資を行わないのは、信用力のある借り手が誰も借入を行おうとしないからだ。

・支出の躊躇は、マクロ経済の溶解を発生させる。

・こうした民間部門の縮小(債務削減、貯蓄)の背景下において、 ”バランスシート不況” を回避する唯一の方法は、公共部門の赤字財政支出である。

日本におけるGDP成長率は直近15年の間極めて低く、新自由主義者はそれが財政赤字が無駄である根拠だと論じた。しかしクーは、財政赤字だけが唯一、経済が深刻な不況に陥るのを防いできたのだと論じている。クーの研究は、新自由主義者のロビー活動が牽引力を獲得し始め、政府純支出が減らされたときに日本経済が再び後退したということをきっちりと示している。しかし面白いことに、こうした緊縮の試みは、――自動安定化装置を通じて――ただ財政赤字を増やしただけだったのである!

しかし、クーもケインジアンも財政政策で総需要を刺激して生産キャパシティの完全利用を目指すことを提唱しているからといって、クーがケインジアンだと考えてはいけない。クーとケインジアンの違いは、それぞれが不況をどう理解しているかにある。一般理論でケインズは事業の期待収益に対する悲観が起こす投資の減退によって不況が発生すると論じた。そうした悲観は貯蓄を促し、総需要を落ち込ませる。

しかしながら、クーは、民間部門の緩んだ信用(借入)が支出拡張を裏打ちし、その結果として民間バランスシートの危険性が亢進したと見ている。こうした信用(借入)過剰への反応として、民間部門はさらに貯蓄し始め、金利が低いにも関わらず借入しないようになった。このため、金融政策は投資を刺激できない。

興味深いことに、クーは以下のように述べている:

ポール・クルーグマンのような西洋の学者たちは、日本銀行に対して、デフレーションを止めるために量的緩和を施行するよう助言した。最終的に――そして渋々――日本銀行は彼らの助言を取り入れ、2001年に準備預金を5兆円から30兆円へと劇的に拡張した。

それにも関わらず、経済活動も資産価格も下落を続け、西洋の学者が企図したインフレーションが実現することはなかった。

アメリカ人経済学者のポール・クルーグマンは(不幸にも)遅れて財政赤字の教祖になった。例えば最近、CNNはクルーグマンとジョン・テイラーの討論番組を放送した。ジョン・テイラーは、スタンフォード大学の一層愚かな保守派マクロ経済学者で、実際、政府の介入(財政赤字!)は危険だと警告している。

問題は、クルーグマンもずっと財政政策論者だったわけではないということだ。クーの記述によれば、日本の ”失われた10年” の間、クルーグマンは問題の本質を完全に見誤っており、金融政策への依存を推奨していた。

クルーグマンのニューヨークタイムズの記事の一つ(2008年10月31日掲載)で、彼はアメリカにおける2008年3Qの実質消費支出急落に言及しつつ “長らく恐れられていたアメリカの消費者の屈服がついに訪れた” と述べた。この記事では、クルーグマンは(含意はどうあれ)1990年代の日本の問題についての彼自身の分析が間違いだったことを大なり小なり認めている。もちろん、直接的に認めたわけではないが、(以下に私が述べる)彼の日本に関する初期の論調と、現在の彼の論調を見比べれば、察しが付くだろう。

2008年10月、クルーグマンは「 ”アメリカの消費者は自身の収入を超えた生活をするようになっている”」、「過去には ”アメリカ人は収入の10%を貯蓄していた” のだが、今や貯蓄率はマイナスになってしまった」、「 ”消費者の債務のGDP比は、過去四半世紀の2倍にあたる98%に上昇した” 」と述べている。

こうした傾向はオーストラリアでも明らかだった。私のような評論家が、財政黒字生成の危険性と、成長維持が民間債務水準の増加に依存している――つまり、債務拡張が富を創造している――ことの危険性を指摘するのを宥め鎮めるために、アメリカと同じような議論が自由市場ロビー活動で利用された。1990年代の中央銀行(RBA、オーストラリア準備銀行)の公式文書でさえ、そうした議論――案ずるな、うまくいく!(don’t worry be happy!)――が推進された。

そうした状況ではいつも、家計や企業による不安定なバランスシートの安定化と貯蓄の希求が生じた。

クルーグマンは以下のように述べている:

