Noah Smith”Paul Ryan’s poverty plan signals an ideological shift“(Noahpynyon, 1 August, 2014)
(訳注;本件の関連エントリ(optical_frog氏の訳)がありますので、あわせてご覧ください。
(この文は元々Bloomberg Viewに投稿したもの)
数日前、共和党議員のポール・ライアンは人々を貧困から救い出すための案を発表した。彼がその概要を明らかにしたのは、ワシントンに本拠を置くシンクタンクであるアメリカン・エンタープライズ研究所だが、これはいわゆる改革派保守運動と呼ばれるものの知的センターとして立ち上がったとされている。この案は州に対して機会助成(Opportunity Grants)と呼ばれる大規模なブロック助成を創設し、州が多くの反貧困プログラムを実施するよう指導するものだ。そうしたプログラムの中で最も画期的なのは、貧しい人たちが様々な面で生活を向上するための具体的な段階を踏むのを直接的に手助けするソーシャル・ワーカーを雇う点だ。
この案が発表されるやいなや、たくさんのリベラル寄りの論客が批判を始めた。エズラ・クラインは、貧困対策案がライアン自身の負債削減提案に反するものだと非難した。
ライアンの予算案と彼の貧困対策案は単に異なっているのではない。両者は完全に矛盾しているのだ。両者は同じ宇宙で同じ時間に実施することはできないのだ。例えば彼の予算案は、勤労所得税額控除を可能としている資金の流れを大きく切り崩している。彼の貧困対策案は勤労所得税額控除を大きく増やすとしている。彼の予算案はフードスタンプやその他の所得支援プログラムを大きく切り崩している。彼の貧困対策案はそれらの支出を一定に据え置いている(中略)ライアンの貧困対策案は、共和党を貧困対策へ乗り出させようとする努力か、あるいは別の手段によって彼の予算案を成立させようとするトロイの木馬のような努力のように見える。
ポール・クルーグマンは、ライアンから出てくるものは全て信用できないとして全面的にこの案を斥けた [1]訳注;リンク先は本エントリの冒頭に挙げた関連エントリの原文。 。エミリー・バッジャーは、個人補助に対するライアンの懲罰的で期限に基づいたアプローチは、貧しい人たちがどのように判断を行うかについての知見と非整合的だと書いた。アニー・ロウリーはこの案は過度にパターナリスティックであるとし、「恩着せがましく間違ったもの」とレッテルを貼っている。そしてジャメル・ボウイは、貧乏人が本当に必要としているのは「人生の指導者」ではなくより多くのお金だと書いた。
これはただ単に左の論客による否定的な回答の小規模なサンプルだ。ライアンの案にあるリベラルが好むに違いないいくつかの要素を指摘したマット・オブライエンをはじめとした、非常に少数だけが肯定的な書き方をした。
こうした反応は理解できる。ライアンはアイデアマンとして自身の名を成したが、これは大抵の場合見かけは大胆だが機能しない案を発表するということだ。そしてリベラルが行っている批判の多くは、この案の現実的な欠点を示している。例えば、この案が上手くいくためには貧困削減のための全体的な資金が相当程度引き上げられる必要がある。
しかしこの点についてライアンを叩いているリベラルは時期尚早だ。ライアンの案は保守派と共和党に歓迎されており、これは保守派運動そして共和党による貧困問題へのアプローチにおける巨大な地殻変動の潜在的な表れだ。
まず、物質的な貧困が重要であるということが認識されている。近年に至るまで保守派は貧困問題に取り組むにあたり、アメリカの貧乏人は他の国の人よりも金持ちであるとか、相対的貧困は妬みの産物であるとか、あるいは貧乏人に本当に必要なのは物質的ではなく精神的な改善であるとしてしばしば軽蔑した態度を取りがちだった。
ライアンの案はそれとは異なる態度を反映している。この案は慢性的失業と不完全雇用が個人にとっては破壊的で経済にとっては妨げとなることを認識している。この案は勤労所得税額控除を拡充し、これは貧しい人たちにお金を渡す手段だ。この案は貧しい人々により良い仕事、より高い所得、ある程度の追加的な教育すら与えることに焦点を当てている。個人的責任と良い振る舞いという考えは依然として残っているものの、いまやそれは目標へ至る手段の一つであり、目標とはより良い物質的な幸福だ。
次に、そしてさらにより重要なことに、ライアンの案は政府の役割についての共和党員の見方における劇的な変化を示している。その最初の就任演説において、ロナルド・レーガンは次のような有名な宣言をした。「この現在の危機において、政府は私たちの問題にとっての解決策ではない。政府が問題なのだ。」これ以降の25年、共和党員と保守派は「現在の危機において」という部分を抜かしがちだった。政府は物事を改善するのに時折用いることのできるものではなく、いつでもどこでも人間の厚生にとっての障害であるとして彼らは扱ってきた。
ライアンの案は右派の大きな覚醒、つまり私たちが現在面している危機は1981年に面したものと同じではないという理解の最初の兆しなのだ。おそらくは25年に及ぶ実質所得の下落と階層間の流動性の下落が、輝かしいポスト・レーガニズムの硬い殻をとうとう砕いたのだ。もしそうであるなら、保守派運動は最後まで妨害屋の自己風刺へと堕落し、その将来の姿はティー・パーティであるという恐れは、根拠のないことだと示されたことになる。
考えてみてほしい。2014年、共和党の主要なアイデアマンであり、ほんの2年前はアメリカの所得下位50%の人を「税金の貰い手(taker)」と呼んだ人物と同じ船に乗って副大統領を目指していた人物が、今や貧しい人たちがもっとお金を稼げるようにするためのソーシャル・ワーカーを派遣するために政府の官僚制度を使い、それと同時に貧しい人たちに政府からお金を渡すことを提案しているのだ。これは全くもって大事件だ。この画期的な変化と比べれば、ライアンの案の個別詳細はほとんど大したことじゃない。
References
↑1 | 訳注;リンク先は本エントリの冒頭に挙げた関連エントリの原文。 |
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