そうして遅かれ早かれ、消費者は節約を行わなくてはならなくなる。しかし、改めて素面に戻るタイミングは極めて不運だ。聖アウグスティンの嘆願が思い起こされる: ”私に貞節と自制を与えたまえ、しかし今ではなく”。 消費者の支出削減によってアメリカの経済は流動性の罠へと陥る――そこでは、連銀は経済のコントロール能力を喪失してしまう。

要は、彼は倹約のパラドックスについて論じているのである。倹約のパラドックスは、我々がマクロ経済学の学生に初年次に教えている ”各人の美徳が公的な悪になり得る” という代物で、消費者が大挙して貯蓄を試みたら、(支出低下に生産レベルが対応することで)国民所得が減少し、全員がいっそう苦しみ、失業率が上がるのである。

クルーグマンが言うには:

重要なのは、もし消費者が支出を削減し、他のどの主体もその支出を肩代わりしなかったら、経済は不況に陥り、全員の所得が低下するということである。実際には、消費者の所得は支出削減分よりも低下し、もっと貯蓄しようという試みは逆効果となる…

これがいわゆる倹約のパラドックスだ。ミクロレベルでは当てはまること(ある主体が十分に自制的であれば、貯蓄を増やすことが可能)が、マクロレベルでは当てはまらない(他(政府)の介入がなければ、全員が貯蓄を増やそうとしてもうまくいかない)のである。

このような、ミクロレベルでは機能するロジックをマクロレベルに適用しようとしたときに発生する一般的な推論の誤謬は、合成の誤謬と呼ばれている。実際、このことがマクロ経済学を異なる学問分野として確立させたものなのである。大恐慌以前、マクロ経済学は、ミクロ経済学の総計であると考えられていた。新古典派経済学者(現代の新自由主義者の前身)は合成の誤謬の罠を理解しておらず、大恐慌の真っ最中に支出削減と賃金切り下げを提唱していた。

流動性の罠とは、金融政策が完全に無効になった状態のことだ。中央銀行は利下げによって支出減少を反転させようと試みるが、経済が流動性の罠にはまると、人々が全く借入を行おうとしなくなるので、その目論見は失敗することになる。

クルーグマンの次の論述から、1990年の日本の状況について彼が誤っていたことを暗に認めていることが分かる。

事実として、我々はいままさに流動性の罠にはまっている: Fedの政策はその牽引力をほとんど失ってしまった。ベン・バーナンキが、日本が1990年代に行ったゼロ金利への利下げをまだ行っていないというのは事実だが、1%からゼロまでFFレートを引き下げることが経済に大きい正の効果を齎すとは信じがたい。特に今回の金融危機はFedの政策と民間部門の関係を大いに損ねてしまった: Fedは着実に利下げを行っていったが、住宅ローン金利や、多くの企業が支払っている金利は、今年前半の金利よりも高い。

… 今経済に必要なのは、節約する消費者に代わる何かだ。それは大規模財政刺激である。そしてこの場合、消費者が支出しないであろう税の払い戻しよりも、実体的な政府支出の形で財政刺激を実行するべきだ。

しかしながら、1998年に立ち戻って、当時のクルーグマンが日本に関して言わなければならないことを読めば、彼がかの国について何もわかっていなかったことが分かるだろう。クルーグマンは、この記事の記述に従えば、「日本に支出ギャップがあったこと」、「低い名目金利は経済を刺激していなかったこと」を認識していたということは確かである。しかし彼はまた、財政政策は有効になり得ると示しつつも、 ”政府には財政的制約がある”、 ”日本政府は無駄遣いばかりしている” とも主張していた。

彼は当時、金融政策は効果的でなかったと主張していた。というのは:

…民間部門はその…[日本銀行の]…行動が一時的だと見做す。なぜなら彼らは、中央銀行が長期的には物価安定にコミットすると信じるからだ。そしてそれが、金融政策に効果がない理由なのだ! 日本が経済をきちんと動かすことができなかったのは、中央銀行に責任感があると市場に見做され、物価水準が上昇し始めたら中央銀行はマネーサプライを引き締めるだろうと市場に予想されているからだ。

したがって、金融政策を有効にする方法は。、中央銀行が信頼できる形で無責任になることを約束することだ――インフレーションの発生を許容する説得的状況を作り出すことで、経済の求める不の実質金利をもたらすのである。

このことは、可笑しく、またひねくれているように見える。…[しかし]…経済を拡張する唯一の方法は、実質金利を引き下げることだ; そして、その方法は、インフレ期待を作り出すことなのだ。

彼のこの診断は完全に間違っている。日本が今世紀初期に復活させた唯一の事物は、財政政策だった。

クーは以下のように答えを出している:

量的緩和が日本で機能しなかった理由は極めて単純で、日本銀行職員やローカルマーケットの観測者から頻繁に指摘されてきた: 日本の民間部門に資金需要がないからだ。

中央銀行によって提供された資金がインフレーションを起こすには、借入され、支出されなくてはならない。それが経済に貨幣が流れ需要を増やす唯一の方法だ。しかし、日本の長期不況のさなか、バブル崩壊後に負債に苦しむバランスシートが残った企業は、財務の健全性の回復に集中した。過剰債務を抱える企業は、ゼロ金利であっても借入を拒絶した。これが、バブル崩壊後の15年でゼロ金利のみならず量的緩和も経済を刺激できなかった理由である。

クーはまた、IMFも論難している。IMFは、2006年に日本銀行が(役立たずの)量的緩和をやめる決断を行ったことに狼狽していた。クーが言うには:

IMF――日本がバランスシート不況に嵌っていることに気づいていない数ある集団の一つ――は、量的緩和をやめるという日本銀行の決断に反対した。しかし日本銀行がそれを実行しても、何も起こらなかった。

量的緩和政策が中断されたら長期金利がロケットのように跳ね上がると多くの人々が心配していた。決定の直後には長期金利が20-30bp上昇したが、その後は以前の1.5-1.6%の水準という人類史に残る水準にまで再び低下した。そして多くの人々が恐れた日本国債価格暴落は全く起こらなかった。

したがって、財政赤字は名目金利を引き上げるわけではないし、適切な規模であればインフレーションも起こさない。クーは彼のレポートの続きの部分で、この点を極めて明瞭にしている:

また同時に、中央銀行の国債マネタイゼーションが、大規模財政赤字によるインフレ着火の十分条件ではない。公的部門と民間部門の需要の合計も、経済の生産キャパシティを十分に超過していなければならないのである。

しかしアメリカでは、ゼロ金利にも関わらず、民間部門の需要は急減し、貯蓄率は劇的に上昇した。結果として生じた民間部門の貯蓄余剰(換言すれば、民間の資金需要を超える民間の貯蓄)が、借手の不足のせいで経済の所得循環における漏出を齎し、デフレーションギャップを生み出している。

その結果であるデフレスパイラルの程度は、民間部門の貯蓄超過の大きさで決まる。これを止める唯一の方法は、政府によって民間の貯蓄超過分を借入し、支出することであり、それによって貨幣が所得循環に還元される。このことは、要するに、バランスシート不況において経済安定化のために政府が財政刺激に取り組まなければならない理由である。もし政府の借入支出が民間の純貯蓄の超過に及ばないなら、インフレは生じないのだ。

第一に、クーは政府の財政的制約――赤字財政支出が自動的に借入と関係する――を信じている(しかも彼はゼロ金利近傍の経済について論じており、その場合は金利目標の維持のために借入(訳注:国債発行のこと)を行う必要がない)ことから、彼が現代金融理論家(modern monetary theorist)でないことはわかるはずだ。

第二に、彼はインフレーション分析における名目支出と実物キャパシティの関係について明瞭に理解している。前者が後者を超過したときにはじめてインフレーションを警戒することになる。

第三に、民間貯蓄の増加は支出ギャップを生み出し、それはデフレ圧力になる――結果、産出と雇用の下落を引き起こす。

第四に、政府に残された唯一の手段は、支出によって ”貯蓄意思分の資金を供給する” ということである。クーは私がやっているような表現をしていないのがわかるだろう。というのは、この点において彼は財政ハト派なのであり、世界金融危機を通じて、彼は政府が貯蓄から資金を借入し、支出することで所得発生循環に貨幣を戻し維持すべきだと考えているからだ。

これは転倒した論理だ。民間部門が用い、債券を購入するための貨幣は、政府の純支出(財政赤字)によって生まれてくる。その財政赤字はまた、民間貯蓄欲求の実現を保証する資金の供給となる。もし財政赤字がそうした欲求を満たせる分だけ拡張されない場合は、上述したように、倹約のパラドックスが所得(および産出)を減らし、危機が発生するだろう。

第五に、彼が改めて気付いたのは、財政赤字が民間貯蓄欲求を超過しない限りインフレーションは起こらないということである。それはつまり、名目支出が経済の実物産出キャパシティを超過する場合ということだ。

進歩的経済学者を含む様々な経済学者によって提起された関連する論点として、「バランスシート不況において、問題は過剰債務である」というものがある。曰く、かの論理で行けば、政府が公的債務を増やすのは可能な限り控えるべきだとされる。

したがって民間債務と公的債務はある程度同価値のものとして統合されているわけだ。あなたはこうした論理がただ純粋に誤っていることが即座に分かるだろう。通貨(currency)の利用者である家計が持つ債務は、家計が何らかの形で資金調達しなければならないため、家計の将来の消費余力への負担となる。政府の持つ債務は、政府の将来の支出余力には制約されない。統治政府の債務に不履行の問題は一切無いのだ。

とはいえ私は公的債務水準の引き上げを提唱しているわけではない。実際には、私はあまり公的債務を発行せず、短期のイールドカーブにおける金利を永続的にゼロ近傍に維持すべきと考えている。そして財政政策を通じ、名目需要を実質キャパシティ上に維持するのに必要な全ての支出調整を行うべきだ。

民主主義と財政赤字

(クーの書いた)レポートのうち、読者が私に送ってきた興味深い部分は、民主主義に関する議論だ。クーは以下のように述べている:

日本、アメリカ、欧州に見るように、平時において政府が大規模の支出を行うことは難しい。それどころか、民間貯蓄過剰を相殺するのに不十分な財政支出になるリスクがある。

民主主義においては、財政赤字のサイズに関する不安と財政再建論者のせいで、政府が必要な期間に必要なだけ財政刺激を提供することが出来なくなるリスクが非常に高い。日本はこの罠に1997年に陥り、デフレスパイラルの引き金を引いて、5四半期に渡って立て続けにマイナス成長となった。

言い換えれば、政治的プロセスが統治政府の完全雇用実現能力を台無しにしてしまうということだ。では、彼が言及している懸念はどこからやってくるのだろう? メディアと公の議論がその元凶だ。彼らが来る日も来る日も新自由主義的論調を繰り出し、万人に向かって、「あなたがたの子孫はすさまじい借金によって破滅に至り、今日の財政赤字による何らかの牽引力を通じて貧困に陥るだろう」と吹き込んでいる。

第二次世界大戦後の真の完全雇用の時代では、こうしたヒステリーはもっと抑制されており、政府は(金本位制etcといった通貨システムに制約されていたとはいえ)高レベルの雇用と所得成長という政策目標が達成可能だった。

問題は民主主義ではない――そんなことを認めるのは実に恥ずべきことだ――むしろ民主主義の欠如が問題なのだ。それは、保守的な反政府バイアスを大いに反映している高度集中型メディア産業の結果なのである。

私は民主主義を”測定”し得る妥当なデータを探している。一部の政治科学研究者の中でこのトピックについての産業が存在する。残念ながら、その適用は極めて新自由主義的に見える。キューバは非民主的である一方、アメリカはトップの得点を取っているのだから! こうした乏しい研究努力のため、私は探求に成功できないでいる――私はフォーマルな形で(計量経済学的に)こうした仮説を検討することを計画していたが、私はそうした”民主主義”データを信用しておらず、とにもかくにも、そうしたデータは私の研究上の関心にとって周辺的な代物である。

 

クーの分析には同意できない点が数多くある。そうした争点のほとんどは、彼の誤った想定、即ち、政府がその支出資金を調達する必要があるという想定から発生している。政府が通貨の独占的発行者である限り、資金調達が必要にはならないことは明らかだ。

しかし彼の支出ギャップ、及び深刻な低迷において財政政策の果たす役割についての理解に対しては、はっきりと同意する。

 

 

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  1. ポイントは、「通貨(currency)の利用者である家計が持つ債務は、家計が何らかの形で資金調達しなければならないため、家計の将来の消費余力への負担となる。政府の持つ債務は、政府の将来の支出余力には制約されない。統治政府の債務に不履行の問題は一切無い。」何故なら、統合政府として、一般会計で政府債務(普通国債の発行)による「公債金」財源分の政府支出に加えて、通貨を発行する金融部門(中央銀行)の買いオペにより、その一般会計で発生する債務分を回収からの「公債金」を別口(特別会計)で用意できるからである。そこから、市場に残っている「一般会計の政府債務」は帳消し(償還)されているに余りあるから。

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